第11話 急転

文字数 5,768文字

「うっ」
 二の腕から発した痛みが脳天を直撃する。
「この薬、よく効くのですが痛みが強いよね。ごめんなさい」
 恵奈は勝悟を手当するとき、いつもこんな風に謝まっている。
 怪我をしたことと恵奈は何も関りはないのだが、それでも痛みに耐える姿を見て心が痛むようだ。これが恵里菜なら男なんだから我慢しなと言うだろう。顔は似ているが性格は大きく違う。それが生まれついての違いなのか、時代がそうさせるのかは分からない。

 恵奈はまだ十五才だが、勝悟の同級生の誰よりも大人びて見えた。精神が成熟しているせいか、少女に似つかわしくない大人の女の色気が漂う。女性ホルモンの働きは、メンタルに大きな影響を受けるのだろう。
 それでも時折、十五才の少女らしいはにかんだ一面もみせる。そのアンバランスさが勝悟に恵奈を女として強く意識させた。
 この世界に来て半年が過ぎたが、勝悟の精神面での一番の変化は、同じ年頃の女性を見て、生涯の伴侶の対象と成しえるかを、常に意識するようになったことだろう。
 いつ死が訪れるか分からないこの世界では、女性を自分の子を産む対象として、本能が強く意識させる。勝悟は自分がこんなにも性欲が強いのかと驚いてしまった。
 だが勝悟はまだ女を知らない。それどころか、知ってる未婚の女性は恵奈ぐらいしかいない。だから勝悟が自分でも持て余す程高まった性欲を、自分で処理するときに思い浮かべる女性は、自然と恵奈になってしまう。

「さあ、もう大丈夫。今日の傷はいつもより少し深かったね」
 恵奈が言う通り、今日の相手は戦いにくかった。斬撃の強さはそれほどでもないが、刃の軌道が変化に富んでいた。一人一殺を目的とした忍びの剣は、多人数を相手にする戦場の剣とは、目的が異なるがゆえに剣技の性質が違うのだろう。
 今日、最後のくないをかわしたときに、くないの刃が変化して腕の皮膚をわずかに掠めた。それでも薬を塗らないと火傷のような刀傷が残る。傷が残るだけならいいが、抗生物質のないこの時代に、細菌でも入ったら命取りだ。こまめな傷の手当は、必要不可欠な戦いのルーチンとなっている。

「勝悟様、もうお聞きかもしれませんが、もうすぐ恵奈は嫁入りのためにこの屋敷を出て行かねばなりません。こうして手当をして差し上げるのも、これが最後になるかもしれません」
 初耳だった。思わず勝悟の目が泳いだ。
「嫁入りって、いったい誰の?」
 混乱する頭を必死で落ち着かせて、努力限界の抑えた声で相手を尋ねた。
「保科正直(まさなお)様でございます」
 保科正直は槍弾正の異名を持つ信濃の国人保科正俊の長男だ。確か年は二二才、これまでに槍弾正の長男に相応しい武功をあげている。
 声の出せない勝悟にかまわず、恵奈は説明を続けた。

「嫁入り前に秋山信虎様の養女になります。秋山家の娘として正直様に嫁ぐ段取りとなります」
「あっ」
 この急すぎると思った縁談は、信友の信濃統治政策の一環だったのだ。
 勝悟の提示した戦略を信玄が受け入れ、三国同盟を維持したまま美濃侵攻を行うことになれば、ベースとなる信濃の安定は欠かせない。有力国人である保科家を縁戚関係で取り込んでおけば、信友としても安心して美濃攻めの先鋒が勤められ、岩村城、苗木城、鳥ヶ峰城など、東美濃の主要拠点を制圧すれば、信濃の政情も安定する。
 信濃に武田の主力が集まれば、そこから状況に応じた多様な戦略が可能になる。
 もし信長が稲葉山城の攻略に手間取るようなら、そのまま西美濃を攻略し、一挙に美濃を制圧して上洛の橋頭保にできる。
 だが、東美濃が武田に制圧されれば美濃の国力は一挙に落ちるから、西美濃が信長の手に落ちる可能性は高い。そのときは東美濃から信長にプレッシャーをかけつつ、信濃から飯田を抜けて、一挙に三河侵攻も考えられる。
 岡崎城を落とせば今川と連合軍を組んで、織田攻めも容易になる。今川義元が描いた三国同盟を背景にした上洛の絵図を、信玄が引き継いで実現することになるのだ。

