27.『我慢して蜜柑が落ちて』

文字数 2,545文字

「あぁ、すごい。空が抜けるよう」

おじいさんは黙って手すりにつかまって、ゆっくり階段を登っている。

「あれ見て、あの黄色いちいちゃいのは、おみかんなの?」

ホームから見える山の緑。麓には古い家屋がぽつぽつと見え、それらの庭に生えている蜜柑を見ておばあさんが言っていた。旅先ではしゃぐおばあさんはまるで少女のようで、この土地とおじいさんとの二人きりという空間がきっと彼女をそうさせているのだろう。いくら歳をとってもデートはデートなのだ。

やっとのことで階段を登り切ったおじいさんは、彼女の数メートル後をゆっくりゆっくり歩いて付いていく。おばあさんが見ていた景色や蜜柑の方向を一瞥するだけだったが、しゃべらずとも何となく、このおじいさんはおばあさんと同じ気持ちであることはこちらに伝わってくる。

私は海が見たくて少し遠出をした。特に行き先を決めずに電車に乗り込み、途中、車窓から富士山が見えたので近くまで行こうと決めた。初めて訪れた場所だったが、どこか懐かしい気持ちになっていた。それはひたすら続く海岸線、どこを見ても視野に入るのが山や田畑だからだろう。人も少なく、空気が澄んでいるのが分かる。思わず深呼吸をしてみたくなる。

ホームのベンチに座っているおじいさん。おばあさんは興奮冷めやらぬ様子で、ホームのあちらからこちらへと歩いてはその土地の景色を楽しんでいる。

ふと昔のことを思い出す。若い頃、あれは18歳の頃か、当時付き合っていた彼女との話だ。付き合って半年が経っていた。ある日、私たちは少し遠出しようという話になった。私たちは行きつけの喫茶店でノートを広げ、行き先の候補を考え、そこで食べたいものや見たい景色などをお互いに書き出していった。彼女は初めての遠出ということでものすごくはしゃいでいたのを覚えている。私も同じくらい興奮していたのだが、なぜかそれを出すのが恥ずかしく、努めて冷静を装って彼女の話に耳を傾けていたのだった。

おそらくその当時の私たちと今目の前にいる二人の老夫婦が重なったのだろう。そしてこの土地の景色が相まって、余計に私はあの若かりし頃にタイムスリップしているかのような気持ちになっているのだろう。

私たちは旅行の当日、結局その楽しい旅行を実現することができなかった。はしゃいでいた彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

当日、待ち合わせの時刻よりも少し早くに彼女が待つ駅に到着した。ホームに降りて辺りを見回したが彼女はいなかった。あれだけ楽しみにしていたのだから私よりも早くに着いているのではないかと期待していただけに、彼女がいないことで少しがっかりしている自分が無性に子供っぽく感じた。しかし、5分前になっても彼女は現れなかった。もちろん理由はわからない。次第に落ち着かなくなり、私は公衆電話から彼女の家に電話をかけた。すぐさま母親が応答してくれたのだが、娘は家をもうとっくに出ている、そろそろ着くんじゃないだろうかと言った。しかし電話を切ってホームに戻ってみると、すでに待ち合わせの時間を過ぎていた。心臓の音が急に大きくなった気がした。と、次の瞬間にまるで私を驚かせるようなチャイムがホームに響き渡った。アナウンスでは彼女の名前が繰り返され、次いで私の名前が繰り返された。いつの間にか世界がスローモーションになっていて、急いでいるはずが、私はゆっくりとホームを走り階段を駆け上がり駅長室へ向かっていた。走っても走ってもゆっくりで、速く速くと思えば思うほど体が重く、世界がゆっくりとしか進まなかった。

駅長室の扉を開けた瞬間に見えたのは彼女の青ざめた顔だった。救急隊員によって担架に横たえられた彼女はしきりにごめんなさいと謝っていた。胸が不安で苦しくなって熱いものが込み上げてくる。気持ちは無我夢中なのに、自分ができることが何もないことを目の前にいる大人たちに突き付けられた気がした。私は彼女と共に救急車に乗り込み、病院へと向かった。

本当に若い少女のように、このおばあさんは落ち着きがない様子で相変わらずホームのあちらこちらへと歩き回っている。ふと、もしかして?と思った。

あの古い家屋の庭では、蜜柑が一つ、ぽとんと音を立てて落ちた。

私が「もしかして」と思ったのとほぼ同時のタイミングで、おじいさんがベンチから消えていることに私は気づいた。いつの間にかおじいさんはおばあさんのすぐ後ろまで歩み寄っていて、「おい」と声をかけるのと同時におばあさんの肩をポンと小突いた。

「バホッ」

ホームにこの音が響き渡った。3秒の間(ま)があいて、

「くさっ」

とおじいさんが無感情に言った。

病院で知った。要するに、私の彼女は屁を我慢しすぎて倒れたのであった。必要ないと誰もが思ったが、念のため、1日入院した。彼女を守るためなら1日の入院費なんて安いものだ。病院のベッドに横たわる彼女を囲んだ私や彼女の家族、医師、看護師、すべての人間がいわゆる「察した」表情を浮かべていたのを今でも忘れない。しかしながら、私たちの関係は1か月後に自然消滅したのだった。

ホームには僕とおじいさんとおばあさんしかいなかった。さきほどの「バホッ」のせいで、私は無理だとわかっていながらも必死にこの世から自分の存在よ、消えてしまえと願った。

おばあさんは屁の後はどこか落ち着いたようだった。そしてその分、おじいさんの口数が増えている気がした。これが夫婦なんだなと私は改めて思った。ホームにアナウンスが鳴り、電車が到着し、我々は各々乗り込んだ。電車の扉が閉まった時、私はもう一つ、思い出したことがあった。

例の救急車の中で、私は全てが初めての経験もあってとても興奮していた。そんな中、救急隊員の一人が私に彼女との関係を聞いてきた。

「この女性との関係は?」

親でも、兄妹でも、ましてや夫婦でもない。自分はこの人の彼氏でしかないのだと思った。「彼氏でしかない」と思う必要もないのに、私にはなぜだか「彼氏」というものが、ものすごく軽い存在に思えてしまって、救急隊員の質問に対してまごついてしまったのだった。幸か不幸か、私はこの時初めて結婚という重みを感じ、自分がどれだけ子供であるのかというのを痛感させられたのであった。

私は帰ったらプロポーズしようと決心した。
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