第4話

文字数 18,891文字

   四

 僕は千歳を車に乗せ駐車場を後にした。土曜日の夜とあって閉園後の生駒山上は沢山の車で混雑しており、下り車線に入るのも一苦労だった。
 僕は千歳に弁護士がやってきたことを話し、加害者の奥さんと直接会う経緯について説明をした。だが千歳は納得しておらず、どうしてわざわざ加害者の奥さんと会う必要があるのかと質問をしてきた。僕は昨日の事件で出会ったあの少女のことを千歳にすべて話した。それでも千歳は納得がいかないようで僕に「その女の子の何を知りたいの? どこかで会ったことがあったとしても、それで? みたいにならない?」と言われ、すぐに返す言葉が見つからなかった。木田さんと話をしていた時とは違い、千歳は前世のようなスピリチュアルなものに対して否定的なのかもしれないと思い「別に君に理解してもらおうとは思ってないし、殴られて意識が薄れていく中で、あの少女の表情に違和感を抱いたり懐かしい気持ちになったりしたから、そこに何かがあると感じて加害者の奥さんと直接会って、あの少女が事件についてどういう話をして俺のことをどう思っていたかを知りたいだけやから」と少し感情的になって早口で言ってしまった。
 車内は気まずい雰囲気に包まれて、タイヤとスリップガードの接触する音がリズミカルに刻まれていた。こんなことなら千歳を連れてくるのではなかった。それなら木田さんに同席をしてもらった方が話もスムーズに出来ていただろうと思った。
 気まずい雰囲気のまま僕達の車は生駒山を下っていたが、このままだと精神的な苦痛を味わいそうだなと思い、僕は少し冷静になってから千歳に話かけた。
「君も知りたい事があったら、他の人になにを思われても知る為に行動するやろ?」
「気分を害したのなら、ごめんなさい。それでも言っておきたいことがあるの」
 ミラー越しに千歳を見ると、いつもと変わらない様子だったので、僕だけが感情的になっていたのだと分かった。僕は千歳に「言っておきたいことはなに?」と尋ねてみた。
「森若君が救急車で運ばれた後、加害者の男性がパトカーに乗せられて連れて行かれたの。その奥さんは泣き崩れていて、双子の女の子のうち泣いてぐずってる子がいて、親戚か近所の人かは分からないけど、その人達に慰められていたの。それでね、泣いていない女の子はお母さんやぐずってる女の子に向けて、あの人知ってる、あの人知ってるって、森若君が運ばれて行った方向を指さして手話で訴え続けていたのよ」
「え?」
 あの少女は僕のことを知っている? 手話ってどういうことだ? 僕は言葉を失った。
「あの女の子、きっと聴覚障害を抱えていると思うの。わたしは手話を理解出来るから、あの女の子が手話で伝えようとしていることをずっと見てたの。まだ片言の手話だったけど、お母さんともう一人の女の子に向けて『あの人・知ってる』の二つの手話で何度も伝えようとしていたけど途中から『あの人・行く』に変わってたの。あの人のところへ行くって何度も手話でアピールしてたよ。でもね、誰にもあの子の手話は届いてなかったの……可哀想なぐらいに。みんなそれどころじゃなかったのよ。あの子のお父さんが逮捕されて連れて行かれちゃったから」
 あの少女は僕のことを知っているし会いたがっていたということは、一体どういうことなのだろうか。僕は困惑してしまい、なにをどうすればいいのかさっぱり分からなくなってしまった。
「千歳、俺はどうしたらいいと思う?」
「あの子と関わったら駄目よ」
「どうして?」
「さっきの森若君の話を聞いてびっくりしたけど、あの子も森若君も相手に対して何かを感じてるってことは間違いないと思うの。スピリチュアル的に言うとソウルメイトとか前世の繋がりとか、要は魂の結びつきみたいなことがそこにあるように感じるかもしれないけど、現実的な問題としてあの子は加害者の娘さんなの。森若君があの子に会って話をしたいとなったら、もっと問題が複雑化するし家庭を崩壊させる危険性もあるの。今日、交渉する時に娘さんに会わせてくださいと森若君がお願いしたら、奥さんは恐怖に感じるだろうし困惑もするだろうし立場的に従わざるを得ないと考えて、精神的に追い詰められてしまう可能性もあるの。それだけじゃなくて、その話を加害者本人が耳にしたら、また何があるか分からないよ? 今度は森若君が殺されるかもしれないのよ?」
 言われてみればその通りで、僕は自分のことだけしか考えていなかった。僕は必死になって奥さんと会う段取りまで組んで、あの少女のことを聞こうと思って行動をしていたが、もし千歳がいない状況でこのような話を奥さんから直接聞かされていたら、あの子に会わせてくださいとお願いしていただろう。いくら僕が被害者とはいえ、あの家族からしてみれば迷惑極まりないことだと思った。
「千歳の言うとおりや、俺は視野が狭すぎた。自分のことだけしか考えてなかったよ」
「わたしも森若君の立場なら、知りたい気持ちが強すぎて同じ事をしていたかもしれない。わたしは第三者だから広く見渡すことが出来ただけなの」
 つい先程まで千歳を連れてくるのじゃなかったと思っていたにも関わらず、今は千歳がいてくれたことに感謝すらしている。千歳は僕が思っている以上に頭が良くて物事の本質を見極めることが出来る貴重な存在だと思った。そこで僕は千歳にひとつの提案をしてみることにした。
「千歳にお願いしたいことがある。今日の示談交渉、俺の代わりに交渉してくれへんか?」
「え? わたしが?」
「今だから正直に言うけど、あの少女のことを聞くことだけが俺の目的やったから、示談交渉とか内容にはもう興味がないねん。提示された示談内容でOKを出そうと思ってたから、それやとせっかく千歳が同席するのに、弁護士の交渉術を学ぶ機会を損ねることにもなるやん。それやったら千歳が俺の代理で交渉してくれたら、千歳にとってもいい経験になると思うねんけど、どうかな?」