 血沸き肉躍る壮大な戦略に信友が着手したことは事実だ。勝悟としては歓迎すべき事態であるにも関わらず、心には戸惑いが広がった。
 信友は発案者である勝悟に敬意を表して、この戦略の主役の一人として小助の力を大きくしようと考えたのだろう。だから恵奈を保科家の嫁に指名したことは間違いない。
 それに小助も応じたのだ。
 頭ではそれが分かっているのに、勝悟の心はざわついて、祝福の言葉は口から出なかった。そんな勝悟の戸惑いが伝わったのか、恵奈も口を閉ざして大きな目で勝悟をじっと見つめる。

 恵奈の襟元から覗く肌の白さが、勝悟の心を妖しく騒がせる。
 柔らかそうな唇に思わず触れたくなって、必死で欲望を抑え込む。
 喉がカラカラになった気がして、唾を飲み込もうとするが口の中も乾いていた。
 心なしか恵奈の目も濡れているように見える。
 二人の間に流れる沈黙は、お互いの惹かれ合う気持ちを表しているように思えた。
 手を伸ばせば手に入る美肉がそこにはあった。

「母は気持ちに従うのも、人として自然な姿だと言ってくれました」
 恵奈の目は濁りがなく、真っ直ぐに勝悟に向いていた。その純粋さが勝悟の内から湧き出す気持ちにブレーキをかけた。
 大人びてると言っても、恵奈は極端に情報の少ない社会でまだ十五年しか生きていない。顔もよく知らない男よりも、身近な異性である勝悟に惹かれるのはやむを得ない。
 だが勝悟と結ばれることで、小助や武田家が失う利益の大きさは、将来にわたって恵奈を苦しめることになるだろう。ここは恵奈と同じく未熟ではあるが、年上の自分が冷静にならなければならないと思った。

「保科正直殿は人格的にも立派な方だと耳にします。良いご縁を大切になさってください」
 ギリギリのところで踏みとどまった言葉だった。
 恵奈は表情を変えず、静かに勝悟の言葉を受け止めた。
 恵奈がまるで次の勝悟の言葉を待つかのように、束の間の沈黙が過ぎた。
 勝悟も言葉を発さず、沈黙をもってこれに応えた。
 恵奈は勝悟の次の言葉は出てこないと察し、一人頷くと漸く口を開いた。
「ありがとうございます。恵奈は幸せになります」
 変わらぬ表情とは裏腹に恵奈の声は少しかすれていた。
 勝悟が手当の礼を口にすると、恵奈は一礼して薬箱を手に静かに部屋を出て行った。



 それから二週間、勝悟は眠れぬ夜を過ごした。
 昼間に恵奈と顔を合わせても、嫁入りの話を一切することはなかった。
 夜中に感情が高ぶって、恵奈の部屋に夜這いをかけたい衝動に襲われても、昼間の恵奈の覚悟を決めた見事な姿を思い出し、ブレーキがかかった。

