3.『遥かかなたの子育てへ』

文字数 3,455文字

 小さい頃の話だ。僕は生き物が好きだった。まずは虫。僕の家は360度山に囲まれている。だからすぐ近くに自然がある。すぐ近くに川や草がある。まだ幼稚園に行ってないときは友達というものがいなかったので僕はいつもひとりで遊んでいた。
 
 蟻。最初に僕は蟻に夢中になった。母曰く、黙っていたら蟻を見ていたらしい。しゃがみこんでただただじーっと蟻を観察している。1時間でも2時間でも時間を忘れてじーっと見ている。そんな僕はなぜ蟻に夢中だったかというと、蟻が無心だったからだ。彼らはひたすら黙々と歩く。隊列を崩さずひたすら歩く。たまに荷物を持ったりするのだが、その荷物が自分の半分くらいの大きさなのに重いとも言わないし、きついと言って休憩もしないし、ただただひたすら歩くのだ。不思議だ。無心なんだもの。

 たまにいじわるをする。足で隊列を崩す。すると彼らはパニックを起こす。初めて感情が露わになる。僕は楽しくなる。その間に何匹かつぶしちゃう、ごめんなさい。でも僕は罪悪感よりもさらなる好奇心が勝ってしまう。またじーっと見つめる。やがて隊列が元に戻り、平穏が戻ってくる。じーっと見る。唾を落とす。何匹かは泳ぐし、その犠牲になったものたちを目撃した彼らはその湖を回避してまた新たな隊列を組みなおし歩き出す。ものすごく彼らは淡々としている。不思議だ。小さいから息してるのかわからないし心臓があるのかもわからないししゃべらないし血も出ないし全く僕と違うのだ。だから共感できない。共感というのは難しい。

 ある日、おとんが虫メガネを使ったさらなるいじわるを教えてくれた。太陽と蟻の間に虫メガネをかざすと、蟻が太陽の光と熱でくしゃっとなるのだ。動かなくなる。夢中になってしまった。夢中になって蟻の無差別殺蟻をしている僕を見たおかんはものすごく僕を叱った。かわいそうじゃないの。その時の僕はかわいそうという気持ちは残念ながら起こらなかった。でも、蟻にいじわるをすることでおかんを悲しい顔にさせると知った僕はいじわるをやがてやめた。おかんの悲しい顔を見ると僕も悲しくなる。

 でもなぜか、家の隣の畑からクモやミミズやカエルを捕まえてはおかんを追いかけるのはOKだと思っていた。おかんは虫類が嫌いなので悲鳴をあげながら逃げる。もちろん悲しい顔をするのだがなぜかこれはOKなのだ。僕は悲しいといっても色々種類があるのだと学んだ。

 次に僕は魚に興味を持つようになる。ある日、僕は一緒に暮らすじいちゃん(イケダのじいちゃんとは違う、父方のじいちゃん)に魚つかみを教えてもらった。今となって魚つかみという言葉があまり一般的になじみのない言葉だということに薄々気づいた僕は、誰かに話すときにいちいち頭のなかで「魚つかみ・・・あ、違う、魚とり?えーっと魚釣り?いや、釣りは初めはしてなかったし、んー魚とり」ってな感じにしてから話すんだけど、やっぱり僕にとって魚つかみは魚つかみ。どうでもいいことを話したくなる僕。

 魚つかみ。じいちゃんが伝授してくれたやり方が全てだった。まず川下に網をセットする。次にそこから川上の方へできるかぎりダッシュする。そして棒かなんかで川上から川下に向かってひたすら川をバシャバシャさせていく。するとびっくりするほど魚が網の中に入る。バンザーイ!!!僕は感動した。しかし、今から注意してほしいのは網を大きくしすぎたり、網の数を増やしすぎたりして、川の幅を全部埋めちゃうくらいに欲張らないこと。あまりに魚が捕れすぎると気持ちが引いちゃうからだ。ぜんぜん捕れないと悔しいからもっと頑張る。ちょっと捕れるともっと捕りたくなるからもっと頑張る。いっぱい捕れるとまだまだいっぱい捕れるんじゃないかと思ってもっと頑張る。しかし、全部捕れちゃったと思うくらい捕れちゃうと引いちゃう。やる気を失くす。川にはもうザコしか残ってないと思っちゃう。大人のお金とパワー。なんでも手に入ったり簡単に達成されたりする状況はなるべく避けたほうがいい。伝授された僕の喜ぶ姿を見てどんどんやる気に満ち満ちていくじいちゃん。僕はそのじいちゃんの顔を見て、すぐさま一人立ちしようと決意した。微妙なラインが難しいんだよ。なにかを続けさせるのはその微妙なラインをどううまく設定するかなんだよ、じいちゃん。たぶん。でもどうせ子育てなんてそう思うようにもいかないのだとも思っている。

