□ 二十二歳 春①

文字数 3,574文字

「アイさん、こんな時間にすみません!!」
 ぼんやりテレビを見ていたところを、けたたましい携帯電話の着信メロディで現実に引き戻された。電話を受けた途端に、真子の悲鳴のような叫び声が耳の中を駆け回る。
 思わず時計を見た。十一時前。金曜の夜としても遅い時間だ。
「どうかしたの?」
「あの、舞がちょっとおかしくなったんです、あの、舞んち来れませんか?」
「え……いいけど」
「ぜひ来てください、私達だけじゃ……不安で」
「う、ん……分かった」
 のろのろ立ち上がる。もうすっかり寝る支度してしまった。私は部屋着を脱いでニットのチュニックと裏起毛のデニムという寒さ対策バッチリの格好に着替えて部屋を飛び出した。三月とはいえ、この時間はまだまだ物凄く寒い。
 自転車に乗ると舞の家へ向かう。舞は少し離れた隣の町との境に住んでいる。自転車で十五分はかかるが、今夜はあっという間だったように感じた。
 舞のアパートの前に自転車を停めると彼女の二階の部屋まで外階段を駆け上がる。ドアの前にリアが立っていた。寒いのになぜ中に入っていないのか。
「良かった、アイさん来てくれたんですね?」
「何があったの? リアちゃん、何で外?」
「出て行けって舞に言われちゃって……私が失言したからだけど」
「ん?」
「とにかく、中入って下さい」
「貴方もよ」
「ええ」
 リアとともに舞の部屋の狭い玄関を通り、リビングダイニングとして使っている板張りの部屋に入る。
「な、ど、どうした……」
 上手く言葉が出てこない。部屋の中は泥棒が家探ししたみたいにぐちゃぐちゃになっていた。
「舞が暴れたんです」
 真子が疲れ切った顔と枯れた声で精一杯言った。
「どうして?」
「だってええええ、ああああああああああああ」
 舞が大声で泣き出した。冷えた床の上に座り込んで、時折床を叩いて泣いている。何だ、これ?
「あの……ちょっとこっちで話しませんか?」
 リアが舞がベッドを置いている隣の部屋を示した。私と真子は舞を蹴飛ばさないように注意しながら、部屋を移動する。
「何があったの? あれ、どうしてなの?」
「……実は……その」
 真子が言いにくそうにする。リアが後を引き取ってずばりと言い放った。
「大原さんが今日の昼頃、新棟の三階から飛び降りたんです」
「は?」
「大原さん、あの舞が憧れてた、あの男ですよ。なんか知らんけど、部活の様子を覗きに来てたらしいんだけど、その後、会議室のベランダから飛び降りたんですって」
「……なぜ?」
「知らないですよ、そんなの。ただ、今日試験休みだったじゃないですか? ほとんど学生はいなかったらしいです。オケ部が楽器のメンテに来てたくらい? よく分かんないけど」
 リアが淡々と話すのを真子が続ける。
「今日、陸部は部活あったんですよ。で、たまたま舞達がその現場を見たらしくて」
「でも新棟だから下は植え込みガッツリビッシリ植ってるでしょう? だから大怪我くらいで死んではないらしい。大体、本気で死ぬなら三階じゃダメだし。明らかに頭おかしくなってんですよ」
 リアが吐き捨てるように言う。彼女は元々大原さんがあまり好きでなかったことを思い出す。なんかネチっとした雰囲気が気色悪い、と常々言っていた。
「でも、どうして……」
 私の頭の上を言葉が通り過ぎて行く気がした。全然理解が追いつかない。でも言葉が口から漏れてしまう。どうして、そんなことを、あの大原さんが?
「多分……ウワサだからホントか分からないですけど」
 真子が急に小声で言う。
「大原さん、この間、卒業式の後、飲酒して自損事故起こしてるらしいですよ? だからじゃないかな」
「自損事故如きで自殺未遂? 本格的にどうかしてんじゃないの?」
 リアが吐き捨てる。
「それくらいしか、理由ないじゃんね? だって、大原さん、めちゃ賢いし、阪大の医局決まってたし、他に悩むことなんかないじゃん」
「事故の後遺症で精神病んだのかもね」
 リアが冷たく言って、それっきり二人は黙り込んだ。
「で? 舞が泣いているのは現場を見てしまったからなの?」
 私の問いかけに二人は同じスピードで首を縦に振る。
「そうなのね……それは辛いね、自分の好きな人のそんな場面……」
「好きっつっても、芸能人に憧れるみたいな、そんな淡い気持ちだったんだから泣くようなことじゃない、アホらしい」
「しーっ、また舞の神経を逆撫するようなコト言って……リアはそうかもしれないけど、やっぱり舞みたいな子はショック受けるよ……」
 真子は眉を顰めてリアをたしなめ、私に尋ねる。
「ねえアイさん、なんか舞を落ち着かせてやって下さい」
「えー……出来るわけない……」
 私達三人は完全に途方に暮れてしまって、そのまま黙り込んで時間を過ごした。
 結局、その夜は舞の家に泊まり、翌朝、私達は後ろ髪を引かれながら帰路についた。本当は舞が後追い自殺未遂でもやりかねないから心配だったが、舞が帰れと強く拒否して、私達を追い出してしまったのだった。
 途中まで一緒に歩きながら、私達はくたびれ果てて繰り返し欠伸の応酬をしていた。
「舞、大丈夫かな」
 思わず呟いてしまう。
「大丈夫だと思うしかないですよ……月曜、舞、バイトで会うから、その時の様子、またメールします」
 リアがそっと答えてくれて、私はまた欠伸で返事した。
「……え? バイトしてるの?」
「ええ、塾のテストの採点バイト。時給安いんですけどね」
「舞の親戚がやってる個人塾なんです……だから時間も融通利くしって……コピー機も使い放題だし……」
 リアと真子がぼそぼそ言う。
「そうなんだ……」
「アイさんもやりますか?」
「いや……エンリョしとく……」
「ハハハ、まあ、テイのいいボランティアですからね」
 ホント、三人は仲良いんだなぁ……。私はこっそり羨んでしまった。


