□ 四十一歳 冬④ その1

文字数 8,872文字


 一昨日、昨日は何事もなく過ぎた。
 一昨日特別やった事は、感染症診査会の会場設営をしたくらいだ。診査会自体は所長と主査に任せ、私の日常業務は結局コロナ一色。
 あれだけ電話が繋がらなくて苦労した山田さんは、疫学調査にも素直に応じ、本日午後から軽症者宿泊施設に入所が決まっている。気になっていた呼吸苦についても、喉が痛過ぎて呼吸するのも辛い、という事だったらしい。基礎疾患も薬物療法で良好に管理されている。つまり貰った発生届だけでは患者の本当の姿は分からない。
 昨日に至っては、木曜休診のクリニックが多い事もあって、新型コロナの患者発生も少なかった。そう言えば、新たに結核患者が出て少し慌てた。
 高感染性の結核患者は入院治療の対象だが、新型コロナの患者があまりにも多い関係で、病棟が入院受けするのが翌日以降になるなどと言われた。しかし本人とその家族は結核とコロナを混同していて、とにかく隔離をしてくれ、家族にうつると言い張って、説得するのに時間がかかった。
 結核ならば今更隔離したってしょうがない。早く入院させろだの家族の検査をやれだの、まったく、コロナだけでなく結核患者まで手間がかかる。

 今朝は、家を出る前から嫌な予感がした。
 子どもが朝から機嫌が悪く、なかなか登校準備が出来なかった。出勤しなければいけない時間が迫るにつれて、私もどんどん苛立ってくる。お互いに大声で怒鳴り合いながら、出勤するハメになった。
 息子の機嫌が悪い理由ははっきりしている。毎年末恒例の実家への帰省が出来なくなったからだ。コロナ禍だからだって説明したところで聞く耳を持とうとしない。私が休むつもりがないからだと繰り返しなじる。その気持ちはよく分かった。年が明けたら彼は本格的に中学受験モードに突入する。最後の息抜きだと楽しみにしていたのだろう。
 そうは言っても、どうしようもない。私は仕事だし、夫は外資系の会社員で年末年始は考慮されない。そもそも今年はコロナ禍で帰省など自粛しなければならない。

 出勤中に二度も靴を踏まれた。履き潰すつもりのウォーキングシューズでも他人に汚されるのは辛い。今年度いっぱい履けなくては、絶対に困る。とても買い物に出かける時間も勇気もないのだ。
 金曜はいつも途中のコンビニでチルドの甘すぎるコーヒーを買うことにしている。一週間頑張った褒美と、ラスト一日を頑張るための報酬として。しかし今朝はコンビニに寄る時間すらなかった。
 今日は嫌な予感がする。しかしそれを口に出せば、リアルになってしまいそうで、ぐっと唇を噛み締めて溜息をつくことも避けた。

「先生、そう言えば、例のハイランドアパートの人、最近電話してこないね」
 課長が朝から嫌な話題を持ち出す。でも確かに、ここ二日電話がかかってきていない。連絡がないのをいいことにすっかり忘れてしまっていた。彼女は派遣看護師が掛けた健康観察の電話には出ているから、問題ないのだろうけれど。少し気にはなる。
「そろそろ療養解除になりますから、解除後のあれこれの準備の為に動き出しているのかも」
「まあさ、元気なんだったらイイよね」
 ・・・元気でしょう。特別急変するような要素はないし。ふと若年層の急死という単語が浮かんだがすぐに打ち消した。
 本当に独居の患者は怖い。状態が急変した時に、それを探知する人間も手助けする人間もいないなんて、それで在宅療養するなんて、リスクが高過ぎる。そんな人は皆、療養施設に入って欲しいが、独居の人に限って施設入所を嫌がる。
「先生、時間外からのメール早く見て。救急要請した患者がいるよ」
 慌ててメールを確認する。時間外窓口からの連絡メールの送信時刻は午前一時二十三分だ。
 患者の名前は、後藤鳴吉さん、七十一歳、姪とその小学生の子供の三人暮らしだ。
 この佐々木という姪が曲者だった。最初から伯父を入院させろの一点張りなのはともかく、客観的に状態を把握する為に往診を頼めば、『軽症でよかったね』と言った往診医にも食ってかかる。とにかく伯父が家にいれば迷惑だと言わんばかりで、理詰めの説得は困難だった。
 そもそも後藤さんは軽症者だ。現在までの経過では酸素化も充分だし、年齢の割に基礎疾患もない。今でも現役の左官工で、陽性判明する直前まで仕事をしていた。
 感染源は現場監督だとはっきりしていて、現場監督も藤野区民だが、無事に在宅療養を完遂した。それを知っているから、本人も制限の多いコロナ病棟への入院を嫌がった。
 なのに、佐々木さんは繰り返し救急要請して、入院不要として不搬送になる度に保健所に感情的なクレームを入れてくる。
「後藤さんですよ」
「じゃあ、まだ家にいるね」
「今朝は一番に電話掛けしてもらいます」
「そうして。それから先生のところに入院調整グループからクレーム入るかもしれないから、先に電話しておいたほうがいいかもね」
「繰り返し救急要請するから?」
「一日に複数回入電するらしいよ」
「もう、あの姪っ子は無理ですよ」
「後藤さんていつまで解除出来ないの」
「まだ、五日以上残ってたと思う」
「・・・とにかく、先生任せた」
 どっちをだよ。あーあ、朝から重いケースだなぁ。
 入院調整グループの中でも、消防局とのやりとりを担当している職員が、私は本当に苦手だ。医療はよく分かっているのかもしれないが、情がない、患者やその家族に対しても、協働している職員に対しても。
「臼木さーん」
 健康観察の電話を早く掛けてもらうために、本日のコロナ当番を探した。
 もう一日分の体力を使い切った気がする。
 庶務担当の女性が、各クリニックからFAXで提出された発生届の分厚い束を持って、こちらに歩いてくるのが見えた。
 何だ、あの枚数・・・。

