episode 7  きみの名前を教えて

文字数 1,569文字

 そのとき冷たい風が吹き、水のにおいに乗って『ねえ、きみの名前を教えて』と訊いてきた。それは南東の空に浮かぶ海すらない、のっぺらぼうで表情のわからない二つ目の月である。僕は反射的に顔を上げ、ほら、信じて答えようよと自分の服の胸をつかんだ。
「えっとあの、僕の名前、『初瀬川碩哉』って、漢字はややこしいんですけど……」
 すると月が、『そうか、でもうちは字を書かないからね。それで一つ言っておくと、うちはヒロヤを唯一にしたからってばかだとは思わないし、引っ込み思案くらいで未来をあきらめてはいけないね』と唐突に応援してきた。僕は何と返せばいいかわからず、同じことを訊ねる。
「ええと、あなたに名前はあるんですか? 普通に『(つき)』ですか?」
『うちの名前は「リナ」だね』
 緑色の月──リナがさらりと教えてくれた。僕はそのかわいらしい名前にうんうんとうなずき、月といえば「ルナ」だと気がついた。
「もしかして、一つ目の月が『ルナ』だから、ですか?」
『そうそう。ルナがいるから、一つ前の文字をとってね』
 僕は答えるリナの顔が何となく蒼ざめたように感じる。いやすべてが緑色だし顔がどこかすらわからないのだが、とっさに「ルナは一つ目じゃない、もう一つの月でした」と言い直していた。少なくともリナにとっては、ルナが〝一番〟とは限らないではないか。
『ほーう、ヒロヤ、きみは優しいんだね』
「そ、そうですか……」
 リナは僕の対応に感心したらしく、ほめられた僕は頬が少し熱くなる。
 実際の月同士の関係はどうなのだろうか。リナに「ル」の一つ前の文字「リ」が選ばれたとなるとルナのほうが下かもしれないし、先に「ルナ」という名があったと考えればリナが下である。
 そういえば、「Luna(ルナ)」って何語だっけ。僕が学んでいるドイツ語では「Mond(モント)」だから全然違う。昔のラテン語辺りかなあ──、それから「リナ」は日本語風の「Rina」ではなく「Lina」にすべき?
 僕が言葉の謎に首をかしげていると、リナがこんなことを言った。
『きみはうちにとって唯一だから優しくて誇らしいね。大人になってもその優しさを残してほしい。またここで会ってくれるね?』
 僕ははっと我に返り、「僕だって」と言いかけたところで暗くぼやけた月の左側に目が行った。月の反対側が欠けたのではなく雲がじゃましているのだ。だいぶ曇ってきた。
「ここでっていうのはよくわからないけど、リナにまた会いたいです。僕は話し相手が少ないので」
 僕はリナにそう告げてから、この場所なら姿が見られにくくて都合がいいと気づいた。
『おおそれは、良かった──。ありがとう……、ヒロヤ』
 リナがゆっくり淡々と喜び、お礼を言ってくれる。まあお母さんが毎日ここに洗濯物を干すとはいえ、月と話すのはぎらぎらの太陽がいない夜だ。他人に声は聞かれやすくなるけれど、僕の声も外にもれないという。問題はここが東北で、冬が近づくにつれて僕がどんどん寒くなっていくこと。厚着してがまんするしかないか。
 そのときだった。
「あっ、月が……」
 リナが雲にじんわり消えていく。ああ、と口から弱々しいうめきが出ると同時に緑色の月は見えなくなった。僕は「リナ? ねえリナ、聞こえてますか?」と暗い空に小さな声を飛ばす。僕の声が隠されるのは月と話しているときだけ。いくら唯一の自分でも姿が見えないリナと話せるわけがなく、もう怖くてまともな声は出せなかった。
 何も言えなくなった僕に雲の向こうからの返事はいつまでも届かない。
 そうか──、膝が折れそうになる僕。ただこれで僕とリナはおしまいではなく、いつかまた会えるだろう。それは明日の夜かもしれない、楽しみにして早く寝なさい。
 僕は十一時三十分というなかなか見ない時刻の電光掲示板に目をやり、降り始めた霧雨に身震いしてため息をついた。
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登場人物紹介

初瀬川 碩哉 はせがわ ひろや


主人公。中学3年生の少年。緑色の月が見たい。千尋を好きになる。

川口 千尋 かわぐち ちひろ


碩哉のクラスメート。緑色の月を見たことがあるらしい。

矢田  やだ たかし


碩哉のクラスメートで親友。陽気で気が利く。

初瀬川 恵美 はせがわ えみ


碩哉の母。帰ってこない夫の心配ばかりしている。

初瀬川 辰哉 はせがわ たつや


碩哉の父。妻には隠してドイツに行った。

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