□ 十八歳 夏

文字数 2,800文字

  あの日から私は、きちんと進藤さんに言われた通りにした。
 講義は端っこの最前列に座り、なるべく目立たないように存在が消えるように、努力した。その席は講義の担当チューターや学生担当の院生が座ることが多いから、必然的に怠けるわけにも、居眠りするわけにもいかなくて、意図せず勉学に打ち込むことが出来た。
 私には勉強する以外にすることがなかったから、大学にいる間は一所懸命講義を受けているフリをした。フリのつもりでもそこそ内容が頭に入っていくから、私はどんどん知識を得ることが出来るようになった。
 教授達の覚えもめでたかった。いつも熱心に聞いているね、と声をかけてくれる先生も何人かいたし、提出するレポートがA判定なのも当たり前だった。
 さっちゃんに嫌われたおかげで、本来の学生の領分を適切に守ることが出来た。
 でも、それが嬉しいとは全く思わなかった。
 私は常に心が冷たく固まっていて、感情を失ってどうにもならなくなっていた。
 テレビを見ても、小説を読んでも、全く内容が理解できない。登場人物の感情が理解できないで話が頭の上を滑って流れていく。つまらないからいつの間にか目にすることも少なくなった。
 学年はおろか学内中に私の噂は広まったようだった。
 アイツは、よりによって佐倉慧に告白して玉砕したらしい。えーレズってこと? そうらしいよ佐倉カワイソウ。
 初めのうちは時々耳に入っていたが、だんだん聞こえなくなった。皆が興味を失ったか、私の耳が受信しなくなったか。どちらでもいい。とにかく私はさらに有名人になった、というだけだ。

 夏季休暇の直前の日、帰り道が宇佐美さんと一緒になった。また、多分、追いかけてきたんだろうと思う。どうしてそうまでして私に声をかけたいのか分からない。
「合原、ちょ、待って。歩くのはえーよ」
「……私に話しかけるのは」
「どうせ誰も見てないって。……そう思ったから、今日声かけた。すまん」
「……用件は」
「俺、喋ってないぜ。ってか、誤解だったんだよな? 俺は誰にも話してない」
「何のことですか」
「ヤマダスーパーで、佐倉と会ってたこと。俺、てっきりお前ら、そういう関係なんだと思って……でも思っただけで、誰にも話してない。それに……いや、何でもない、けど」
「そんな言い訳要らないです」
「それに、俺……佐倉が、合原を好きなんだと思ってた」
「は?」
「そう見えてたってこと。今更だけど、そう思った」
「……」
「じゃあ、それが言いたかった。またな、九月に……馬鹿馬鹿しいから大学辞めんなよ。それだけっ」
 また走り去ってしまった。宇佐美さんはいい人なんだか悪い人なんだか分からない。
 ただ、彼がずっと一貫して変わらないことは間違いない。それが今の私にはとても有り難かった。

 夏季休暇は早々に実家に戻った。部活もない、バイトもしていない私が、厚山に残る理由は何もない。

 考えまいとするのに、つい考えてしまう。実家に戻ってきてから、気が緩んでしまったのか、気付くと考えている。
 宇佐美さんは、佐倉が合原を好きなんだと思った、と言った。……ほら、私の態度がバレてたわけじゃないじゃん。
 宇佐美さんはおそらく繰り返しあそこで喋っている私達を目撃していたはずだ。だから、不審感を持ったんだろう。わざわざキャンパス内でなく、あんなところで喋っているから。
 でも他の学生は私達があそこで喋っていた姿も見ていないし、学内ではほとんど一緒にいない私達だけを見ている。そんな連中が私の気持ちに勘付くはずがない。何度も考えたけれど、絶対にない。
 ……やっぱり、さっちゃんが、自分で話したんだ。誰かに。おそらく大原さん、そうでないなら進藤さん達。さっちゃんが、あの夜私にキスされたんだと話したんだろう。
 実家に帰って、自分の古巣に戻って安全を確保してから、私はずっと考えている。
 どうしてさっちゃんはそんな話をしたんだろう。
 そんなに嫌だった?
 どうして私に直接、嫌だったって言わなかったの?
 どうして自分にもダメージがあるような、こんな方法で私を遠ざけたの?
 ちゃんと言ってくれたら、私、ちゃんと視界から消えるように振る舞ったのに。
 全然分からない。
 さっちゃんにとってどんなメリットがあって、こんなやり方をしたんだろう。
 ……そして、最終通告を、どうして、進藤さんなんかに任せたんだろう……。

 実家は全く変わりなかった。
 相変わらず父は不在がちで、妹も弟もそれぞれの部活や予備校や友人達とのイベントで忙しくしていた。
 実家に篭っていると、私は一人で取り残されることが多かった。私の部屋が離れだからか、私が存在感が薄すぎるのか、いること自体を忘れられていることも多々あった。
 食事は家政婦さんに頼めば、すぐに作ってくれる。母が私の分まで頼んでくれていなくても、たいてい材料は余っていて、私が困ることはなかった。
 実家にいてもすることがない。それでも、妹の秘密の小部屋に近寄ることはしなかった。
 帰省した最初の日に妹からは、自由に使って、と言ってもらっていた。だからといって、今の私の精神状態では時間を潰すことも出来そうになかった。

「お姉ちゃん、結局彼氏はどうなったの?」
 たまたま部活に行かなかった日の夕方、いきなり妹が部屋にやってきた。私は机に突っ伏して寝ていて、ハッとしたときにはすでに妹は勝手に部屋の中に入っていた。
「……勝手に入ってこないで」
「ノックしたけど、無反応だったし」
「無反応なら、入ってはダメってことでしょ」
「違うでしょ、部屋の中でお姉ちゃんが倒れてるかもしれないから、何が何でも入らなくちゃ、でしょ」
「……今後は入らないで。それで死んでも香を恨んだりしないから」
「考えときまーす」
「……」
「で? 彼氏はどうなったの?」
「最初からそんなもんいない」
「え? だってゴールデンウィークの時」
「アンタの勘違い」
「そうは思えないけどなぁ……まだ友達レベルってこと?」
「だから、そんなんじゃない! うるさい、あっち行ってよ!」
「……これは、フラレちゃったのかな?」
「香!!」
 私に致命傷を与えた妹は、ニヤニヤ笑ってやっと部屋を出て行った。
 ホント、クソ。
 マジでサイテー。
 妹にあたってもしょうがないと分かっていても、苛立ちは治らなかった。
 それでも、そんな風に感情が動くことが嬉しかった。それだけで実家に戻ってきた意味があると思えた。
 この場所は何が何でも死守しなければ。それならば、さっさと大学を卒業して、ここに戻って病院を継がないと。でないと、この家も思い出も、全部失ってしまう。
 大学辞めたりしない。辞めて欲しいと誰かが願っていたとしても。いや、そう思われているなら尚更。絶対に思い通りになってやるもんか。
 実家にいるとつい気が大きくなる。おそらく厚山に戻れば、また辞めたいと心が叫ぶに決まってるけれど……。
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