第8話

文字数 18,909文字

   八

 カーテンの隙間から漏れる太陽の光が、僕の目の辺りに熱を伝えた。目を閉じていても光を感じ、僕はそれを遮ろうと目の上に腕を置いた。しかし、じわじわとした熱によって次第に腕に痒みを感じ、僕は腕を掻きむしった。「ぬあぁ!」と僕は叫んだ。
 心地の良い朝を迎えるはずが、太陽はそれを許してくれなかった。何が何でも心地の良い目覚め方をしたかったので、僕は二度寝をすることにした。寝返りを打ってうつ伏せになり枕に顔を埋めると、洗い立ての枕カバーから金木犀の柔軟剤の匂いが鼻に優しさを与えてくれた。その匂いに包まれて眠りにつこうとしたが太もも辺りが落ち着かず、どうしても動かしたくなったので僕はベットの上で平泳ぎのフォームを真似た。
「自分は蛙だ」と心に言い聞かせ、ゆっくりと平泳ぎをしていると、次第にその動きが心地よくなりスピードアップをして、「森若選手、あと十メートルで念願の金メダルだ。これは早い! 圧倒的な差を付けて森若選手あと一メートル。森若選手、タッチしてゴール。念願の金メダルだ! なんと男子百メートル平泳ぎでオリンピックレコード!」と叫んだ。このような下らないことをしているのは世界でただ一人、僕だけだろうと思った。
 二度寝も出来そうになかったのでスマホを手に取り時間を確認してみると、午前十時を過ぎていた。木田さんから今朝の午前七時二分に『おはよう。めっちゃ嫌な夢を見たわ。せっかく買った液タブが、カラー表示じゃなくてモノクロ表示になってたから夢の中で泣いてた』とメッセージが届いていた。僕は『木田さんの見る夢は、個性的すぎるよな。モノクロ表示の液タブがあったら、それはそれでレアやし、オークションで高く売れるで。一昨日届いた液タブは紛れもなくカラー表示なんやろ?』と返信した。
 木田さんとのLINE履歴を眺めていると、アルバイト最終日の夜に三時間程通話をして以降、毎日通話をするようになっていた。昨日の九月四日時点で、合計八回にも及ぶ通話をしていることが分かった。僕も木田さんも十月からは大学後期が始まるので、今は日中でも時間が合えば通話をすることが出来る。ただ、僕としては実際に会って話をしたかったので昨日、「一緒にご飯でも食べに行かへんか?」と木田さんを誘ってみたが、イラスト制作の勉強に励みたいからと断られていた。木田さんは念願の液タブを手に入れたのだし、それを使ってイラストを描きたい気持ちもよく分かるので、今は待つしかないのだろう。その時、LINEの着信音が鳴り画面には木田さんと表示されていたので、僕は応答ボタンを押した。
「おはよう。いきなり通話してごめんな」
 木田さんからの通話であれば、たとえ寝ていたとしても嬉しいものだ。
「おはよう。通話は大歓迎やで」
「ちょっとな、どうしても違和感があるから言っておきたいことがあるねん」
 一体、何の違和感なのだろうか。あまり喜ばしい話ではなさそうな気がした。
「違和感って、何か嫌な感じでもあるの?」
「嫌とかじゃなくてな、名前の呼び方を変えて欲しいねん。あたしと森若君の間柄は友達やけど、ちょっと距離感が遠いから違和感を抱くねんよ。あたしは由美子って呼ばれたいし、森若君のことを聡君って呼びたい」
 まさか木田さんが、名前の呼び方について違和感を抱いていたとは思わなかった。
「距離感かぁ。木田さんのこと、いきなり由美子って呼び捨てにしてもええの?」
「あたしの我が儘なんやけど、お父さんに由美子って呼ばれてる時な、すごく幸せな気持ちになるんよ。お母さんは除外ね。お父さんはほとんど家にいないから由美子って呼ばれる機会が少ないし、好きな人から由美子って呼ばれたい願望が強いのもあるねん。いつまでも木田さんって他人行儀に呼ばれるのも嫌やし」
 確かに木田さんのお父さんと会った時、木田さんはお父さんから由美子と呼ばれており、そのお父さんを見る木田さんの目つきが、まるで子供のように幼くなっていたのを思い出した。
「そういう理由があるねんな。遠慮せずにこれからは由美子って呼ぶけど、俺の下の名前が聡ってどこで知ったん?」
「聡君のタイムカードを毎日見てたから、知ってるに決まってるやん」
「タイムカードね……なるほどな。聡君の方がいいの? 別に聡って呼び捨てでもええよ」
「今は聡君がいいの。いきなりの呼び捨ては恥ずかしいやん」
 それを言うのであれば、僕もいきなり由美子と呼び捨てにするのは多少の恥ずかしさがある。だが、木田さんの違和感を解消する為には呼び捨てにするしかないのだろう。僕は「ちょっと待ってな」と言い、喉の調子を整えてから「由美子、これからもよろしく」と言ったが、やはりいきなりの呼び捨ては恥ずかしいものだった。
「聡君ありがとう。やっぱり由美子って呼ばれる方がいいわ、すごく嬉しいし」
 由美子は、本当に嬉しそうな声だった。
「違和感はそれだけ? 他にあったらなんでも言ってや」
「他は特にないよ。今日の聡君の予定は?」
「えっと……ちょっと待ってな」
 僕はスマホのスケジュールアプリを開き、九月五日の欄を見た。すると千歳と午後八時に近くのファミレスで会う約束をしていた。
