1-1:目覚め
文字数 2,989文字
暖かい空気。遠い海鳥の声。小窓から射す光の中で、無数の埃が舞っている。
少年はゆっくりと目蓋を開いた。
肩から落ちるボロ毛布。
真紅の瞳が現実に戻ってゆく。
怖い夢を見た。
沢山の本が並んでいる何処かも分からない場所で、本に呑まれ、黒の中を落ちてゆくのだ。全てが身に覚えのない光景なのに夢から覚めた今もなお、妙に生々しく心の奥に引っ掛かっている。
強い印象となって残るのは、天井から覗いていた真っ黒な瞳。
なにかの始まりを予感させる不吉な笑み。
夢の余韻を遮ってせわしない足音が近づいてきた。部屋の扉が開け放たれ、舞い込んだ風が髪を揺らした。
「起きろユケイ! 仕事だぞ!」
そっぽを向くと、呼びに来た男はムッとして言葉を変えた。
「……シバ船長が、すぐに来いだとよ」
するとその少年、ユケイはたちまち笑顔となって、四肢の錘をものともせず、男を振りきり飛び出した。
甲板に出ると一瞬の眩しさの後、見慣れた海が眼前一杯に広がった。快晴から吹く潮風が黄ばんだチョッキと破れ放題のサルエルを吹き抜けてゆく。
この船は今日も順調に航海しているようだ。
ひとたびユケイが現れると、誰もが避けるように道をあけてゆく。そんな奴らは視界から捨て、ユケイの瞳はシバだけを追う。
ふと、甲板の後方から話し声が聞こえてきた。
「へぇ、脱獄して海にねぇ。大したもんだこと」
「こんなもやしみてぇな体でよぉ、何しでかしたってんだ~? ひひっ」
壁の裏から覗き見て、ユケイは知らない男を見つけた。
上下が一体となった白と灰色のしましま服。痩せた体に、短い髪はボサボサ。まばらに伸びた無精ひげ。
二人の船員に絡まれて、引きつった笑みを浮かべている。
視線に気付いた船員が酔い気味に紹介した。
「よぉユケイ。コイツぁお前が寝てる間に海で拾ったトミー君だ。今日からこの船で働く新入りよぉ! ……貴重な人手だ。殺すんじゃねぇぞ」
ユケイは返事をするでもなく、その場から顔を引っ込めた。
新入りにされてしまった男トミーは、冷や汗を流し、虚ろな目で見渡した。
漁船の名残りがある外装はあちこちが酷く傷み、帆も風にゆらめくボロ布だ。甲板の荷物は怪しく雑多で、真っ当な集団ではない事がわかる。
船員達は揃って人相が悪く、にやけ口から覗く歯はまばら。どこか狂っている。
海賊に拾われてしまったようだ。
肩に絡まる腕は重く、握られたナイフが顔の前でギラリと光った。
仲間になる事を拒めば命は無いだろう。しかし囚人生活に戻りたくもない。今は
「なーに心配すんな。お察しの通りオレ達ぁ海賊だが、ルールさえちゃあんと守ってりゃあ、悪い様にはしねぇよ。仲間は大事にしねぇと。……なぁ、船長?」
その言葉には皮肉が込められていた。
海賊達の眼差しを尻目に、一人の大柄な男が歩み寄ってきた。
際立って凶悪な顔つき。無造作と刈り上げのアンシンメトリーなセミロング。銀の装飾が備わった黒いコートを纏い、背には一丁のライフルを携えている。
船長は堂々たる態度で新入りの肩を奪った。
「お前は運の良い男だ。俺が勝利を収める瞬間の、見届け人となれるのだから」
何のことだろうか。トミーが目を泳がせていると、錆びた望遠鏡が押し付けられた。
「見ろ。あれがもうすぐ、俺のものになる!」
曇ったレンズにおそるおそる目を凝らすと、水平線に小さな影が見えた。それが何なのか判別する前に望遠鏡を没収されてしまった。
「おいテメェら。ユケイはまだか」
「ここにいるよんっ!」
背後から船長に抱きついたのは、異様な少年だった。