「先生、いきなり怒られちゃいました」
「え?姪っ子に?」
「はい。救急隊がおかしいって」
「・・・で、今朝のバイタルはどんな感じ?」
 今日のコロナ当番のリーダーさんは、何かと気弱な人だ。これでは佐々木さんを説得するなんて出来そうもない。一方的にまくし立てられて、ほうほうの体で電話を切った姿が目に浮かぶ。しかし、彼女が電話をかけてくれて良かった。少なくとも、話が困った方向にこじれたりはしていないだろう。
「それが、熱は相変わらず、微熱で37.2、食事も水分も取れていて、電話の向こうで咳が酷いってことはなさそうなんです。普通に会話しているし。でも、サチュレーションが95なんですって」
「えっと、昨日は」
 陽性が判明した時から後藤さんには保健所からパルスオキシメーターを貸し出している。喫煙歴が長く、現在も一日に十本以上吸っていると疫学調査の時に聞き取っていたからだ。
 そしてその数字を健康観察の電話の時だけでなく、姪から架電される度に確認しているが、ずっと97程度はあった。喫煙歴があるのに数値がいいからちょっと怪しんでいたのだが、今日は少し様子が違うのかもしれない。
「救急隊からバイタルの報告ってあった?」
「ないですけど、姪が言うには、夜、救急隊がきた時は、臥位だったらしいけど、93から95だったって」
「それで不搬送になるわけないじゃん」
「でも、佐々木さんはそう言ってますけど」
 95なら中等症Ⅰ度、それより低ければ、喫煙のこともあるし年齢的な問題もあるし、どこかへ搬送するだろう。それが家に置いていったんだから、おそらく姪の思い違いに違いない。
「まあ、それでも、一応、入院調整には電話しておくか。サチュレーションが少しずつ下がってきているしね」
「じゃあ、カルテ置いておきますね」
 臼木さんはカルテを私の机の上において、さっさと次の業務に取り掛かった。