「今日な、夜の八時に千歳とファミレスで会う約束をしてるわ。来月にな、山梨県にある青木ヶ原樹海に連れて行って欲しいと千歳にお願いをされててな、それの打ち合わせで」
「え? それって千歳さんと二人っきりで旅行なん?」
 明らかに由美子の声は嫌そうだったので、誤解を解こうと思った。
「そういうことになるけど、千歳と俺の間にはそういう感情とか一切ないで」
 すると由美子は黙り込んだ。考えても見れば僕と由美子は信頼関係を構築している最中だし、千歳と旅行に行くのを快く思わないのも当然だ。
「由美子からしたら、確かに嫌な気持ちになるよな」
「嫌な気持ちというか、いつ約束したんよ」
 僕は自分の記憶を辿った。
「確か千歳がアルバイト最終日の時やったと思う。先月の二十五日かな」
「じゃあ、まだあたしと聡君は友達にはなってなかったよね」
「確かにそうやな。どうもな、千歳は自殺する人の心理を卒論のテーマに掲げてるみたいで、自殺名所で有名な青木ヶ原樹海を一度見ておきたいって言ってたんよ。俺は登山とかキャンプとかのアウトドアに関しては知識も豊富やから、俺に引率をして欲しいって千歳にお願いされたんよ」
「それって、樹海の中でキャンプをするってこと?」
「そういうことになるね。いくら友達になる前に約束をしたとはいえ、これは断った方がええよな」
「別に行ってもいいねんけど、それは二人じゃないと駄目なん?」
「いや、そんなことはないと思うけど。そうや、由美子も一緒に行くのはどう?」
「絶対に嫌! テレビで見たもん。青木ヶ原樹海って富士樹海のことやろ? テレビの中で出演者の人達が急に体調が悪くなって恐怖を感じてパニックになってたもん。霊媒師の人も除霊が出来なくて怖くなって逃亡したんよ。そんなところに行きたくないやん」
 僕はその話を聞いて、恐怖心が湧いてきた。
「まじか……そこまでヤバいところなんや。幽霊とかに取り憑かれるのも嫌やし、自殺した人の遺体や遺留品を見つけてしまうのも嫌やし参ったな。千歳は霊的なことに対して否定的やから、そういうの気にもしてないみたいやし。断った方がええのかもな」
「約束したんなら、守らんとあかんで。でもな、やっぱり二人では行って欲しくない。行くんやったら男の人を一人追加して三人にして欲しいし、必ずスマホのカメラを使って三人でいるところを写真で撮って送って欲しい。それやったらあたしもヤキモチを焼かずに済むし」
 はっきりとヤキモチと表現するところが、由美子の純粋さだなと感じた。
「じゃあ、千歳に男性を一人追加してもらうようにお願いしとくわ。もう一人増やすことが出来なかった場合は、引率の件は断ることにする。俺と由美子が友達から始めてるって話、まだ千歳には言ってないねん。それを話したら断る理由にもなるし、理解もしてくれると思うよ」
「千歳さんの事は嫌いじゃないけど、あたしとは結婚を見据えて友達から始めてるって言っといて」
 結婚という言葉を聞いて、僕はドキッとした。
「由美子は結婚まで見据えてくれているの?」
「あたしの話じゃないの。千歳さんに念を押しとくためにも、そう言って欲しいだけ」
 由美子はきっと嫉妬深いのだろう。これからは勘違いされるような行動を慎む必要があると感じた。
「分かった。千歳には必ずそう言うよ」
「うん、ごめんね」
 それから由美子と少し話をした後に通話を切った。由美子と呼べるようになったのはいいのだが、告白はいつするべきなのだろうか。その事について、いっそのこと千歳に相談しよう。どうせ結婚を見据えて由美子と友達から始めたと千歳に話す必要もあるのだし……結婚を見据えて……よくよく考えてみると結婚を見据えて友達から始めるという話を聞いたことがない。そもそもそんな言葉が存在するのだろうか。付き合うならまだしも、友達からって……千歳に「なにそれ? どういう意味?」と言われそうな予感がした。
 
 午後八時前に、僕は千歳と待ち合わせのファミレス駐車場に到着していた。千歳から五分程遅れると連絡があったので、車の中で待機していた。ラジオを付けると、いつの時代か分からない古めかしい曲が流れていた。

 ラーメチャンタラ ギッチョンチョンデ
 パイノパイノパイ パリコト パナナデ
 フライ フライ フライ
 
 なんだこの変な曲は……と興味を持って聞いているとすぐに曲が終わり、アナウンサーが「榎本健一さんで、東京節パイノパイノパイでした。大正七年の音源をそのまま放送いたしましたので、歌詞の中に不適切な言葉がありました。重ねてお詫び申し上げます」と言っていた。僕は大正と聞いて、大正デモクラシーしか思い浮かべることが出来なかった。まさか大正時代に歌があったとは……それにしても、ラーメチャンタラ、ギッチョンチョンデ、パイノパイノパイって耳に残るけれど、どういう意味なのだろうか。そんなことを考えていると、千歳からLINEメッセージで『店の前に到着したよ』と届いた。僕は車を降りて千歳の元へ向かった。
 到着すると千歳は赤いキャリーケースを持っていた。
「なんや、まだ家に帰ってなかったんか」
「そのまま来ちゃった。待たせるのも悪いから」