赤い髪。真っ赤な瞳。左頬には
そのユケイと呼ばれる少年は、人間ではなさそうだ。
トミーは竜族だと思った。
竜族とは古くから人類と共に存在してきた知的種族で、人の姿から巨大な竜の姿に変身することができる。違法ではあるが、剛腕の持ち主である竜族を犯罪組織が戦力として所持している事は珍しくない。
船長は望遠鏡をユケイに渡し、今度はその肩に腕を絡めた。
「お前の出番だ。頼りにしてるぞ」
ユケイは船長を見詰めて、ゆっくりと頷く。
「……わかった。シバが言うなら」
どうにも穏やかな雰囲気ではない。
「あのぉ、まさか……今から一騒動あるんですか、ねぇ……」
船長はユケイを振り向かせ、自慢気に言った。
「コイツに今から何がはじまるのか教えてやれ」
ユケイは大きな瞳を見開いたまま答えた。
「悪党の船を見つけたから、やっつけるんだよ。男は皆殺し。女は生け捕り。使えそうな道具は壊さない。金になりそうなものも壊さない。命乞いは聞かない」
言葉に似合わず、その声色は無垢な子供そのものだった。
「よーし、わかってるな」
悪党の
とは違和感があるが、何やら船を襲うつもりらしい。一方的かそれとも戦闘になるのか。巻き込まれるのはごめんだと、トミーは声を震わせた。「あのぉ……わたくしぃ、戦ったり武器の扱いとかはそのぉ、からっきしでしてぇ……」
「心配すんな。お前は見てりゃ~良いんだ。ぜ~んぶユケイがやっちゃうんだからぁ~」
酒臭い老人がのんきに親指を立てている。
トミーは相槌を打ちながら、心の中でシラけていた。
確かに竜族は身体能力に優れ、生命力も強いが、相手が銃を持っていたら敵わない。ましてや子供が一人だけ。竜族を使うのは初めてで、その実力を過信しているのだろうか。
無知で無謀が過ぎる。
「なんだよコイツさっきから! それでも手配犯かぁ?! なよなよしいったらありゃしねぇ!!」
誰かがトミーを指して大笑いした。つられてあちこちから笑いが湧くなか、ユケイは興味ないといった様子で船長に錘を外してもらっていた。
海賊達はやれやれと、そんな二人を睨みつけていた。
晴れ渡る空。ふいに頭上をゆく海鳥の影。
彼方から吹く風がそれぞれの頬を撫ぜてゆく。
嵐の前の静けさに、トミーはひとり、びくびくしていた。
水平線の小さな影はやがて巨大な船となって現れ、確実に近付いていた。
黒塗りの船体に掲げられた旗は、悪名高き『ネヴァサ』のもの。テロや人身売買、密輸などによって世界から大規模犯罪組織に指定されている
船の大きさと装備は格違い。人員の数も見えているだけで倍はいる。
狂った弱小海賊に勝ち目などありはしない。トミーはもうお終いだと思った。しかし船長もユケイも、他の海賊達にも動じる様子はない。
「おーし、ギリギリまで寄せろ! ユケイが飛び乗れるまで近付け!」
船長のかけ声に帆が張られ、舵が大きく切られた。
遂に対峙する、ボロ船と巨大な黒船。
激しく揺れる船体。舞い上がる水しぶき。二隻の攻防に波は荒れ、海鳥達が逃げてゆく。
挨拶のように銃弾が飛び交い、それぞれが壁の裏に避難した。
当のユケイの持ち物は鉤爪のついたロープのみ。相手は大砲を動かしている。
トミーは手摺にしがみついて歯を食いしばった。
「絶対に勝てるわけがない! 畜生! オレはこんな所で死にたくなーいっ!」
「今だユケイ! 行ってこい!!」
船長の合図にロープが投げられ、黒船の砲窓に引っ掛かった。
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