第20話 一転

文字数 4,851文字


 本陣に戻った忠勝たちは、すぐに家康から武田軍が西から迫っていることを告げられた。
 このとき、家康が放った方針はたった一言だった。
「全軍、三河に戻る」
 諸将の気持ちは複雑だっただろう。西から現れた敵は武田軍とだけ知らされ、どこから来たのか軍勢規模はどのぐらいか、誰が大将として率いているのかなど、撤退に見合う情報が不足しているからだ。

 加えて遠江の制覇は目の前にある。手放すには何とも惜しい果実だった。
 当時の軍事動員できる人数は、米の収穫高を目安とされ、一万石で約二百五十人とされていた。
 この考え方に基づくと、織田信長は尾張と西美濃、そして伊勢の北東部を合わせ百十一万石となり、二万八千人の動員力となる。
 同じように計算すると武田が甲斐、信濃、美濃と上野の一部を合わせ九三万石で二万三千人、北条が相模、伊豆、武蔵、下総と上野の一部を合わせ百三十万石で三万三千人、今川が駿河と遠江を合わせ四十万石で一万人となる。
 これに対し徳川は三河一国二九万国で七千人となるが、今後拡大することが間違いない織田や、武田今川連合軍と比べると、国を維持することさえ心許なく、遠江ニ六万石は喉から手が出るほど欲しかった。

 加えて、多くの大名は商鉱業が生み出す金の力に目を付け、実際の石高よりも動員力を飛躍的に向上させている。信長などは半農の兵士を金銭を報酬とした常雇用に切り替えつつあり、動員力の常識を書き換えつつあった。
 もちろん忠勝や康政、そして主君家康もそのことは知ってはいたが、三河にはめぼしい商業都市がなく、金山や銀山もなかった。その点においても今川が開発した遠江は、ぜひとも手に入れたい魅力に溢れていたのだ。

 諸将の思いを振り切るように再度家康が叫ぶ。
「皆のもの、間違えるな。堪え忍ぶことこそ、三河者の真骨頂であろう。いざ急げ」
 この言葉で全員の気持ちが一つにまとまった。
 迅速に隊列を組み西に向かって全軍が動いた。
 多くの斥候を先行させ進むこと四里(十六キロ)、ついに武田軍と遭遇した。
 眼前には風林火山の旗が風に靡いている。

 ちょうどそのとき、斥候が一人戻って来た。
「武田勢は総勢八千うち騎馬隊二千、総大将は武田信玄、確認できた将は武田勝頼、秋山信友、飯富昌景、原虎胤などが参陣しているようです」
 現時点の徳川の残存兵力が四千人で、騎馬隊に至っては二百騎しかいない。数的不利は否めない。

「敵は鶴翼陣形を取るようです」
 康政が感情を殺した声で家康に伝える。家康は鶴翼の陣はあまり用いない。多いのは魚鱗の陣で、戦力を中央に集中して敵の本陣突破を狙う。
 今回ももちろん魚鱗の陣で敵中突破を狙い、成功したらそのまま西にひたすら走るつもりだ。

「問題はあの中央の軍だな」
 忠勝の目の先には、先鋒勝頼、二の陣に信友、そして最後に信玄が控える三段構成の陣があった。
「あれに止められたら、両翼の飯富昌景と原虎胤に搾り上げられるわけだ」
 康政が面白くもなさそうな顔で続ける。
「そうならないように戦うしかない」
「様子を見る時間がないのが苦しいな」
 康政にしてはめずらしく、どうにもならないことを口にした。
 それだけ追い詰められているのだろう。

「全軍、中央に向かって突撃!」
 家康の命令が怒号のように鳴り響いた。
 徳川軍が一匹の獣のように走り始めた。
 先頭は先手衆の大久保忠世が弟忠佐(ただすけ)と共に務めている。

 勝頼軍は矢による威嚇を捨て、正面から徳川軍を迎え撃った。
 忠世と忠佐は狂ったように突進し、先頭の雑兵を槍で跳ね飛ばし更に奥に進むが、勝頼の旗本によって足を止められた。そこに先手衆の一団がなだれ込み、両軍の先方が入り乱れる大混戦となった。
 康政は家康の側から離れず守り、忠勝は騎馬五十騎を率いて東三河衆と共に、敵軍の両翼に備えた。

