episode 28 お母さんが固まっている
文字数 1,062文字
「わかってる。今すぐ入るよ!」
僕はドアの向こうのお母さんに声を張り上げた。すると、
「──ねえひろくん、早ぐして!」
裏側ではあっという間にしびれを切らす彼女。僕は重い息を吐いて腰を上げ、恐る恐るドアを開けた。
ううう、いつも厚化粧な彼女のにおいをかがされて目をそらしてしまい、すぐにひやひや顔を上げる。
えっ?
何が起きたのだろうか、目の前でお母さんが固まっているではないか。見開かれた視線も僕に固定されて動かない。
「えっと……、どうしたの?」
ところが、僕の声を聞いたらはっと我に返り、彼女は困ったように瞳を震わせていそいそ階段に逃げる。怒ってやってきたくせに、明らかにその力を失っていた。
「ああ、うそ、ちょっと──」
僕は追いかけそうになって立ち止まり、朝ご飯での冷えきった態度を思い出した。くどいくらいに料理をほめても無視されたから、彼女はあのときには変わっていたようだ。今朝から陽が沈んだ今までに言葉を交わせたのは、ドアにさえぎられた先ほどだけである。
今のお母さんは、たかが中学生のしかも内気な息子一人に面と向かって話せなくなっている。それを僕はおびえているのかもしれないって、もうばかみたいだ。彼女がこうなったのはいつなのか、おそらく僕と最後に直接話した昨日の夜だろう。僕にドアを閉められたあのとき──、
「僕が、ドイツを持ち出したから……」
何しろ頬をひっぱたかれたくらいだ、直接のきっかけはそこに違いない。僕はそっと廊下に出て冷たい階段を見下ろした。
でも、突然チューリッヒが出てきたのはなぜだろうか。僕がドイツにいると言ったりドイツ語を学んだりしているのが原因なら、お母さんが影響されて口にするのもドイツの都市でなければおかしい。しかしスイスのチューリッヒ、ちなみに首都はベルンである。
やはりただ間違ってるだけか、といって訂正できる状況ではなく、放っておくしかなかった。いつかお父さんが帰ってくれば何もかも終わるんだ、解決を急がず全部彼に押しつけてしまえばいい。昨日は彼女に「いない人」すなわち彼のせいにするなと怒った僕も、本当はずっとずうっと前から自分の悩みを「お父さんのせいだ」と恨んで生きてきたのだから。
僕は一度寒そうな上への階段にも目をやり、自分の部屋を振り返る。
「次はじゃあ……。ああ、お風呂か」
早くお風呂に入れと叱られたことを忘れるところだった。今日はもうお母さんの迷惑に遭う心配もないだろうから、お湯の中でのんびりしたい。そのあとで月を見る? まだそういう気持ちにはなれそうになかった。
僕はドアの向こうのお母さんに声を張り上げた。すると、
「──ねえひろくん、早ぐして!」
裏側ではあっという間にしびれを切らす彼女。僕は重い息を吐いて腰を上げ、恐る恐るドアを開けた。
ううう、いつも厚化粧な彼女のにおいをかがされて目をそらしてしまい、すぐにひやひや顔を上げる。
えっ?
何が起きたのだろうか、目の前でお母さんが固まっているではないか。見開かれた視線も僕に固定されて動かない。
「えっと……、どうしたの?」
ところが、僕の声を聞いたらはっと我に返り、彼女は困ったように瞳を震わせていそいそ階段に逃げる。怒ってやってきたくせに、明らかにその力を失っていた。
「ああ、うそ、ちょっと──」
僕は追いかけそうになって立ち止まり、朝ご飯での冷えきった態度を思い出した。くどいくらいに料理をほめても無視されたから、彼女はあのときには変わっていたようだ。今朝から陽が沈んだ今までに言葉を交わせたのは、ドアにさえぎられた先ほどだけである。
今のお母さんは、たかが中学生のしかも内気な息子一人に面と向かって話せなくなっている。それを僕はおびえているのかもしれないって、もうばかみたいだ。彼女がこうなったのはいつなのか、おそらく僕と最後に直接話した昨日の夜だろう。僕にドアを閉められたあのとき──、
「僕が、ドイツを持ち出したから……」
何しろ頬をひっぱたかれたくらいだ、直接のきっかけはそこに違いない。僕はそっと廊下に出て冷たい階段を見下ろした。
でも、突然チューリッヒが出てきたのはなぜだろうか。僕がドイツにいると言ったりドイツ語を学んだりしているのが原因なら、お母さんが影響されて口にするのもドイツの都市でなければおかしい。しかしスイスのチューリッヒ、ちなみに首都はベルンである。
やはりただ間違ってるだけか、といって訂正できる状況ではなく、放っておくしかなかった。いつかお父さんが帰ってくれば何もかも終わるんだ、解決を急がず全部彼に押しつけてしまえばいい。昨日は彼女に「いない人」すなわち彼のせいにするなと怒った僕も、本当はずっとずうっと前から自分の悩みを「お父さんのせいだ」と恨んで生きてきたのだから。
僕は一度寒そうな上への階段にも目をやり、自分の部屋を振り返る。
「次はじゃあ……。ああ、お風呂か」
早くお風呂に入れと叱られたことを忘れるところだった。今日はもうお母さんの迷惑に遭う心配もないだろうから、お湯の中でのんびりしたい。そのあとで月を見る? まだそういう気持ちにはなれそうになかった。