第1話

文字数 4,116文字

 一

 翌日哲也は、再び川口市駅前のハローワークを訪ねた。
「あのぉ、以前紹介されたあけぼの鉄工所、まだ募集しているでしょうか?」
「ああ、あの時の人ね。結局あの時は面接に行かなかったんだね。こまるんだよね、ああいうことしてくれちゃ。まだ募集はしてるけど、今度は本当にやる気があるの?」
 職業相談員が、少し眉根を寄せ、哲也を覗き込んできた。
「すみません、ご迷惑をかけました。今度は必ず面接に行きます」
「これっきりだよ。ただ、他にないから仕方がないでは、鉄工所は続きませんよ」
「いいえ、今度は腰を落ち着けようと思ってます」
「うん、そのほうがいい。何であれ根を下ろすということは大切なことですからね」
「ありがとうございます」
 職業相談員がその場で、あけぼの鉄工所に電話し、午後から面接にいくことが決まった。

 覚悟はしていたが、社屋を見た哲也は改めて愕然とした。
 電柱のわきに建つ、茶色に錆びたシャッターの古めかしい工場の左側に、小さな事務所が寄り添っていた。だが、今度は逃げることはできない。
 事務所の入り口に近づいていくと、思いがけない光景が目に入った。玄関の横に、赤や黄色の花の鉢植えが置かれている。まるで、民家の庭先のような光景に、哲也はなぜかホッとした。
 すりガラスに黒色で書かれた「あけぼの鉄工所」の文字を見ながら、アルミの引き戸を開けた。
 最初に目に飛び込んだのは、左壁面に置かれた立派なドラフター製図台だった。CAD(キャド)を見慣れてきた哲也は驚いたが、世間ではまだ年配の設計者が使用するのは珍しくはなかった。ドラフターであれ何であれ、久々に図面を引くという環境に接し、哲也はわずかな安堵を覚えた。
 右側の壁の中央には工場へと続くドアがあり、左奥には事務所の裏に建つ母屋とつながっていると思われる廊下が見えた。
 入り口すぐ右にはこじんまりとした応接セットが置かれている。向かい合わせに並べられた四つの事務机の奥で、丸眼鏡の女性が一人キーボードを叩きながら、パソコン画面を見ていた。
「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」
 同じぐらいの歳に見えるその女性が、柔らかな笑みを浮かべながら立ち上がり、こちらに向ってきた。
「あ、あぁ、本日こちらで面接を受けることになっている柿崎です」
「すぐ社長を呼んでまいりますので、そちらの椅子にかけてお待ちください」
 事務員が、わきの質素な応接セットを手で促した。
 哲也がビニル張りの長いすに掛けると、事務員は右側の工場へとつながるドアを開け、消えていった。
 間もなく社長と思われる中年の男が現われた。生え際がせり上がっているが、実際は五十歳ぐらいなのかもしれない。その実直そうな風貌はこれまでの会社では見たことのない、むしろ父の記憶にある職人の面影を宿していた。
「柿崎君、うちの会社を希望する理由は?」
 社長は差し出した履歴書にさらりと目を通すと、穏やかな目で哲也を見た。
「色々やってきましたが、一つの仕事に根を下ろしたいと――」
 とっさに職業相談員の言葉が口から出た。それは偽りではなかった。
「ほぉ、手に職をつけたいってことだな。溶接はできるかい?」
「アーク溶接とガス溶接の免許は持ってますが、熟練工じゃありません」
「TIG(ティグ)溶接の経験は?」
「一通り操作だけは、でもプロとしてはまだ――」
「あぁ、経験さえあればいい。ここで腕を磨くことができる――。それじゃ、明日からでも来てもらえませんか」
「え、採用していただけるんですか――」
「なんなら工場を見てから決めてもらってもいいですよ」
「いえ、よろしくお願いします」
 哲也は即答した。
 転職を繰り返した履歴書を、詮索するでもなく採用を決定した目の前の飾り気のない男が、急に阿弥陀様のように見えてきた。
「今日、工場を見ていったほうがいい。明日から本番だ」
 社長は履歴書を事務員に渡すと、哲也を工場へと案内した。
「工場は見てのとおり、右側が架台製作で左側が部品製作工程だ」
 社長が示した部品製作工程には、ボール盤や旋盤、フライス盤にグラインダーなどの工作機械が、存在感を示すように鈍い光を放っていた。
 見慣れた部品製作工程は、今では実家の風景を懐かしく思い出すことができた。
 ハッとして胸に高まりを覚えたのは、社長が右側の工程に案内してくれた時だった。そこで製作されているのは、昔、母が手棒溶接で格闘していたスキーラックであり、あの明星機械でやり残した印刷機械の架台・フレームだった。
「当面、柿崎君の仕事は、注文生産の様々な架台やラックの製作だ。ガスボンベのラックから、四十トンクラスの金型の架台も製作する。通常は鉄だが、先端企業に納めるものはすべてステンレス鋼だ。溶接の腕がすべてだ。それをお客のところに設置するまでが仕事になる。明日は早速、所沢で据え付けの仕事が入っている」
 そこまで言うと社長は、でき上がった架台を塗装している、がっちりとした体格の男に声をかけた。わきにはパルス制御を備えた最新式の、アーク溶接とTIG溶接が可能な複合装置が置かれていた。
