第15話 そろばん

文字数 4,138文字


「ご苦労であった。おかげで武田と今川の新しい関係が築けそうだな」
 勝悟と正直は古府中に戻って駿府での成果を信玄に報告した後、義信が主宰する慰労会に招かれた。
 氏真の統治者としての卓越した才、元真が武田の専売所に支援を約束したことなどを信玄が承認し、義信としては上々の成果だったに違いない。言葉にしなくても、義信の顔に浮かぶ満面の笑みがそれを伝えてきた。
 家中に知縁が少ない勝悟と正直に配慮して、宴席には二十数名を超える家中の有力者が招かれていた。
 宴席の前半は、それらの諸将に挨拶をして、一通り回り終えた後で、今宵始めて義信と向き合って盃を交わした。

「駿府では、氏真様の領国経営の才に驚かされました。もっと御曹司然とした方かと思っていました」
「はは、今川の家は教育が厳しいからな。それなりに帝王学を学ばれたのであろう。あの家では義元公が、東海一の弓取りとして日ノ本の統一を果たす予定であったから、氏真殿にはその広大な領土を経営する才を期待されたのだろう」
 義信の言葉には、些細なきっかけで運命が狂っていく諸行無常の世の悲哀が籠っていた。
「それにしても、氏真様の施政は革新的で素晴らしい。甲斐でも取り入れたいくらいです」
「甲斐では難しいだろうな」
 駿府は古府中と違い、この時点で人口十万人に達しており、京や摂津の各都市と伍する国内屈指の大都市だ。今川氏の政策により公家文化も積極的に取り入れられ、文化的成熟度も高い。
 何よりも安倍元真に代表される利よりも大義で動く家臣が多い。土地を中心とした農民文化で個の利益が優先される甲斐の家臣団が、全体最適を推し進める氏真の政策を受け入れることは難しいと、義信は言いたいのだ。

「確かにそうなのでございましょう。しかし専売所の運営管理者だけは、今迄とは違う眼鏡で選ばねばなりません」
 勝悟の言葉にも、暗に従来然とした人材評価に駄目だしする気持ちが籠っていた。
「はは、なかなか手厳しいな。だがお主の言うことも分かる。そこで、わしから一人紹介したい男がいる」
 義信が手をあげて、宴席の隅で飲む男を手招いた。その男はゆっくりと立ち上がり、勝悟の前に来て座った。
「紹介しよう。この男の名は土屋十兵衛長安(ながやす)、元は大和で能楽師だったが界に来てからお館様に取り立てられ、土屋殿に預けられた。つい最近蔵前衆に成り、黒川金山の産出量を倍にしたばかりだ」
「お初にお目にかかります。十兵衛とお呼びください」
 十兵衛は、美男子ではないが押し出しの強い顔をしていた。元能楽師というだけあって、表情も豊かでどこかユーモラスな風情がある。

「十兵衛殿はどのようにして金山の産出量を増やしたのですか?」
 勝悟の関心はいつも過程にあった。学校での成績を上げるために長時間勉強しても、長期的には無理が来る。スポーツで結果を出そうと、長期間猛練習をすると身体を壊す。同様にコストを増やしてあげた成果は、長期的には益と成らない。
 駿府に置く専売所は、この先十年の武田の財政を支えなければならない。一時的な成果を上げるために無理する男では務まらなかった。

「はい、採掘法は従来の竪穴堀にかわる横穴堀に変え、従来の廃坑を生き返らせる事ができました。また『水銀流し』という技術を取り入れて、鉱物から金を生成する効率を上げたのです」
 十兵衛はそこで言葉を切って、観察するような目で勝悟の反応を窺う。酒の肴代わりに話を振る者は、ここまで聞けば満足して十兵衛の偉才を褒めて終わる。
「なるほど、新技術を取り入れたのですか。しかし鉱山で働く者は、人一倍職人気質が強いのではないですか? どのようにして新技術の徹底を図ったのですか?」

 勝悟がそう訊くと、十兵衛は表情こそ変えなかったが、動揺して目が泳いだ。それこそが十兵衛が最も苦心したポイントだったからだ。
「真野殿はどうしてそこをお聞きになりたいのですか?」
 質問に答える前に、思わず質問を返してしまった。
 勝悟という人間を知りたい思いが、十兵衛にそうさせたのだ。
「いえ、学問を究める際も勉強法などはいくつも教えられますが、結局それを実行する気持ちを作る方が難しい。管理者に求められるのは、実はそこではないかと思ったからです」
「なるほど、モチベッセオの持たせ方が大事だと思われるのですな」
(モチベッセオ? モチベーションのことか……)
 勝悟はこの時代のメインの外来語がポルトガル語だということを思い出した。しかし甲斐の代官にすぎない十兵衛が、なぜポルトガル語を知っているのか不思議に思った。

