第6話 箕輪攻め

文字数 3,616文字

 勝頼は今日ものんびりと箕輪城を眺めていた。勝悟はその横顔を見ながら、初陣にも関わらず功を焦ることなく、落ち着いている様子に感心していた。
 常人であれば、偉大な父の息子として功をあげねばとプレッシャーが掛かるところが、この若君にはそうした気負いが感じられない。かえって自分の方が気を揉んでることに気づき自嘲してしまう。
 勝悟は勝頼が訪問した翌日に小介から、この(いくさ)の間だけ勝頼の御側衆を命じられ、既に五日間勝頼軍の中にいた。なぜこの配置になったのか、理由は教えられなかったが、勝頼に対して好意を感じ、その人となりに興味があったので不満はなかった。

 武田軍の主力はこの戦の目的となる武蔵松山城の攻略に向かっており、箕輪城は残りの兵で、敵の行動の自由を奪うために囲うのみだった。跡部隊は松山城攻めに向かったが、勝頼は主攻から外されので、勝悟も箕輪城包囲陣に残ることになった。
「ここでは特に戦闘はなさそうですね」
「勝悟は戦闘の機会を失って残念に思うか?」
 無念さと安堵が半々の勝悟に対し、勝頼はまったく気にしてないように見えた。
「いえ、本音を申しますと闘わなくてすむことは良いことだと思います」
 なぜかまだ知り合って間もない勝頼に対し、本音を言える親しみを感じる。初めて会ったときからそうだった。

「私も本音のところは同じだが、立場上近いうちに、ひと働きしなければならないとは、思っている。そのときは勝悟が供をしてくれ」
 勝頼の口から、外見からは窺えない意外な言葉が飛び出した。
 勝悟は意表を突かれた思いで、まじまじと勝頼の秀麗な顔を見たが、そこには気負う気配は相変わらずなかった。
「なぜひと働きと考えられるのですか?」
 その問いにも勝頼は微笑を浮かべただけで、猛々しさを一切出さずに静かに答えた。
「兄上と約束したからな」
「太郎様ですか?」
 勝頼は静かに頷いた。

 太郎義信は信玄と正室三条殿との間に儲けられた武田家の嫡男で、今川義元の娘を正室としている家中の期待の星だ。激しい気性ながら身内には優しく、武将には珍しい愛妻家で知られている。将としての才能は十分過ぎるほどで、先年の川中島の大戦では謙信本陣に斬り込んで、武田の武威を大いに示している。
 その義信の初陣は、信濃平定戦で敵の要害を九つも落とすという輝かしいものだった。

「太郎様に何か言われたのですか?」
「死ぬなよと言われた。ただ、もし機会に恵まれたならば敵の首の一つでも取ってこいと、私に対する兄上の期待が感じられた」
 勝悟はそのとき僅かだが勝頼に死の匂いを感じた。勝頼はおそらく義信のことが好きで、期待に応えたいと思っている。そういう時に人は思わぬ力を発揮するが、それでも克服できない大きな力にぶつかって、逆に不幸な結果を招くこともある。
 そう考えれば気負いなく冷静に戦局を見つめる勝頼の姿にも合点がいく。これがこの人のスタイルなのだ。いたずらに功を焦って騒ぐのではなく、機会を逃さぬよう迷いなく集中している。そういうベストな状態のときほど、待っている落とし穴は深いことが多い。

「勝頼様、出陣は程よいタイミングを図られるよう、お願いいたします」
「そうもいかん。元はと言えば諏訪は、兄上が攻略した地じゃ。私が諏訪の当主として立派にやっているところを、兄上にちゃんと見せねばなるまい」
 勝頼は兄義信の武勇に憧れている。勝悟は義信には厳しい信玄も、勝頼には甘いことから、初陣であってもいたずらに功を焦ることはないと思っていたが、まさか本人も気づかぬまま兄の期待に応えようと、大きなミッションを自らに課すとは思ってもみなかった。
「出陣のときは絶対に私を伴いください」
 絶対に勝頼を一人で出陣させない。勝悟は出陣の条件として、勝頼に同意を求めた。
「勝悟がおれば、心強いな」
 勝頼は強がることなく、素直にそれを受け入れた。


 出陣の機会を冷静に窺う勝頼は、敵方のある習慣に気づいた。毎日昼過ぎに武田の陣を偵察に、五名の斥候が近くまでやって来るのだ。こちらが城を遠巻きに包囲するだけで攻めて来ないので、こちらの意図を確かめようと始めたのだろうが、一向に戦いが起こらない日々に慣れてしまって油断が見える。
 それを討ち取ることで、敵にプレッシャーをかけようという狙いだった。
 勝頼からそのことを打ち明けられた勝悟は、すぐに強襲部隊を編成しようとした。