 それから店の中に入ると店員から「何名様ですか?」と尋ねられ、千歳が二本指を店員に見せた。それを見て僕は「子供か。二名って言えよ」と言った。千歳は機嫌が良いのだろう、生き生きとした表情だった。僕達は店員に一番奥の窓側の席に案内され、千歳を奥側の席に座らせた。僕も席に座ると千歳は相変わらず清々しい表情を浮かべていたので、「なんかええことでもあったんか?」と尋ねた。千歳は鞄から一冊の本を取り出し、僕の前に置いた。
「これ、森若君へのおみやげ」
「なんやこれ」
 本の表紙中央にはヴォイニッチ手稿と書かれており、その下に完全図版と書かれていた。
「とりあえずね、ご飯を食べながらでいいから適当にページをめくって、感想を聞かせて欲しいの」
「なんかよう分からんけど、まあ見てみるか」
 僕は注文を済ませて、ドリンクバーでオレンジジュースを注いで席に戻った。それから本を開くと、古い本を写真撮影したカラー画像が何ページにもわたって掲載されていた。すぐに違和感を抱いたのは、その手書きの文字だった。丸みを帯びた文字で、今まで見たことのない言語のように感じた。僕は千歳に「これって、どこの言語?」と尋ねたが「言語は分からなくていいから、どんどんページをめくって」と千歳は言った。
 言われるがままにページをめくっていくと、次から次へと植物の絵が描かれていた。植物の絵も根っこの部分から詳細に描かれており、使われている色が暗い系統ばかりで不気味だった。また植物も日本で見かけたことがないような気がして、本当にこれは植物の絵なのかと疑った。そのままページをめくっていくと、天文図のような円盤が描かれたページになり、意味不明な文字が円周に沿って書かれており、円盤の中心には人の顔があった。何かの魔術的なものかと思ったが、とにかく気持ちの悪い印象を受けた。しばらく多種多様の天文図のようなページが続いたが次第に人が登場する描写が多くなり、人は全て女性のようでふっくらとした胸を描いていた。
 注文していた小エビのたらこソースパスタが届いたので、それを食べながらページをめくり続けた。この本の作者はどういう意図があってこのような本を制作したのだろうか。相変わらず気持ちは悪いが、文字の丸みと登場する人が全て女性であることから柔らかい印象を受けた。デタラメに制作したものではない気がするし、新しい発見があったことをどうしても伝えたいという気持ちがこもっているような気もした。次第に僕の中にあった違和感は解消され、ひとつの鮮明な思いが心に表れてきた。全てのページを閲覧したので僕は千歳に「全て読み終わったよ」と伝えた。
「それで、どう感じた?」
「うーん、植物に詳しくないけど日本では見たことがない感じやったから、最初は西洋の植物なんかなと思ったんよ。文字もどこの言語なんかさっぱり分からんかった。ずっと違和感があって気持ち悪かったんやけど、ページを進めていくと違和感も解消されたわ。それでひとつの結論に辿り着いた。きっとこの本に書かれている文字、この地球上に存在してない文字やろ。これ地球上のことじゃなくて、知的生命体が存在している別惑星の情報を書いているんやと思う。作者は何かしらの理由があって別惑星に存在する知的生命体のことを知る機会に遭遇したんやろ」
 すると千歳は驚いた表情を見せた。
「森若君、凄いね。この本に書かれている文字、いつの時代のどこで誕生した言語かさえも未だに分かってないの。この本ね、奇書と呼ばれていて書かれている内容を解き明かした人がいないの。植物や花も地球上に存在していないものばかりで、空想上の産物ではないかとも言われてるのね。1912年にヨーロッパの古城から発見された古書なんだけど、使われている紙が羊皮紙で、調べてみたら1400年代の羊皮紙を使っていることが分かってるの。この本、何の目的で誰が書いたのか不明なのよ。森若君の見解では、知的生命体が存在している別惑星のことが書かれているってことだけど、そう思えるって凄いと思う」
「そんな昔の本が未だに存在してるって凄いよな。それも意味不明な本やし。俺の個人的な感覚の話になるねんけど、古代の壁画とか象形文字とか見ても、違和感を抱くことはないんよ。でもこの本は、最初に見た瞬間から違和感を抱いてたから、読み進めていくに従って地球上の文明のことを書いているとは思えなくなってた。俺の見解はあくまで雰囲気だけに頼ってるけど、例えば本の中に登場する人の絵は女性ばかりで、男性がいないのが不自然すぎる。でもな、ふっくらとした胸を描いているから女性やと地球上の人達はそう考えるのかもしれんけど、他惑星の文明では男性女性という性差のない生命体で、ひとつの性で子孫を繁栄することが出来る生命体だと考えたら、本に描かれている女性だけの世界も辻褄が合うし」
 千歳は凄く嬉しそうに笑顔を見せていた。
「森若君は、想像力が豊かだからこの本を見てもらって良かった。わたしの友達にね、奇書マニアがいるの。その友達の影響でわたしも奇書が好きになって、色々と集めたりしてるの。ヴォイニッチ手稿は世界で一番謎の奇書と言われてるけど、だからといってわたしは謎を解き明かそうとは思ってないの。その友達と共同でやっていることがあって、初めてヴォイニッチ手稿を見た人の感想を集めて、沢山の感想の中から共通している見解を探し出そうとしているの」
