第7話 謀略の匂い

文字数 3,701文字

 ピンと張りつめた冬の空気の中を、希薄だが澄み切った陽の光が道を照らす。
 勝悟は小助の家族や郎党と共に、赤石山脈の北側を回り込むようにして、高遠城のある伊那に向かった。
 初めての城攻めとなった箕輪攻めは、当初の予定通り箕輪城を囲うようにして守る周辺の城を、業盛の父業正存命中はまったく効果のなかった調略を駆使して、最小限の犠牲で次々に落としていく謀略戦だった。
 この城攻めで、上杉謙信勢力である厩橋城と、箕輪城の連携を分断したことは、武田にとって大きな成果だった。

 味方の離反が相次ぎ、箕輪城内も混乱していることが予想され、攻めるなら今と勝悟は思ったが総大将の信玄は違った。箕輪城主長野業盛は孤立してもなお、徹底抗戦の意志が固い上、父業正の代から鉄壁の要塞と化した箕輪城は健在な姿のままだ。無理押しして多くの犠牲を出す愚策は避け、今回の遠征はこれで十分と判断して総攻めは行わなかった。
 いざ信玄の決断を聞くと、ここで退くのも兵法かもしれないと思いなおした。勝頼の物見襲撃の際に出会った郎党を思い出したのだ。
 あのとき、敵の増援を警戒して退かなかったら、数的に優位でもやられていたのはこっちだったかもしれない。五対二の不利が二対一に逆転したときに、落とし穴が待っていたのだ。案外規模の大小に関わらず、戦いとはそんなものかもしれないと、勝悟は目の覚める思いであった。
 信玄は謙信を始めとした数々の強敵との戦いの中で、それを学んでいったのだろう。寿命の心配はあるものの、信玄のやり方は今時点でのベストプラクティスなのだと、勝悟は思った。

 甲斐に戻ると、信玄から正式に勝資に勝頼の補佐が命じられた。この命に対し勝資は予定通り、名代として小助を高遠城に送ることにした。もちろん勝頼もこの案を受け入れている。
「伊那とはどのようなところでしょうか?」
「夏は暑く冬は寒い、そういうところは古府中によく似ている。だが、雪は古府中ほど降らないようだ。ただ霧は深いと聞く」
「霧ですか」
 勝悟の頭に霧が立ち込める幻想的な風景が浮かんだ。
「霧は闇夜以上に敵味方の姿を隠す。霧の中で自在に動けるように成ることが、伊那での戦い方の鍵を握るかもしれんな」
 小助の頭の中では、壮絶だった川中島が思い浮かんでいるのであろう。

「おお」
 高遠城に着くと、その天然堅固な要塞の姿に勝悟は思わず声を上げた。
 小高い丘の上に築かれた城は、三方を川に囲まれ天然の堀とし、城郭内には本丸だけでなく重要な防御拠点が空堀によって区画され、容易なことでは侵攻を緩さない。
 だがどんな堅固な城も、結局中で守る人次第だということを、勝悟は歴史から学んで知っている。城というハードウェアが優秀でも、それを守る者の中に内応者が出れば、城は防衛機能を発揮できずに落ちてしまうからだ。

 小助と勝悟はすぐに勝頼と高遠城の家臣団が待つ大広間に案内された。
「跡部勝資名代の山中小助でございます。隣に控えるのは我が家人で真野勝悟と申します」
 勝頼は待ちかねていたかのように相好を崩し、小助の挨拶に大きく頷いた。
「二人の加勢を心待ちにしていた。これからは信濃の統治に向けて、大いに助力を請うのでよろしく頼む」
 手放しで喜ぶ勝頼とは裏腹に、居並ぶ重臣たちは複雑な表情をしていた。
 秋山信友、長坂長閑斎(ながさかちょうかんさい)、金丸筑前守、阿部勝宝(かつよし)といった武田家譜代の者たちは、そもそもよそ者である勝資自身を信用していない。
 保科正敏、小宮山昌友といった信濃の国人にとっては、甲斐から新たに行政者が加わることで、信玄の信濃統治が厳しくなることを警戒した。
 勝悟は刺すような視線と、毒を孕んだ空気を感じながら、自分たちが多くの者にとって、招かれざる存在であることに気づいた。

「待たれよ」
 勝頼への対面を終え、大広間を退出した小助と勝悟を、背後から呼び止める声がした。振り向くと阿部勝宝だった。
 勝宝は勝頼の傅役(もりやく)として幼少の頃から側に仕えた男だ。勝頼を思うことにかけては、家中一であることは間違いない。
 箕輪の陣でこの役につくことが決まってから、勝宝は小助と勝悟の話の中で、高遠城で信頼を得たい者として、常にその名前があがっていた男だ。自分たちが純粋に勝頼の助けに成ろうとしていることを、勝宝にだけは信用してもらわなければならない。