 じきに春休みに入っていた大学内を密やかに噂が広がっていった。大原さんが飛び降りたのが自殺未遂だったのか、事故だったのか。人気のないキャンパスを警察官がウロウロしていたのもごく短時間だったらしく、事件性がないことだけは間違いないようだった。
 ウワサとは無縁のはずの私も、真子とリアから時々貰うメールで状況が少しは分かっていた。大原さんが飛び降りた理由は色々な説が飛び交っているが、決定的な事実が何もないこと、どうやら怪我はかなりの重傷で、四月から勤務するのは難しいと、阪大の入局を辞退したこと、などなど。実は飲酒運転で裁判所に呼び出されたことを苦にしたのでは、とか、彼女にフラれたことに腹を立てて自殺未遂をしたのでは、とか。学生達の噂話はどれも信憑性に欠け、誰もがどの説も信じていないことは明白だった。
 彼女にフラれた……。彼女って?
 私は、彼女にフラれた当て付けに飛び降りた、という噂を聞いてから、ずっと頭痛に悩まされていた。ちょっと考え始めるだけで目眩と拍動する痛みで、立っていることも出来ないくらいだった。
 大原さんの彼女の存在は誰も知らないと言う。だから真子は、多分誰かがでっち上げた出任せだろうと言っていた。……でも、私は彼女がいることを知っている。
 いや、彼女だろうと思われる人が一人いることを知っている。
 さっちゃんに振られたから? だから、飛び降りたの? 当て付けに?
 それが事実だろうが、ウソだろうが、私には関係ないのに。それでも繰り返し何度も何度も考えてしまう。
 ただ、さっちゃんという存在そのものが私を不安定にする。
 また、さっちゃんのせいで誰かが不幸になったの?


 さっちゃんに連絡してみようかと何度も思った。真相を、きっと彼女なら知っているに違いない。
 でもはっきりと訣別を言い渡した私が、どんな顔、どんな声、どんな文面で彼女に連絡できるだろう。それに……大原さんのことなんて口実で、本当は彼女と再び話をしたい、だけなのかもしれなかった。私は心の底でそれを望んでいるだけなのかもしれなかった。
 私は用事もないのに、時々医学部キャンパスの中を歩いた。どこかで何か噂話を拾えるかもしれない、そんな言い訳を胸に、さっちゃんの姿を求めて彷徨い歩いた。さっちゃんが普通通りの薄い笑顔で過ごしているならよし、もし苦しそうな顔をしていたら、たとえ拒否されても声をかける、そんなことをぐるぐる考えて歩いた。
 結局一度もすれ違わなかった。噂話も拾えなかった。私の思惑は尽く外れ、私はすごすごと部屋に帰るだけだった。
 舞に部活のスケジュールを聞けば確実に彼女に会える。それが分かっていながら、決してそれをしようとはしなかった。私は偶然にかけていた。もし、偶然、さっちゃんに会えたら……そんな幸運に巡り会えたら。私達は、もう一度、元に戻れる、戻ることを許される、そんな風に考えていた。
 そう、私はさっちゃんを取り戻したかった。ただそれだけだった。
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