 すぐに千歳からの返事はなかったが、しばらくして「ほんとうにいいの?」と僕に確認をしてきた。
「うん、お願いするよ。千歳の方が第三者目線で広く物事を見渡せるから示談交渉もお互いに納得のいく形になると思うし」
「じゃあ、分かった。上手く交渉出来るか分からないけど頑張ってみるね。それと前提知識を入れておきたいから、事件が起きた時のことを詳しく聞かせてくれる?」
 僕は事件が起きた際の出来事を詳細に千歳に伝えた。
 僕達の車は生駒山道を下り続けようやく阪奈道路との交差路に差し掛かり、奈良市内方面の車線に入った。まだ標高は高く下り勾配が続くので相変わらずブレーキ操作は多くなるのだが、片側二車線の広々とした道路で視界も良く運転もしやすかった。阪奈道路は昔、有料自動車道だったらしく、その名残で奈良市街地付近まで信号が少なく混雑することもあまりないと板倉さんから聞いたことがある。実際に車で走っていると、田舎の高速道路という表現が一番適切だろうなと感じた。
 しばらくすると直線の長い登りや下りの見晴らしの良い道が続き、僕は疲れていたのか少し眠気に襲われそうになった。音楽をかけようかと思ったが、バックミラー越しに千歳を見ると腕組みをして何かを考えている様子だったので、僕は「なんか考え事でもしてるんか?」と尋ねた。我に返ったのか千歳は「あっ、ごめん。示談交渉に向けてイメージトレーニングしてたの。戦術を練っておかないとね」と、まるでプロの交渉人のようなことを言うので「気合い入ってるね。好きなように交渉してくれたらええから」と伝えた。
 それから快調に車は進み、気がつけば奈良市街地付近までやってきていた。奈良市内の道路を走っていてよく感じることなのだが、あまり乱暴な運転をしている車を見たことがない。奈良の県民性はおっとりとしていてルールを厳守する人達が多いとされており、車の流れを見ていても奈良っぽいとよく感じることがある。それに比べて大阪の道路は、殺伐とした雰囲気があり、どこもかしこも車線変更をする乱暴な車が多い。大阪で運転する場合は、常に危機察知能力を駆使しておかなければならず、気が気では無いのだ。僕は奈良の県民性に見習いゆっくりと車を走らせた。
 信号に捕まることもなく順調に進み続けていると、古谷法律事務所のある森田ビルが見えたので、ビルの横にある駐車場に車を停めた。時計を見ると午後十時二十分を過ぎていた。予定時間には間に合いそうだなと思い、僕達は車を降りて森田ビルへと向かった。
 ビルの中に入ると光沢のある黒いタイルが床一面に敷き詰められており、壁のレンガタイルも黒基調でモダンな造りであったので、まるでラグジュアリなホテルのようだなと思った。
 僕達はエレベーターに乗り、行き先ボタンの三階を押すと静かに扉が閉まった。ゆっくりと上昇していくエレベーター内は、ラベンダーの良い香りがしており、鼻で一気に息を吸い込むと気持ちが和らぎ落ち着いたので、僕は何度も鼻呼吸をした。
 三階に到着しエレベーターの扉が開くと、いきなり正面に古谷法律事務所と書かれた黒い看板が目に入った。エレベーターを降りるとそこは既にエントランス内で、どうやら三階フロアの全てが古谷法律事務所になっているようだった。黒い看板の下には小さなディスプレイが壁に取り付けられており、そこに近づくと「下のボタンを押してお待ちください」と表示されていたので、机の上に置いてある白くて丸いボタンを押した。
 しばらくすると弁護士の加藤さんが現れ「お待ちしておりました」と挨拶をしてきた。僕は「こちらこそ、よろしくお願いします」と挨拶をし、千歳を手で指し示しながら「僕の方も代理人を連れてきました。どうしても僕が交渉すると感情的になりそうだったので、よろしいですか?」と丁寧に弁護士に尋ねた。すると弁護士は「はい、承知致しました」と笑顔で快諾をしてくれた。弁護士は胸ポケットから名刺を取り出し、それを千歳に提示し自己紹介をした。その名刺を受け取った千歳は「本日は森若君の代理で交渉させて頂きます千歳真奈美と申します。よろしくお願いします」と自己紹介をし深くお辞儀をした。
 僕達は弁護士の案内に従い、会議室と書かれた表札が取り付けられている部屋に案内され、中に入ると昨日見かけた加害者の奥さんが立っていた。それから弁護士の計らいで、それぞれの挨拶や自己紹介を交わし、そしてオフィスチェアに腰を掛けた。
 弁護士が透明なクリアホルダーから、今日見た謝罪文を僕と千歳の前に並べ「早速ですが、被疑者の奥様から謝罪の言葉を述べて頂きたいと思います」と言った。加害者の奥さんは立ち上がり「この度、夫の栗山蒼太が勤務中の森若様に対して暴行を働き怪我を負わせた事を深くお詫び申し上げます」と述べ、深くお辞儀をした。続けて奥さんは「夫のとった行動は大人としてあるまじき行為で、それに伴い関係各所様に多大なご迷惑をおかけました。改めてお詫び申し上げます」と丁寧な口調で言い再び深くお辞儀をした。しかし僕が奥さんを呼び出したとはいえ、このように何度も謝罪をされては、奥さんが可哀想に思えてきた。奥さんが罪を犯した訳ではないのに……僕は本当に余計なことをしたと罪悪感に苛まれた。
