第12話 決死

文字数 4,400文字


「それにしても、いくら聡明な寿桂尼様の言葉とは言え、二カ国の太守が自分の思いを曲げておいそれと従うものでしょうか? 家臣の手前もございましょうに」
 勝頼の前を辞して、小助は正直を誘って別室に下がった。恵奈の嫁入りの話もあり、正直の人となりをこの機会に確かめたかったのであろう。
 勝悟も小助に請われて、複雑な心境のままその場にいた。
 正直はまだ先ほどの話が気に成るのか、半信半疑の面持ちで目の前の小助に尋ねたが、その口調は自分自身に問っているようにも聞こえた。
 そんな正直の顔を見ながら、小助はニヤリと笑った。
「それよ、わしも登城前に信友殿から事前にこの話を聞いて、それが気に成って尋ねてみた。信友殿の話では、寿桂尼殿が氏真殿に最初に掛けた一言が凄まじい」
 初めて聞く話だった。正直だけでなく勝悟も身を乗り出した。
「その言葉とは?」
 正直が焦れる。
「さあ甲冑をお召しあそばせ。時は戦乱の世、事が露見した以上武家の棟梁として、立派に(いくさ)働きをするしかございませぬ。ご当主様は甲斐に馬を進めて信玄殿と雌雄を決し、その間の駿河の守りはこの寿桂尼が勤めましょう。もし、お敗れに成られたときは、この駿府城にて共に滅びましょう」
 一同の頭に氏真に詰め寄る寿桂尼の壮絶な顔が思い浮かんだ。
「なるほど、納得いたしました」
 正直は疑問が晴れて、ようやく眉間の皺を開放した。

 こずるい嫌がらせには積極的だが、いざ戦となればしり込みする――そんな氏真の性格を見切って正直は納得した。
 勝悟は目の前のやりとりを聞きながら、緻密な探求心と柔軟な理解力を正直の中に認めた。武に関しても父槍弾正譲りの槍術の使い手だと聞く。まずは家中きっての良将か。小助が信友の提案に同意して、恵奈を差し出すことに同意したのも頷けた。
 正直の人となりを理解すると、今度は言葉では表現できないムズムズとした苛立ちが、頭の中に広がり始めた。
 嫁いでしまえば恵奈は正直を深く愛するだろう。この立派な男が、感情をむき出しにして、醜く悔しがる顔が見たいという、どす黒い感情が頭と身体を支配する。

「――で頑張りましょう」
「はっ?」
 正直から何か話しかけられたようだが、嫉妬が脳を支配して咄嗟に反応できなかった。
 小助が不思議そうな顔をして勝悟の顔をじっと見つめる。
 生真面目な正直が破顔して、勝悟へ再び語りかけた。
「おお、もう次の策で頭の中はいっぱいのご様子ですな。今度の駿河の専売所ならびに美濃侵攻策は、真野殿の献策と信友殿から聞きました。本拠移転などそれがしの凡庸な頭では及びもつかない。本当に素晴らしい。勝頼殿から指示された本拠移転の準備は、全力を傾けますゆえ、真野殿には今後もご指導をお願いいたします」
 語っている正直の目は途轍もなく澄んでいて、勝悟を年下と侮ることなく、素直に思いの強さを伝えていた。
 人は文字通り命を賭けて何かを為そうとするとき、こういう目をするのかと勝悟は人の真理の一つに気づかされた。

 勝悟は己を恥じた。異性を思うことは悪いことではない。しかし国の大事を為そうとすることとは別の話だ。ここにその感情を持ち込んで、一人置いて行かれてしまったことが腹立たしかった。
「やりましょう。保科殿」
 勝悟の頭脳は再起動した。本拠移転に向けたタスクが次々と脳裏をよぎる。
「その前に西上野だ。二人とも命を落とすなよ」
 これから始まる大事業の前に戦があることを、改めて小助は二人に告げた。多くの有望な命が、戦の中であっけなく消えてしまったのを、何度も見てきたからだ。
「もちろんです。信友殿にも言われました。戦の中ではどこに人中の呂布がいるか分からぬと」
 ようやく生気を取り戻した勝悟の顔を見て、小助は頼もしそうに頷いた。