 小学生になった僕は毎日学校から帰ると、おとんが作ってくれた手作り網と村のマラソン大会でゲットした青色のバケツを持って冒険に出かけた。僕にとって川はアマゾンのジャングルのようなもので、未知で、なにが起こるかわからない場所だった。冒険だ。川に入ったことがない人はわからないと思うが、機会があれば入ってほしい。普段登下校で見慣れた小川も道路から高みの見物をするときと、いざ入ってみたときの見え方がまるで違う。アングルが違う。それに川には無数の感触がある。靴で入る、靴下で入る、草履で入る、裸足で入る、ぜんぜん違うのだ。あと季節や天気によってぬるさが違う。冷たいときには入りたくないから、だいたい気候があったかいときにしか入らないのだけれど、それでも川の水は冷たかったりびっくりするほどぬるかったりさらにびっくりするくらいあったかかったりする。よく服のまま温泉だといって首までつかって楽しんだ。そしてだいたいおかんに怒られる。でも僕がキラキラした目でバケツの中を見せるものだから、怒ったおかんもやがて笑顔になる。それがたぶん一番うれしい。

 川には色がある。透明だけじゃない。濁るのだけど、それが赤っぽかったり青っぽかったり緑っぽかったりする。その濁りの中から急に魚が現れる。びっくりする。予想できない。予想しても必ずその予想を上回ることが待っている。でも期待しすぎると下回ったりする。そのスリルがとてつもなく楽しい。悪戦苦闘しながら冒険を繰り返し、今まで見たこともないような魚に出くわし見たこともないくらいバカでかい魚が現れる。それを捕まえたとなればまた目をキラキラさせてバケツを持って家に帰る。でも、おかんからして見ればそれは食べられるわけではないからだいたい作り笑いをする。うまいから傍からは気づかないかもしれないが僕にはわかる。心の温度が違うから。だから褒められてめちゃくちゃうれしいのだけれど、ちょっぴり切ない。僕にとってもしかしたら初めての青春だったのかもしれない。

 僕はどんどん成長する。高学年になりどんどん友達ができて、遊び方がゲームとかサッカーとかに変わる。習い事や恋が始まったりしてどんどん時間が無くなっていく。特に恋によって僕は変わる。僕が好きになる女の子はみんな虫や魚が嫌いだった。女の子はきれいでかわいいものを好んだ。川はきれいでもかわいくもなくて汚い。僕は少しずつ少しずつ川を汚いと思うようになっていった。汚かったり臭かったりすると僕の好きな女の子は嫌うような気がして、僕はちゃんと手を洗うようになる。どんどん清潔になろうとする。どんどん川から遠ざかっていき、やがて入ることをしなくなる。あれだけ好きだった虫や魚を触ることに躊躇するようになる。そして全く触らなくなる。勉強を頑張りサッカーを頑張り恋を頑張った。好きなお笑いを駆使して人気者になろうとした。

 あのまま虫と魚が好きのまま大人になってもよかった。ひとりになることが恐かったんじゃない。ひとりだと思われるのが恐かったんだと思う。小さな範囲で受け入れられるよりも、より大きな範囲で、僕が届く限界の世界に受け入れられることを僕は望み、選択したのだ。そのことを後悔しているわけではない。自分が選択したほうで十分楽しんできたし、虫と魚との冒険のおかげでびっくりするくらいの集中力と行動力と探求心が身に付いたし、彼女も何人かできた。それでも思うことは、いつか未来の自分の子供が同じように虫や魚に興味を持ったならば、全力で共感して共有してあげたいということ。大人の目線じゃなく親の目線じゃなく同じ興味を持った仲間として彼もしくは彼女と向き合いたいということ。あとは彼らが勝手に選べばいいと思う。僕にできることは僕にしかできないと思うからだ。いや、それが僕の存在する意味だと思うからだ。でも、僕は、きっと、あの頃のように虫や魚を触ることは無理だ!残念ながら。申し訳ないけども。息子よ、娘よ、これが現実だ!
 でもお父さん、頑張るからな。
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