 奥さんは立ったままで、どうやらまだ続きがあるらしく「怪我をされ精神的にもお疲れになっているかと存じますが、本日は示談交渉に応じて頂きありがとうございます。今回の傷害の件ですが、せめてもの償いとしまして、怪我に関する治療費や精神的な苦痛を負わせたことに対して慰謝料を、誠心誠意を尽くして賠償させて頂きたいと存じます」と、奥さんは弱々しく悲痛な面持ちで述べ深くお辞儀をした。これ以上、奥さんの謝罪を聞かされてしまうと、僕の心が罪悪感で押しつぶされそうなので、僕は立ち上がり「こちらこそ、謝罪の言葉を聞けただけでも救われたような気分になりました。ありがとうございます」と区切りの言葉を述べ、僕は席に座った。そこで千歳が「奥様、どうかお座りになってください」と、まだ深くお辞儀をしている奥さんに対して着席を促した。奥さんは席に座ったが、疲れ切っているような覇気のない顔をしていた。よく見ると奥さんの目は充血しているようで、かなり泣いていたか極度の寝不足かのどちらかだろうと思った。
 千歳が弁護士に「被疑者の栗山さんは、今はどのような状況なのでしょうか?」と尋ねた。
「今は留置場で警察からの取り調べに応じています。今朝も接見して参りましたが、犯した罪を反省し森若様に償いたいと申しておりました」 
「既に犯した罪を償いたいと反省されているのでしたら、こちらもなるべく示談に応じたいと思いますので、よろしくお願いします」
 千歳はこういうことに場慣れしているのだろうか、緊張した様子もなく堂々とした受け答えをしていた。
 それから千歳は「奥様も色々とご足労をなされているかと思いますが、旦那様が不在となって困ったことはありませんか?」と尋ね、奥さんが「ええ、色々と困ったこともありますが、今はこうして交渉の席にいるのでありがたいと思っています」と申し訳なさそうに言った。
「旦那様のお仕事関係は、どのように対処されていますか?」
「実は夫のことですが会社経営をしておりまして、会社の関係者には夫が傷害事件を起こして留置場にいる旨を伝えました」
「経営者なんですね。旦那様が不在だと会社の業務にも影響が出てきていませんか?」
「どうも来週の水曜日に北海道で大事な会議の予定があったようで、スケジュールの調整をするにしても、夫がいつ戻ってくるか分からないので検討している状況です」
 あの加害者が経営者だと考えると、反社会的組織の会社なのかもしれないなと思った。それから千歳がどのような業種の会社なのかと尋ねると、奥さんは「医薬品の卸会社です」と答えた。ものは言いようで大麻のような薬物を医薬品と言って闇取引をしている反社会勢力ではないかと僕は疑った。
 千歳の質問は続き「医薬品の卸会社ですと営業管理者として薬剤師も必要になりますし、流通のネットワークも構築し運用しなければならないかと存じますが、そう考えますとかなり大きな会社を経営されているのですね」と、どうやら専門的なことを尋ねたようだが、僕にはさっぱり分からなかった。千歳の質問を受けて奥さんは「先代からの会社で全国に八カ所営業拠点がありますので、大手ではありませんが中規模程度の会社だと思います」と言った。僕のイメージとは全く違う加害者の情報だったので、ため息をつきそうになった。あの暴力男がそこそこきちんとした会社の経営者だと? はあ?。
 それから千歳は「それだけの規模の経営者が不在となると、業務にも多大な影響が出る恐れがありますね。従業員も沢山抱えているでしょうから、早く示談成立に向けてやっていったほうがいいですね」と言うのだが、まるで加害者側に加担するような発言だったので、千歳は地位や名誉のある人には歯向かえないのだなと思った。千歳も結局は所詮その程度の人間で、交渉には不向きだなと感じた。
 奥さんも気を良くしたのか少し表情も柔らかくなり「そこまで配慮して頂きありがとうございます。こちらも誠心誠意、示談成立に向けて努めて参りますのでよろしくお願いします」と言った。
 それから弁護士は示談書と書かれた用紙をそれぞれに配布し、内容を声に出して読み上げていった。甲が森若聡で乙が栗山蒼太と記載された示談書を見ていると、社会人になったらこうしたややこしい(・・・・・)契約書を目にする機会が増えるのだろうと思った。それからも弁護士の読み上げる示談書の内容に耳を傾けていると、「乙は甲に対して本件の示談金として金百万円の支払い業務を負う」と言い、僕はその言葉を聞いてびっくりした。僕は改めて確認の為に示談書に目を通すと、確かに金百万円と記載されていた。さすがに百万円は多すぎるだろうと思い腰が抜けそうだったが、やはり会社経営者にもなれば百万円という金額でもぽんと出せるのだろう。
 その後も弁護士は示談書の内容を読み続け、加害者は被害者と接触しない事や守秘義務としてお互いに一切口外しない、また面倒くさそうなのが被害届を取り下げるといった取り決め事項が沢山あった。全てを読み上げた弁護士は「以上が示談書の内容となりますが、ご質問等はございませんか?」と示談書の質疑応答の時間となった。千歳を見ると考え事をしているような渋い顔つきになっており、どのように交渉を進めるのだろうかと僕は興味を持った。しばらくして千歳が「弁護士さんにお伺いしたいのですけど、今回のようなケースでの示談金の相場を教えて頂けますか?」と尋ねた。
「怪我の内容と治療費、それに慰謝料を含めて五十万円前後が相場になっております」
「そうすると、相場よりも二倍の金額を提示されているということですね。それではその内訳を教えてくれますか?」
 千歳も本格的に示談書の内容について精査をしようとしていることが僕にも分かった。弁護士は千歳の方を向いて「怪我の内容が六針を縫う切り傷と、歯を一本欠損していますのでその治療費や今後の通院に伴う諸費用、欠損した歯の差し歯代として三十万円。残り七十万円が慰謝料になります」と説明した。
 僕はそれを聞いていて、なぜそのような金額になるのか全く分からなかった。どのような計算式を用いて金額を算出し、それも慰謝料という精神的な償いの金額も、何か計算式が存在するのだろうかと不思議に思った。
