1-18:決行前夜
文字数 6,085文字
管理棟の一階から年季のはいったバリケードを越え、地下へと伸びる階段をゆく。上階から遮断された薄暗い場所へ向かっているとあって、リオは不安になった。
それ以上にユケイも落ち着かないようだ。
地下には細い通路が一本。
その片側には上階と同じような個室が並んでいたが、全て空室で、いくつかの部屋は開けっ放しの物置きになっていた。廊下の照明は古ぼけて暗く、埃っぽい空気が漂っている。
到着したのは廊下の終わりにある部屋だった。電気警棒に促され、扉をくぐると事情も明かされぬまま閉じ込められてしまった。
窓を叩くと埃がはじけた。助手らが去ったあとには静けさだけが残された。
リオは与えられた部屋にふり返ってみた。
内装はどこも黒ずんで、いま立つ位置にも足跡ができる。シンクの水は止まっており、便器は乾いて割れている。
照明だけがいやに眩しい。
「んー……実験って感じじゃなさそうだな」
「ほんとー……?」
ぬいぐるみから顔を上げるなり、ユケイは大きなくしゃみをひとつ。
こんな場所にいたら病気になってしまいそうだ。座れる場所を作っていると、ふいに窓が叩かれた。
「リオ! 大丈夫……!?」
そこにいたのはイブキだった。
部屋にはマイクがない代わり、窓ガラスに小さな穴が空いていた。
「突然ごめんなさいね。もう話は聞いてる?」
「いいや、まだだ。……久しぶりだねイブキさん。会えて嬉しいよ」
「えっ……!? ええ、私も……!」
ガラス越しに向かい合う。
イブキははっと赤面を逸らし、リオはカードキーが胸ポケットに仕舞われるのを目で追っていた。
「汚いお部屋でごめんなさい。使用すると事前に知っていれば、掃除の手配もできたのだけれど……。ここにいてもらうのは今夜と明日だけだから」
そう言いながら、イブキは扉の配給口から水のボトルと替えの包帯をよこした。イブキの手から直接受け取り、リオは配給口の形が上階とは異なるのに気付いた。
いつもの配給口には奥行きがあり、入れられた物を手を伸ばして取る仕組みだが、この部屋では扉の一部が小さく開くのみ。
リオは考えを巡らせながら。
「忙しそうだね。何かあったのかい?」
「本当に何も聞いてないのね……。明日、この研究所に調査が入ることになって、私達は準備に追われているの。沢山のお客さんがくるから、その為に掃除やら整理やらね。これがもう隠したい事だらけで大変なの」
「へぇー……じゃあ明日は施設を開放するんだね。でも、早くいつもの部屋に戻りたいよ。お客さんがいる時間は長いの?」
「そうね、一通り見回って……あとはテレビの取材も来るだろうし……。うーん、なんだかんだで丸一日掛かるんじゃないかしら」
脱出の好機だとして、リオはユケイに視線を送った。
ユケイも無言で頷き返す。
「私はリオの担当ではなくなってしまったけれど、調査が終わるまでの間だけ様子見を任されたの。欲しいものがあったら何でも言って。出来るだけ持ってくるから」
「んー……じゃあ、お願いしようかな。その調査がはじまる前に、水を持ってきて欲しいんだ。そこのトイレ、流れなさそうだし……」
「わかったわ、必ず行きます。他にはあるかしら?」
「……オレ、こういう空気が苦手でさ。今も少し息苦しいんだ……。もし体調を崩したら監視カメラで気付いて、すぐに駆けつけてくれる?」
「ごめんなさい。この部屋にはカメラがついていないの。だから定期的に様子を見に来ます」
「ありがとう。それなら安心だよ」
リオはイブキと微笑みを交わし、後ろ姿を見送った。
そしてユケイに振り返る。
「このチャンスを逃す手はない。明日、何とかしてここを出よう」
