□ 十九歳 夏③

文字数 2,708文字

 結局その日も、それから何日経っても、さっちゃんから連絡はなかった。
 私がさっちゃんを見捨てて逃げ出したから、とうとうさすがのさっちゃんも私に愛想が尽きたんだろう。そう思うしかなかった。
 自分の部屋にいると、さっちゃんからの電話を無意識に待ってしまう。どうせ鳴らないに決まっている電話を、ずっと何もせず見ていると、もうそれだけで夜はどんどん更けていく。
 電話がかかって来ない事に耐えられなくなると、諦めてベッドに横たわる。その繰り返しで毎日が過ぎていく。朝、目が覚めるとまず一番最初に電話を確認する。そしてまた落ち込む。
 リンデンバウムにも行くのが辛かった。美冬さんとたわいない会話をすることを想像するだけで苦しかった。それでも美冬さんが待っているだろうと思うと、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になり、無理して会いに行った。
「どうしたの、歩ちゃん。おかしいよ、なんでそんなに憔悴してんの。何があったの? また進藤さんだっけ、何かされたの?!」
「ちがいます……」
「何があったの!! さぁ、ここでぶちまけなさい! 一人で抱えていてはダメ! 我慢してちゃダメ! 私は大学とは無縁なんだから、何を話したって歩ちゃんの不利にならないんだから! さぁ喋んなさい!」
 美冬さんの必死だからか、鬼のような形相に、ふっと気が緩んでしまった。
 まさか涙が出てくるとは思わなかった。目からポロッと涙が溢れて、一粒こぼれたら、もう止められなかった。
 私は七夕の日の顛末を全て話してしまった。お互いに楽しみにしていたのに、大原さんが現れた事、つい怖くなって逃げ出してしまった事、とても後悔している事、あれからさっちゃんから連絡が来なくなった事、自分から連絡する勇気が出ない事、全部洗いざらい喋った。
「……そう。そうだったのね」
「私が悪いんです、分かってる。さっちゃんを置いて逃げたから。でも怖かった」
「ねぇ、一つ聞いてもいい? 別に歩ちゃんを責めているわけじゃないから、冷静に聞いてほしいんだけど」
「何ですか」
「どうして、さっちゃんが誘ってくれたイベントが何なのか気付いたタイミングで戻らなかったの? 夜のイベントなんだから、それから戻っても間に合ったでしょう」
「……そう、なんですけど……その時は逃げ出す事しか頭になくて、戻るって考えが浮かばなくて……後から考えたら、そう、戻れば良かったって思うんですけど」
「歩ちゃんは戻るべきだった、と思う。でも、他人の私はそんな風に冷静に考えられるけど、その時の歩ちゃんは、そんな事を思う余裕がなかった、だよね?」
「はい」
「じゃあ、仕方ないわよ。そんな済んだ事をクヨクヨしないで、次の機会を待ちましょう。次こそは、ちゃんとさっちゃんに向き合わないとね? 歩ちゃんがそんなに悩んでるって事は、ちゃんとさっちゃんには伝わっているわよ」
「まさか」
「絶対伝わってる。歩ちゃんはさっちゃんを見ちゃダメ、だったよね? でもさっちゃんが歩ちゃんを見るのは構わないんだよね? だったら、歩ちゃんがそんなぐずぐず悩んでいる事、ちゃんと分かってるわよ」
「……どうかな」
「絶対絶対、大丈夫だから!!」
「……はぁ、そう思うしかないですよね」
「もう! 暗い! 絶対大丈夫だよ、私が太鼓判押す!」
「……ありがとうございます」
 リンデンバウムを出た時には外は完全に日が沈んで暗かった。もう誰にも会う可能性はないだろう。私は泣いた跡が残る顔のまま、来る時の倍のスピードで駅に向かった。

 私から連絡しなきゃ、そればかり思ってモヤモヤしていたが、情けないが一度も行動には移さなかった。電話を手に取っても、今、進藤さんが隣にいたら、とか、大原さんが側にいるんじゃないか、などと考えるとどうしても勇気が出て来なかった。
 いや、多分、そうじゃない。私はさっちゃんから厳しい言葉を聞くのが嫌だったんだ。……ちゃんと自覚している。
 ついにさっちゃんから電話がかかってきたのは七月最後の日曜だった。
「ごめん、さっちゃん……」
「仕方ないよ、タイミングが悪かったよね……」
「本当にごめんなさい……後々、すごく後悔した……せっかくイベントに誘ってくれたのに」
「あゆ、気付いてたんだ」
「逃げ出した後に知った。七夕だから星空イベントだったんだよね」
「……そう」
「……」
「大丈夫、来年、また……」
「うん……」
「ホント、気にしないで。ごめんね、あゆ」
 さっちゃんは全く悪くないのに、また謝らせてしまった。私はなんて言っていいのか分からず黙った。
「でね、あゆ、来週、っていうか、もう今週か、最後の講義っていつ?」
「え? ……ああ、火曜の解剖が最後。本学はもう全て終わったよ」
「そうなんだ、良かった。私も火曜が最後。……あのさ、火曜、夜ちょっと時間ない? あゆに話したいことがある」
 え? 電話じゃダメなの? そう思ったが、口からは出なかった。
「夜? 別に大丈夫だよ」
「実家に帰るのはいつ?」
「えっと……まだ決めてないんだ。……実はその、解剖のスケッチがまだ完成してなくて」
「え? まだ終わってないの? あゆ、何やってたの、一班めちゃくちゃ早く進んでたじゃん」
「うー、いや、あの」
「あー、そういや、あゆって絵描くの苦手だったっけ」
「そ、そうなんだ」
「じゃあさ、火曜の夜、私のスケブ貸してあげるよ。それを見て勉強すればいいじゃない」
「それはダメだよ、さっちゃんの試験勉強に差し支えるでしょう」
「いやいいんだ、これは休み中にあゆに会う口実作るためだから、へへ」
「え、でも……じゃあ、なるべく早くこっちに帰ってくるから、帰ってきたらすぐ返すから」
「別に慌てなくていいよ。ってか、じゃあ、私の実家で一緒に試験勉強する? あゆがその時、嫌じゃなかったら」
「?」
 え? どういう意味だろう。そんなことを考えていたら、さっちゃんが急に慌て始めた。
「あ、ごめん、親から電話かかってきちゃった。夏休みの予定聞かれんだわ、ごめん、じゃあ、また火曜。時間と場所はメールするね、じゃ、おやすみっ」
 慌ただしく電話を切られてしまった。が、私は思わず叫び出していた。
「やったー! さっちゃんとまた、会えるー!」
 さっちゃんに嫌われていない。愛想尽かされてもない。それが本当に嬉しくて私は一人で浮かれて騒いで、テーブルの角で腰を打ってしまったが、それすら笑えてきた。
 一人でヒーヒー笑っていたが、急にふっと冷静になった。
 ……話したいことって何だろう。
 それが、楽しい良い事とは限らないんじゃないかな。
 ……いや、大丈夫だよね。だってスケッチブック貸してくれるって言ってたし。
 ……大丈夫、だよね?
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