 千歳がこんなにも楽しそうに、まるで子供のような澄んだ瞳で話している姿を今まで見たことがなかった。僕は千歳に「千歳が楽しそうにしている姿、初めて見たような気がするわ。この本、おみやげって言ってたけどくれるの?」と聞いてみた。
「うん、お土産だからあげるよ。森若君も奇書に魅力を感じる?」
「そうやな、確かに魅力はあるよな。それを集める趣味は知的な感じもするし、内容が分からなくても面白いし、千歳らしいやん」
 千歳は嬉しそうな顔をして身を乗り出し、「ねぇ今からホテルに行って、やらない?」と突拍子もないことを言ってきた。僕はその千歳の発言が周りに聞こえていないか、周りを見渡し確認した。特に気づかれている様子はなかったので、僕は千歳に「ファミレスでそんなことをいきなり言うなよ。びっくりするやろ。そうや、千歳に話があるねん」と言った。
「どんな話?」
 いよいよ千歳に由美子の事を打ち明ける時がきた。僕は深呼吸をして、気分を落ち着かせた。
「実はな、木田さんと結婚を見据えて友達から始めることになったんや」
 僕は真面目に言ったのだが、千歳は笑っていた。
「それ、木田さんに指示されて言ってるでしょ?」
 千歳に言い当てられてしまい、僕の身体は自然にピクッと動いた。
「よく分かるな」
「普通に友達から始めたってこと?」
「うん、そういうことなんやけど、結婚を見据えて友達から始めるってやっぱり変な表現か?」
「令和の時代に結婚を見据えて友達から始めるなんて有り得ないよ。そもそも森若君が結婚を前提に友達から始めるなんて考えられないし、木田さんにそう言って欲しいと指示されたんだろうなって思ったよ」
 やはり千歳に隠し事は通用しない。
「ぶっちゃけて話すけど、木田さんのことはもう由美子って呼ぶことにもなってて急接近してるんよ」
「森若君が木田さんのことを見てる時ね、片想いの少年のように可愛い顔をしてたよ。木田さんのこと好きなんだろうなって思ってた。これで森若君にも春が来たね」
「俺はそんな顔をしてたのか。バレバレやん」
「別にいいじゃん。これからは恋愛を楽しめるし、木田さんとエッチも出来るじゃん」
 千歳はすぐにエッチな方向へ話を進めるので、男友達と話をしている感覚によく陥る。
「まだ友達やから、恋愛まで発展してないねん。木田さんと友達から始めるって話になったのも、アルバイト最終日のことやから日が浅いねん。まだまだ友達の期間が続くねんけど、告白をするタイミングって難しいよな。どうしたらええんか、さっぱり分からん」
「どういう経緯で友達から始めるって話になったの?」
 僕はアルバイト最終日に遭遇した喫煙所での落雷事件以降の話を、全て千歳に話した。
 僕の話を聞いていた千歳はそれまでとは違い、腕組みをして真剣な表情になった。それからしばらくして千歳が、「木田さんから友達になろうってアクションをしてるんだから、森若君から告白しなくても大丈夫よ。両想いは確定してるんだし、むしろ森若君から告白したら駄目」と言った。
 僕はその真意を知りたくなり千歳に質問をした。
「どうして俺から告白するのは駄目なんか、その理由を教えて欲しいねんけど」
「ちょっと待って、ジュース入れてくるから」
「あっ、俺も空やから行くわ」
 僕と千歳はドリンクバーコーナーへ行き、千歳は紅茶花伝を注いだ。僕はジンジャーエールを注いで席に戻った。ジンジャーエールを一口飲むと、あまり美味しくなかった。どうしてジンジャーエールを注いでしまったのかと後悔をしていると、千歳が話し出した。
「告白するまでの流れでね、自分から追いかけたいタイプと相手から追いかけられたいタイプの二種類があるの。木田さんと何度か話したけど、とても芯の強い心を持っているし、手に入れたいものは自分から行動するタイプだから、恋愛においても自分から告白をしたいタイプだと思うの。実際に木田さんは、自分から森若君と友達から始めたいと言ってたでしょ? 逆に追いかけられてしまうと相手に対して幻滅する恐れがあるの。だから森若君から告白したら駄目なの」
 千歳の由美子に対する分析は腑に落ちるところだらけで納得がいった。よく由美子がイラストレーターになる将来の夢を話していた時、必ず自分の努力で成し遂げてみせるという強い意志を感じていたし、確かに由美子は追いかけるタイプのように思えた。
「千歳、さすがやな。その分析は腑に落ちる。今までの俺の考えではな、あまり友達期間が長すぎると木田さんから早く告白しなさいよって言われてしまうのかなって思ってたんや。告白のタイミングをいつにしたらいいのか本気で悩んでたし。俺は告白されるのを待つだけでいいのか?」
「告白されるまで時間は掛かるけど、木田さんは相手を慎重に見極めるタイプだと思うから、じっくりと腰を据えて待ち続けるのがいいよ」
 もう僕には千歳の姿が神様のように見えていた。
「千歳ありがとう、恩に着るわ」
「どういたしまして」
「それでな、もうひとつ問題があるねん。千歳と青木ヶ原樹海に行く話をしたら、男を一人追加して三人で行って欲しいと言われててな。木田さん自身も言ってたけど、ヤキモチを焼くから二人では行って欲しくないみたいやねん」
「当然の話だと思うよ。それならわたしの男友達を誘ってもいい?」 
「おお、それでもいいよ」
「森若君もよくご存じの、牧田君を誘ってみるね」
 牧田?