 皆がその示談書の内容に集中しているのか静寂が続き、やがて千歳が「内訳は分かりました。その慰謝料の七十万円というのが、どうも引っかかりまして。森若君から事件のことを聞いたとき、一本の歯を失ったことを大変悔やんでいました。どうしてだか分かりますか?」と弁護士に向けて尋ねた。僕はそんなことを千歳に言っただろうかと記憶を遡ってみたが見当たらなかった。弁護士は困惑したような表情になり「存じ上げませんが、どのように悔やんでおられたのでしょうか?」と千歳に尋ねた。
「森若君は歯を一本失って、せっかく親から授かったものなのに、今回の暴力を受けて親に対してどのように説明をすればいいかと私に相談してきました。森若君は親思いで生んでくれたことをよく感謝する人です。森若君は母の日に陶芸品をプレゼントする為に、昨年から陶芸教室に通い陶芸の基礎を学んでいました。そして今年の春に、岐阜の美濃に出向いて湯飲みの陶芸品を手作りで完成させました。その湯飲みをわたしも見せてもらいましたが、淡い肌色の色合いがピンクを連想させるようなとても可愛らしい湯飲みでした。手作りの陶芸品を母の日にプレゼントするのが森若君です。その森若君が親から授かった貴重な歯を失い、親に申し訳ないと悔やんでいました。森若君にとっては、たかが一本の歯ではないのですよ」
 いやいや、全く事実にない与太話をなぜ千歳はするのだろうか。僕は親不孝者で親に生んでくれたことを感謝したこともないし、母の日という存在は知っているが、そのことについて考えたことすらない。どういう意図があって、そのような与太話を披露しているのか全く分からなかった。
 弁護士も「おっしゃる通りですね」と言うだけで、困惑した表情になっていた。続けて千歳は「今回の事件ですが、森若君の話によれば殴られたことも気づかずに倒れたと聞いています。それは避ける行動すら出来なかったということです。今回はたまたま、左の頬を殴られて口内に傷を負い歯を一本失いました。みなさん、ここをよく見てください」と千歳は左手をグーにして、それを自身の左頬に当て「森若君はここを殴られました。ここの近くに何がありますか? すぐ横に目と耳がありますよね。森若君がもし反射的に避ける行動をしていた場合、拳が目に突き刺さっていたことも考えられますし、拳が耳を打った場合には鼓膜が損傷することも考えられますよね。最悪の場合は目を失明したり耳が聞こえなくなったりすることも考えられます。ここでよく考えて頂けませんか? 森若君が避ける行動を取らなかったから、目や耳を損傷せずに済んでいます。ここを殴るというのは脳にも近いですし、実際に森若君は脳震盪も起こしています。ここは大変危険な場所です。奥様に伺いますが、もし娘さんが誰かに殴られて、目が失明したり耳が聞こえなくなったりした場合、耐えられますか?」と千歳は興奮気味なのか、少し強い口調で言った。さすがに奥さんの娘さんを出してくれるのは卑怯だろうと僕は思ったが、奥さんは「いいえ、とても耐えがたいです」と身体を震わせながらそう言った。
「そうですよね、耐えられないと思います。奥様にそのことを加味して頂いて、それでも慰謝料は七十万円を提示されますか?」
 千歳は慰謝料を吊り上げようとしているのか? だからあのような与太話をしたのだと、ようやくそこで僕は気づいた。加害者の奥さんを見ると涙を流し小刻みに震えているので、なんだか可哀想だなと思った。弁護士が「奥様、大丈夫ですか?」と寄り添うように近づいたが、その奥さんは鞄からハンカチを取りだし涙を拭った。
 ややあって、奥さんは目を閉じ深呼吸を一度した後に僕達に向けて「慰謝料が七十万円では申し訳ないと思います。失礼かと存じますが慰謝料はどれくらいをご希望ですか?」と、か弱く振り絞ったような声で問いかけてきた。それを受けて千歳は「お気持ちの問題ですから、こちらから金額を提示することはないです。よく考えて頂けませんか?」と、また強い口調で言った。千歳はあの奥さんの様子を見て何も感じないのだろうか――全く容赦がない。
 しばらくして加害者の奥さんが「五百万円ではどうでしょうか?」と金額を提示してきた。僕は聞いたこともないような金額を提示され度肝を抜かれたが、千歳は「それでしたら慰謝料が五百万円で、治療費やその他諸費用として三十万円の合計五百三十万円が示談金ということで宜しいですか?」と先程までとは違い、柔らかく納得したような語り口で確認をした。加害者の奥さんは「はい、間違いございません」と、あたかも国会中継で見る所信表明のような力強さでそう言った。しかし弁護士は面白くなかったのか眉が上がっており、加害者の奥さんに対して「奥様、本当に宜しいのですか? 相場の十倍以上の示談金になりますし、考え直されてはいかがですか?」と再考を訴えていたが、奥さんは「いえ、こちらの金額で示談が成立するのなら、それで結構です」と奥さんは答えた。
 千歳は僕の方を向いて「森若君、示談金が五百三十万円だけどいい?」と聞いたきたが、僕は千歳にやり過ぎだと言いたい気持ちで一杯だった。しかしここまで来てしまった以上、どうすることも出来ないと思いつつ、少し悩んだが決意して、僕は「はい、示談金に納得しましたので示談に応じます」と伝えた。
 弁護士は納得していないのだろう、不服そうに少しだけ眉間にシワが寄っていた。弁護士からしてみれば相場の十倍以上もの示談金を成立させてしまうのは、汚点になってしまうのかもしれない。ただそうは言っても既に示談成立の兆しが見えている以上、引き延ばすことも出来ないだろうし、弁護士も諦めがついたのか「それでは、他に示談書の内容に問題がなければ、これで示談成立となりますが、いかがでしょうか?」と尋ねてきた。それに対し千歳は「はい、問題ありませんのでこれで示談成立としてください」と伝えた。