 入院調整の担当者には二回かけて二度とも繋がらなかった。今日は調整が必要なケースが多いんだろうか。折り返しの電話をお願いするが、どうせかかって来ないだろう。忙しすぎて伝言は、ほぼ伝わらないと思った方が良い。
 また十分後くらいに掛けようか、と思って別の患者のカルテに手を伸ばしたところで、目の前の電話がなった。
「はい、藤野保健所です」
「ちょっと、イイ加減にしてよ?後藤さん、何度言ったら伝えてもらえるの。下らないことで救急に電話かけてこないよう、指導しろって言ったでしょうが、馬鹿なの?」
「誰が」
「藤野区が」
「・・・すみません、姪には改めて電話して、まずは保健所に電話するように言います」
「今度かかってきたら、後藤家は着信拒否だかんね」
 そんなこと出来るわけないだろう。アンタこそバカじゃないの。
 受話器を取った途端に、野太い男性の怒鳴り声がして、思わず切りたくなった。入院調整の戸川係長だ。元々救命士から叩き上げてきた現場主義の人だが、コロナの患者の救急搬送依頼などをスムーズに行うために、感染症対策室へ異動となったらしい。
 彼としては感対室への異動は左遷のようなものなのかもしれないが、いくら何でも暴言が酷すぎる。
 大体、私だったから良かったものの、電話を取ったのが派遣職員だったら、どうするつもりだ。即パワハラ認定だよ。
「で、アンタ堀川さんでしょ」
 はあ。返事する気もしない。
「昨日の夜、後藤さんはともかく、浪岡さんも救急要請してきたよ?浪岡さんにはちゃんと指導してあるんでしょうね」
 何の話だ?ナミオカさん?その名前に覚えがない。
「ナミオカさん・・・それって藤野区の患者さんですか?」
「そうだよ、浪岡俊樹さん、SpO 2、97で電話してきたよ?」
「サチュレーションが全てじゃないでしょ」
「ん?ナニー?」
「いえ、何でもないです。ナミオカさんは・・・まだ指導してないかもです」
「ちゃんとしてくれなかったら、藤野区は救急車使わせないよ」
 だから、アンタに何の権限があるんだよ、まったく。
 物凄く不愉快な気持ちで電話を切ったが、知らない名前に不安にもなった。そんな患者いたかな?把握漏れじゃないよね。私、昨日全ての患者カルテ見てるよね?自分が全く信頼できない。
「先生、戸川さんにやられてんじゃん」
 主査がニヤニヤしながら言う。本当にイヤな顔だ。今度は問答無用で主査に替わってしまおう。
「相手を確かめずに怒鳴るのはやめさせてよ」
「無理だろ、感対の暴れん坊なんだから」
 そんな人を使うなよ。
「でもさ、主査、ナミオカさんって名前に覚えある?」
「んあ?昨日の陽性者?」
「知らないよ・・・知らないと思う」
 ふと、思いついて机の上に置きっぱなしになっていた今日の陽性者の発生届を見る。上から三枚目に、浪岡俊樹の名前が。今日発生届出てんじゃん。そんな人知るか。
「ここにあった」
「え、今日の発生届?」
「ってことは、昨日、救急要請した段階では疑似症患者だったわけじゃん。そしたら保健所は指導もへったくれもない。まだ電話で話してないんだから。もー、怒鳴られ損じゃん」
「・・・先生が珍しく怒ってる」
「はあ?」
 私はいつも怒ってるし苛々してるっての。
 私は、感情が表に出ないのが短所でもあるが長所でもある。少なくとも女の多い職場では長所だ。いつも感情的になる相手には、こちらは無感情で対応するのが得策だ。
 ただ、残念なことに意図的に平静を保っているのではなく、どんなに頑張っても感情が表に出ないだけで、心の中はいつだって嵐が吹き荒れている。

 午前中は、戸川係長への怒りで時間を忘れ、ここ数日の患者数を足してもまだ余るほどの数の新規患者の発生届に目を通したり、全身状態が心配な患者を提携医療機関へ受診させたり、午前中に電話掛けしてもらった患者のカルテをチェックしたり、とても慌ただしく過ぎた。

 午後の業務も残念な報告で始まった。
「先生、また後藤さんの同居人が電話かけてきました。入院どうなったのかって」
「あ、まだ本庁に言ってない」
「今もサチュレーション、95ですって。ただ、熱が七度後半になってきてるみたい」
「ちょっとイヤな感じだね」
 そう言えば、入院調整グループには繋がっていないままだった。酸素化が悪くなってきているならば、肺炎が進行している可能性がある。熱が上がってきているし、入院調整を始めてもらおう。私はもう一度入院調整の担当へ電話をかけた。
「藤野保健所の堀川です」
「戸川だけど。ナニ、今度は何の用?」
「あ、入院調整の件で」
「だから何、誰、早く言ってよ」
「・・・後藤鳴吉さん。サチュレーションが下がってきてて」
「夜は96あったんでしょ」
「救急隊がそう言っているの?」
「そうだよ、SpO2は96、熱が37.2、呼吸数が30」
「過換気じゃん」
「体が辛かったら、少しくらい呼吸数は増えるでしょ」
「・・・とにかく、山本先生か進藤先生と話をさせて下さい」
「えー、山本先生は今、県との会議で不在、遠藤先生は・・・いるか。分かった、ちょっと待て」
 二分ほど保留のまま待たされて、私が戸川さんの嫌がらせ説を信じそうになった頃、やっと入院調整グループの医師、遠藤稔と話すことが出来た。彼は根っからの公衆衛生畑の人で、初期研修以来、このコロナ禍までほとんど臨床を経験していない人だ。遠藤先生に話して、果たして私の危機感が伝わるだろうか。
「はい、お電話替わりました、遠藤です。先生、お久しぶりですー」
「お疲れ様です。で、先生、藤野区の後藤鳴吉さんなんだけど」
「ああ、何度も救急に電話かけてるおじいさん」
「いや電話してるのは姪っ子なんだけど、それは置いといて、昨日の夜から状態が急変しているかもしれなくて」
「急変ですか?」
「深夜に救急隊がバイタル確認した時は、サチュレーションは96、でも呼吸数が30もあって、今朝からずっとサチュレーション95なんだけど」
「他は?」
「熱が37.7、食事が取れない、水分飲めない、らしい」
「また姪っ子が大袈裟に言ってる可能性は?」
「健康観察の電話は本人が出ているよ。ねえ、入院を検討して下さい」
「うーん、そうは言っても、もうだいぶ埋まってきてるからなぁ。ま、一旦検討して、また先生にお電話します」
「宜しくお願いします」
 あまりに頼りない気がするが、今は返事を待つことしかできない。ただ、良いのか悪いのか、余程の時には、姪っ子は保健所の返事など待たずに再度救急要請するだろうから、在宅で放置される心配はない。

