episode 42  あの年のこと

文字数 1,292文字

 ところで、僕がお母さんが座り込む姿を「糸が切れた短冊みたいに」と表現したのは、小学校に入って初めての七夕を思い出したからである。毎年八月上旬に行われる有名な祭りではなく、七月の小学校での七夕だった。
 あの年のことを、僕はほとんど覚えていない。
 幼稚園を卒園して小学校に入学した年で、小さいころの記憶が少ないのはよくあることだが、それだけではない。この地に根を下ろして息づくか弱い人々、特に僕みたいな子供があまりにも、とてつもなく大きな力に飲み込まれ、記憶なんか霧となって消えてしまったのではないだろうか。
 今なお余震が続く大地震と大津波、特に津波の被害は東北から関東にまで及んだ。僕たちは当時からこの丘に住んでおり、津波も映像や写真でしか見たことはないけれど、精神面を含めてしばらくは普段通りの生活が送れるわけがなかった。
 でもそのしばらくがずうっと続き──、
 ささやかな小学校の七夕でも、復興と鎮魂(ちんこん)の祈りは変わらなかった。
 行事が終わっても涙が止まらない子どころか先生が何人もいて、僕の短冊の糸が切れたのは、ちょうど僕が列に並んでその前を横切ったときだった。体育館に舞い込む風はどうだったのか、自分が幼い願いを託した空色の短冊が力なく床に向かうのを見た。
 僕は後ろからどやされるのが怖かったのだろう、足を止めることもできなかったのに、それを列をはずれて拾ってくれた子がいる。親友になる前の崇ではなく、小学校の違う千尋でもない。残念ながら誰の親切か覚えてはいなかった。
「七夕……。ツキノナミダも七夕も、願い事なんだね」
 ふと見た時計は十時半を過ぎている。僕は重苦しい話し合いに関わるのをやめ、二階の部屋で冷たく蒼い音楽に耳を護ってもらっていた。
 受験生とはいえ期末テストが終わったばかり、少し勉強のことは忘れようと思ったのが、大きすぎる家庭の問題をもっとそれ以上に忘れたくなるとは。ただ、僕の傷ついた心は短冊のたとえから小さいころを思い浮かべ、少しくらいは古い傷にいやされたかもしれない。
 勉強つまり学校では、明後日(あさって)の金曜日が前期の終業式で、しばらく千尋と会えなくなる。正式には秋休みは来週の火曜水曜だけなのだが、月曜日が祝日で連休だからそこに合わせて秋休みが設定されたらしい。あと、いくら彼女が別の中学校の学区に住んでいるからといって、会おうと思えば──だめだ、僕にはまだ無理そうだ。
 終業式の金曜日が訪れた朝、玄関でまだ仕事のないお父さんが訊いてきた。
「碩哉、今三年生なんだろ? もう志望校は決めたのか?」
「え……」
 お母さんはすでに出かけており、答えず逃げる僕。その態度がいけなかったのか、教室に着けば千尋をからかう崇を目にするし、終業式に向かえば乱暴な男子にぶつかって()られるし、最後は関係ないのに先生に叱られるという残念な午前中を過ごすはめに。
 しかし、逆もあった。
 前期最後の学活のあとで千尋のほうから初めて声をかけてくれ、告白はできなかったものの恋が一段階進んだ。どきどきのまま下校して夜になると、今度はお母さんがお寿司を買って帰り、お父さんと泣かずに話し込んでいた。
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登場人物紹介

初瀬川 碩哉 はせがわ ひろや


主人公。中学3年生の少年。緑色の月が見たい。千尋を好きになる。

川口 千尋 かわぐち ちひろ


碩哉のクラスメート。緑色の月を見たことがあるらしい。

矢田  やだ たかし


碩哉のクラスメートで親友。陽気で気が利く。

初瀬川 恵美 はせがわ えみ


碩哉の母。帰ってこない夫の心配ばかりしている。

初瀬川 辰哉 はせがわ たつや


碩哉の父。妻には隠してドイツに行った。

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