「おいおい、牧田を誘うって正気か?」
「わたしの大事なお友達なんだけど。牧田君とは毎日通話で話もしているし、来週にはデートする予定だよ」
 ここに来て牧田の名前が出てくるなんて……贅沢も言っていられないか。
「牧田でもいいけど、牧田のこと好きなのか?」
「大好きだよ」
 僕はいつまで経っても千歳という人間を理解することは出来ないだろう。これから先も永遠に。
「分かったよ、牧田の件はよろしく頼むわ。日にちは決まった?」
「一応ね、スポーツの日の祝日周辺で二泊三日の予定でお願い」
 僕はスマホを取りだしカレンダーを確認した。来月のスポーツの日は月曜日で、土曜日を含めて三連休だった。土曜日を出発日にしてスポーツの日の月曜日に帰る予定を立てた。それから千歳と持参する道具類について話し合い、僕はスマホに持参リストを作成した。僕は千歳に「持参リストを作成したから、今からLINEで送るわ」と伝え、それを千歳に送った。そのタイミングで千歳が「牧田君から返事が来たよ。来月の青木ヶ原樹海、お供させて頂きますだって」と嬉しそうに言った。
「もう誘ってたのか。これなら三人で行けることになるから、木田さんに心配かけなくて済むわ」
 それから千歳と色々な話をした。千歳のお姉ちゃんが結婚式の最中に泣いてしまって、そういう姿を千歳は初めて見たという話や、千歳がイギリスに留学する話を牧田にしたら、牧田も付いていきたいと言って英語を勉強することになった話。千歳も本気で牧田をイギリスに連れて行きたいと考えているらしく、牧田とイギリスで暮らす為に両親に援助してもらう交渉を近々するのだそうだ。
 千歳と話し込んでいるとラストオーダーの時間になったので、何も注文せずにファミレスを後にし千歳とはそこで別れた。この夏は僕と由美子、そして千歳と牧田の二つのカップルが誕生したことになった。まさか千歳が牧田のことを……僕はノイローゼになりそうだった。

 大学の後期が始まる十月まで、残すところ五日を切った。学生生活もあと半年程で終わりを迎える。僕はUSJへの就職を模索したが、既に来年度の新卒採用は応募を締め切っていた。僕としては来年の四月からUSJでアルバイトをして、正社員の募集が行われた際にそれに応募をしようと考えていた。
 先週のことだが実家に帰り、両親と将来に対する話し合いをした。僕はテーマパークの世界観が好きで、好きな場所で好きな事を通じて仕事をしたいと両親に向けてその熱意を伝え、来年の新卒採用には間に合わなかったが、USJでアルバイトをしながら正社員の募集があった際に応募して挑戦をしたいと説得を試みた。その甲斐あって両親から了承を得ることが出来た。父は空が大好きだったらしく、空を自由に飛べるパイロットに憧れてパイロットになったのだそうだ。ただ、父の話によれば憧れと現実は全く別で、旅客機のパイロットは自由に空を飛べる訳ではなく、決まった航路を飛ぶ必要があるのでかなり戸惑ったのだそうだ。空を飛ぶこと自体は今も大好きで、出来るだけ長くパイロットは続けたいと父は言っていた。父は僕に対し、自分の好きなことを仕事にするのであればそれでいいと理解を示してくれたので、今まで父に抱いていた憎悪みたいなものが嘘のように消えていった。
 僕の将来に関する話し合いが終わった後で、父が神妙な面持ちで「実はな、聡が大学を卒業したら、静子とお父さんは離婚することになっていてな」と言ってきたのだった。父の話によれば、どうやら父は不倫をしていたらしく、母と離婚をして不倫相手の三十代の女性と再婚をすると言っていた。その後、僕は母と二人きりで話す時間があったので、離婚をすることについてどう思っているのか尋ねた。すると母は「いずれ離婚はするだろうと思っていたから別にいいの。実家に帰っておばあちゃんの介護も出来るからね」と言っていた。離婚をする話を聞かされても、いまいち悲しい気持ちにはなれなかった。母も悲しんでいる様子はなかったので、そうなることが当然の家族だったのかもしれない。これからは三人それぞれが、自分の道を進むことになるのだろうと思った。
 午後十時に由美子と通話をする約束をしていたので、僕は由美子にLINE通話を掛けた。
「お疲れさん。十時になったから掛けたよ」
「ちょっと、そのまま待ってて」
 由美子の声がいつもより喜んでいる感じがした。するとビデオ通話に切り替わり、スマホの画面には可愛い女の子のイラストが表示されていた。のみならず、まばたきをしたり口が動いたりしていた。
「おお、ひょっとしてLive2Dで動きを付けたのか?」
「うん、カメラであたしのまばたきと口の動きを認識させて動かしてるけど、まだここまでなんよ。でも、いい感じでしょ?」
「さすがやな、由美子は何でも器用に出来るな」
「もっと褒めていいよ」
 有言実行をする由美子は、これからも更に成長していくのだろうと思った。
「ここまで動かせるようになったら、だいぶ習得したんと違うん?」
「うーん、まだ初歩的な事しか出来てないから、きちんと習得出来るまで何ヶ月も掛かると思う。ここまで動かせるようになったから、モチベーションは凄く上がったよ。これからも実験したい時に付き合ってな」
「OK。喜んで実験のお相手をさせてもらうよ」
「聡君、もうパジャマ着てるんやな」
 ビデオ通話なので、こちらの様子を由美子に見られていた。
「特に用事もないし、風呂にも入ったから後は寝るだけ」
「お風呂なぁ」