 遠藤先生からの電話はいつまでも掛かって来なかった。結局検討すると言って、後藤さんだしイイや、と思われているのだろうか。これだから、軽症なうちに何度も救急車を呼んではダメなんだ。まるで狼少年のようだ。
「先生、今、臼木さんが姪っ子の佐々木さんと電話で話しているんですけど」
 近藤保健師が私に駆け寄ってきた。
「なんか、SpO2がまた下がったらしい、93とか言ってます」
「ウソ、まさか」
 この疾患は悪化し始めると時間単位で進行することがある。それはここ数日の感覚だったが、第二波に比べて、状態が悪くなる人が多い気がした。
 派遣看護師の奥井さんも大声で私を呼ぶ。彼女は臼木保健師の隣で電話の内容に聞き耳をたてている。
「センセー、なんか姪っ子が慌ててる、救急車呼ばれるかも」
「え、ちょっと本庁に電話するわ」
 入院調整はどうなっているのだ。また、彼女は救急車を呼んでしまう。
「お忙しいところすみません、藤野保健所の堀川ですが」
 電話に出たのは山本先生、新型コロナ感染症対策室の医務主幹だ。対策室の医務の統括をしている。同期入庁なのに、かなりの格差だ。しかし彼女が電話に出てくれたのは心強い。
「あ、先生、お久しぶり」
「あの、ちょっと前に遠藤先生にお願いした後藤さんなんですけど」
「ああ、少し悪化してきたかもって」
「今、また姪から電話あって、SpO2が93だって、多分呼吸苦があるのか姪がパニックになってて、また救急に電話してしまうかも」
「熱は?」
 あ、カルテがない。思わず大声で叫ぶ。
「奥井さーん、鳴吉さんのカルテくれー」
「センセー、ここに」
 奥井さんがカルテを持ってきてくれる。
「熱は、今、八度一分」
「呼吸数とか、分かんないか」
脈拍(レート)が130、熱が上がってきてるし、酸素化も悪くなってるし、同居人がパニクってる。救急車呼ばせていい?」
「先生まで慌ててるんじゃ仕方ないね、ベッド調整急ぐから、姪には呼んでいいよって言ってあげて。後は救急隊とこっちでやり取りするね」
「有難うございます」
 電話を切った途端にまた大声を出す。
「臼木さーん、呼んでいいよー」
「はーい」
 急に全身から力が抜けて、私は椅子に座り込んでしまった。・・・疲れた。