 先手衆はよく戦っていたが、第二陣に控えていた信友の軍が参戦して、徐々に押され始めた。
 中央軍の優勢を確認した信玄は勝負を決めようと、両翼の武田軍に徳川軍の左右からの挟撃を命じた。
 両翼の二隊はそれぞれ千騎の騎馬隊で構成され、百騎ずつ十段の陣を敷き徳川軍に突撃を仕掛けた。騎馬隊は深く突っ込むことなく、徳川軍に一撃を与えるとすぐにその場を離脱した。その背後から次の騎馬隊が現れ、また一撃を加えてすぐに離脱する。離脱した騎馬隊は陣の後方に回り、突撃部隊として待機した。
 東三河衆が槍を持って必死で防戦するが、切れ味の鋭い刃のついた駒のように、間断なく繰り返される連続突撃に、少しずつ倒れる兵が増えて防御が弱まっていった。

 一方、中央の先手衆は勝頼と信友に挟撃される形になり、こちらも徐々に兵を減らしつつある。兵力差を巧く使った信玄の采配の妙が光る。
 徳川軍の手勢がどんどん数を減らしていくのに対し、武田軍はほとんど無傷のままで攻撃を維持している。徳川軍の全滅は時間の問題と思われた。


 武田軍の突撃は五巡目に入った。東三河衆でまともに戦える兵は、既に半数を切ろうとしていた。家康の側を守る兵も、忠勝と康政の合わせて百騎の騎馬隊のみとなった。
 忠勝はじっと武田騎馬隊の回転運動を観察している。無駄なく等間隔で攻撃を加える正確無比な騎馬隊の動きに、敵ながらよく訓練されていると感心しながらも、左の騎馬隊の九番目の攻撃後の離脱が、やや遅れ気味で八番目の隊と間隔が開くことに気づいた。
「康政、わしは左の騎馬隊を背後から襲い、そのまま武田軍の裏に抜ける。武田軍に綻びが見えたら、すぐにそこを殿と一緒に突撃してそのまま囲みの外に抜けてくれ」
 康政は忠勝の顔を一顧だにせず、ただ短く「おう」と答えた。康政は本陣に僅かに残った先手衆を、左右の被害の大きさに合わせて増援を調整することに忙しかった。
 だが、忠勝の伝言は康政の頭に正確に刷り込まれたはずだ。
 何も疑うことなく忠勝は、左の八番目の隊が突撃してくるのを待った。

 五……六……七……八。
 八番隊が突撃をかけて抜け出る瞬間、忠勝は五十騎の騎馬を率いて、その(うしろ)にぴったり張りついた。九番隊は今回も離脱に遅れて後ろにはいない。
「かかれー」
 忠勝は駆けながら大音声を発し、そのまま八番隊を背後から貫いた。
 蜻蛉切が宙を舞い、その度に騎馬兵が落馬する。都合十騎を戦闘不能にすると、八番隊の前に出た。駆けながら後ろを見ると五十騎は全員敵を掃討し後ろについていた。八番隊は半分以上減らされ、そのまま力なく後ろを追って来る。
「次だー」
 忠勝は騎馬のスピードを上げ、今度は七番隊の背後につき突撃を再開した。

 忠勝の騎馬隊が三度突撃を繰り返し、四番隊の背についたとき、一番隊を率いていた原虎胤が異変に気付き、コースを変えて真っ直ぐに忠勝の騎馬隊に突撃してきた。
 忠勝は左に逸れてこれを交わし、そのまま左に回り込んで九番隊の側面に突撃した。
 九番隊が混乱したら、すぐに正面の二番隊と三番隊の間を抜けて再び四番隊に突っ込む。
 不規則運動で突撃を繰り返すと、虎胤の左翼の陣は回転攻撃を停止し、全軍で忠勝の騎馬隊を追い始めた。

 水も漏らさぬ信玄の鶴翼の陣に、ほころびが生じた瞬間だった。
 康政がこれを逃さず家康を伴って、回転の止まった左翼の開いた隙間に突入し包囲陣の外に抜け出た。
 そのままわき目もふらず、忠勝と苦戦する中央軍を置いて西に走り始める。
 もはや一矢報いるなどと言ってられない。隊列を整えることもなく、康政は馬を走らせた。もちろんその背後には家康がぴったりとついている。二人はまるで一本の矢のように岡崎城を目指して走り始めた。

 忠勝を夢中で追っていた虎胤の隊が家康の脱出に気づいた。慌てて隊列を組みなおして家康を追おうとしたが、忠勝隊が側面を突いて来るので、思うように追撃できない。その間に家康の騎馬ははるか遠くに駆け抜け、米粒のように小さく見えた。
 虎胤は最早家康の補足は無理だと諦め、改めて忠勝の騎馬隊に狙いを定めた。
 中央の武田軍本隊は先手衆を全滅させようと、包囲を絞り上げている。
 右翼の昌景の騎馬隊は、家康の離脱に気づいたが、東美濃衆の全滅を優先させた。