 それから弁護士は、示談書に記載してある示談金を訂正し、明日その書類を僕の職場に持ってくるのでその時に署名と捺印をお願いしますと伝えてきた。どうやら弁護士は明日バイト先の事務所に出向いて、板倉さんにこちらの示談が成立したことを報告し、残る威力業務妨害の示談交渉をするとのことだった。
 これでようやく緊張の糸が切れ、僕は軽く背伸びをした。僕は千歳に「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と言い千歳は肯いた。そこで加害者の奥さんが「これから大阪に帰られるのですか?」と聞いてきたので、「はい、今から大阪に帰ります」と返したが「もしご迷惑でなければ、ここから車で十分程度の場所にある日航ホテル奈良のお部屋をこちらですぐにご用意致しますが、いかがですか?」と尋ねてきた。さすがにそこまでお世話になることもないので断ろうと思ったが、千歳が「お言葉に甘えて宜しいですか?」と、どうやら本気でお言葉に甘えるようだった。いやいやいや――やはり僕と千歳は感じることや考えることがあまりにも違うのだなと思った。そして加害者の奥さんが「それでは二部屋すぐに手配しますね」と僕達に伝えると、千歳は「出来ればツインルームの一部屋がいいのですが」と注文までつけたのだ。千歳は完全にやりたい放題の遠慮をしない女だった。
「はい、承知しました。すぐに部屋を取りますので、少しお待ちくださいね」と加害者の奥さんはホテルに電話をしたようだった。千歳を見ると当然のことのように堂々としているので、本当に理解するのに苦しむ人だなと思った。しばらくして「JR奈良駅前の日航ホテル奈良でツインルームを一部屋ご用意致しました。森若様のお名前で予約しておりますが、料金はこちらで支払っておきます。本日はご足労頂いたので、ゆっくりとお過ごしください」と加害者の奥さんは丁寧にお辞儀をした。それを聞いた千歳は「ホテルまで手配して頂きありがとうございます。明日も仕事ですので、今日はこの辺りで失礼させて頂きます」と言い、両手を添えてお辞儀をした。僕も「今日はありがとうございました。それでは失礼します」と挨拶をして、弁護士事務所を後にした。

 ビルを出ると人通りはほとんどなく涼しい風が吹いていた。僕は千歳に「お疲れさん」とねぎらいの言葉をかけると、千歳は「森若君もお疲れ様」と返してくれた。
 駐車場に到着し千歳を車に乗せエンジンを掛けた。
「ホテルの名前、なにやったっけ?」
「日航ホテル奈良」
 僕はナビに目的地を設定し、ナビの案内に従いホテルへと向かった。
「なんでツインルームの一部屋に変更したん? 別々の部屋でええやろ」
「きっとあの人は、シングルを二つ手配するようなことはしなかったと思うの。ダブルかツインの部屋を二部屋用意してたと思うから、一部屋でお願いしますと言ったの。ホテルまで手配してくれるんだから、少しでも気遣いを見せておいたほうがいいと思ったからなの」
「千歳もよくそこまで相手の考えそうなことを推測出来るもんやな。じゃあ、慰謝料も五百万円ぐらいは出すと見越してたん?」
「そこまで見通せてはなかったよ。正直、五百万円の金額を聞いてわたしもびっくりしたんだから。せいぜい三十万円ぐらいは吊り上げられるかなと考えてたぐらい。でもね、ハリー・ウィンストンのダイヤの指輪をはめてたから、きっと経済的に余裕のある人だろうなって思ってたよ」
 千歳のそうした観察眼は、どこで養われたのだろうか、それとも僕があまりにも観察しなさすぎなのだろうか。千歳は人間観察の分野ではかなりの実力の持ち主ではないかと思った。いや、それだけではなくて心理学部の中でも優秀な成績を収めているのではないかと思い、ふとそこで疑問が湧いたので、僕は千歳に「弁護士の交渉術を勉強しにきたんじゃなくて、千歳の交渉術を試しにきたんやろ?」と質問した。
「特に交渉術を使った訳でもないよ。最初からこちらの方が圧倒的に有利だっただけ」
「圧倒的に有利ってどういうこと?」
「森若君が、あの奥さんを交渉の場に引きずり出した時点でこちらは有利だったの。あの弁護士はあくまで加害者の代理人で、こちらが示談内容をこうして欲しいとお願いしても、すぐに返事は出来ないの。加害者かその親族に確認を取らないといけないし時間もかかるの。加害者の奥さんが交渉の場にいるんだから、弁護士よりも奥さんの方が権限を持っているんだし、その奥さんの心理を揺さぶり続けていたら必ずどこか綻びが出ると思ったし、そういう状況が圧倒的に有利だったの」
「それじゃ、交渉術というよりかは心理学の観点から交渉してたの?」
「そうね、最初にわたしは奥さんに色々と質問してたでしょ? 困ったことはないですかとか、加害者の仕事先の対応はどうされてますかとかね。被害者側の私達が加害者側に対して配慮する姿を見せていたら、向こうも質問されたこと以上の情報を話してくれたりするの。そういう情報を聞き出しながら、早く示談が成立しないと大変なことになりますねと同情と共感を示して、こちらも早く示談が成立するように協力しますという姿勢を見せていたら、多少無理なことでもYesと言ってくれる可能性が高まるの。交渉の基本は絶対に敵対しないこと。同情と共感、そして協力する姿勢を示したら相手に好印象を与えて交渉も優位に進めることが出来るの」