 かって経験したことがない、異性への切ない思いを持て余す日々が続く中で、勝頼から呼び出しがかかった。勝頼は信玄に刺客の件を報告し、勝悟の描いた戦略を説明するために、古府中に出向いて帰って来たところだった。
 小助と共に案内された部屋に入ると、安倍勝宝、金丸筑前守といった宿将に交じって、父の名代として若い保科正直が来ていた。
 顔だけは知っている勝悟は、恵奈の婚約者であることを強く意識した。
「これは正直殿、お父上はいかがされた?」
 小助が正俊を心配して尋ねた。
「父も既に五三才と高齢で病がちなことゆえ、若輩ながら正直が名代としてこの重要な会合に臨ませていただきました」
 若輩と言っているが、正直も既に二三才だ。一家を率いても、決しておかしくない年だと言える。槍弾正の異名を持つ豪将である父親と違い、秀麗な容貌を持つ知的なイメージの武将だった。
 ふと、勝悟は自分が恵奈の婚約者のあら探しを、無意識の内にしていることに気づいた。武田をビッグビジョンに導くために、力を合わせなければならない仲間に対して、嫉妬のあまりなんと愚かしい真似をしているのかと、情けなくなった。

 勝頼が入ってきた。勝頼の傍らには信友がいた。
 勝頼は柔和な表情の下に宿した強い決意が、抑えきれずに目から漏れていた。
 信友はいつものように食えぬ顔だが、こちらもいつもより固い。ただならぬ覚悟を要したことが窺い知れる。
 小助を始めとした集められた者たちは、二人のただならぬ様子を見て、幾重にも緊張の糸を張り巡らし、軽口などたたけぬ雰囲気を醸成した。
 今日はいつもにもまして板の硬さを感じる。部屋の空気は皮膚が切れそうなぐらいにピンと張り、春というのにまるで真冬の空気のようだ。

「今日みなに集まってもらったのは、武田の重大な決定を伝えるためだ」
 勝頼は上滑りに成らぬよう抑えた声で伝えたが、溢れる気負いが声に纏って、一同の緊張を更に高めた。
「武田はこれから西上野の攻略に全力をあげる。秋になったら大軍で遠征して箕輪城を落とす。然る後に西上野の防備を固め、お館様はこの高遠城に移る。古府中の防備は兄上が行い、私は飯田城の城主となる」
 信友と小助以外の宿将は、信玄が高遠に移り住むと聞いて大いに動揺した。
「それは太郎様に家督をお譲りに成るということですか?」
 金丸筑前守は、要領を得ない顔をしながら勝頼に確かめた。
 もちろん言葉の裏には、信玄の身体に病などの異変が起きたのではないかという、口に出すのも恐ろしい事態を含んでいた。

 勝頼は静かに首を振る。
「お館様はお元気です。兄上が古府中に残ると言っても、別に家督を譲るわけではない。今後の軍事上の最重要拠点が高遠と定められたお館様は、この地に大軍を置き自らそれを率いる御所存だ」
「それは今後の武田の政治と軍事の中心はこの高遠になると言うことですか?」
 正直が信玄が移って来る意味を正確に言い当てた。なかなか頭のキレが鋭い。
「その通りだ」
 勝頼が正直の目を見ながら、はっきりと肯定した。

「ありえません。甲斐の古参の者どもは、甲斐の繁栄こそ全てと思っている。甲斐から離れるなど絶対に承知なさりません」
 勝宝が口から泡を飛ばして、何かの間違いだと主張した。
 甲斐からきている長坂長閑斎と金丸筑前守も、その通りだと言わんばかりの表情で勝宝に同意する。

「お館様は、気が進まぬものは甲斐に置いていくつもりだ」
 今度は信濃の国人衆である正直や小宮山昌友が驚いた。
「お館様は信濃で新たに兵を募るのですか?」
 二人の顔には、信濃の国人衆の土地が召し上げられ、甲斐の国人衆に与えられるのではないかと、警戒の色が浮かんだ。
「別に信濃の国人衆の土地を召し上げたりしないから安心せい」
 勝頼がそう言うと、皆ますます困惑した顔になった。

