□ 二十一歳 秋①

文字数 2,569文字

「歩、もう忘れ物はない? 全部荷物はまとめた?」
「多分。ま、いいじゃん、忘れた物があったら誰か気付いて連絡してくれるよ」
「もう、しっかりして。自分の荷物なのよ? どうしてそんないい加減なの」
「忘れるってことは、そんな重要なものじゃないってことだよ。なくても構わないってことさ」
 母が怖い顔で睨んでくるけど、知らん顔で受け流す。荷造りなんて最も苦手な業務の一つだ。完璧にこなせるとは思えないし、期待しないで欲しい。
 考えてみたらこの病室に四ヶ月近くも住んでいた。もうほとんど第二の実家になった気分。
 今日、母親が迎えにくることを予想してたのか、加代さんはお休みだ。なぜだか知らないけれど、母と加代さんはお互いに妙に壁がある。私が思い出せない時間の間に何かあったのかしら。ま、母と加代さんでは全てにおいて真逆だから単に馬が合わないだけかもしれないけれど。
 そんなわけで、加代さんは、昨日はしばしのお別れを言いに来てくれて、私が大好きなサンリオキャラクターのぬいぐるみを持ってきた。それは忘れずに鞄の中にしまってある。母に見つかるといい顔をされないから奥深くにパジャマに包んで入れてある。母はキャラクター物などが好きじゃないのだ。自分だって少女趣味のくせに、サンリオが嫌いなんて矛盾してると思うけど。
「じゃあ、歩、車椅子持ってくるから」
「あ、いや、大丈夫。私自力で歩けるよ、もうほとんどふらつかないし」
「ダメ。遅いから。さっさと帰らないと、この後、桂馬の二者面談なの」
「……そんな忙しい時に、すみません……」
「何、急に。歩がそんなこと言うなんて気持ち悪いわね。いいのよ、そんなこと気にしなくても。ママがしたくてしていることなんだから」
「……本当、ありがとう」
 母は上手に肩を竦めて、病室を出て行った。両手に私の荷物を持っていく。多分、車に置いてきて、身軽になるつもりなんだろう。
 私の予想では、誰かお手伝いさんと一緒に来ると思っていた。何なら、病院の若いスタッフにでも力仕事は任せて、のんびりと帰るんだと思っていた。それが母は一人でやってきて、手続きだって荷造りだって全部一人でやっていた。一体母に何があったんだろう。私としてはそちらの方がよっぽど「気持ち悪い」んだけど。
 うちの病院、経営難なのかな。だから人減らしでもしてるのかしら。
 経営難、と考えて、胸の奥がチクッとした。私のせいで悪い評判でもたっているのか? それとも、私の治療費がとんでもなく嵩んで、生活を圧迫しているんだろうか。
 それでも経営難だったら……ちょっと嬉しい気持ちも否めない。私が潰すんじゃなく、父の代で潰れるなら。私の経営手腕が悪いわけじゃない、という未来はとても甘美だった。
「ごめんね、歩、待たせたね」
 母が車椅子と共に戻ってくるまで、私は珍しくぼんやりと窓の外を見て過ごした。
 部屋に入ってきた母は車椅子だけでなく、大きな花束を持っていた。
「どうしたの、それ」
「このお花? あなた宛に病棟に届いていたみたいよ」
「は? 誰がそんなもの」
「知らないわよ、中にカードが入っているから、送り主が書いてあるでしょ」
 母から花束を取り上げて、カードに手を伸ばすと母がピシャリと言った。
「そんなの開けるのは家に着いてからにして。さ、早く乗って。帰るわよ」
 母に車椅子を押させるなんて、どんな罰だろう。あまりに恐縮してしまう。
「ねえ、重いでしょ、誰かに押してもらったら?」
「大した重さじゃないわよ。っていうか、私でも押せるから車椅子でしょ。どんなか弱いお年寄りでも押していける仕組みなのよ、下らないことに気を回さないの」
 生まれてこの方、母が「お嬢様」じゃなかった時はない。今まで箸より重いものなど持たされたことがないはずの母に、力仕事をさせるのは娘としてはいたたまれなかった。
「それより、みなさんが見送ってくれているから、可能な限り愛想よくして。出来ないなら花で顔を隠してよ」
「えー、何それ」
 私は正面玄関に堂々と停めてある家の車に乗るまで、餅つきの杵よろしくペコペコと頭を下げた。

 車には運転手に支えてもらい乗り込んで、母が私宛らしいの花束を持ったまま、隣に滑り込んだ。
「ごめんなさい、このまま西京学園まで行ってね」
 運転手に言いつけると、母は深く溜息をついた。
「香の勉強の邪魔にならないように気をつけてね。みんなそれはそれは、細心の注意を払って暮らしてるんだから。用もないのに部屋から出ないこと」
 それって軟禁状態と何が違うんだろう。私はぞっとした。
「そんななの? 香……」
「精神病になるんじゃないか、ってくらいよ。分かるでしょ。アンタと違って香は決して楽々受かる子ではないから……物凄いプレッシャーなの、受験が」
「そうまでして医学部行かなきゃならないの?」
「……アンタのせいでもあるのよ? 後継は多いに越したことはないし、そもそもアンタの体力で法人の全てを担うことは出来ないでしょ」
「……」
 そうまでして継がなきゃならないの? その言葉が喉の奥を燻ったが、音には出来なかった。
 入院していたからこそ分かることもある。地域のみんなにとって桐花グループは望みの綱なんだ。無くなったらいきなりかかりつけ病院に困る人がたくさん出てくるだろう。私たちには存続させる義務がある。
「……桂馬に、ってわけには……」
「こんなこと、あなただから言うのよ? ……桂ちゃんは、香の何倍も困難なの」
「……」
「転校を先生方から勧められるほど、厳しいのよ」
「……」
 私がのほほんと入院している間に、母には数え切れないくらいのプレッシャーがかかっていたのだと、ようやく気がついた。
 母は桐花の後継者を育てるという最大最悪な義務が課せられているのだ、ずっと。
 ……私が医学部に受かって、やっと肩の荷が降りたはずなのに、また重圧が降りかかってきてきているのだ。それで母も精神的に追い詰められて、余裕がなくなっているんだ……。
 ……でも、私が無事に後を継いだとして、私の次の世代がいるかどうかは、分からないじゃん?
 父のように素直に自分の責務を全う出来るとは、限らないじゃないの……。
 ふっと頭に浮かんだその考えは、私を不安な気持ちにさせて、またふっと消えていった。
 ……私が男の人と結婚するとは限らないよね?
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