「鉱山は、金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる鉱山主たちが、大勢の金堀衆(かねほりしゅう)を使って運営します。お館様はこれら鉱山の所有権を金山衆から奪い、代わって採掘権を与えました。金山衆は採掘した金をお館様に収め、代わりに賃金を貰うわけです。ですが、この賃金が鉱山の規模に比して決められていたため、たくさん取っても少なくても同じわけです。まずはこれを基本賃金と産出量に応じた歩合に変えました」
 十兵衛の改革は処遇制度から手を付けられたわけだ。
「でもこれだけでは、金堀衆のモチベッセオは上がりませんでした。彼らは罪人も多くて、基本的に低い賃金で押さえられています。貧しいので女や子供も働いています。そこで金山衆を説得して、歩合で得た分の三割を金堀衆の手当に回させました」
「そうなると金山衆の取り分が減るので不満が出ませんでしたか?」
「それに対しては、新しい採掘法を用いて、結果として今までの取り分が増加することで納得してもらいました」
「なるほど、本来反発されがちな新技術が、彼らの収入と取り混ぜて取り入れざるをえなくさせたのですね。しかしそうなると利益を得るために、金堀衆に無理をさせる金堀衆が現れたのではないですか」

 十兵衛は今度は明らかに驚きを表情に表した。
 賃金についてまでは話したことはあるが、さらに金堀衆の健康にまで気をまわした者は、これまでいなかったからだ。
「その通りです。それを放置しては、金堀衆が疲れて倒れる者も出て、結局産出量は落ちてしまいます。そこで、働く時間を定め、中休みも三刻ごとに取るように決めました。加えてこれを破る者は、重大な罰を与えると宣言しました。さらに実際に違反者がいないか見回り隊を組織すると共に、金堀衆からの訴えを直接受け付けるようにしたのです」
 今度は勝悟が驚いた。
「そのような管理術を、十兵衛殿はいったいどこで身につけられたのか?」
「術?」
 十兵衛は少し首を傾げて考え込んだ。
 やがて頭の中が整理できたのか、勝悟の目を見て説明を始めた。
「術というようなはっきりした形で教わったことはありません。ただ信じている教えがありまして、それが親兄弟などの区別なくとにかく他人を愛せという教えで、その考えに基づいて世の物事を見直せば、武田家だけではなく働く者すべての利益と命を大切にと思ってしまいます」
(キリスト教だ。この男はキリシタンだったのか!)

 西欧社会で生まれた現代民主主義はその背景に、キリスト教の精神がある。生まれた時から神の下に平等、天上の神の視線を感じながら育つことから民主主義の精神が構築しやすい。日本のように軍国主義の基盤となった国家神道が、敗戦によって強制的に政教分離され、改めて権利の行使として民主主義を推進した国とは根本が違うのだ。

 一方、この時代にいきなり布教されたキリスト教は、その根底となる精神と政治構造が相互に影響し合うところまでは至らず、やがてその可能性を危惧した専制君主によって禁止されてしまう。

 ところが目の前の男は、キリスト教の精神を巧みに実業の世界に取り込み、現代社会に近い労使構造を創造している。キリスト教に対する信心がどれほどのものかは分からないが、心理学と連動した合理的なフレームを、日本社会に奇跡と言っていい手際で取り込んでいるのだ。
 鉱山業は日常において常に死の危険が付きまとっている。その不安定な状況が触媒として、十兵衛の合理的な考え方を持ち込みやすく働いたのだろう。

(いずれにしても、この男は天才だ)
 勝悟は専売所の運営を十兵衛に任すことを、このときに決断したが、商人としての資質をもう少しだけ測りたかった。
「十兵衛殿の管理者としての腕前が素晴らしいことは分かりました。ところで、運営に必要な資質として、資金の管理や売り上げの予測のような数字を統べなければなりません。その点で、何か工夫はございますか?」
 もう勝悟の鋭い指摘に慣れてしまったのか、十兵衛は驚きもせずに大事そうに持つ大きな袋から三枚の書付を取り出した。
 一枚目の書付を見ると、紙が真ん中に引かれた線で二つに区切られ、上部には賃金や修繕などに備えて積み立てる金が、下部には運営資金として武田家から支給された金と、修繕対象となる器具の支払い額や毎年の剰余金の積立額が記されている。しかも上部に書かれた金の合計と、下部に書かれた金の合計がぴったりと一致していた。
(バランスシートだ)
 どういう原理で仕分けしているかは分からないが、鉱山運営を資産と負債の二つの概念で分析していることは確かだった。

 続く二枚の紙も現代会計で使う損益計算書とキャッシュフロー計算書だった。
 しかも三枚の紙に書かれた数字は、ぴったりと一致している。
 これらの経営統計の概念を身につけていることも驚きだが、コンピューターがない時代に、これを一人で作り上げた恐るべき計算能力にまず驚いた。
「これは一人で計算されたのですか?」
 十兵衛はにっこりと笑い、また大きな袋から何か取り出してきた。
「私にはこれがあります」
 それはそろばんだった。日本にそろばんが伝わったのは十六世紀の後半とされていて、まだ普及はしていない。
「これはこのように使います」
 十兵衛は子供のように無邪気な表情になって、そろばんを使って計算を始めた。
 既に説明をする風ではなく、お気に入りのおもちゃを自慢する子供と変わらなかった。
 その様子を見て、こういう好奇心が強く、新しい技術に夢中になる性格こそ、この人の原点なのだと勝悟は理解した。
 傍らで呆れて見ている義信に、勝悟はこの人に決めますと、しっかり目で合図した。
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