 信玄の本拠移転に向けてあっという間に月日が経ち、ついに西上野制圧を締めくくる箕輪城包囲軍が編成された。そこで勝悟は正直と共に勝頼の陣にいた。
 跡部軍の侍大将である小助は、勝資と共に信玄本陣に詰めており、勝悟が一人勝頼の近くに残った形だ。

 信玄が最初に箕輪城を攻めたのは弘治三年(一五五七)、その時は名将長野業正が立ち塞がり、業正に呼応する西上野衆の手強い反撃にあって、成す術もなく撤退している。
 以来十年の間硬軟取り混ぜて攻め続け、ついにこの巨大な城に立て籠るのは、業正の子業盛が率いる千五百人のみとなった。対する信玄の軍は二万の大軍であった。
 既に信玄の武力と調略を絡めた侵攻策により、箕輪城周辺の諸勢力は粗方武田側に靡いている。頼みの謙信も上杉の重要拠点である厩橋(まやばし)城が、武田と北条の強力な封鎖によって孤立し、謙信から関東を託された城主の北条(きたじょう)高広は箕輪城の危機に、指を咥えてみているしかなかった。

 武田軍が囲む箕輪城は、榛名白川が作り出した東京ドームの十倍の広さの河岸段丘に、梯郭式に曲輪が配置された巨大な天然の要塞である。
 攻め口は大手口と搦手口の二つが有り、大手口は後に武田四天王と呼ばれる飯富昌景と馬場信房が配され、勝頼はこれまた四天王の一人である内藤昌豊と共に、搦手口の配置とされた。

 総攻めが開始され二日間に及ぶ城外戦闘で、城方の兵は僅か二百名となった。三日目には城内へ討ち入ろうと、二つの門に武田軍が殺到した。
 長野軍は寡兵ながらも士気は衰えず、死力を尽くして門を守った。それでも守備側の矢が尽きると共に門が破られ、狭い虎口で壮絶な白兵戦が開始された。
 箕輪城に籠る兵士はもう生存を諦め、最後まで武田軍に屈さない覚悟だ。
 死兵は強い。
 斬られても突かれても死ぬまで戦い続ける。
 一方、武田の精強な兵たちは、勝ち戦の中で死に至ることを恐れた。負傷するとどんどん後方に下がるため、圧倒的な兵力差に関わらず進軍は思うに任せなかった。
 こうして、一人で複数の兵を退け続けた長野方の兵士たちだが、それでも時が進むにつれてどんどん数を減らしていく。
 大手門の軍がついに三の丸を制圧し、蔵屋敷方面から本丸を目指し始めた。

 勝頼隊の攻める搦手口は、大手口の攻め手に半刻遅れて門を突破した。搦手口からはすぐに二の丸に入ることができるので、そこを抜ければ本丸は目の前だ。
 だが、そこには鬼がいた。
 藤井友忠、剛勇無双で名が知れた業盛の旗本頭だ。
 友忠は選りすぐりの二十数名を連れて、二の丸と本丸に続く要地に立ち塞がる。勝頼の部隊は数を頼んで突破を試みるが、部隊の先頭に立った友忠が振るう槍先にかかって殺され続けた。
 犠牲が増えるばかりで友忠に疲れは見えない。その顔は返り血を浴びて赤鬼の形相と化していた。
 勝頼はいったん兵を下がらせ弓隊を前に出し、友忠の隊に一斉射撃した。いずれも武田を代表する弓の名手だ。強力な武気に包まれた矢は音速を超えて、友忠に向かう。
 ところが、友忠は肉眼では捉えきれない音速の矢を、見事に槍で跳ね返した。その矢は真っ直ぐに射手に向かい、逆にその額を撃ち抜いた。
 友忠の部下たちも勢いづき跳ね返せないまでも、悉く矢を打ち落とす。