 由美子の声が少し暗くなったように感じた。
「お風呂嫌なんか?」
「お風呂は毎日入ってるねんけど、髪の毛を洗っている時にな気配を感じるんよ、それも背中に。洗い終わってからすぐに後ろを見るねんけど誰もいないし。気のせいって分かっていても、髪の毛を洗っている最中は怖いねん。そういうのない?」
 僕が家にいて気配を感じる時は、だいたいGと呼ばれる茶色い奴が現れた時だが、髪の毛を洗っている最中に気配を感じたことはなかった。
「俺も怖がりやけど、そういう経験はないんよな。由美子って幽霊とか見たことある?」
「見たことない。霊感もないと思うし、でもな一度だけ変な経験をしたことがあるねん」
「それってどんな経験?」
「何年か前のことなんやけど、お母さんが夜勤であたし一人だけ家にいた時にな、夜中にお茶を汲みに台所へ行ったら、冷蔵庫の扉が開けっぱなしやし食器棚の扉も開けっぱなしやったから、お母さんが慌てて閉め忘れたんやろうなと思ってん。それからお茶を汲んで開いてた扉を全部閉めて部屋に戻ろうとしたら、リビングのテレビが勝手に付いてびっくりしてすぐに自分の部屋に戻ったんよ。それから板倉のおっちゃんに電話を掛けてすぐに来てもらって、リビングのテレビが勝手に付いたって話をした後に、台所を見たら冷蔵庫と食器棚の扉がまた開いてたんよ。それを見てあたし恐怖で震えてしまって動けなくなって大号泣してん。台所の異変について板倉のおっちゃんに説明をしたら、悪戯をして自分の存在をアピールしたい幽霊もいるからって話をしてくるんよ。その日は怖すぎるから板倉のおっちゃんの家に泊まりに行ったもん」
 きっと僕なら泣くのではなく、発狂していたと思う。
「それまじで怖すぎるって」
「次の日に板倉のおっちゃんと神社に行って、お祓いしてもらった。それ以降は変な経験もないねんけどね」
 何か霊に取り憑かれていたということなのだろうか。僕は寒気を感じたので、「なんか俺まで怖くなってきたわ」と言った。
「聡君、富士の樹海に行くんやろ? ほんと気をつけてな。女性の霊に取り憑かれたら絶対に許さへんからな」
 仮に女性の霊に取り憑かれたとしても、それを確認する術を二人とも持っていないので、どうやって調べるのだろうかと不思議に思った。
「いやいや、霊に関しては不可抗力やん」
「いいや、あたしのことだけ考えてたら女性の霊に取り憑かれることはないから」
 僕としても女性の霊に取り憑かれたくはないので、時々由美子のことを思い出すことにしようと思った。しかし、由美子の嫉妬心は想像を遙かに超え、目に見えない霊にまで言及してきた。
 その後、由美子は風呂に入ってくると言って通話を切ったが、僕はずっと幽霊かぁと考え……来月の青木ヶ原樹海の旅行が憂鬱になってきた。そういえば、由美子のお母さんも病院で奇妙な経験をしていたことを思い出した。やはりこの世には、霊みたいなものが存在しているのだろう。今日は電気を消して寝られそうになく、音がないのも怖くなってきたので急いでテレビの電源を付けた。別に眠れなくてもいい、怖さから逃れたかった。
 
 青木ヶ原樹海への旅行が二日後に迫り、荷物の最終チェックをしていた。一番問題に感じたのはテントで寝るときのことだ。千歳と牧田は付き合い始めたらしく、そうなると三人で川の字になって寝るのはどう考えてもおかしくなる。結局の所、僕は邪魔者のような立ち位置になってしまい、二人の引き立て役として旅行に同伴することになるのだ。そういう変化に伴い、テントを二つ用意せざるを得なかった。牧田に持たせるリュックの中に、その二つのテントと三人分の寝袋を入れ、食料や水、道具類は僕のリュックに詰め込んだ。僕はその二つのリュックに対し、あたかも電車の運転手のように指差しをして「荷物よし!」と大きな声で言った。
 午後八時を過ぎ、そろそろお風呂に入ろうかと思っていたその時、LINEの着信音が鳴り由美子からだった。由美子は事前に僕の事情を問い合わせることなく、突然通話を掛けてくるようになっていた。僕は応答ボタンを押し、喉に力を入れて「わたくし、森若聡と申します。これはこれは由美子姫ではございませんか。ご機嫌麗しゅうございます」とかなり低い声で、貫禄のある紳士のように言ってみた。
「頭大丈夫? ひょっとして寝不足なん?」
 あれ、どうも由美子には不評のようだった。
「頭は大丈夫やけど、たまには由美子に俺のイケボを聞かせてあげようと思ったんやけどな」
「聡君、イケボの概念を間違えてるよ。イケボは耳心地が良い声のことを言うんやで。さっきの声はホラーやし、息が荒かったから変質者そのものやったよ」
 柄にも無いことをするものではないという教訓を、僕は得たのだった。
「今後、気をつけるわ」
「ところで何してたん?」
「旅行に持っていく荷物の最終チェックをしてた。水も食料も持っていくから、俺のリュックは重さ十五キロぐらいになってるよ」
「そんなに重いの? 子供一人背負うのと同じやん」
「歩いてるだけでも、膝にくる重さやからね」
「減量出来ないもんなん?」
「もうこれ以上の減量は難しいな。水と食料は必須やし、牧田はよく食べるらしいから多めに食料は用意しといたんよ」
 牧田なら数日食べなくても平気だと思うのだが、僕は千歳と牧田の引き立て役に徹する身なので、提供する食事にも気を遣ったのだ。
「ひとつ聞きたいことがあるんやけど」
