20.『調合太郎』

文字数 3,130文字

太郎、4歳。彼は初めての料理に挑戦する。キッチンにいる太郎を両親は優しく見守っている。

太郎が料理を作ると言ったとき、お母さんは内心心配だったが、お父さんはいつも彼女の気持ちを察して優しく肩を抱く。子供は自由に育ったほうがたくましくなる。かっこいい男になってほしい。というのがお父さんの口癖だった。

そう言われると、お母さんは少しホッとする。何があっても動じないお父さんのザ・大黒柱感に心底ホッとするのである。

太郎が前々から料理に興味を持っていたことを、両親は知っていた。お母さんが何気なくつけていたテレビにお料理番組が流れると、太郎はくぎ付けになった。まだ完ぺきではない日本語でひらがなだらけのメモをとる。その様子を見ていたお母さんは毎日欠かさず新聞からメモに使えそうな裏が白紙のチラシを集めるようになった。

さて、太郎の料理が始まる。まず太郎は家にある一番大きな鍋をコンロの上に置いた。そして、水をたっぷり注ぐ。水を半分まで注いだら火をつけた。初めてだというのにその手つきは慣れているみたいで、お母さんは感激する。お父さんは自慢げにうなづく。

大根を冷蔵庫から取り出して、そのまま輪切りにしていく。皮は?皮剥いてないよと、お母さんは太郎に教えようとするが、お父さんが優しく肩を抱く。心配そうにお父さんの顔を見る。お父さんは目をつむって、うんうんとうなづく。これも経験だというお父さんの表情にお母さんは自分で自分を落ち着かせる。

次に手羽先を取り出してそのまま鍋に放り込む。塩を少し振って、容器を両手で回しながらブラックペッパーを入れる。一流シェフのような顔つきになっている。そして人参、白菜、玉ねぎをほとんど切らずに鍋に放り込んだ。頑張ったら太郎が入れるんじゃないかというくらい大きな鍋の中で、具材がグツグツグツグツと音を立て始める。

何ができるのだろう。何を作ろうとしているのだろう。それは誰も知らない。実は太郎も半信半疑で作っていた。太郎はもちろん、大根や人参、玉ねぎの皮を剥かなければならないことくらい知っていた。

しかし、昨夜の夢の中で、お告げがあった。そのお告げ通りに作りなさいとお告げに言われたので、太郎は半信半疑ながらも一生懸命作っていた。

もっとちゃんと料理ができること、本当はお父さんとお母さんには、カレーを食べさせたかったことを心の中にしまって必死に作った。

約30分煮込んだ後、太郎は玄関に向かった。お母さんが気になって付いていこうとしたが、お父さんがそれを止めた。優しく笑って。太郎が戻ってくると、手にはお父さんがよく使っている靴墨のチューブが握られていた。まさかとは思ったがありったけの力を込めて、太郎は靴墨を鍋の上で解放した。あちゃーと声を出しそうになったお父さんの横で、お母さんは信じられないという顔で固まっていた。

一旦休んだ方がいいと言って布団に横にならせてから、お父さんはリビングで再び太郎を見守った。本当は一番お父さんが心配していた。脇汗がもうとめどなく流れていた。でも自分の方針を自分で曲げてどうするんだという気持ちがなんとか勝ってくれた。

太郎は、歯磨き粉、頭に使うリンス、消しゴムのカス、みりん、トイレ用洗剤、誕生日に買ってもらったテレビゲームのカセットを鍋に投入していた。さすがにテレビゲームのカセットは、まだ全クリしていなかったので、涙が出そうだったが必死に堪えた。

グツグツグツグツ煮える鍋の中を、額に汗をかきながら混ぜる太郎。これで最後の仕上げだ。そう心の中で言った太郎は、服を脱ぎ始め、Tシャツ、パンツ、ズボン、靴下の順で鍋の中に放り込んだ。

あーっ!と、つい声が出てしまったお父さん。しかし、太郎が見たこともない、すごく一生懸命な顔で見てきたので、お父さんは黙った。もうちょっとだから、と太郎の目は言っていた。半分泣きながらお父さんは最後まで、何があっても見届けると決意した。