「殿は無事に囲みを抜けた。最早戦う必要はない。逃げられる者はなんとしても三河を目指せ」
 虎胤の騎馬隊を引き連れながら、忠勝は味方に離脱を告げて回る。
 酒井忠次が、東美濃衆の隊列をうまくまとめ上げ、穴の開いた右翼に向かった。
 虎胤は猛スピードで走りこんで来る東三河衆と、距離が近づきすぎて突撃の間合いが取れなくなり、いったん後退する。
 虎胤の追撃が無くなった忠勝隊は、東三河衆の背後を蹂躙する政景隊の側面を突き、追撃に乱れを起こし、東三河衆の離脱を手助けする。

 死兵と化した忠勝隊は更に裏から回り込んで、信玄本陣の背後を襲う。中央軍の注意が背後の忠勝隊に注がれた。
「殿は岡崎に向かったぞー」
 忠勝の大音声が周囲に響き渡る。
 その声を聞いて、先手衆が武田軍の隙をついて、北と南に一斉に逃げ出した。
 中央軍の視線が再び先手衆に移る。
 忠勝は隊から三十騎を分離し、先手衆の離脱の支援に回す。先手衆が戦場を離脱できたら、一緒に三河に向かえと言い含める
 残りのニ十騎を率いて、忠勝は政景隊と虎胤隊の間を駆けまわって、混乱させる。

 戦場が混沌として武田軍は同士討ちを警戒して隊列を整え始めた。徳川軍は逃げ遅れた僅かな先手衆と忠勝隊だけとなった。
 忠勝は残りの騎馬兵に戦場離脱を命じ、自分は残りの先手衆を一人でも多く逃がそうと、信玄本陣の裏に回った。
 そこで忠勝は最後尾で軍の立て直しを指揮する信玄の姿を見た。忠勝が背後に来ていることに、信玄は気づいていない。
(今、突撃すれば信玄を討てる!)
 躊躇することなく、この機を逃さずとばかりに、忠勝が信玄目掛けて突撃した。
 信玄は追撃戦の指示を出そうとしていた。全軍の注意は信玄の采配に注目し、忠勝の突撃に気づいてない。

 この戦いにおける忠勝は、まさに死兵だった。自分の命を一顧だにせず、味方を逃すために無心で駆けまわっていた。それが最後の最後に来て、この戦いの価値を一転させる好機が訪れた。
 信玄までの距離が蜻蛉切の間合いに入った。忠勝が一閃を放とうとした瞬間、一本の矢が忠勝の馬の頭を射抜いた。
 愛馬は足を止め、その場に崩れ落ちる。

(好機が潰えたか)
 忠勝は咄嗟に飛び降り、地面を回転して立ち上がった。
 その頭上に一人の若武者の槍が降って来る。
 斬られると思った瞬間、一騎の騎馬兵が駆けよって来て間に入った。
 その騎馬兵は馬ごと真っ二つに両断されたが、この機を逃さず後方に跳んだ忠勝の側に、逃げたはずの配下の騎馬兵が駆け寄る。

「お逃げください」
 叫んだのは河合与四郎、そのまま馬を降り、若武者に向かって突っ込んでいった。
 与四郎もまた、一合も交えることなく両断された。
 だがその隙に忠勝は馬に飛び乗り、西に向かって駆けた。

「討ち取れー」
 背後で信玄の怒声が響く。背後から来た矢が脇を掠める。
 もはやこれまで、忠勝はそのまま駆けに駆けた。
 前方では信玄の命令を受けた飯富昌景の騎馬隊が、もの凄い勢いで逃げる徳川兵を虐殺していた。
 一人、また一人と昌景の騎馬隊によって倒される味方を横目に見ながら、忠勝は助けたい思いを必至に堪え、昌景の騎馬隊の脇をすり抜け西に向かって逃げ続けた。

 逃げ続ける間に太陽が沈んだ。さすがに夜の追撃は危険と判断したのか、背後の騎馬隊の姿が消えた。
 忠勝は行軍スピードを緩め、ゆっくりと馬を走らせ始めた。
 逃げる途中で多くの味方の死体を目のあたりにした。千人以上の兵が討ち取られたかもしれない。
 だが、退路を断った武田の囲みを力で切り抜けた。武門としての徳川の対面を、かろうじて保つことができたはずだ。
 三河で力を蓄え、再起を図ろう。
 生きてさえいたら、次は必ずある。
 忠勝は自分の身代わりになって死んだ与四郎の顔を思い出しながら、武田への雪辱を胸に刻んだ。
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