29.『ふじふじこ劇場-2.涼しい脇-』
文字数 1,813文字
ある夜、おじさんがあのめがねを拾った。そう、ふじふじこがあの時に聞いた、パリンと音を上げてひしゃげためがねだ。
おじさんはそのひしゃげためがねを、両手を使ってぐねぐねした。ぐねぐねぐねぐねして、元の形に戻そうとしている。しかし、どう頑張ってもそのひしゃげためがねは綺麗に戻らなかった。
幸いにも耳にかけられる、めがね的な形までなんとか再生することができたので、おじさんはかけてみた。もちろんレンズは割れているので、視力は変わらない。だけど、おじさんの視界は少しだが変わっていた。
自分が見る景色にフレームがついている。そのフレームの中で、風にそよぐ木々を見、空を見、そして月を見た。
遠くから電車の走る音が聞こえる。目をつむる。ガタンゴトン、ガタンゴトン。目をつむっていると、もちろん真っ暗なはずなのに、おじさんにはフレームが見えた。世界はフレームに囲われている。そのフレームの中からこぼれ落ちるように、このおじさんは生きるのがちょっとだけしんどくなったのだった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。警笛が聞こえてくる。おじさんは目を開けない。いつの間にか脇におびただしい汗をかいていて、夜風に当たってひんやりとしている。
おじさんは両手を広げる。この期に及んで、シャツの脇汗滲みを恥ずかしく思っている自分がいる。あぁ、悲しい。警笛と共に、キーという轟き音が響く。なぜかその時に「とりあえず生っ!」と、おじさんは叫んだ。
電車はおじさんの横を通っていった。すんすん、すんすんと、電車がすぐ横を通っていき、その勢いから来る風で、みるみるうちにおじさんの身体は熱くなってくる。
おじさんは涙を流す。おしまいにすることができなかったことに対してではなく、自分がまだ生きていたかったことに気づけたからでもなく、最後の最後に頭に出てきた言葉が、自分が予期せぬ「とりあえず生っ!」だったからだ。
涙を流しながら目を開けると、自分が立っている少し先に、ぽわっと白いシルエットが見えている。辺りは暗く、よくわからない。線路から一歩外に出ると砂利が続き、フェンスまでの間には草がぼうぼうに生えているのだが、その草むらの中に白いものはいた。
おじさんは近づいていく。自分は実はもうこの世とさよならしていて、自分をあの世に連れていく使いの者なのではないかと、おじさんは思った。もしくは、死神かと。
しかし、そこには上下真っ白の(より近くで見ると、細かなチューリップがたくさん描いてある。しまむらで購入できる)パジャマを着た、女性がしゃがんでいた。
その女性は、しゃがんでこちらを見ていた。腕にはコンビニ袋、チョコバニラのアイスバーを食べていた。小さくボリボリとクランキーピーナッツの音を立てている。
おじさんは呆然として、ただ見ることしかできなかった。何分そうしていただろう。その女性はしゃがんだままで、おじさんを見、そしてクランキーピーナッツのアイスバーをぼりぼり食べている。
やがて食べ終えると、女性はすっくと立ち上がり、アイスバーの棒をちらっと見て袋に入れた。そしておじさんがかけているひしゃげためがねをひょいっと取った。そして自分がかけていためがねをおじさんに装着し、ひしゃげためがねを自分に装着した。
満足したのか、女性は踵を返すとフェンスの方に向かって去っていった。
おじさんは呆然としたまま、ただ女性が去っていくのを見送ることしかできなかった。女性の姿が見えなくなると、足元を見てみた。自分が履いている革靴が汚れていることに気づいた。女性が去っていった方向に歩く。フェンスにたどり着くと、フェンスの一部分に人がしゃがんで通れるほどの穴があけられていた。その足元には特大のニッパーみたいな工具が落ちていた。
おじさんはそのフェンスの穴をくぐったあと、自分の服を脱いだ。自分が汚れていることに気づいたからだ。自分のありとあらゆる汚れを身体から剥がすように脱ぎ続けた。そして何気なく空を見上げると、月がさっきより綺麗に見えたのだった。生まれたままの姿で家路へとついたのだった。
おじさんは次の日、靴屋で靴墨を買った。その次の日も続けて考えても、あの女性が誰なのかわからなかった。しかし、当の本人、ふじふじこもおじさんが想うあの女性が、自分であったことをわかっていなかった。ただ、朝起きた時、ふじふじこは自分の枕元に見に覚えのないひしゃげためがねを発見しただけであった。
