8.『らくだ』

文字数 1,013文字

 人生に疲れた男がいた。彼は川べりの柵に両肘をついてぼんやり川を見ていた。犬になりたいと彼は思った。もしくは遠い宗教も文化も違う国の人間に生まれ変わりたいと思った。女子、誰か僕を殴ってくれないかと彼は心の中で叫んだ。こういう時は彼はキザになりたがった。キザである自分に酔いしれるのだ。しかしその効力は2、3秒。川はただただ流れるだけで、彼に対して何のアクションも返してこなかった。彼は川に飛び込もうと考えた。昨日初霜が観測されていた。彼は飛び込もうと考えただけだった。飛び込もうと考えただけでさっきから同じポーズで川を眺めている自分に腹が立ってきた。過去で一番腹が立った出来事ってなんだっけか。

 小学2年生の時の給食の時間。彼は後ろの方でいつものようにできるだけ早く食べて昼休みを少しでも堪能しようと一生懸命だった。すると隣のみさきちゃんが彼をじっと見ていた。なにぃ?と聞いたら、「あんた、変な食べ方してんな」と笑った。みさきちゃんは彼の食べているときの噛み方が気に食わなかったらしい。彼の噛み方をみさきちゃんは彼の前で披露し始めた。その噛み方はラクダみたいだった。彼は無意識に下あごを回転させながら噛んでいたことがその時わかった。それでもその噛み方の真似は明らかに誇張していて、その誇張加減は彼を明らかに馬鹿にしたやり口だった。彼は恥ずかしさと苛立ちからみさきちゃんの汁物(たしか、のっぺい汁だった)が入ったお椀の中にふりかけをぶっかけた。

 その日の放課後、彼は校長室に呼び出しをくらった。校長室に入るとなぜか教頭先生がそこにいて、彼を見据えて、「なぜふりかけをかけたのですか」と聞いてきた。その聞き方は彼の耳には質問として聞こえなかった。それは純粋に彼がなぜそのような行動をとったのかを聞いている姿勢でも態度でもなんでもなかった。それはただ彼から「すみませんでした」とか「ごめんなさい」とかを引き出すためだけのもので、でも謝れってストレートに言うのはスマートじゃないからあたかも彼が自発的に反省して謝ったように見せかけるための先生の中での先生なりのスマートなやり口だった。彼は仕方なくごめんなさいと言った。言いながら、そういえばこの教頭の娘がみさきちゃんだよなぁって心の中でつぶやいた。大人ってしょうもな!って思った。

 大人ってしょうもな!って思いながら、彼は相変わらず同じポーズで川を眺めていた。彼は明後日33歳になる。
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