26.『ガンマン』

文字数 1,181文字

お腹が減った。まりこちゃんは空っぽになったコップの底を見ながらそう思った。赤地に白の水玉模様をあしらったワンピースを着て、彼女はブランコに座っている。

そこにおじさんが現れる。黒いハットに黒いコート、そして黒い革靴。「黒いおじさんだ」と、まりこちゃんは自分でも聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやいた。黒いおじさんはまりこちゃんに近づいてきた。

こんなところでどうしたの?お母さんは?それとも、お父さんは一緒じゃないの?と黒いおじさんは尋ねた。まりこちゃんはコップの底を見ながら微動だにしない。

もう辺りは暗くなってきている。さっきまで空がオレンジ色だったのに。まりこちゃんはコップの底を見ながらでも間接視野でそのオレンジ色を見ることができる。しかしこの黒いおじさんがやってきたものだから、緊張して視野がぐっと狭くなってしまい、気づいた時にはオレンジ色がなくなってしまっていたのだ。

黒いおじさんはハットの上から頭をポリポリとかいた。ほっておいてもよさそうな気がしないでもないのだが、この女の子は靴を履いていない。彼は心配に支配されていた。辺りを見回しても、この子の親がやってくる様子がしない。捨てられたのではないか。そんなわけはあるまい。でも物騒な世の中だ。ないこともない。交番に連れて行こうか。いや、それはできない。

突然お腹がぐうっと鳴ってしまった。迂闊だった。黒いおじさんは自分のお腹が鳴ったことで、自分の空腹を思い出した。と同時に黒いおじさんはこう思った。こんな失態は何年ぶりだろう。場所が場所なら命はなかった。黒いおじさんは恥ずかしさで頬を赤らめた。

その様子を見ていたまりこちゃんは思わず笑ってしまっていた。まりこちゃんはまりこちゃんなりに油断したと思った。この知らない怪しいおじさんには絶対気を許してはいけないと心に決めていたはずだった。しかし、お腹のぐぅっというかわいい音と、おじさんの子供のような赤ら顔で思わず笑ってしまったのだ。お互いがお互いの緊張の糸を切ったのか、気づいたら一緒に笑っていた。

カラスがカアと鳴いた。向こうからこの女の子の父親らしき男がやってきた。彼はずぶ濡れになった小さな赤い靴を手にしていた。黒いおじさんはほっとした。父親らしき男に一礼してその場をあとにした。

数メートル進んだところでさりげなく振り返ってみた。女の子は父親にコップを渡してブランコを勢いよくこぎ始めた。黒いおじさんはさらにほっとした。そして女の子は履いている靴をぴゅん、ぴゅんと、飛ばした。ちゃぽん、ちゃぽんと川に着水する音が聞こえた。その父親らしき男は持っていたコップを女の子に渡すと、川の方へ走っていった。

黒いおじさんはハットを取って湿った頭皮を夜風に当て、空を見上げた。気持ちいい風が吹いていた。

「潮時だ」

黒いおじさんは足を洗って地元に帰ることを決意した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み