 僕はその話を聞いて記憶の中の一ページを思い出し「そういえばアメリカにいた頃な、銀行強盗犯が銀行に立て籠もった事件の特集をテレビで見たことがあって、交渉人が銀行強盗犯と交渉しているとき、ずっと犯人に寄り添って話をしてたわ。それでな、犯人は自分のことに対して理解を示してくれる交渉人に友情みたいな情が芽生えて泣き出してな。犯人がその交渉人に、武器を捨てて自首するから後で一緒にコーヒーでも飲みながら話そうと言って、交渉人も是非そうしようと応じて、ドラマみたいな展開で感動したことがあったわ。確かに敵対してなかったもんな、犯人にずっと寄り添っている感じやった」と当時の感動を蘇らせ千歳に話した。
「アメリカの交渉人は心理学も熟知しているし、高度な交渉技術も会得しているから、わたしもそのテレビを見てみたかったな」
 千歳もアメリカの交渉人と比べて引けを取らないと僕は感じていたが、しかしあの与太話に関してはきっちりと説明をしてもらいたいと思い、「あのさ、あの与太話はなに? 俺が母の日の為に陶芸をしたとかさ、俺が親に生んでくれたことを感謝してるとかさ、俺とは違う人格の俺を登場させてたけど、それはなんでなん?」と尋ねた。
「あの奥さんがどの程度の母性を持っているかを観察してたの」
「母性を観察? それはどういうこと?」
「森若君は凄くお母さん思いですよと話をしたのはね、あの人は森若君のお母さんについてなにも知らないでしょ? そういう時って大体の人は、自分のお母さんを思い浮かべるか、自分自身を母として考えるかのどちらかに置き換えて想像したりするの。例えばね、私がお母さんにネックスレスをプレゼントしようと思ってるって森若君に話したら、どういう想像をする?」
 僕は頭の中で想像してみた。
「そうやな。俺は千歳のお母さんを知らんから、千歳しか思い浮かばんな。千歳はお母さんにプレゼントをするんやってな感じになるし、俺やったらそういうプレゼントをすることはないなと考えるかな」
「そこなのよ。自分と置き換えて想像するでしょ? 自分ならプレゼントをしないと考えることが置き換えなの。自分の環境や状況と照らし合わせて考えてしまうのが人間なのよ」
「なるほどな、確かにそうやな」
「母の日に森若君がプレゼントをする話をした時、あの人は自分が母にプレゼントをする光景か、娘さんから母としてプレゼントを貰う光景かのどちらかを想像するの。それでねその話をした時、あの人は一瞬だけ口角が上がって瞳孔も開いて母性的な優しい表情になっていたから、きっと娘さんから母の日にプレゼントを貰う想像をしていたと思うの」
 千歳が説明していることはなんとなく分かるのだが、しかしそこまで相手のことを観察するのは、もはや病的ではないかと感じた。
「言わんとしてることは、なんとなく分かるけど……それで?」
「あの人が一瞬だけ母性的な優しい表情になった時点で、あの人は錯覚を起こしてるの。あくまでプレゼントしたのは森若君なのに、置き換えの想像をしているから、娘さんが森若君の代わりになっちゃったの。プレゼントをしたというグループの中に、森若君とあの人の娘さんがいるイメージ。そこまでは分かる?」
 確かに置き換えたらそういう発想に結びつくなと思い、僕は「イメージは出来る。それで?」と千歳にその先の話を求めた。
「あの人の頭の中ではプレゼントをしたというグループの中に、森若君と娘さんがいてるけどまだ関係性が浅いの。森若君とあの人の娘さんがイコールになるように、もっと強いイメージの結びつきが必要だったの」
 僕はその言葉の意味をきちんと理解しようと思い脳内で整理した。
「じゃあそれは、被害者の俺と娘さんをイコールにすることで、娘さんが被害に遭ったと錯覚をさせる為に必要があったってこと?」
「そういうこと。それでね、森若君の殴られた頬の部分について、わたしは色々と話をしていたでしょ? 一歩間違えていたら失明していたかもしれないし、耳も損傷して聞こえなくなっていたかもしれないって。耳が聞こえなくなっていたかもしれないという言葉はね、あの人の娘さんのうち一人は聴覚障害者だと思うから、イメージの結びつきを一気に強める為にその言葉をあえて使ったの。あの人の娘さんイコール森若君という構図を完成させることで、心理的にあの人の娘さんが被害に遭ったような錯覚をしてしまう。そこでねトドメの一撃を刺すような質問をわたしはしたのよ。もし娘さんが同じように殴られて、失明をしたり耳が聞こえなくなったりしたらどうしますかって。その質問をしたことで、森若君とあの人の娘さんは頭の中でイコールの関係性になってしまったの。それであの人の母性に針を刺すことになったから、少し可哀想なことをしたけど、あの人は臨場感を持って娘さんが暴行を受けて悲惨な目にあったような錯覚をして、悲しみと苦しみの感情が心を支配してたと思う。実際にあの人はそういう表情になっていたし怯えるように震えていたし、効果はあったと思うよ。でもその結果、慰謝料が吊り上がりすぎて森若君にとっては後味の悪い感じになってしまったと思うけど」
 そこまで計算ずくで千歳は交渉をしていたのかと思うと恐怖すら感じた。人の心の急所を突くのに、ためらいはなかったのだろうかと……。千歳は人の急所を突くために心理学を学んでいるのだろうか……。それでも僕は千歳の行動を否定するつもりはなかった。千歳と出会って数年だが、僕は千歳に心の急所を突かれたことは一度も無い。むしろよく相談に応じてくれる頼もしい人物であることは間違いないのだ。だから僕は千歳に「よくそこまで頭を使うことが出来るよな、あっぱれとしか言いようがないわ。ひとつだけ分かったことがあるねんけど、俺と千歳が敵対した場合、俺に勝ち目はないことがはっきりしたわ」と少し笑いながらそう言った。すると千歳は「わたしはどんなことがあっても、森若君の味方だから敵対することはないよ」と断言するかのように言うのだが、人間なんていつどう転がるか分からないので鵜呑みには出来なかった。