 搦手口を攻める諸将は、友忠のあまりの無双ぶりに顔色を失う。
「あれは槍ではありますが、一刀流奥儀の矢返しの太刀ではないでしょうか?」
 正直が冷静を保ちながら、歯噛みする勝頼に注進した。
「では、伊勢守の高弟たちか」
 上泉伊勢野守は新陰流の開祖と呼ばれる剣豪だ。後に柳生石舟斎に極意を伝え、柳生新陰流が生まれた。領有する大胡城が北条氏康の手によって落城した後は、長野家の重臣として武功を積み重ね、長野十六槍の一人と称えられた。
 だがこの戦いにおいては信玄の調略により、箕輪を取り巻く諸城が次々に陥落するのを見て、新陰流の普及を目的とした諸国流浪の旅に出ている。それもまた戦国に生きる戦人(いくさにん)の常であった。

「厄介だな」
 勝頼はここに来て初めて困惑の表情を浮かべた。
 このままでは大手門から攻める将に後れを取ってしまう。
 父信玄を高遠の地に迎える以上、提案者である勝頼は自らの武を諸将に見せつけ、反対派を黙らせる必要がある。それが友忠一人に手を焼いたあげく抜けなかったでは、勝頼の面目は大きく失墜する。
 どちらかが本丸を落とせばいいという、戦略上の考え方はこの場合通用しない。

「次は私が一隊を率いて向かいましょう」
 勝頼の立場を思い量って、正直が自ら決死隊に志願した。討死の危険が漂うにも関わらず、その顔は意外なほど涼しい。
「討てるのか?」
 今後の側近と頼む正直の申し出に、勝頼は心配そうに訊く。
「一命を捨てる覚悟で臨めば、最悪相打ちまでは持ち込めましょう」

 正直が造作もなく命を賭けると申し出ると、勝頼は今にも口から飛び出しそうな動揺した声を必死で抑え込んだ。
 正直の思いをくみ取り、その成功を疑わないとばかりに最高の笑顔を作り、勝頼は静かに頷く。勝悟はこのとき勝頼もまた戦人の顔をしていると思った。力ある死兵を制するには、こちらも死力を尽くさざるを得ないことを、勝頼は誰に教わるでもなく、今感じ取ったのだ。

 正直は旗下の兵から精鋭を選んで、決死隊を編成した。いずれも槍弾正の下で武威を誇った歴戦の強者たちだ。
「信州の武を上野(こうづけ)の兵に知らしめようぞ」
 正直の激は兵の誇りを刺激し、士気の上がった兵たちから大音声が返ってきた。
 それを聞いて、正直は一直線に友忠に向かう。
 対する友忠は無表情で、これを迎え入れた。

 二合三合と、正直と友忠の槍が合わさる。
 正直の槍は槍弾正の息子に恥じぬ鋭さを見せたが、対する友忠の槍も変幻自在の動きでその鋭鋒を跳ね返す。
 勝悟には武気の勢いが、やや友忠の方が強く見えた。
 次第に正直の槍が押し込められ、劣勢になっていく。
 勝悟の身体がカッと熱くなる。
 次の瞬間、勝悟は正直に向かって走り出していた。

(人中の呂布など糞くらえだ。ここで退いたままでは、俺はこの先戦えなくなる)
 勝悟が後数メートルで正直の許にたどり着く寸前で、友忠の槍が螺旋状に正直の槍に絡んで、そのまま真上に跳ね上げた。
 振り上げた友忠の槍が、そのまま正直目掛けて振り下ろされる。
 正直が死を覚悟した瞬間、ふいに頭上が暗く感じられた。
 その直後に頭を叩き割られた友忠が、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。

 間に合わぬと思った勝悟は、正直の背後から武気の力で跳び上がり、そのまま正直を飛び越えて、友忠が槍を振り下ろす直前に、その頭頂へ槍の一撃を叩き込んだのだ。
 勝悟の強力な武気が籠った神速の一撃だった。
 友忠が倒れ、味方の陣から大歓声が上がる。
「本丸を落とすのは我ら勝頼隊ですぞ。さあ正直殿、一気に駆け抜けましょう」
 吹き上がった友忠の返り血を浴びて、髪の毛まで赤く染まった勝悟が、正直に激を飛ばした。
 正直は会心の笑顔でこれに応え、友忠によって跳ね飛ばされた槍を拾って、勝悟と共に本丸に向かって走り出した。
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