第5話 長靴を履いた女たち

文字数 1,708文字

 3人目の子どもが幼稚園に入った頃、パートで働き始めた。
 まだ医療費も幼稚園も無料ではなかった時代。住宅ローンの金利も5、5パーセント。夫の給料だけでやりくりするのは大変だった。
 口にすると、
「じゃあ、働け」
「……」
 結婚したときは、外に出さないで、押し入れに隠しておきたい、と言ったのはどの口だ?

 じゃあ、働くわよ、と求人広告を見た。条件はまず、近いこと。時間は幼稚園の送りから迎えまでの間。 
 今なら、午前中だけ、というのがあるが、当時はそんなのはなかった、はず。
 歩いて行ける食肉工場で、時間応相談というのがあったので、期待しないで行ってみた。
 面接したのは40歳くらいの男性。私はまだ30代。
 どうせ、ダメだろうと、言いたいことを言った。時間は9時から2時半。包丁は……怖いです……
 パートの女性はきついけど、大丈夫ですか? と聞かれた。
「はい、たぶん」

 働けることになった。
 幼稚園に連れて行ってから向かう。
 ビニールの厚いエプロンをして長靴を履く。包丁が苦手と言ったので、手前の台で、年配の正社員の女性Kさんの補佐を。
 Kさんは、30キロ入った鶏肉のコンテナを台に持ち上げて出す。私は目分量でビニール袋に詰めていき、Kさんが包丁でカットし1キロにしていく。
 黒板にその日の注文が書いてある。主に学校や会社から。
 皮なしの鶏肉のときは、皮を剥ぐ。
 そのあとは挽肉。袋に入れ平らにする。
 シシトウのヘタを取る。焼き鳥用。ひとつずつ悠長に持って取ってたら、年配の女性が飛んで来て、取り方を教えた。
 なにモタモタしてんのよ……というように。

 そこで、だいたいお昼になる。Kさんは台を掃除する。熱湯をかけ豪快に。

 昼は家に戻り1時から続きを。 
 別の長い台では、長靴を履いた女たちが骨付きの鶏肉の骨を取る作業をしている。
 私も袋詰めが早く終わると包丁を持たされた。研いである包丁は怖い。
 教えてもらったが、なかなかうまくさばけなかった。

 そのうち、不況で注文が減ったのか、パートの女たちは午前中で帰されるようになった。夕方4時までのパートは当分の間、午前中3時間だけ。

 ところが、入ったばかりの私は2時半までの契約だから、そのままだった。
 当然、非難轟々。
「なんで、あんただけ?」
と、露骨に言われた。
 課長に聞けば、帰されるのは4時までのものだと。

 非難轟々、まだ若かった。
 ひいきだ、なんだ…………
 長靴を履いた女たちがキャンキャンキャンキャン。

 誰が悪い? 
 Kさんは、気にするな、と言ってくれた。たぶん。 
 いい人だと思っていた。作業しながらいろいろ聞いてくる。
 子どものこと、旦那のこと。
 私は愚痴をこぼし、アドバイスをいただいた、つもり。
 どこかへ行けば、土産を買ってきてくれた。
「あんたにだけだから、自転車のカゴに入れておいたから」

 長い間働いていたKさんは、女の恐ろしさを教えた。
 肉を詰める作業。大量の肉の中に包丁が紛れていたことがあった。知らずに勢い付けて肉をつかんだら……
 恐ろしい女のゴタゴタ、嫉妬。
 少し前に働いていた若い女性は10キロも痩せたとか。

 男は面接をした独身の課長と若い男性ふたり。あとはKさん以外はパートの女性。私より年上の女性。
 
 キャンキャン言われていたようだが、ポーカーフェイスを装った。
 しかし、ある女性が私に告げた。
「Kさんがあんたの悪口言ってるよ」
 なに、懐いてるの? みたいな。

 これはショックだった。
 今なら、黙ってはいない。
「私、なにかしました?」
 くらい、言ってやる。いや、言えない。

 とても信頼していた方でした。
 だから、怒りで夜中に目が覚める。
 言ってやりたかった。
 葛藤……

 そして辞めた。仕事を辞めた。冷えで腰が痛いから、と。
 今なら辞めない。
 施設の女性蔑視の高齢の男性に、バカヤローと言われようが、ブタがブヒブヒ言っている、と思うようにしている。

 辞めるときに、世話になったからとKさんに茶を渡した。
 高い、木箱入りの高級煎茶。お茶が好きだと聞いていたから。
「お世話になりました。Kさんのおかげで今まで頑張れました」 



【お題】 長靴を履いた犬
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