「おーい佐竹、新入りだ。面倒見てやってくれないか」
 佐竹がスプレーガンを床に置くと、こちらに向ってきた。
 哲也は、塗装用防毒マスクを外した鬼瓦のような顔に一瞬気後れを覚えたが、すぐにそれは安堵へと変わった。人懐っこい笑顔が目の前にあった。
 哲也も誘われるように出た笑顔で、佐竹にお辞儀した。
「柿崎哲也です。よろしくお願いします」
「柿崎君は当面佐竹の下でやってくれ。様々な溶接を教えてくれる。佐竹、頼んだよ」
 佐竹もよろしくと目を輝かし、塗装場に戻っていった。
 印刷機械のフレーム作りに慣れていた哲也は、何とかなりそうだと思った。
「佐竹はTIG溶接のJIS資格を持っている。ステンレスの架台製作ではどこにも負けない。ただ、私と同じでCADが苦手でね」
 社長が始めて、口元に自嘲ぎみな笑みを浮かべた。
 哲也は、建屋の体裁からは想像もつかない、長年培われてきた技術に目を見張った。町工場の凄みを見せつけられた思いがした。
 社長が、磨き上げられた大型グラインダーに案内した。
「架台製作の仕事が空いた時は、グラインダーを担当してもらう。色々経験もあるだろうが、ここでは基本からやってもらいたい」
 社長が、年季の入った安全カバーを大切そうに撫でながら言った。
 工場の奥で、初老の男が旋盤に向っていた。哲也たちに気づいたのか、軽く作業帽に手を触れながら挨拶をしてきた。少し足が不自由そうに見えたが、笑顔の中で欠けた前歯が愛嬌を醸し出していた。洗濯を重ねてしっくり馴染む作業服を通し、全身から物作り人の凄みも滲ませていた。
「大木さんだ。先代のころからこの会社を支えてきた人だ。みんな源さんって呼んでいる」
 中ほどに並ぶボール盤に二人の女性が張りついていた。どこか似ている二人は手を休め、哲也を見るとホッとしたような笑みを浮かべ、目でお辞儀をした。
 社長はこの二人については何も言わなかった。
 翌日、哲也が出社すると、すでに中型ユニック車のエンジンがかけられ、佐竹が忙しく動き回っていた。挨拶をすると、昨日の人懐っこい笑顔に変わりはなく、仕事の段取りを丁寧に教えてくれた。
 すぐに二人は、仕上がった架台を工場から台車で運び出し、ワイヤーをかけた。玉掛け作業は、鷲尾組で鳶見習いの経験が役に立ったが、ユニック車の操作は始めてだった。佐竹が慣れた手つきでクレーンを操作し、トラックの荷台に積み込んだ。
「よーし、これで準備OKだ。柿崎君、助手席に乗ってくれ」
 話してみて驚いたのは、佐竹が青森の出身だということだった。哲也が北海道を後にして始めて踏んだ土が青森だった。母の実家も元々は青森から渡ってきており、海峡を挟んで北海道とは縁の深い町だった。懐かしさのあまり哲也は、三つ年上の佐竹を「先輩」と呼ぶことにした。
「先輩は、俺が来る前は誰と組んでたんですか?」
 哲也は一番気になっていたことを訊いてみた。
「ああ、半年ほど前まで、もう一人従業員がいたんだ。独りもんだったが俺と同じぐらいの世代で、仕事もよくできた」
「それがどうして辞めちゃったんですか?」
「俺もよくわからないけど、事務員いたろ、おれより三つぐらい下のはずだけど、やつ、彼女のこと好きだったみたいだな。でも、彼女は別に誰かいたみたいで、それが理由じゃないとは思うけど、急に辞めちゃったんだ」
「そのお陰で俺は職が見つかったんだけど、なんか気の毒だな――」
 哲也は、明星機械時代、由香里にふられたことを苦く思い出した。
「ところで、部品工程で働いていた二人の女性はどういう関係なんですか?」
「どういうって、社長、おまえに話さなかったのか。二人は親子で姓は椎名。一人は社長の奥さんで恵子さん、母親は和子さんっていうんだ。二人はあれでけっこう腕がいい。和子さんは、若い時は溶接もやってたって言ってたな。とても七十過ぎには見えんだろ」
「ほぉー、溶接をね……」
 哲也はふと、閃光の中で背中を丸めていた母を思い出した。信号が青になり、佐竹が続けた。
「先代のころの社名は椎名鉄工所だった。つまり社長は椎名家の婿養子ってことだ。俺が入社して三年もしないうちに椎名社長はすい臓癌で亡くなった。それからすぐに、今の社長があけぼの鉄工所と社名を変えた。社長はあれでけっこうプライドが高いんだ」
「へぇー、そうなんですか」
 哲也は社長の艶のある生え際を思い出し、何となく納得がいった。
 所沢のメッキ工場に着くまで、佐竹は色々なことを教えてくれた。
 彼は以前、溶接のプロとして大手建設機械メーカーに勤めていたこと。結婚して間もなく、持病の椎間板ヘルニアに加えてぎっくり腰になり退職を余儀なくされたこと。療養しながら途方にくれていた時に先代の社長に拾われたのだと言った。最後に、たった一つの趣味は競馬なんだと、あの人懐っこい笑顔で話した。哲也は競馬のことはよく知らなかったが、「今度、大穴を当てたら一杯奢るよ」といって彼は白い歯を見せた。

 哲也の仕事は順調に滑り出していった。
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