episode 66 言いたいことは言うべき
文字数 1,377文字
僕は部屋を出てちらと屋上への階段に目をやり、もう話せないリナを思い浮かべて下に向かった。屋上といえばもう一つ、ドイツ語の勉強場所。お父さんが帰ってきても千尋のおかげでやる気が増しており、恋の効果は絶大だった。
恋愛って、つきあえてからも「恋」でいいの? 何となく「恋」という言葉には片想いの印象があって──まあ、たいしたことではないのだけど。
僕が一階に着いたそのとき、玄関越しに外で響いた車の赤い光とともにお父さんが怒鳴りだした。
「俺がシュトゥットガルトにいる間に碩哉はいつも屋上で遊んでたのか! 成績はちっとも上がってないし、恵美も碩哉もいったい何やってたんだ」
僕は屋上でドイツ語の勉強について話したとき、彼が感動しているかもとひっそり期待したのに、やっぱり怒ってたんだ。廊下で立ちすくむ僕は、まるで赤い光を見て金縛りに遭ったかのようにひりひりと動けなくなる。早く終わってくれと祈るのが精一杯だった。
ところが、廊下に隠れた僕の存在はお母さんに見つかっていた。
「もうっ、ひろくんのせいでママ叱られちゃったでねえの! なしてパパの言う通りにしないの!」
台所をどたどた歩いてきた彼女は僕の前にざんっ、と仁王 立ち。うわあ、逃げられない。しかも以前の彼女だ。
僕は圧力に負けて気が遠くなりそうになるも、「大丈夫か?」だったかお父さんの声にぎりぎり引き戻される。
「お母さん、いきなり出てこないでよ……」
僕は床に立つ派手な水色の爪に向かってつぶやき、いやこれではだめだと自分を鼓舞 する。千尋に顔向けできない。
「ねえ、二人とも──」
顔を上げ、前後に並んだ両親をにらむ僕。中学生になって初めてかもしれない。でも今の僕には大切で強い恋人がいる。彼女に嫌われたくないから闘う、ううん、彼女がいてくれるから僕は闘えるのだ。
「家族だから、僕は、気をつかいすぎないで、言いたいことは言うべきだと……思うけど」
僕の声は冷えた緊張に傷だらけにされ、お母さんが「ひろくん?」とおびえたように言う。奥にいるお父さんの顔を見る余裕はなかった。
「でも何ていうか、言いたいことはお互いにわかり合った上で言わなきゃだめなんだよ」
「──ああ、それは確かにそうだろう。だけどな、俺は理解してると思わないか?」
お母さんの肩越しに顔を突き出すお父さん、それですれ違うなら夫婦間では彼女が理解していないことになるのだけど、当の彼女は気づかずに小首をかしげた。僕は「お母さん、お父さんはそう言ってるけどそれでいいの?」と結果的にすれ違いをあおってしまう。しかも、
「そうね、ドイツに行ったパパは人が変わったんだわね。いいのよ、ママはそんなパパについてがなくても幸せなんだから。ひろくんだってママなんかいらないんだもんね」
返ってきたのは息子の僕にとって恐ろしい、分断とあきらめに支配された答えだったわけで──。
ただ、お母さんはついさっきもお父さんが帰ってくる前のように「父の教え」に従って僕を叱ったばかり。しょっちゅう揺れる彼女の感情と発言だが、今の拒絶のほうが本音なのだろうと僕は思った。
「ああ、もう……」
突きつけられた危機的状況にやってらんないと歎きかけたとき、「だめ!」と千尋かリナの声が言ってくれた気がして飛び出る台詞を捕まえ、ぐっ、と自分の胸を服の上からつねった。冷静になれ。
恋愛って、つきあえてからも「恋」でいいの? 何となく「恋」という言葉には片想いの印象があって──まあ、たいしたことではないのだけど。
僕が一階に着いたそのとき、玄関越しに外で響いた車の赤い光とともにお父さんが怒鳴りだした。
「俺がシュトゥットガルトにいる間に碩哉はいつも屋上で遊んでたのか! 成績はちっとも上がってないし、恵美も碩哉もいったい何やってたんだ」
僕は屋上でドイツ語の勉強について話したとき、彼が感動しているかもとひっそり期待したのに、やっぱり怒ってたんだ。廊下で立ちすくむ僕は、まるで赤い光を見て金縛りに遭ったかのようにひりひりと動けなくなる。早く終わってくれと祈るのが精一杯だった。
ところが、廊下に隠れた僕の存在はお母さんに見つかっていた。
「もうっ、ひろくんのせいでママ叱られちゃったでねえの! なしてパパの言う通りにしないの!」
台所をどたどた歩いてきた彼女は僕の前にざんっ、と
僕は圧力に負けて気が遠くなりそうになるも、「大丈夫か?」だったかお父さんの声にぎりぎり引き戻される。
「お母さん、いきなり出てこないでよ……」
僕は床に立つ派手な水色の爪に向かってつぶやき、いやこれではだめだと自分を
「ねえ、二人とも──」
顔を上げ、前後に並んだ両親をにらむ僕。中学生になって初めてかもしれない。でも今の僕には大切で強い恋人がいる。彼女に嫌われたくないから闘う、ううん、彼女がいてくれるから僕は闘えるのだ。
「家族だから、僕は、気をつかいすぎないで、言いたいことは言うべきだと……思うけど」
僕の声は冷えた緊張に傷だらけにされ、お母さんが「ひろくん?」とおびえたように言う。奥にいるお父さんの顔を見る余裕はなかった。
「でも何ていうか、言いたいことはお互いにわかり合った上で言わなきゃだめなんだよ」
「──ああ、それは確かにそうだろう。だけどな、俺は理解してると思わないか?」
お母さんの肩越しに顔を突き出すお父さん、それですれ違うなら夫婦間では彼女が理解していないことになるのだけど、当の彼女は気づかずに小首をかしげた。僕は「お母さん、お父さんはそう言ってるけどそれでいいの?」と結果的にすれ違いをあおってしまう。しかも、
「そうね、ドイツに行ったパパは人が変わったんだわね。いいのよ、ママはそんなパパについてがなくても幸せなんだから。ひろくんだってママなんかいらないんだもんね」
返ってきたのは息子の僕にとって恐ろしい、分断とあきらめに支配された答えだったわけで──。
ただ、お母さんはついさっきもお父さんが帰ってくる前のように「父の教え」に従って僕を叱ったばかり。しょっちゅう揺れる彼女の感情と発言だが、今の拒絶のほうが本音なのだろうと僕は思った。
「ああ、もう……」
突きつけられた危機的状況にやってらんないと歎きかけたとき、「だめ!」と千尋かリナの声が言ってくれた気がして飛び出る台詞を捕まえ、ぐっ、と自分の胸を服の上からつねった。冷静になれ。