□ 四十一歳 冬④ その1.5

文字数 4,271文字

「近藤さん、今日の陽性者にコウノさんっている?」
「コウノさん? いなかったと思いますけど」
「だよねぇ」
 他区の患者と勘違いしているんじゃないの? 時々区境に住所がある人が、間違って藤野区に連絡が入ることがある。またそのパターンじゃないか? それだったら管轄保健所に早く連絡してあげなければ。
「センセー、コウノさんって、河野涼成、涼しいに成功の成?」
 奥井さんが大きな声て言う。この人はいつでも声が大きい。
「漢字なんか分からないけど、そう、コウノリョウセイ、って言ってたかな」
「ここに、発生届ありまーす」
「は?」
 奥井さんの姿を探すと、庶務のFAXの前に立っている。
「さっき来たっぽい。送信時刻が十七時二十一分になってる」
「……どういうこと」
 今日、陽性になったと連絡が、お母様のところに来たのはいつ? ついさっきじゃないよね? ……繋がってないって、何分くらいよ。
「まあ、諦めて、一報しとこうか」
 主査が妙に嬉しそうに言う。
「ってコトで、私は帰ります、オツカレーっす」
「は? ダメだよ、とりあえず、電話が繋がるまでいてもらわないと」
「先生いるからイイじゃん」
「ダメ、管理職が誰もいないのは困ります。万が一の時、方針を決めるのは管理職の仕事でしょ」
「先生でいいって」
「ダメです、私はアドバイスするのみ」
 今日は所長が一日休暇だったし、課長は課長会で中央区へ行ったきり、直帰している。保健看護主査と私だけでは何も決められない。
「大丈夫って、どうせ電話繋がるって」
「分からないでしょ」
「……先生、主査、まずは電話してみた方が早くないです?」
 二人の不毛なやり取りを見て、呆れたように近藤さんが言った。
「……お願いします」
「了解です」

 結果は、アウトだった。五分毎に三回かけて本人に繋がらない。
「主査、帰ってはダメでしたよ」
「えー、今日、子どもと遊ぶ約束してるんだけどー」
「そんなの明日にして下さい」
「えー、明日は当番だもん」
「ああ、明日の管理職当番は主査なのね」
「子どもとの時間、大切だよー」
 嘘つけ。どうせゲームに明け暮れるクセに。子どもだけゲームやるのとほとんど違いがない。
 ウチは子どもなんか完全放置なんだから、と思いながら、違和感を感じた。
 ああっ、今日って……慧が、来る日だったのでは……。
「……完全に忘れていた……」
「先生、河野さんどうします?」
 残ってくれていた佐藤保健師が発生届をピラピラさせながら聞く。
「もう、明日で良くないです?」
「ちょっと待って、重要な電話したらすぐ戻る」
 私はスマホを握りしめて、所内を出た。

 電話をしている姿を万が一にも職員に見られないように、一階まで階段を駆け下り、夜間出入り口を飛び出した。駅とは逆方向に歩きながら、スマホの画面を初めて確認する。
 慧から電話が五回も掛かってきていた。ショートメッセージもたくさん。メッセージを確認する時間さえ勿体ない気がして、見ずに電話をかけた。
「も、もしもし、私ですけど」
「あゆ、忙しそうだね」
 どうして分かる。
「無理だったら、いいよ。金曜だし、忙しいよね……」
「い、いや、入院、緊急入院になった患者がいて、ちょっとバタバタしたっていうか、だ、大丈夫、あ、もう少しで帰る感じ」
 本当か? こっそり自分にツッコミを入れたが、つい、調子の良いことを言いたくなってしまう。
「もう、帰れるから」
「そう? 無理しないでね、私には時間がたくさんあるし」
「うん、大丈夫」
 慧の言葉に何か引っかかるものを感じたが、何が気になるのかは分からない。とにかく、急いで終わらせよう、と気合を心の中で入れて、電話を切った。