 とりあえず、後藤鳴吉さんの件は片付いて、所内にはまた落ち着きが戻った。ふと壁の時計を見ると、十七時四十分、そう言えば、終業のチャイムに気付かなかった。
「先生、時間外から、電話」
 電話を取った主査が子機を押し付けてくる。
「私に?」
「そうに決まってんじゃん」
 決まってない。
「はい、堀川です」
「あ、時間外窓口の斉藤です、お疲れ様です」
「お疲れ様です・・・」
「藤野区の患者様から、状態悪化のお電話がありましたので、かけさせていただきました」
「はい」
「堀川さんが担当だって患者さんが言っていたのですが、患者さんのお名前が、内藤麻美さん」
「は?」
「昼過ぎから息が苦しいとのことで、手持ちの吸入ステロイドを吸って様子を見ていたが、どうも良くならないとのことで、こちらに相談がありました」
「当たり前でしょ、何それ」
「なので、至急のご対応をお願いしたく」
「わかりました、こちらから電話してみます、有難うございました」
 思わず、早口になってしまった。いいかげんに喋って相手の反応も聞かずに電話を切る。
「センセー、どうしたの?」
「内藤麻美が息苦しいって」
「ん?誰」
「ハイランドアパートの愛人」
「ああ、先生に何度も電話かけてきてた」
「昼過ぎから呼吸苦」
 で、吸入ステロイド?喘息じゃあるまいし、効くわけないだろ、何考えてる?・・・これが一般人ということか。そもそも吸入ステロイドは「喘息発作が起きていない状態を維持するための薬」であって、発作が起こった時に効果を発揮する代物じゃない。本当に何をやっているのか、ああ、彼女の主治医はきちんと疾患教育しておいて下さい、こんな時、手遅れになるから!
「ごめん、臼木さん、内藤麻美のカルテ貸して」
 リーダー保健師を探すが姿が見えない。
「先生、白木さんは帰りましたよ」
「え、今日の当番じゃないの」
「彼女は育児時間だから」
 子どもが幼い間に認められている勤務時間短縮制度だが、いくらなんでもコロナ当番の日も早帰りするか?
「私が引き継ぎますから、内藤さんね、ちょっとお待ちになって」
 近藤保健師が、まあまあ、と私の肩を叩いて離れていった。いや、ちょっと待って、十歳以上年下の保健師に慰められる私って・・・どうなんだろう。
 近藤さんが持ってきたカルテを見ながら、内藤麻美に電話をする。そう言えば、私から掛けたことはなかった。
「・・・はい」
 ほとんど声になっていない。これは、ヤバイ。
「藤野保健所の堀川です、内藤麻美さんだよね、息苦しいって聞きました、ねえ、内藤さんに指に挟んで酸素測る機械貸してあるでしょ、測って欲しいんだけど」
「90」
「こっちで救急車呼ぶよ、玄関、開いてないでしょ、鍵壊すよ」
「開ける」
「無理だったら諦めなさいよ、鍵くらい。元気になったらまた聞くけど、いつからこんなだったのか。まず今は、救急隊が行くから、貴重品だけゆっくり準備してよ」
「う、ん」
「じゃあ、後は救急隊に任せるからね、じゃあ」
 クソ、サチュレーションが90!若い女性、喫煙歴もない人が、いつからこんな状態だったのか。電話してきてなかったのは、悪化してたからなの?もう。
「私、救急車呼びますから、主査、本庁に電話」
「またぁ?」
「SpO2、90」
「あー、みんな悪化するのは絶対金曜だよねー」
 知らん。でも、これが土日じゃなくて良かった。土日だったら入院受けてくれる医療機関が格段に減る。

 消防へ電話をして、保健所が知りうる限りの内藤麻美の情報を伝え、主査が押し問答を続けている電話を替わった。電話の向こうは戸川係長。
「また藤野区なの」
「そうです、今度は喘息持ちの本当に家で頑張ってしまったケースです、ベッド宜しくお願いします」
「挿管希望なの?」
「三十一ですよ、当たり前じゃないですか」
「今日の三次の当番、さっき中央区の患者を取ってもらったばっかりなんだけど」
 そんなこと知ったことではない。でも、三十一歳の若い人を高度医療に繋げないなんて有り得ないだろう。無理にでもお願いするのが本庁の仕事だし、無理にでも入院受けるのが医療機関の役目だろう。
「もう救急車、現着してるから、仕方ない、無理にねじ込むから、これ、堀川さん、貸しだから」
「・・・はあ」
 信じられないことを言う。まあ、何でも良い、内藤麻美を在宅死させなければ、後は野となれ山となれ。・・・何で私に貸し?
「先生、時間外から先生宛に電話ー」
 内藤さんの件かな?とりあえず、戸川さんの電話を切る口実ができた。
「じゃあ、お願いします」
「あーあ」
 まだ何か言いかけている様子だったが、さっさと切って、課長席の電話をとった。
「はい、堀川です」
「時間外窓口の酒井です、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「先程、藤野区の患者のご家族とおっしゃる方からお電話がありました。患者さんと連絡が取れないくてご心配されているようです。今日、陽性になったと連絡があって以来、繋がらなくなったそうです。患者の名前は河野涼成さん、生年月日が1995年9月10日、男性、お電話番号が、ご本人が」
「ちょちょちょちょっと待って、コウノさんって藤野区の人?」
「そのようにおっしゃってましたが」
「誰が」
「ご家族です。ご家族のお電話番号が」
「ちょっと待って、メモしますから。・・・分かりました、調べてお電話します・・・」
「どうぞ宜しくお願いします」
 母親と本人の電話番号をメモさせられて、私は混乱しながら切電した。
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