第18話 花実兼備

文字数 4,423文字


「九人目」
 もう討ち取った武者の首など興味なかった。
 どうやって城壁が破られたか分からぬまま、寄せ手を迎撃するために慌てて出て来た敵兵を、先手隊の先頭に立って一直線に貫いていく。
 敵はこちらのスピードに対応できず、槍を一振りするだけで斬られた自覚のないまま、次々に果てていった。悪魔のように敵の血を吸う愛鎗は蜻蛉切、十三才の初陣のときから戦場で常に忠勝と共にある刃長四四センチ、全長六メートルもの長槍だ。
 忠勝は類まれなる足腰で、人とは思えぬスピードで動き、これまで戦場でその身にかすり傷一つ負ったことがない。

 信長から授けられた南蛮気道の驚異的な威力で、曳馬城の城壁はあっという間に粉砕された。城内の兵は敵の侵入を食い止めようと、決死の迎撃に出て来たが、戦国でトップクラスの強さを誇る三河軍団は、白兵戦になった時点でほぼ勝ちを決めていた。
 そんな状況下で、忠勝がわざわざ先頭を走っているのは、昨夜家康から託された願いのためである。
 その願いとは、現曳馬城主お田鶴(たづ)の方を傷つけることなく、生け捕りにすることだった。

 お田鶴の方は先の曳馬城主、飯尾連龍(いのおつらたつ)の妻で、父は今川家重臣鵜殿長持(うどのながもち)、母は今川義元の妹と、今川宗家の血を引く評判の麗人で、今年十八才になる。
 不思議なことにお田鶴の方の高名の所以は、その美しさではなく、歴戦の勇者に引けを取らぬ武威にあった。夫連龍が桶狭間の合戦以降、裏切りの疑いを抱かれ、駿府から派遣された三千の兵に城を囲まれたとき、連龍と共に城外に繰り出し、並み居る敵兵をその薙刀を持って撃退した。
 その後連龍は、和議のために駿府に赴いた際に何者かに毒殺されるが、お田鶴の方は曳馬城を固く守り、他のどの大名の誘いも跳ねつけ、今川の宿将として生きることを宣言した。その志操の激しさと、行動を持って夫の無実を証明する姿は、正に戦国の世の巴御前と、男だけではなく家康の妻築山殿のような女性も憧れる存在となった。

 三河で念願の独立を果たした家康が、駿府人質時代に憧れた今川社交界の華を手に入れたいと願うことは、自然な心の動きであったのだろう。
 事実、これまで何度もお田鶴の方に、妻子共々面倒を見ると意味深な降伏勧告を送ったが、「女と(いえど)も弓馬の家の者」とその度に拒絶されていた。
 家康は深窓の姫君よりも、しっかりした大人の女性をよく好んだ。お田鶴の方の誇りのために死をも恐れない姿に、思いは更に強まってこの戦い迄来てしまった。
 忠勝は敬愛する主君のために、他の兵の手に掛かる前に捕獲しようと、お田鶴の方を探し求めた。

 城門を抜け曲輪の中に入ったところで、緋縅の鎧姿の女性が現れた。その背後には十八人の女兵士が率いられている。
「そこにおられるお方は、お田鶴の方でございますか?」
 忠勝の問いに女性武者は「いかにも」と答える。
「我が主君家康は、あなた様のお命を何に変えても助けたいと願っております。ことここに至っては是非もなし。その薙刀を置いて降伏していただけませんか」
 お田鶴の方は、忠勝の懇願を聞いて、僅かに頬を歪ませて少しばかり顎をあげた。
 その気高き表情の美しさに、戦場の修羅である忠勝の心が、不覚にも激しく波打った。