ユケイの瞳が生気を帯びる。
「どうやって部屋から出るの?」
リオは扉の配給口を
「イブキさんには悪いけど、水を持ってきたら彼女の手を引いて腕を折らせてもらう。胸ポケットからカードキーを奪って部屋を出よう」
「ほーん! そしたら研究棟の三階に行って、首輪を外して、正面玄関に行く?」
「……そうだなぁ。緊急事態になったらきっと最優先で客を逃がすんじゃないかな。正面玄関が封鎖されるまでは猶予があるかもしれない。
研究棟に着いたら一旦二手に分かれよう。ユケイは玄関が閉まるのを阻止していてくれ。オレも首輪が外せ次第、すぐに向かうよ。……迅速にやろう」
「おお~、慎重派なおにーさんのわりには思いきったね!」
「……博士が暫く来なかったのは、調査対策のせいで手が離せなかったんだろう。それが終わったらオレもキミも、何かヤバイ事されそうだからな……」
「そうだね……。こんなとこ、早く出て行こう。てゆーか怪我は大丈夫なの?」
リオはにこりとして、左手と右足のギプスを指で弾いてみせた。
「ああ。弱ってるふりを続けてたけど、とっくに良くなってるよ」
それよりもと、互いを繋ぐ鎖を手にとる。
「……二手に分かれる為にも、この鎖をどうにかしないとだな。監視カメラもないようだし、試しに切れるか引っ張ってみよう」
「おっけー」
首輪を起動させないよう、リオとユケイは鎖を引き千切ろうとした。しかしどんなに本気を出しても鎖はびくともしないのだった。
ならばと、その辺に転がっている鉄片で削ってみることにした。交代しながら地道にすすめ、切断はできないまでも破壊するに十分なきっかけを作ることができた。
疲れた腕をだらりと投げだし、あとは時を待つのみ。
リオとユケイは肩を寄せ合い、静かな緊張を胸に、最後の休息をとった。
深夜の廊下に響く足音。
イブキは大量の書類を抱え、明日の対策に追われていた。
その行く手にひょいと現れた人影。二人分の缶コーヒー。ヒロが休憩を提案するも、イブキは軽い会釈をして通り過ぎた。
ヒロが苦笑いしながら振り返る。
「イーブキさんっ。相変わらず忙しそうだねぃ。ボクに何か手伝えることは?」
「ありません。すみませんが忙しいので」
逃げるように早歩きすると、面白がって真似てくる。イブキはずんと立ち止まり、この際ハッキリ言ってやることにした。
「あのね! 迷惑ですから、私につきまとうのをやめてもらえませんか!」
ヒロは相当ショックを受けた様子で。
「つきまとうだなんて!? ボクは心の底からイブキさんが心配なだけだよ。明日は公休でヒマだから大丈夫。そんなに遠慮しないで、何でも言っていいよ!」
「もうほんっっっと、大きなお世話ですから。これ以上、業務に関係なく接してくるなら貴方の処遇を考えさせてもらいます!」
「な、なんだい。ボクを遠ざけていたのはそっちだろう? 困らせたくなる気持ちもわかるけどさぁ……。やれやれ、女心って難しいね?」
イブキは構わず背を向けて、さっさとその場を後にした。
最後までなにを言っているのか分からないが、あんな人でも同じ入社試験を通ったのだから地頭は悪くないはずだ。ならばAクラス職員からの警告がなにを意味するのかも理解できるはずだ。
研究室に戻ると助手が心配そうに出迎えた。
「大丈夫ですか? 廊下から大声が聞こえましたけど……」
「問題ありません。さー少しでも早く片付けましょう」
イブキは何事もなかったように仕事を再開した。
静まり返った廊下に佇み、ヒロは拳を震わせていた。そしてはたと思い立ち、勢いをもって駆けだした。
真っ赤な髪を風になびかせ、大きな背中が去ってゆく。