 やがて「目的地周辺です」とナビからのアナウンスがあり、日航ホテル奈良にやってきたが、どうやら地下に駐車場があるらしくその入り口を探すのに苦労した。
 地下の駐車場に入ると、半分ぐらい駐車スペースは空いておりエレベーターに近い場所に車を停めた。車を降りると天井から照らされる光がとても眩しく感じ、どうも目が少し疲れているようだった。エレベーターを呼ぶボタンを押し待っていると、千歳が「着替えとか持ってきていないでしょ? 先にコンビニに行って着替えとか飲み物とか買わない?」と言ってきたので、僕は「ああ、そうやな。下着とか靴下とか買わなあかんな」と同意した。エレベーターに乗り、ひとつ上の一階で降りた。ホテルを出ると遠くの方で雷鳴が聞こえてきた。僕は千歳に「雨が降るかもしれないな、急ごうか」と言い、コンビニへと急いで向かった。
 ホテルから一分ほどの場所にローソンがあった。店内に入ると時計が目に入り午後十一時半を過ぎていた。僕はインナーとボクサーブリーフに靴下、それと缶コーヒーを購入し、外へ出て千歳が買い物を終えるのを待っていた。僕は煙草を吸いたい衝動に駆られ、店の周辺に灰皿はないかと探したが無く、我慢するしかなかった。ホテルも今は全室禁煙が当たり前の時代なので、どうしようかと考えていた。
 しばらくすると千歳が店から出てきて「おまたせ。当たりくじをしてたら四千円も使っちゃった」と笑顔で言い、マイメロディやキティちゃんのグッズを抱きかかえるように持っていた。千歳のそういう意外なところを見てしまい、僕は思わず「千歳ってそういうキャラクターのグッズが好きなん?」と驚いた感じで言ってしまった。千歳は「女の子なら誰だって好きでしょ? わたしのこと男だと思ってたの?」と少し強い口調で問い詰められ、「いや、そういうことじゃなくてな。なんやろな……似合わないとかじゃなくて、どう言ったらええんやろうな……なんか女の子っぽいなとか……じゃなくて意外やなと思っただけ」と苦し紛れに僕は言い訳をした。だが千歳は「意外ってなに?」と更に突き詰めてくるので、「まぁまぁ、とりあえずホテルへいこ」と言うしかなかった。墓穴を掘るとは、まさにこういうことを言うのだろうなと思っていると、千歳が「森若君が言いたい気持ちは分かるけど、わたしだってまだまだ子供の部分があるんだから」と優しい口調でそういった。千歳の横顔を見ると、そのような子供っぽさはなく大人のような凜々しい顔立ちなので、やはりキャラクターグッズを集めるようなイメージを思い浮かべることは出来なかった。
 ホテルに到着し三階のフロントで名前を伝えると「デラックスツインルームでご予約の森若様ですね」と確認され、「はい」と答えた。その後、住所や名前の記入を終えてルームキーを貰い、僕はフロントスタッフに「このホテルに喫煙する場所はありますか?」と尋ねた。フロントスタッフは「四階のクローク横に喫煙所がございます」と場所を教えてくれた。それから僕達は八階の部屋へと向かった。
 室内に入ると中は広々としていて、キングサイズぐらいはありそうなベットが二つ横並びにあり、他にも長方形の机と二人掛けのソファが二つ配置されていた。間接照明が目に優しくて、まるで夢のような空間だなと思った。僕は机の上にコンビニで買った品物の袋を置き、缶コーヒーを取り出してから千歳に「ちょっと煙草吸ってくる」と告げ、部屋を出て喫煙ルームへと向かった。
 喫煙ルームに到着すると中には誰もおらず、僕は一人で電子煙草を吸い始めた。最初の一吸いで頭がクラっとして力が抜けていくような感覚が全身に走った。そういえばお昼休憩時に、木田さんとタバコを吸ったきりだった。木田さんが雨宮さんに対して懲らしめたいと言っていたのを思い出し、千歳に相談しなければならないが、既に睡魔に襲われそうになっており、たとえ缶コーヒーを飲んだところで、その睡魔には太刀打ち出来そうにないだろうなと思った。
 タバコを吸い終えて部屋に戻ると、千歳はソファに座っており、先程のキャラクターグッズを机の上に並べて観察しているようだった。僕はもうひとつのソファに座り、千歳に「ちょっと相談したいことがあるねんけどいいか?」と尋ねた。
「別にいいけど、たまには宇宙はなぜ存在するのかみたいな壮大な悩み事を相談してね」
「俺にはそういう宇宙規模みたいな悩み事は一つもない。いつもしょうもない相談事で申し訳ないとは思ってるねんで。今回もそういう感じなんやけどいいか?」
「うん、いいよ。どういう相談?」
「今日な、急流すべりに俺の交代要員として社員の雨宮さんがやってきたんよ。それで俺がいない間に、雨宮さんが木田さんに彼氏はいるのとか好きな男性のタイプとか聞いていたらしくて、社内でナンパをする雨宮さんを懲らしめたいと木田さんに相談されてな。俺としては、穏便に平和的な解決を望むねんけど、どうしたらいいと思う?」
 千歳は僕の話を聞き終えると微笑みだして「そんなこと木田さんも無視すればいいじゃん」と言った。
「それがな、木田さんは根に持つタイプみたいで、無視することも出来なさそうなんよ」
「昨日ね、福島さんとの交代要員で雨宮さんがやってきて一緒に仕事をしたけど、わたしも同じこと聞かれたよ」
 あの雨宮さんは手当たり次第にナンパをしているのだろうか。
「じゃあ数打ち当たる方式でナンパをしてるのか」
「恋人を探しているのは間違いないと思うけど、女性との接し方とか距離感とか全てにおいてズレてる人だから、今までもずっと誰からも相手にしてもらえなかったと思うよ」
 確かに人としてかなりズレていると僕も感じてはいた。僕は千歳に「あの人は自分が人とズレてることに気づいてないのか?」と質問をした。