「何でございましょうか、阿部様」
「こちらに参られよ」
 勝宝は特に用件を告げずに、二人を別室に招いた。
 正対した勝宝の顔からは並々ならぬ気迫が溢れていたが、眉間に刻まれた深い皺に苦悩の跡が見て取れた。
「今回のお役目、何を調べようとしておられるのか、この勝宝には隠さずに教えてもらえぬか」
 思いもよらぬ勝宝の問いだった。
 勝宝は勝資の政務者としての顔ではなく、三ツ者の長としての立場を重く捉え、小助はその意を受けていると誤解したようだ。あるいは信玄にはその意図があって、勝資に密命を出しているかもしれない。
 だが勝資から小助には、探索の命は下っていない。第一信玄から密命があったとしても、勝資ほどの知恵者がこんな分かりやすい形で、捜査を行うとは考えにくい。

「我にその命は下っておりませぬ。この信濃の統治の助けとなるようにだけ仰せつかっております」
 しばらく勝宝は小助の顔をじっと見つめた。
「貴殿の言に嘘はなさそうだ。疑って申し訳なかった。今この地の統治の助けに成りたいと申されたな」
「はい」
 また勝資は押し黙った。何かに迷っているかのように見える。
「もし気に成ることがございますなら、この小助にもお教えください。決して勝頼様の害になることはしないと誓います」
 小助は今こそ勝宝の信頼を得ねばと、立ち合いにも似た気迫で勝宝に向かった。

「武田が信濃に侵攻してから既に二十年が経つが、まだまだこの地は安定せぬ。信濃の国人衆は表には出さぬが、いつ背を見せるか心の中が読めぬ。だが、先年の川中島の戦い以降は、この国も治まりつつある」
 小助もそこは分かっていた。川中島の戦い自体は引き分けに終わったが、その後の信玄の謀略戦は凄まじく、信濃の有力国人はほとんどが武田の旗下に属したと言っていい。それまでに比べれば政局はぐっと安定したはずだ。
「わしが恐れているのは、甲斐から来た者たちだ」
「と、申されますと?」
「義信様の手がこの信濃に伸びているのではないかと恐れているのだ」
「えっ?」
 勝宝の口から出た名前に、小助と勝悟は呆気にとられた。義信は豪放磊落な性格で、しかも家族思いだ。腹違いとは言え実の弟を謀略に掛けるなどするとは思えない。

「わしが気にしてるのは義信様本人ではなく飯富のことだ」
「飯富とは飯富虎昌殿でございますか?」
 勝宝は黙って頷く。
 飯富家は武田家と同じく甲斐源氏の血を引く名門で、虎昌は赤備の軍団を率いてその豪勇は近隣に鳴り響き、信玄からの信任も厚く義信の傅役に任じられている。家中を乱すようなくだらない真似はしないように思えた。
 小助が首を捻るのを見て、勝宝は言葉を続けた。
「虎昌は三十年前に一度武田家に反旗を掲げている。その後、先代のお館様の追放にも一枚噛んでいる。世間の評判とは別に謀略を好む気質だ」
 先代当主の信虎追放には、現当主の信玄が主導で行ったことに成っている。いたずらに虎昌を疑って、勝頼の敵にするのは良くないと小助は考え、大きく首を横に振った。

「実際にこの地で政務を行われている勝宝殿の言葉ですから、杞憂だとは申しません。ですが義信様を疑わぬ方が、勝頼様のためだと思います。ただし他国の謀略の手がこの地に伸びていることは十分に考えられます。この小助が命に代えても、この地で変事を起こさせないように励みます」
 再び立ち合いのような気迫を、小助は身に纏った。その様子を見て、勝宝は小助の言葉を信じたようだ。
「分かった。貴殿を信用しよう」


「この地で謀略を仕掛けるとしたら、小助殿は誰が怪しいと考えられますか?」
 小助と共に伊那で与えられた新しい屋敷に戻ってから、勝悟はその腹の内を尋ねた。
 ニヤッと笑って小助は答えた。
「ズバリ、織田信長であろう」
「織田信長!」
 勝悟はこの日本の歴史上屈指の有名人の名を耳にし、自分が同じ時代にいるのだと不思議な感動を覚えた。
「今、信長は美濃攻めの真っ最中だ。警戒するとしたら何だと思う?」
 勝悟は頭の中で、尾張、美濃、信濃三国の地図を思い浮かべた。
「武田家の介入でございますか?」
「その通りだ。当家に斎藤の味方に成られるのも、漁夫の利とばかりに美濃に侵攻されるのも、どちらも嫌だろう。であれば武田の家中が混乱し、それどころでなくなることを望むのではないかな」
「なるほど」
 確かに信長が後世に伝わるイメージ通りの人間であれば、そのぐらいの手を打つことは自然のように思えた。
「いずれにしても、この地の騒乱は絶対に起こさせてはならぬ。わしは明日秋山殿に会いに行こうかと思う」
 秋山信虎、ミニ信玄とも評されるこの男は、この信濃のキャスティングボードを握っていると言っても過言ではない。
 勝悟は、戦国の地にいることを実感し、思わず武者震いをした。
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