「わが心は亡き連龍殿だけのもの。思いで深きこの城を他人に奪われれば、私の心は死んだも同じ。無用な勧告は無礼と心得よ」
 言い終わるや否や、お田鶴の方は一瞬で間合いを詰め、手にした薙刀を忠勝の肩口目掛けて振り下ろした。
 その切っ先は忠勝をして、辛うじて交わしたほどの高速で、驚くことにすぐに返しの二撃が切り上げられ、堪らず忠勝は大きく後方に飛び退いた。
「逃げては私を倒せませんよ」
 お田鶴の方はすぐに次の攻撃の構えをとった。
 目の前にある敵は、忠勝がこれまでに戦場で出会ったどの戦士よりも、危険な相手であることは明らかだった。
 忠勝はもはや生け捕りは無理と諦め、蜻蛉切に武気を注いだ。

 お田鶴の方の三度目の攻撃は、先ほどよりもさらに速度を増して、忠勝の身体を斬り落としたかに見えた。だが、地面に倒れたのはお田鶴の方だった。忠勝の一閃は紙一重でお田鶴の方の身体を両断し、その儚い一生に終止符を打った。
 それを見た十八人の次女と思われる女兵士たちは、懐剣を取り出し首に押し当て、次々に後を追った。
 忠勝は戦人(いくさにん)ゆえに、戦場の死には心は揺れぬが、お田鶴の方の戦いがこれで終わったと、なぜか安堵する気持ちが頭を横切った。


 忠勝が担いできたお田鶴の方の遺体を見て、家康はしばらくの間無言で目を閉じた。
 心の中で家康が何を考えているのか、表情からは読み取れないし、知ろうとも思わなかった。忠勝は次の指示だけ、静かに待ち続けた。
 やがて眼を開けた家康の顔は、この戦いが始まってから初めて見せる優しい顔だった。
「いつも無理を言ってすまぬ。お主のおかげでわしも吹っ切ることができた」
 忠勝は何も言わず、ただ頭を下げた。
「本多忠勝こそ花実兼備の勇士である。その働きで、曳馬城は我がものとなった。武田の目が飛騨に向いてるうちに、次は掛川城を攻め落とそうぞ」
 戦国武将である家康の復活であった。


 曳馬城の戦火の跡は三日間で応急修理され、後は別部隊に任せることにして、明日はいよいよ掛川城に向けて出立が決まった。
 掛川城を落とせば、遠江はほぼ手中にできる。
 駿河に侵攻すれば間違いなく、北条と武田が小田原と古府中から援軍に出てくるから、今回の進軍はそこで終わりだ。
 この先、遠江をしっかりと治め、国力の充実を図れば、徳川は拡大する武田から身を守る力を手にすることができるだろう。
 戦場に逸る気持ちを抑えながら、忠勝が明日に備えて身体を休めようとしたとき、一人の男が忠勝の寝所を訪れた。

「康政ではないか。こんな時間にどうした」
 男は同じ旗本先手役(はたもとせんてやく)の榊原康政だった。忠勝とは同い年で、互いに相手の才能を認め合い、功を競い合うライバルであり、親友であった。
「いや、遠江に侵攻を始めて、いくつか気に成ることがあるゆえ、明日の戦の前にそなたと話しておこうと思ったのだ」
 康政の手には酒の入ったひょうたんが二つ握られていた。
 この良識に富んだ友が、戦の前日のこんな時間に尋ねて来るとは、よほど気にかかる何かに気づいたとのだと忠勝は思い、襟を正して向き合った。

「まあ、そこまでかしこまるな。杞憂に過ぎぬかもしれん。まずは飲もう」
 康政からひょうたんを手渡されて、忠勝は蓋を開けて一口飲む。
 意外に芳醇な香りが口いっぱいに広がった。
「いい酒だな」
「この地で手に入れたものだが、畿内の酒だそうだ」
「畿内の酒? この地では畿内の酒が手に入るのか」
「酒だけではない。今川領内は、商人の流通が三河とは比べ物にならないぐらい盛んだ」
「ふーむ。東国の京は伊達ではないな」
「それだけではないだろう。わしは殿の使いで駿府迄足を運ぶことが多いが、この二、三年で今川領の商人の活動は飛躍的に盛んになった。ちょうど武田が駿府に専売所を設けたころからだ。無関係とは思えん」
 康政の厳しい口調に、忠勝はやや困った顔をした。武田の専売所と言っても行商に毛が生えたぐらいだと思っていたのに、この思慮深い友は今川領内の商業が飛躍的に伸びた原因ではないかと言う。
 一専売所がどうしたらそんな影響力を持つのかさっぱり分からなかった。