太郎がコンロの火を止めた。同時に目を閉じ、深く3回深呼吸した。最後の呼吸で5回、息をヒュー、ヒュー、ヒュー、ヒュー、ヒューっと吸った。口をぱんぱんに膨らませ、目をかっと見開いた太郎は、

「おじいちゃんとおばあちゃんに会わせてください」

と、吐く息と共に一気に早口で唱えた。早口すぎてお父さんには聞き取れなかった。

次の瞬間、火を止めたにも関わらず、鍋からもくもくもくもくと煙が出てきた。お父さんは危険を察知してすぐさま太郎のもとに駆け寄り、太郎を抱きかかえてリビングに避難した。燃えて出た煙の臭いはしなかった。煙に突入してもむせたりもしなかったので、お父さんは不思議に思った。

もくもくもくもく煙は広がったが、お父さんと太郎は口を開けてその煙を見ていた。部屋全体が煙に包まれて、辺りが真っ白で何も見えなくなった。お父さんは太郎を見失わないようにぎゅっと抱きしめた。太郎は少し痛かったが、お父さんに抱きしめられたことがなかったので内心嬉しかったので、痛いとは言わなかった。

やがてそのもくもくがなくなっていった。なにも変化がないように思われたが、お父さんと太郎の後ろで、ベランダのドアががらがらと開いた。二人が振り返ると、若い男性と女性が立っていた。太郎が見たことがない人だった。

しかし、太郎を抱きかかえたお父さんは涙を流していた。ぽた、ぽた、と、太郎の頭に涙が落ちてきたので、太郎は気づいたのだった。どうやらお父さんが知っている人みたいだった。男性と女性は優しく微笑んでいた。

「・・・太郎です。僕の子供です」

お父さんは泣きながら言った。男性と女性はなにも言いはしなかったが、うん、うん、と、うなづいた。誰かに似てるなぁと太郎は思った。やがて煙が完全に消えてなくなっていくのと同じようにして、その男性と女性も消えていった。結局、夢で見たお告げ通りにしたけど、おじいちゃんとおばあちゃんは出てこなかったなぁと太郎は思った。

お父さんは小さい頃に両親と離れ離れになったままだった。幼いお父さんには理由はわからない。教会に預けられたお父さんはすくすく育っていったが、そのまま大人になっても、両親は迎えに来てくれなかった。お父さんの記憶の中では、両親について優しい印象しかなかった。だから何か理由があったのだと、どうすることもできない理由があったのだと、思うようにした。大人になっていく中で、お父さんは色んなことを経験したから、そう思えるのだった。

お母さんはすやすやと寝たままだった。たぶんそれでよかった。さっき起こったことを見ていたら、きっとお母さんは気絶してしまうだろうから。

お父さんは少ししてから、太郎の頭をくしゃっと撫でて、キッチンで片付け始めた。太郎もお父さんの後について片づけを手伝った。なんとなく、ごめんなさいと太郎は言った。それを聞いたお父さんはしゃがんでちゃんと太郎と同じ目線になって、そんなことないと言って、ありがとうと言ってくれた。そしてまた頭をくしゃっとしてくれて、片づけを続けた。

片づけが終わり、お父さんがカレーを作ろうと言い出した。あ、っと太郎は思って、今度はちゃんと作ると言った。お父さんはなんの疑いもせず、わかったと言って、またリビングから見守った。

カレーのいい匂いが漂う頃、お母さんが起きてきた。いい匂いと寝言のように言ったお母さんの横で、お父さんがあぁ、すごくいい匂いだ、と、太郎にも聞こえる声で言った。

お母さんはでも靴墨が入ってるんでしょ?と不安そうな顔をして、それでも食べてくれて、でもやっぱり不安そうな顔をしていた。そんなお母さんを見て、太郎とお父さんは笑った。太郎もお父さんもお母さんも忘れていたことだけど、今日は父の日だった。
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