episode 13  ツキノナミダ

文字数 1,504文字

『一度会っているのに、きみはずいぶん驚いた顔だね』
「…………」
 リナは夢なんかじゃなかった。ほっとしすぎて言葉が出ない。
 そこは二十四時間前に同じ緑色の月があった場所から逆に高く、先ほどは雲に覆われていた。それが今はリナが現れ、より低い空に雲が集まっている。リナの位置がおかしいだけでなく、光を隠していた雲が上空の風で東に流されてリナが顔を出したようだ。
「──何か、いろいろあって疲れちゃった」
 僕は膝に力を込めて立ち上がり、頭上の月に向かって弱々しく話す。遠くで聞きとったリナは、やはり近くで聞こえる声で『これはちょうどいいかもしれないね』と言った。その表情(うみ)のない顔で笑ったような気がする。
「あの……、何が、ちょうどいいんですか?」
 僕はていねい語を使っていたことを思い出し、リナにゆっくりと訊ねた。
『それはね、実は呪文を教えたいんだ』
 いきなり「呪文」って何だろう。僕が思わず数歩下がって「よくわかんない、ですけど」と正直に告げると、リナは疲れた僕と違ってきびきび一気に教えてくれる。
『呪文とは「ツキノナミダ」だね。もう一回言うね、「ツキノナミダ」だ。疲れたきみと呪文の何がちょうどいいかというと、自分に対して使えば幸運が訪れてヒロヤは疲れの原因、心の重荷から解放されるんだ』
 つきの……、なみだ、月の涙? リナの得意げな声は妙に強気で、僕は緊張からさらに後ろに下がりつつも、「呪文」と「幸せ」の組み合わせを意外と冷静にありがちだと感じていた。
 それにしても、いくら僕が「疲れちゃった」と言ったからって提案が唐突すぎやしないだろうか。単に僕がリナの唯一だから何でも助けたいだけ? 唯一の人間に無条件で与えられる特典なの?
 見上げ続けて痛い本当の首より心の中で首をひねる僕に、『どういうことか、わかったね?』とリナが言う。僕はツキノナミダという幸運を呼ぶ呪文を自分に対して使えるのは理解していたが、リナがそんな特別な呪文を教えてくれる動機はわからなかった。
 ふと思って、幸運が訪れるのが自分以外の可能性を訊いてみる。
「さっき『自分に対して使えば』って言ってたけど、他の人に対しても使えるんですか? あとは……そう、地球じゃない月とか」
 最後にルナのつもりで「月」を入れた瞬間、緑色の光が遠い恒星でもないのにちらちらまたたき、僕はリナが焦ったと思った。
『そんなことはしてはいけない!』
「えっ?」
 きついソーダのような一言、リナは強い口調で続ける。
『ヒロヤ、自分に対して使うんだ。月に対してツキノナミダを使うなんてありえないことだね。それにうちがせっかく教えるんだから、きみはきみのために使うんだ』
「──そ、そうですか。でもどうして、僕が得するようなことを教えてくれるんですか? あ、でも他の人に使うんでもいいんだ」
『それはいいけど、うちは唯一であるハセガワヒロヤを助けたくて教えるのだから、ハセガワヒロヤのために使ってほしくてね』
 リナが穏やかな口調に戻り、おそらくそうするしかない僕は「じゃあわかりました。そういう方向性でその、考えておきます」とどこぞの会社員みたいに言って頭を下げた。それから再び視線を上空のリナに向けた僕は、今さらあのどこが瞳や口なのだろうと思ってしまう。きっと気にすることではないんだ。
 僕は服は厚めながらも風が出てきたことだしと、夜空のリナの位置を確認してコンクリートに腰を下ろした。雨や雪、汚れを防ぐ屋根はなく、サンダルで出るような場所だけどまあしかたない。僕は後頭部を両手で支え、(キジ)の箱に寄りかかって夜を仰ぐ。雨ざらしの木箱には前にお父さんがいただいてきた雉の剥製(はくせい)が入っていた。
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登場人物紹介

初瀬川 碩哉 はせがわ ひろや


主人公。中学3年生の少年。緑色の月が見たい。千尋を好きになる。

川口 千尋 かわぐち ちひろ


碩哉のクラスメート。緑色の月を見たことがあるらしい。

矢田  やだ たかし


碩哉のクラスメートで親友。陽気で気が利く。

初瀬川 恵美 はせがわ えみ


碩哉の母。帰ってこない夫の心配ばかりしている。

初瀬川 辰哉 はせがわ たつや


碩哉の父。妻には隠してドイツに行った。

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