 由美子のひとつ聞きたいコーナーが今日もやってきた。質問がひとつで終わらないことも、よくあるのだが。
「どんなこと聞きたい?」
「食事の時にな、満腹で食べられなくなったらどうしてる?」
「普通に残すけど」
「残したらさ、もったいないって言う人もいるやんか。そういう時はどういう対処してるの?」
「たまにもったいないと言ってくる奴がおるよな。俺の場合は、たとえ話をするよ。じゃあ君はサンマの焼き魚にある骨も残さずに食うの? 頭も食べるの? そういう話をしたらな、相手は骨は喉に刺さるから危ないとか言い返してくるけど、満腹で食べられない時に無理して食べると、吐く危険性もあって危ないんやでと言い返すよ。それを言ったら大体の人は黙るけどな」
「なるほどな」
 僕はサークルで実際に遭遇した出来事を由美子に話すことにした。
「サークルの部員同士で、よくファミレスに行く機会があったんよ。俺はよく食べ物を残すから、その度にもったいないと言って絡んでくる奴が一人だけおってん。毎回鬱陶しいなと思ってたんやけど、ある時にな、俺もそいつもエビフライ定食を注文したことがあって、俺はエビフライの尻尾を残したんよ。それを見た鬱陶しい奴が『俺はエビフライの尻尾まで食うけどな』と言って、得意げに目の前で尻尾まで食いよってん。その時に俺はな『エビの尻尾とゴキブリの羽根って、キチン質ていう同じ成分で出来てるの知ってた? ようそんなもん食えるわ。ゴキブリの羽根を食ってるのと一緒やで、俺には無理やわ』と言って、そいつを軽蔑した目で見てやったら、それ以降は何も言ってこなくなったよ。ざまぁみろって思ったわ」
「そうなんや……」
 由美子の声がトーンダウンしており、僕は「どうしたん?」と尋ねたが、由美子は「なんでもない……」と元気のない返事をした。僕はその時、由美子はエビの尻尾を食べる人なのかもしれないと思い、この話をしたことによってショックを受けたのだろうと察し、慌てて話を変えようと思った。
「俺が食事を残す理由は親からの教育もあるねん。お腹一杯食べるんじゃなくて、腹八分目にしときって言われて育ってきたから、自然と俺の胃袋も小さくなって沢山食べることも出来なくなってしもてな。なんでもな、お腹一杯食べる生活を続けていると何事においても卑しくなるから、必要な分だけ食べる習慣を身に付けなさいって両親からと母方のお爺ちゃんとお婆ちゃんからも言われて育ってきたんよ」
 僕が食事を残す理由をきちんと説明したが、由美子からの返事はなく無言の状態が続いた。僕は不安になり「ごめん。大丈夫?」と尋ねてみると、由美子は「……うん」と少し涙声になっていた。由美子にエビの尻尾の話は相当きつかったのだろうと思い、僕は「本当にごめん。エビの尻尾の話、本当にデリカシーがなかったと反省してる。本当にごめんな」と誠心誠意お詫びを伝えた。すると通話口からはすすり泣く声が聞こえ始め、やがて由美子は大きな声で号泣し始めた。通話口から聞こえる由美子の泣きじゃくる声が耳に突き刺さり、僕はとんでもない事をしてしまったという罪悪感で胸が苦しくなった。何を言ったところで言い訳に聞こえるだろうし、かける言葉すら思い浮かばなかった。ただ黙って聞くしかなく、通話口から由美子の泣き声と共に「ごめん」と聞こえ通話が切れた。
 僕は……いや……もうこれで終わりだと思った。

 由美子との通話が切れてから、どれぐらいの時間が経過したのだろうか。僕はベッドの上で呆然となり身動きすら取れずにいた。由美子の泣いていた声が耳の中で繰り返され、僕から遠く離れていく由美子の姿が映像として頭の中で幾度も再生された。僕は負けん気の強い由美子を泣かせてしまったのだ。これからの僕の人生は、罪深き悪人として重い十字架を背負って歩むことになる……僕と由美子のエピローグが、こんなにも早く到来してしまうとは……。
「はぁ」とため息をついたところで、何も変わらないことは分かっていた。
 僕は居た堪れなくなり千歳に通話を掛けると、すぐに応答してくれた。
「千歳、いま話をしても大丈夫か?」
「うん、大丈夫だけど、どうしたの?」
 僕は千歳に慰めてもらいたいのだろうか。
「取り返しのつかないことをやってしまった。俺の人生、もうここで終わったみたいや」
「ちょっと待って、交通事故でも起こしたの?」
 交通事故も最悪だが、それ以上に僕にとっては最悪な出来事だ。
「交通事故ではないけど、木田さんを泣かせてしまったんや」
 通話口から千歳のため息らしき音が聞こえた。
「ちょっと驚かさないでよ。事故か事件だって思うじゃん」
「ごめん」
「今からわたしの家に来て話し合わない?」
 千歳の家は近いのだが、ショックで動きたくない気持ちが強かった。千歳なら起死回生のアイデアを授けてくれるだろうか。
「千歳、助けてくれ」
「声が死にそうじゃん。何があったのか分からないけど、森若君の人生が終わった訳じゃないんだから、少しだけでもいいから元気を出してすぐに来て」
「うん、分かった」
 僕は通話を切ったが、本心としては行きたくなかった。ただ、千歳には起死回生のアイデアがありそうな予感があったのも確かで、窮地に立たされている僕はすがるしかなかった。もし千歳に見限られてしまったら……。僕は救いを求めて千歳の家へと向かった。