おじさんはそのひしゃげためがねを、両手を使ってぐねぐねした。ぐねぐねぐねぐねして、元の形に戻そうとしている。しかし、どう頑張ってもそのひしゃげためがねは綺麗に戻らなかった。
幸いにも耳にかけられる、めがね的な形までなんとか再生することができたので、おじさんはかけてみた。もちろんレンズは割れているので、視力は変わらない。だけど、おじさんの視界は少しだが変わっていた。
自分が見る景色にフレームがついている。そのフレームの中で、風にそよぐ木々を見、空を見、そして月を見た。
遠くから電車の走る音が聞こえる。目をつむる。ガタンゴトン、ガタンゴトン。目をつむっていると、もちろん真っ暗なはずなのに、おじさんにはフレームが見えた。世界はフレームに囲われている。そのフレームの中からこぼれ落ちるように、このおじさんは生きるのがちょっとだけしんどくなったのだった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。警笛が聞こえてくる。おじさんは目を開けない。いつの間にか脇におびただしい汗をかいていて、夜風に当たってひんやりとしている。
おじさんは両手を広げる。この期に及んで、シャツの脇汗滲みを恥ずかしく思っている自分がいる。あぁ、悲しい。警笛と共に、キーという轟き音が響く。なぜかその時に「とりあえず生っ!」と、おじさんは叫んだ。
電車はおじさんの横を通っていった。すんすん、すんすんと、電車がすぐ横を通っていき、その勢いから来る風で、みるみるうちにおじさんの身体は熱くなってくる。
おじさんは涙を流す。おしまいにすることができなかったことに対してではなく、自分がまだ生きていたかったことに気づけたからでもなく、最後の最後に頭に出てきた言葉が、自分が予期せぬ「とりあえず生っ!」だったからだ。
涙を流しながら目を開けると、自分が立っている少し先に、ぽわっと白いシルエットが見えている。辺りは暗く、よくわからない。線路から一歩外に出ると砂利が続き、フェンスまでの間には草がぼうぼうに生えているのだが、その草むらの中に白いものはいた。
おじさんは近づいていく。自分は実はもうこの世とさよならしていて、自分をあの世に連れていく使いの者なのではないかと、おじさんは思った。もしくは、死神かと。
しかし、そこには上下真っ白の(より近くで見ると、細かなチューリップがたくさん描いてある。しまむらで購入できる)パジャマを着た、女性がしゃがんでいた。
その女性は、しゃがんでこちらを見ていた。腕にはコンビニ袋、チョコバニラのアイスバーを食べていた。小さくボリボリとクランキーピーナッツの音を立てている。
おじさんは呆然として、ただ見ることしかできなかった。何分そうしていただろう。その女性はしゃがんだままで、おじさんを見、そしてクランキーピーナッツのアイスバーをぼりぼり食べている。
やがて食べ終えると、女性はすっくと立ち上がり、アイスバーの棒をちらっと見て袋に入れた。そしておじさんがかけているひしゃげためがねをひょいっと取った。そして自分がかけていためがねをおじさんに装着し、ひしゃげためがねを自分に装着した。
満足したのか、女性は踵を返すとフェンスの方に向かって去っていった。
おじさんは呆然としたまま、ただ女性が去っていくのを見送ることしかできなかった。女性の姿が見えなくなると、足元を見てみた。自分が履いている革靴が汚れていることに気づいた。女性が去っていった方向に歩く。フェンスにたどり着くと、フェンスの一部分に人がしゃがんで通れるほどの穴があけられていた。その足元には特大のニッパーみたいな工具が落ちていた。
おじさんはそのフェンスの穴をくぐったあと、自分の服を脱いだ。自分が汚れていることに気づいたからだ。自分のありとあらゆる汚れを身体から剥がすように脱ぎ続けた。そして何気なく空を見上げると、月がさっきより綺麗に見えたのだった。生まれたままの姿で家路へとついたのだった。
おじさんは次の日、靴屋で靴墨を買った。その次の日も続けて考えても、あの女性が誰なのかわからなかった。しかし、当の本人、ふじふじこもおじさんが想うあの女性が、自分であったことをわかっていなかった。ただ、朝起きた時、ふじふじこは自分の枕元に見に覚えのないひしゃげためがねを発見しただけであった。