第10話 無惨の美
文字数 2,022文字
今回の投稿はかなり凄まじいです。
『トドを殺すな』の友川かずきさん。
1950年生まれの秋田県出身で、本名は及位典司 。この及位という姓を笑われる辛さから、勤め先の飯場で名乗ったのが「友川かずき」という芸名の発端であるという。
1970年、岡林信康の『チューリップのアップリケ』に触発され、ギターを弾き、歌うことを始める。
商業的に成功したとは言えないものの、熱心なリスナーの支持を受け続ける。
この頃、ドラマ『3年B組金八先生』でゲスト出演し、名曲『トドを殺すな』を歌う映像が残されているが、津軽三味線のようにギターをかき鳴らし、絶叫するさまは、表現の古さ、新しさとかいう言葉を無意味にしてしまうほど、迫力に満ちたものだった。
トドを殺すな 3年B組金八先生
https://youtu.be/YsjHKdmg1Oo?si=I9IsPjL6vRl722Q7
YouTubeで『トドを殺すな』の第一声を聴いた時から、魅力(?)された。魅入られた。何曲か聴いてみるとすごい曲が……
『無惨の美』
詩を書いた位では間に合わない
淋しさが時として人間にはある
友川は及位 家の次男坊である。
2歳年下の三男を覚 という。
この曲は若くして逝った弟覚への追悼歌。
覚は熊代農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出。流転が始まる。
覚は、ちょうど兄友川がそうしたように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。
坂口安吾と山頭火を愛し、その存在を兄に教えもした。
一時郷里に帰ったが、(昭和)55年再上京して兄のアパートに同居。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人を。しかし半年後、いつもそうだったように突然の出奔。
行方の知れないまま4年。(昭和)59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳。
富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎の友川の部屋には20冊の大学ノートと数10枚のメモが残された。
遺稿は『及位覚詩集』ちなみにジャケットのオブジェは『無残の美』とタイトルされ、友人の中里繪魯洲 が制作したもの。
友川の弟、及位覚は詩を書いていたが、生前は無名の存在であった。彼が自ら命を絶った理由は分からないという。
淋しさを紛らわすために多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。
麻薬中毒の作家、W・バロウズは
「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」
と言った。
バロウズの意図するところとはまるで違うかもしれないけれど、言葉は人間の心を蝕む病原体だと思うときがある。淋しさに形を与え、谺 となって無制限に増殖してゆく。
本当はきっと、覚は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?
鉄道自殺した弟の身元確認の際、
「見ない方がいいですよ」
と言われたものの友川は、顔半分が飛んでしまった遺体と対面する。
それは自分の親族だからというのでなく、
(だから「いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ」と歌っている)
一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。
弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。
「こちら側へももう来るな」
生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示したものだと思う。
無残に破損された肉体と対面し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言ってあげられる、これが慈悲でなくて一体何だろう。人間のこころが授けられるもので、それ以上のものがあるのだろうか?
世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、言い換えれば懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。
友川がリスペクトする、中原中也も、山頭火も、言葉を研ぎすませる手品みたいな事に取り付かれて、命を削った。脆弱な肉体を持ちながら、それを忘れたかのように無茶をして、魂を純化する如く生き急いでしまう。
行き着くところ、残された作品だけでは全てを語れないのだ。立派に生き抜いたゲーテよりも、刹那的なボードレールやランボーが多くの人に、熱烈に愛される。