置いてかないでと泣き叫び、小さな腕を必死に伸ばした。無能だからいらない子なのか。役に立てばいてもいいのか。また捨てられる恐怖から逃げるように追いかけた。
振り向いたその表情は酷くぼやけて見えないが、しがみついた両腕を、優しく解いて押しもどす。
肩を揺さぶられ、リオは浅い夢から覚めた。
何故かユケイが含み笑いをしている。
「ねぇねぇ、なんか変なヤツ来たよ」
指された方に目をやって、リオは肩を跳ねあげた。窓ガラスからこちらを覗くは博士……ではなく、一人の男性職員だった。
なんとも凄い形相で、鼻息で窓ガラスを曇らせている。
固まるリオをよそに、ユケイは窓辺に近寄ってすっかり面白がっている。
しかし男の眼差しは、まっすぐにリオを貫いていた。
「お前がリオか……。直接見るのは初めてだけど、女性諸君のセンスを疑ってしまうよ。雑草みたいな髪。血の気のない肌。目なんて爬虫類のそれじゃないか。大体、竜族ってやつはどいつもこいつも色がどギツくて気持ち悪いんだ」
ユケイが男を指差して。
「そういうお前も変な髪型! なんかキノコみたーい!」
「これはマッシュヘアと言ってだな、イケメンにしか許されない髪型なんだよ! 覚えとけこの発芽米!」
がるるとユケイを睨んだ後、男の視線は再びリオへ。なぜ怒りを向けられているのか、リオにはまったく覚えがなかった。
「そんなモテる要素ゼロなお前が、どうして女性に人気があるのか。……理由はひとつしか考えられない。女性を魅了する特殊能力を持ってるんだろ!? それでイブキさんを
あまりに意味がわからなく、リオは唖然とするしかない。
その男性職員は続ける。
「いいか、イブキさんはボクの彼女だ! なのにお前の世話に追われて、ボクと会話する暇も作れないでいるんだぞ。それで最近苛々して、ボクがとばっちりを受けてる。そもそもお前のせいなのに、こんなのっておかしいだろう?」
男は白衣のポケットをまさぐると、自前のカメラを取り出した。
「よーしリオ、管理リストに載せる写真を更新してやるから変なポーズしろ。いや、とびっきりの変顔をしろ! それを見たらイブキさんも目が覚めるに違いない!」
「あー! こいつおちんこ触ってるー!」
ユケイが窓から覗いて見るに、そいつは一人でヒートアップしているらしい。
リオはユケイの手を引いて、元の位置に座らせた。そして何も見ないよう促した。
「頭がおかしいんだ。相手にするな」
「おにーさん、あの人となんかあったの?」
「いや。何もないよ」
リオは冷静を装っていたが、内心では肝を冷やしていた。錯乱している様にも見える者が、首輪の起爆装置を握っていたのだから。
監視カメラがないおかげで、この事態を他の職員に気付いてもらえない。
その男はいつまでも部屋の前に居座っていた。突然喚いたり、泣きだしたり、静まったかと思えば笑いだしたり。
リオの体内時計ではもうすぐ朝だが、一向に立ち去る気配がない。
このままではイブキと鉢合わせになってしまう。
立入り調査の日。
イブキは約束通り、定刻の少し前に訪れた。
両手に抱えた水のボトルとお菓子の包みを床にぶちまけ、目にしたものに戦慄が走る。
リオがいる部屋の前で、ヒロが下半身を露出させて待ち構えていたのだ。
「いやあああ!! なんなの気持ち悪い!!」
イブキは逃げようとしたが、恐怖で足がもつれてしまった。
たちまちヒロに捕まって、抱きつかれたのを押しのけて、ひらけた方へとにかく走った。そっちは行き止まりだというのに。
「イブキさん!?」
悲鳴を聞きつけ、リオが窓辺に現れた。
ガラス越しに助けを求める ―― ことなど出来ない。
なす術もないまま、廊下の向こうからヒロがゆらりと近づいてくる。