「では、新たに土地を開墾するのですか?」
 正直が消去法で確認してきた。
「それでは大軍に成るまで、長い年月が必要となる。武田はこれから商売をするのじゃ」
「武田は商人(あきんど)になるのですか?」
 さすがの正直も動揺を隠せず、素っ頓狂な声をあげた。
「そうだ。今後は商いによって戦費を賄う」
 勝頼がここが大事と躊躇せずに言い切ったので、いったん宿老たちの動揺は治まった。
 絶大な信頼を置いている信玄が決めたのであれば、きっとどうにか成るのだろうと、あれこれ考えることを止めたのだ。
 だが、一人だけなおも食い下がる者がいた。
 正直だった。

「もう少し説明をいただけませんか? 一口に商いをするといっても、大事なものが見えておりません。まず売るものです。莫大な戦費を賄えるほど何を売るのですか? そして売る物があったとして、いったい誰に売るのですか? 行商ではしれておりましょう」
 なかなか鋭い。
 勝悟は正直の柔軟な思考に驚いた。
 決して周りに流されず、自分自身が納得するまで聞き続ける姿勢も見事だ。
「紬を売る。信濃には良質の紬を織りなす農家がある。そこに投資をして増産させ、それを武田が大量に買い付けるのだ」
「紬ですか」
 正直はまだ首を捻っている。確かに松本、上田、飯田、そしてここ伊那にも養蚕農家は有り、草木染で織物が生産されている。
 だが買う者は少なく、たくさん作っても売りきれないように思えるからだ。

「紬は信濃ではなく駿河で売る」
 一同の顔色が変わった。商いのために同盟国の今川を攻めると思ったのだ。
「心配するな(いくさ)はしない」
「では駿河の商人を使うのですか?」
「いや、我々が直接売る」
「そんな商売、今川が承知しないでしょう。多額の税が掛けられて、利益など出ませんぞ」
 正直がなおも食い下がる。
「今川は承知する。我々は無税で、駿河で商売ができる」
 自信たっぷりの勝頼の口調に、さすがの正直も困惑の色を浮かべた。
「先月、私は刺客に襲われた。小助と勝悟の働きで、私は無事でしかも賊も捕らえることができた」
 なぜ、勝頼暗殺の話がここで出るのか分からず、みな黙って続きを待った。

「その後の調べで、この事件の裏で糸を引いたのは、今川氏真の密命を受けた安倍元真と分かった」
 さすがに声を上げる者はいなかったが、皆の顔に驚きが走った。勝宝だけは顔を真っ赤にしてブルブル震えている。
「なぜ、今川が味方である武田に謀略を仕掛けたのですか?」
 正直が納得がいかない顔で詰め寄った。
 この話が本当なら武田は今川との同盟を破棄して、攻め込む口実を得たことになる。当主が謀略を図り、重臣が実行したのでは、外交で解決は難しいと思ったのだ。
「嫉妬だ」
「嫉妬?」
「自分は父を亡くし、重臣の多くも桶狭間で死んだ。徳川には独立され、三国の太守と栄華を誇った姿は昔のものとなった。逆に武田は上杉との死闘の末、北信濃も支配下に治め、前途洋々な状況だ。それが受け入れられない氏真殿は、しょせん餓鬼にしか過ぎないのだ」
 正直が再び困ったような顔に成る。

「そんな餓鬼が治める国は、武田にとって恰好の的ではないですか。やはり戦は避けられないのでは」
 正直が一番の危惧を口にした。氏真相手に外交が成立するとは思えない。
「誰も氏真殿と交渉するとは言ってない。相手は寿桂尼殿だ」
「おお」
 誰ともなしに声が上がった。
 寿桂尼は、義元の母で氏真の祖母に当たる。その政治的手腕は確かで、義元亡き後今川を支えているのは、彼女の功績が大きい。
「寿桂尼殿は氏真殿のなされたことに大いに驚かれ、戦を回避する代償として、我々に無税の専売所の開設と、港の使用権を与えてくださった」
 勝頼の言葉は、戦の勝利のように部屋中に響き渡った。

 
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