「強襲部隊はいらぬ。お前と私の二人でやる」
「なぜでございます。数は多い方が間違いはございません」
「いくら油断が見えるといっても、敵陣近くだから大人数が向かっていけば、察して逃げるだろう。そして二度と機会はやって来ぬ。だから二人で行くのだ。隙をつけば、二人で五人は倒せる」
 勝頼は何が何でも斥候の将の首をあげる覚悟のようだ。
 反対したら一人で行きかねない。
 勝悟は覚悟を決めてより確実な方法を考えた。

「それでは、待ち伏せしましょう。斥候が来る半刻前に付近に隠れて敵を待ちます。敵が通り過ぎたら、後ろからまず弓で最低二人、できれば三人討ちます。それから打って出て二人を倒します」
「弓で二人仕留められないときはどうする?」
「逃げます。これを不意を突くことが強襲の前提となっています。弓で討ち取れぬ敵を、五人も相手にできる道理はございません」
 勝悟は譲らなかった。勝頼も相手の油断につけこむことをベースに、この強襲を考えたことを思い出し、勝悟の意見に同意した。

 次の日、二人はこっそりと陣を抜け出し、いつも斥候が来る場所で待ち伏せた。古来から待ち伏せとは忍耐との戦いである。気配を消すために雑念を捨てて、ひたすら自然と一体化する。例え蛇がすぐそばを通り過ぎても、心は無のままであらねばならない。

 半刻がすぎた。いつものように五人の兵が斥候としてやってきた。真ん中に将らしき男を挟み、前後二人の隊列で進んで来る。敵が二人の隠れている場所を通り過ぎるとき、勝悟の平静を保つ努力はほぼ限界に達していた。
 それでも五人の敵は気づかずに前進する。勝悟は一つの関門を潜り抜けたことを理解した。隣の勝頼と目配せして弓を構える。
 勝悟の弓は小助仕込みだが、人を射るのは初めてだった。
 可能な限り心を落ち着けて、ゆっくりと弦を引く。
 先に矢を放ったのは勝頼だった。続けて勝悟も弦を離した。
 武気が籠った矢が二本とも敵に命中した。
 勝頼の矢は胸に、勝悟の矢は腹を射ぬいた。武気が込められているので、矢が当たった場所が破裂し、肉が飛び散り血しぶきが上がる。続けて二射目を射たが、今度は警戒されて身を伏せてかわされた。

 とりあえず二人を倒した。
「ウォー」
 勝頼が雄叫びをあげて背中の刀を抜いて、敵に向かって走った。
 すぐに勝悟も続く。
 距離は十五メートル。三秒後に勝頼の太刀が将目掛けて振り下ろされた。将は手に持った槍で受けることも忘れ、そのまま肩口から斬られた。
 前にいた郎党が反応して、勝頼目掛けて槍を突き出す。これを勝悟が刀で跳ね上げて、そのまま首筋を斬った。こちらも血しぶきをあげてゆっくりと崩れ落ちる。
 残るは一番前を進んでいた敵が一人だけだ。
 二人は左右から敵を挟んで間合いを詰める。早く倒さないと、敵の増援がやって来る。
 勝悟が夜盗を切り倒した必殺の一撃を敵に対して放つと、なんとこの敵は紙一重で交わしてカウンターの斬撃を勝悟に放つ。
 すんでのところでこれをかわしたが、勝悟の身体のバランスが崩れる。敵の第二撃が振り下ろされたとき、勝頼の横振りが敵の胴に払われた。
 敵は攻撃を止めて刀でこれを受ける。
 勝悟は体制を整えて再び敵の肩口に太刀を振り下ろした。
 肩口から真っ二つにしたように見えたが、なんと敵はこれもかわして二歩後退した。

 敵の来襲の気配がする。
「勝頼殿、首を早くお取りください」
 勝悟が残った敵をけん制しながら、勝頼に退却の準備を促す。
 敵はそれ以上戦わず、じりじりと後退し増援を待つ。
「勝悟、取ったぞ」
 勝頼が取った首を高々と掲げる。
 勝悟もじりじりと後退しながら、勝頼に囁く。
「十分です。逃げましょう」
 勝頼も心得て味方の陣に向かって走り始めた。
 勝悟は敵の追撃を警戒しながら、後ろ向きに後退していくが、敵は追撃などする素振りもなく、あっさりと逃げ始めた。

 三百メートル先に、敵の援軍が五十人ばかりこちらに向かって来るのが見える。勝悟も懸命に味方の陣に向かって走り始めた。

 三十分は走ったか。なんとか味方の陣に駆け込んだとき、勝悟はへとへとになって、地面に大の字になって倒れた。勝頼も膝をついている。
 勝頼の姿を見て、味方が何事かと集まってきた。
 集まった者たちに勝頼が敵の首を掲げて、自分たちの手柄を叫んだ。
 その無事な姿を見て、勝悟は初めて自分の役目を無事果たせたとホッとした。
 頭の中にはあげた手柄のことよりも、一人討てなかった敵の姿だけがあった。
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