「どうしてそうなるのか説明せぬぞ。そこを理解してもらおうと思って参ったのではない。関連はするが、本題は別だ」
 忠勝はほっとした。出立の前夜にそんな話を聞かされては寝つきが悪くなる。
「では、手早く本題を話してくれ」
「うむ、曳馬に来て、恵那に続くという大きな道に気づかなかったか?」
「おお、三河でもめったに見ないような立派な道があったな。あれも商売のために造った道か?」
「そういうことになっているが、もしあの規模で恵那まで続いたとすれば、何か別の意図を感じぬか?」
 康政の言葉が呼び水と成り、忠勝の頭の中に子供の頃に見た、上洛のために東海道を驀進する今川軍が思い浮かんだ。
「まさか……」
「そうだ、我々は今川の援軍は東からだけと思っていた。だが、信濃と美濃の武田軍があの道を通って、掛川城を攻める我らの背後に迫ったら……」
 今度は忠勝が目を閉じた。
 額に汗が滲む。
「徳川は遠江の地に消えるな」
 忠勝は自分でも驚くほど冷静に、自軍の破滅を予言した。
 康政は忠勝の他国の行く末を語るような落ち付いた態度に、一瞬顔色を変えたが、すぐに元の思慮深い顔に戻った。

「開き直りだけで、出た言葉ではなさそうだな」
 忠勝は「うむ」と頷き、ついでカッと目を見開いて康政を見た。
「この話を殿にではなく、わしに話しに来たと言うことは、お主もここに来て三河にすごすご退くことなど、考えてるわけではなかろう」
「その通りだ。北からの来襲に恐れて、一戦も交えずに逃げ帰っては、徳川の武名は地に落ち、三河の国人衆も次々に離反して、待っているのは滅亡の道だ。もし負けるとしても負け方がある」
「勝利への道もないことはない。武田軍の来襲までに掛川城を落とし、返す刀で西から来る敵を迎え撃てば、勢いに乗る我が軍が士気で相手を上回り、押し返すことも絶対に不可能ではない」
「その通りだが、わしは朝比奈泰朝という将をよく知っている。どんな状況でも折れぬ心を持っていて粘り強い。武田の来襲前に掛川城を落城させることは、十に一つというところか」
 悲観的な意見を述べているにしては、康政の身体からは闘志が武気となって溢れ始めていた。
「殿に敵中突破させ、無事三河迄逃げ込めれば、敗戦でも徳川の武名は大きく跳ね上がる」
「その通りだ。部門の家として、この東海で武田に敵対する存在だと、世間に認められるであろう。それは織田家に対しても、徳川の価値を主張できる」
「はっきり言え。お主はわしに、殿を逃がすために共に死んでくれと、頼みに来たのであろう」
 そのときの忠勝は端正な顔に満足そうな笑みを浮かべていた。
 それを見た康政の顔にも、滅多に見せない笑みがこぼれた。

「殿を無事に逃がすためには、死兵が必要だ。わしとお前で死兵と成れば、いかに武田でも殿に道を開けるだろう」
「死兵か。今日の戦いでわしは戦場で生涯最強の敵と出会った」
「お田鶴の方か?」
「恐ろしいまでに武気を高め、そのスピードは確かにわしを凌駕していた。死兵とはあの境地に達した姿を言うのであろう。殿から花実兼備とお褒めの言葉をいただいたが、その言葉は今日のお田鶴の方こそ相応しいと、わしは思う」
「忠勝、お主……」
「この戦いで、本多平八郎忠勝の死兵となった姿を敵に見せることができれば、殿が無事に戻られることは間違いなく叶うだろう。その時こそ花実兼備とお褒め頂こう」
 いきんで立ち上がった忠勝の雄姿を見上げ、お前ひとりを死兵にはせぬと、康政も表情を引き締め、残った酒を一息に飲み干した。
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