 所内に戻ると、空気が重かった。
「お母様にお電話してみたんですけど、とてもとても混乱していらっしゃって」
 近藤保健師が、私の姿をみつけるとすぐ、そう言った。
「保健所に見に行けって言って、きかないんです」
 佐藤保健師も不満そうに言った。
「……で、結局、どういうこと」
「どうもこうもありませんよ、センセ。何度かけても河野さんはお電話にお出にならないし、また番号違いかと思ってお母様におかけしたら、ヒステリックにパニックを起こしておられて」
 近藤さんが新規カルテを作りながら言った。
「保健所の職員に、息子の様子を見に行けっておっしゃって」
「……一人暮らし? ごめん、まだ発生届もちゃんと見てないんだ」
「一人暮らしらしいです。お母様がおっしゃるには」
「さっきから、そのロボットみたいな話し方、どうしてなの」
「とてもとても疲れたからです。身も心もボロボロですセンセ」
 所内では二番目に若い保健師なのに、何を言う。私だって身も心もズタボロだ。
「先生、見に行くかどうか、早く決めて」
 主査が言う。未だに自分のリュックを背負ったままだ。いつでも帰れるようになっている。
「主査、その帰る気満々モードは解除して下さい」
「えー、じゃあまだ何かするのー」
 主査の抗議は無視して、発生届を確認する。
 河野涼成、二十五歳、男性、会社員。症状は発熱、咳、咽頭痛。PCRで陽性となっている。あれ、検体取ったのが今日で今日結果? 榎クリニックってそんな事出来たっけ?
 時計を見る。まだ十八時過ぎ。夜診の時間内だ。クリニックに電話繋がるかもしれない。
「榎クリニックに電話してみる」
「先生、急いでね、早く帰らないと子どもが」
「ムリ、諦めて」
「えー」
 主査の不満顔を見ながら、榎クリニックへ電話をかける。やはりすぐに繋がって、可愛らしい声が聞こえた。
「はい、榎クリニックです」
「あ、お忙しいところ申し訳ありません、藤野保健所、感染症担当、堀川と言いますが、先程頂いたコロナの発生届について伺いたいことがあるのですが」
「はい、少々お待ちください、院長に替わります」
 ほとんど待たされずに、電話口に感じの良い男性の声がした。
「榎です」
「藤野保健所の堀川です。先生、先程は発生届、ありがとうございました」
「あー、河野さん、何かあった?」
「え? 何かとは」
「午前の早い時間に検体取ってね、検査センターの回収に間に合ったから持ってってもらって、さっき結果返ってきたんだけど、結果を伝えたら、泣いちゃって。保健所にも何か言ったの?」
「いえ……電話が繋がらないんです」
「あれ、そうなの? ほんの一時間前は掛かったよ?」
「電話番号確認させていただいてよろしいですか?」
 電話番号を確かめても、間違っていない。
「先生、何か気になる様子はありませんでしたか?」
「いや、うちは検査しただけだから、レントゲンも取ってないし、バイタルも見てない。ただ元気そうに見えたんだけど」
「そうですか」
「若い子は、コンビニとか行ってんじゃないの? それか、スマホほっぽって遊んでる」
 ……ゲームとか?主査みたいに?
「また、繰り返し電話してみます。お忙しいところ申し訳ありません、ありがとうございました」
 あ。電話を切った直後に基礎疾患について聞くのを忘れていたことに気づいた。慌てて再度電話する。
「何度もすみません、藤野保健所の堀川ですけど」
「あら、院長、今診察に入ってしまいました」
「いえ、看護師さんでいいんです。さっきお聞きした河野涼成さんの基礎疾患、何かあるか知りたくて」
「じゃあ、ナースに替わりますね」
 また、ほぼ待たずに電話の保留メロディが途切れた。
「はい看護師の山根です。河野さんですね……あー、この方、ウチに来院したのは初めてみたい。基礎疾患なんかの情報が何もないわ」
「そうなんですね」
「でも、ちょっと気になることがあって」
「何ですか?」
「検査終わって、帰る姿を見てたんだけど、乗ってきた自転車を押して帰ってたの」
 山根さん、ナイス、なんて素晴らしい看護師だろう。めちゃくちゃ重要な情報だ。
「自転車押して帰るってことは、乗れないくらい倦怠感が強いか、呼吸が苦しかったってことですよね?」
「そうかなって思って、先生にはお知らせしようと思って」
 ……ん? なぜ私が医師だと知っている? ……ま、いいか。
「で、ついでにお聞きしますが、河野さんの体型ってどんな感じでした?」
「うーん、ラグビー選手が不摂生してるような」
「つまり大きな人なんですね?」
「そうね」
 ハイリスク者だ。年齢から考えれば、明らかな基礎疾患はなくても、BMIが高い男性であれば、十分リスクがあると思わなければならない。
 しょんぼりしている主査に言った。
「主査、所長に連絡して下さい、河野さんの家に行きましょう」
「えー、若い人なんでしょう、何で行く必要があるの、山田さんみたいに元気だって」
「山田さんは電話番号が違っていて繋がらなかった。でも今回の河野さんは違う。午前中の時点ですでに症状は悪くなっていたと思われる。しかもハイリスク者」
「だから」
「いいから、所長に、訪問して、万が一の時は警察とレスキュー呼ぶ可能性があることを申し上げておいて下さい。私は河野さんのお母さんに電話してみる」
 絶対先生の妄想だって、とブツクサ言う主査が更に何かを言いかける前に、私はさっきのメモを取り出した。走り書きが絡れすぎて、自分でも書いてある数字が判別しづらい。近藤さん、よくぞ読み解いてくれたものだ。
「あ、突然のお電話申し訳ありません。私、藤野保健所の医師の堀川と申します。河野涼成さんのお母様でしょうか」
「ああ、涼成は無事でしたか?」
「いえ、その事でお母様にご相談がありまして。これから私共で涼成さんのお宅へ伺うつもりなのですが、その時にご家族のどなたかにお立ち合い頂きたいのですが。万が一、私達の訪問に応答がない場合、お部屋の鍵を壊して確認する事がございますので」
「いえ、無理なんです!私は長野市なんです」
 なんて事だ。ここまで何時間かかるか・・・。
「どなたか仲杜市にお住まいの方は」
「いませんよ、涼成は転勤で仲杜に引っ越したばかりなんです」
「そうですか……、ではもし涼成さんが応答されなかったら」
「カギを壊して下さい、私が責任持ちますから」
「では、もう一つ。涼成さんは何か持病ってありましたか?」
「子どもの頃、喘息で、少し治療しました」
「最近は」
「血圧が高いって、この歳で治療になりそうだって、言ってたような」
「タバコは吸われますか?」
「いいえ、酒もタバコも無縁のはずです」
 親子のコミュニケーションがしっかりとれている人で良かった。これだけ分かれば十分だ。
「分かりました、ありがとうございます、また何かありましたらお電話致します」
 やっぱり家族は大切だ。こんな時、つくづく思う。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み