実は誰もが、肉声を聞くことを求めている。自分たちの肉体がたかだか数十年のうちに老いて、消滅することを知っている。芸術はこの脆い肉体から、逃げられない。結局、友川カズキの東北訛りの、決して洗練とは縁遠いあの声に我々が脅かされるのは、そういうことでは無いのだろうか。
http://anti-buddhism.doorblog.jp/archives/21920952.html
きれいなヴァイオリンの音が耳から離れなくなります。
無惨の美 友川カズキ
https://youtu.be/8nlUs8w6wBs
【お題】 旅に出ます
『トドを殺すな』の友川かずきさん。
1950年生まれの秋田県出身で、本名は
1970年、岡林信康の『チューリップのアップリケ』に触発され、ギターを弾き、歌うことを始める。
商業的に成功したとは言えないものの、熱心なリスナーの支持を受け続ける。
この頃、ドラマ『3年B組金八先生』でゲスト出演し、名曲『トドを殺すな』を歌う映像が残されているが、津軽三味線のようにギターをかき鳴らし、絶叫するさまは、表現の古さ、新しさとかいう言葉を無意味にしてしまうほど、迫力に満ちたものだった。
トドを殺すな 3年B組金八先生
https://youtu.be/YsjHKdmg1Oo?si=I9IsPjL6vRl722Q7
YouTubeで『トドを殺すな』の第一声を聴いた時から、魅力(?)された。魅入られた。何曲か聴いてみるとすごい曲が……
『無惨の美』
詩を書いた位では間に合わない
淋しさが時として人間にはある
友川は
2歳年下の三男を
この曲は若くして逝った弟覚への追悼歌。
覚は熊代農業高校を出たが、家業の農業を嫌って家出。流転が始まる。
覚は、ちょうど兄友川がそうしたように、流れ歩く生活の中で詩作をするようになる。
坂口安吾と山頭火を愛し、その存在を兄に教えもした。
一時郷里に帰ったが、(昭和)55年再上京して兄のアパートに同居。川崎の建材屋で働くかたわら兄の付き人を。しかし半年後、いつもそうだったように突然の出奔。
行方の知れないまま4年。(昭和)59年10月30日深夜、覚は阪和線富木駅南一番踏切で、上り大阪行電車に身を投げた。享年31歳。
富木の飯場には、中島みゆきのLP『寒水魚』と10冊の文庫本が、川崎の友川の部屋には20冊の大学ノートと数10枚のメモが残された。
遺稿は『及位覚詩集』ちなみにジャケットのオブジェは『無残の美』とタイトルされ、友人の中里
友川の弟、及位覚は詩を書いていたが、生前は無名の存在であった。彼が自ら命を絶った理由は分からないという。
淋しさを紛らわすために多くの人は詩を書き始めるが、詩は決して救いにならない。むしろ、淋しさにはっきりとした形を与えてしまう。
麻薬中毒の作家、W・バロウズは
「ことばはウイルスだ。言語線を切れ!」
と言った。
バロウズの意図するところとはまるで違うかもしれないけれど、言葉は人間の心を蝕む病原体だと思うときがある。淋しさに形を与え、
本当はきっと、覚は詩に対し、余りにも真摯に向き合い過ぎたのではないだろうか?
鉄道自殺した弟の身元確認の際、
「見ない方がいいですよ」
と言われたものの友川は、顔半分が飛んでしまった遺体と対面する。
それは自分の親族だからというのでなく、
(だから「いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ」と歌っている)
一人の表現者が為した事すべてを受け取るために、守らなければならない厳粛な儀式だったのだ。
弟はすでに肉体を離れ、生まれ故郷の熊代に溶けこもうとしている。
「こちら側へももう来るな」
生の間に抱き止めてやれなかった以上、生きることが苦しみとなってしまった弟へ、兄からの精一杯の優しさを示したものだと思う。
無残に破損された肉体と対面し、普通の人間なら嘔吐もし兼ねない状況で、「きれいだ」と言ってあげられる、これが慈悲でなくて一体何だろう。人間のこころが授けられるもので、それ以上のものがあるのだろうか?
世には、一つの事にのめり込み過ぎたために、言い換えれば懸命に生き過ぎたために、有限の肉体をあっさり捨ててしまう火花のような人たちがいる。
友川がリスペクトする、中原中也も、山頭火も、言葉を研ぎすませる手品みたいな事に取り付かれて、命を削った。脆弱な肉体を持ちながら、それを忘れたかのように無茶をして、魂を純化する如く生き急いでしまう。
行き着くところ、残された作品だけでは全てを語れないのだ。立派に生き抜いたゲーテよりも、刹那的なボードレールやランボーが多くの人に、熱烈に愛される。
実は誰もが、肉声を聞くことを求めている。自分たちの肉体がたかだか数十年のうちに老いて、消滅することを知っている。芸術はこの脆い肉体から、逃げられない。結局、友川カズキの東北訛りの、決して洗練とは縁遠いあの声に我々が脅かされるのは、そういうことでは無いのだろうか。
http://anti-buddhism.doorblog.jp/archives/21920952.html
きれいなヴァイオリンの音が耳から離れなくなります。
無惨の美 友川カズキ
https://youtu.be/8nlUs8w6wBs
【お題】 旅に出ます
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