「今後も気づけないと思うよ。きっと生まれてきた家庭環境が劣悪だったとしか思えないし、人格も歪みすぎている」
 千歳は雨宮さんのことを、既に観察し分析しているようだった。僕は更に知りたくなり「その家庭環境が劣悪だったと思うのは、どういう観点からそう感じるん?」と再度千歳に質問をした。
「人間の人格って七歳ぐらいまでの家庭環境と経験したことで形付けられるから、親から適切な愛情を注いでもらえなかったんだと思うよ。わたしも好きな男性のタイプを聞かれて適当に横浜流星って答えたら、舌打ちされた挙げ句にブツブツと文句を言われ続けたの。あの人は自分のことしか見えていないから、友達もいないだろうし彼女が出来るはずもないし、結婚もしたことないと思うよ」
「君も横浜流星って……ベタやな」
「適当だから誰でもいいの! それより木田さんは好きなタイプとか聞かれて、どう答えたの?」
「ああ、知ってるけど……ここだけの話にしといてな。木田さんは板倉さんの姪なんよ」
 それを聞いた千歳は「ええええー、DNAが離れすぎてる」と大声で言った。
「俺と同じ反応やな。それでな、木田さんは雨宮さんに板倉さんの愛人やから板倉さんがタイプですって嘘を言ったらしくてな。それで雨宮さんに気持ち悪いと言われて、それも含めて懲らしめたいと駄々をこねてるねん」
「木田さんってユーモアのセンス抜群だと思うよ」
「余計にややこしくしてると俺は思うけどな」
 よほど木田さんのことが面白かったのか、千歳は笑い続けていた。
「そんなにおもろいか?」
「そういうの好きだけどなぁ、雨宮さんが真実を知ったときのことを考えるとウケる」
 確かに雨宮さんが真実を知ったとき、発狂するかもしれないなと想像したら笑えてくる。そんなことより僕は千歳に「まぁ確かに面白いけど、なにかいい方法はないか?」と尋ねた。千歳は「わたしが木田さんと話をする機会があったときに、雨宮さんはどんなことをしても懲りない人だから、懲らしめるのは不可能ということを説得してみる。きっと木田さんも、理解してくれると思うから」と言った。
「千歳ありがとうな。その件頼んどくわ」
 これで全ての悩みが解決したような気持ちになり、僕の気持ちは穏やかになっていた。
 しばらくすると千歳が「先にお風呂入っていい?」と聞いてきたので、「ああいいよ、俺は後でいいから」と言ったのだが、千歳は神妙な顔つきになり、「ひとこと言っておくけど……エッチするときは電気消してね」と恥ずかしげに色っぽく言ってきた。僕は少し笑いながら「なんでここで女っ気を出すねん。それに演技も下手やし、からかうなよ」と言った。
「だからね、昨日も言ったけどそういう応対をするからエッチ出来るチャンスを逃してるの! ムードもへったくれもないんだから」
「ムードって……そんな下手な演技で言われてもやな。とりあえず早よ風呂に入っといで」
 千歳は賢いのか馬鹿なのかよく分からなくなる時がある。それに千歳とエッチをすることはないだろうし――千歳とはそういう色恋の仲ではなくて、ずっと友達でいてくれる方が有り難い。よく相談にも乗ってくれるし、よく話をする仲だし、友情という関係性なら無理なく付き合える数少ない友達だと僕は思っている。
 千歳が風呂から出てくるまで、僕はベッドで横になって待っていようと思った。柔らかいベッドは本当に心地がよく、シーツの生地を手で撫でながらその感触を楽しんでいた。こういう柔らかいベッドで横になるのは……。
 
 ガタガタと震える機体が左に大きく旋回し身体の左側に強い重力を感じた。かと思えば今度は右に大きく旋回し平衡感覚を失った鳥のようだった。僕は飛行機の中で命の危険を感じ、これで人生が終わりなのかと思うと自然と涙が溢れ、ここから逃れたいと必死に祈っていた。僕の右手を誰かが強く握り、決してここから逃さないと金縛りにあったように身体が動かなかった。僕はその右手にある手を振り払おうと必死になって抵抗をするも、やがてエンジン音が異様な高音でさざめきだした。急降下する機内では、いかに人間が無力であるかを思い知らされた。窓の外はもう手が届きそうなところに地面があり、僕は……。
 
 目が覚めると知らない部屋だった。過呼吸になっていた僕は息を整えることに必死になり、体中から噴き出る汗の不快感により少しずつ現実の感覚が戻ってきた。そういえば僕はホテルにやってきていて――そうだ、千歳が風呂から出てくるのを待っていたことを思い出した。ふと室内を見渡すと、隣のベッドで千歳が寝ているようだった。
 いつぶりだろうか、この悪夢を見たのは。幼少期の頃から僕は悪夢を見るパターンのひとつに、飛行機が墜落する最中の夢を幾度も見てきた。僕がアメリカで暮らしていたとき、親の都合で日本の親戚に会うために一年に二度ほど帰国する必要があった。その帰国の度に飛行機に対する恐怖心が目を覚まし、僕を恐怖のどん底に突き落としていた。何度も飛行機の中で真っ青になり、その後二日間ぐらいは食事さえ喉を通らなくなっていた。僕はそういうトラウマを抱えながら今まで生きており、飛行機での移動は金輪際しないと誓っている。僕の父は国際線のパイロットをしているのだが、僕の飛行機恐怖症に対して理解を示してくれることが今まで一度もなかった。それどころか飛行機は安全な乗り物だと言うばかりで、父と分かり合えることはなかったのだ。
 僕は汗を流す為に風呂に入ろうと思ったが、疲れ切っているのか思うように身体が動かなかった。風呂は起きた時に入ろうと思い、そのまま眠りにつくことにした。
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