「ボク達がつき合って、はや五年。もうこれ以上は待てないよ! イブキさんは恥ずかしがり屋だから、ボクが意を汲んであげなきゃだよね! 結婚しよう。専業主婦にしてあげる。そしたら毎日遅くまで仕事をしなくてよくなるよ。最近ストレスが溜まってるよね? ここなら誰も来ないから、思う存分甘えていいよ!」
「ななっ、なにを言っているの……!? 私がいつ、あなたとつき合ったというの!?」
「やだなぁ、最初にアプローチしたのはそっちじゃないか。……新人歓迎会の時、積極的にボクの隣に座ったろう? 嬉しそうに微笑みかけて、別の席になっても何度も視線を送って。あんなにわかりやすくボクに気があるって伝えてきたじゃないか! ボクはそれを受け入れたまでさ!」
「なによそれ……!」
そのこじらせた妄想には狂気すら覚えた。
突進をくらい、イブキはヒロに押し倒されてしまった。必死にもがくも力では敵わない。
「いやーーーっ!! やめて! やめなさい!! 誰かーっ!!」
きょとんと見ているユケイの隣で、リオが窓を叩いて叫ぶ。
「イブキさん! 扉を開けてくれ!」
「で、出来ないわ……そんな事をしたら、ひいいっ!」
べろりと頬を舐められて、イブキは思わず胸ポケットに手を、入れようとして躊躇した。迷っているうちにも服のボタンが外されてゆく。腹を蹴り上げてやると頬を叩かれ、鼻のなかで血のにおいがした。
リオが配給口から腕を伸ばし、床を叩いている。
「頼む、開けてくれ!! 助けたいんだ!!」
「うぅぅ……! リオっ……!!」
イブキはヒロの腕に噛みつくと、相手が怯んだ隙にカードキーを床に滑らせた。カードキーは回転しながら二つの視線に追われ、扉の隙間半ばで止まった。
リオが配給口から手を引っ込め、瞬時にヒロが飛び掛かる。
一瞬の差で、カードキーは部屋の中に引き込まれた。
重厚な扉が開き、二人の竜族が睨みを降らす。
「へっ……? マズイでしょこれ……」
脳天に強烈なかかと落としをくらい、ヒロはうつ伏せに倒れて動かなくなった。
死んだと察する光景がリオの体に遮られた。
「大丈夫……!? 怪我はない……?」
「怖かった……」
イブキはリオに抱きついていた。
体の震えが止まるまでリオは胸をかしてくれた。
その温かさは、イブキが長く閉じ込めていた感情を自由にしたのだった。
へたり込んでいる視界に鎖の破片が転がった。
「行こう。おにーさん」
「ああ」
二人は頷きあって、イブキを残して去ってゆく。
あっという間に遠退く背中。奪われたカードキー。リオのギプスがなくなっている。なにが起きているのか理解するより早く、直感が悲しみの叫びを上げた。
「待って! お願い行かないでっ! リオーーーーっ!!」
階段の手前でリオが止まった。
ホッとしたのもつかの間、振り返ったその瞳には、人類の脅威である獰猛な眼孔が宿っていた。
「リオじゃない」
「えっ……」
「それは名乗らないでいたら、ここの連中が勝手につけた呼び名だ。……オレの名はイナフ。今までありがとう、イブキさん。さようなら」
「……イナフ……」
イブキは愕然と膝をついた。込み上げる涙は竜族を逃がした失態のせいではない。
愛しの男が去ってゆく光景が滲んで見えなくなってゆく。
絶望に浸りかけた時、イブキの脳裏に研究所の緊急対策が過った。
「(だ、駄目よ……セキュリティを突破できるとは思えない! イナフを守らないと……!!)」
もはや、その強い感情の前では社会の役割など些末事だった。
イブキはキッと顔を上げ、破けた白衣を翻し、二人のあとを追いかけた。
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