 千歳のマンションには来客者用の駐車場があり、僕はそこに車を停めた。千歳の家に来るのはこれで三回目ぐらいだった。マンション入り口にあるオートロックシステムに千歳の部屋番号を入力すると千歳が応答し、ロビーの扉が開いたので家へと向かった。家の前では千歳が寒そうに僕を出迎えてくれていて、よく見ると淡い黄色系のパジャマを着ており、寝る邪魔をしたのかもしれないと思った。
「千歳、ごめんな。寝るところやったんやろ?」
「本でも読もうと思っていたから大丈夫よ。とりあえず上がって」
 家の中に入ると、南国っぽい花の甘い匂いがした。
「すごくいい匂いがするけど、これは何の匂い?」
「森若君が落ち込んでいるようだったから、精神的に落ち着いて前向きになれるイランイランのアロマを炊いたの」
 千歳のそうした気遣いに僕は泣きそうになった。
「ありがとう」
 部屋には大きなディスプレイ用のガラス棚があり、大小それぞれのぬいぐるみが展示されていた。棚内はピンクの間接照明でライトアップされており、僕はその前でポムポムプリンのぬいぐるみを見ていた。黄色いプリンちゃんも、これではピンクっぽく見えるなと思っていると、千歳が「何か欲しいのある?」と聞いてきた。僕は「いや、ピンク色の照明でポムポムプリンが変な色になってるなと思って」と言った。
「それ、元々がピンク色のポムポムプリンよ。すごくレアなの」
「え? ピンク色のポムポムプリンやったんか。黄色しかイメージにないから、変やなって思ったんや」
「コーヒーを入れるからソファに座って待ってて。煙草も吸っていいからね」
 ソファを見るとキャラクターのぬいぐるみ達によって占領されており、僕は申し訳程度に端っこに軽く腰を掛けた。ガラステーブルの上には新品同様の綺麗な灰皿があったが、とても煙草を吸う気持ちにはなれなかった。
 しばらくすると千歳が「おまたせ」と言って、プリンを形取った花びらのようなピンクのコーヒーカップを、僕の前とその右隣に置いた。僕は早速「コーヒー頂くわ」と言い、一口飲んだ。あまりにも苦すぎるので砂糖を入れ、添えてあったスプーンでかき混ぜた。僕の隣に千歳が座り「それで、木田さんと何があったのか最初から説明して」と言ってきた。
 僕はかき混ぜ終わったコーヒーを一口飲んで、由美子と今日話した内容を説明し始めると、千歳はすごく真剣な眼差しで僕の話を聞いていた。全て話し終えて僕は「やっぱり木田さんにとっては、エビの尻尾の話は強烈過ぎたんやと思う」と言った。
 すると千歳は頭を傾け不思議そうな表情をして「ちょっと待ってね」と言い、それから腕組みをして何かを考え始めたようだった。
 僕は目の前にあるコーヒーカップを眺めていた。由美子の家で飲んだコーヒーはとても美味しかったけど、今となってはどんよりと暗い思い出になってしまった。
「何点か質問するけど、今まで木田さんと食事をしたことはある?」
 僕は記憶を辿った。
「いや、一度もない。アルバイトの時、木田さんと一緒に昼休みは喫煙所で過ごしていたけど、俺は昔から昼食は取らない習慣だったし木田さんも昼食は食べないと言ってたから、機会がなかったんよ。一度、食事に誘ったこともあったけど、木田さんの都合でまだそこまでに至ってないねん」
「それじゃ、木田さんが食事をしているところを見たこともないよね?」
「そうやな……ないな」
 千歳は何の為にそういう質問しているのか分からなかったが、いつものことなので千歳の反応を待つしかなかった。
 しばらくすると千歳が僕の肩を軽く叩いてきた。僕は咄嗟に「なにか分かったんか?」と尋ねた。
「森若君は、木田さんの心の琴線(きんせん)に触れたの。木田さんから必ず連絡があるから、それまでは辛いけど待っていてあげて」
 千歳は優しい表情でそう言った。
「心の琴線ってなに? もっと具体的に教えてくれへんか?」
「心の奥を揺り動かされて感銘を受けたり共鳴したりすることを、心の琴線に触れるって言うの。森若君の話を聞いて分析したら、木田さんの心の奥にはね、すごく重大な心の問題を抱えているのが分かったの。分かりやすく言うとトラウマね」
「ちょっとまって。エビの尻尾に関する心の問題って、どういう問題なのか全く分からんねんけど」
 千歳は大きなため息をついた。
「エビの尻尾は全く関係のない話なの! どこの世界に、エビの尻尾とGの羽根が一緒の成分だからと言って泣く人がいるのよ」
 僕は余計に頭の中が混乱しそうだった。
「じゃあ、木田さんはどういう心の問題を抱えているの?」
「今ここでわたしが言ってもいいんだけど、木田さんは心の問題を必ず森若君に打ち明けるから事前に知らない方がいいのよ。そこは森若君の素の反応で木田さんに寄り添ってあげればいいから」
 僕より千歳の方が由美子の事を理解しているのではないかと思えてきた(実際、そうなのだろう)。
「うーん、本当に木田さんは俺に心の内を明かしてくれるのかな?」
「森若君は既に木田さんの心にある琴を奏でてしまったの。それも心の深い部分に隠していた琴をね。それを見事に奏でたんだから、木田さんは森若君から離れることも出来ないの」
 僕としては、由美子の心にある琴を奏でた実感は無かった。そんなものが存在していることさえ知らなかったのだ。
「木田さんが俺から離れなくなるなんて、想像すら出来ないけどな。気持ちとしては嬉しいけど。でもあれやな、エビの尻尾じゃないんやったら、食べ物を残す事に関する話になるんかな。その事と心の問題がどのように結びついているのか……ということを木田さんは俺に打ち明けるってことか?」
「その通りだよ。木田さんが森若君にその問題を打ち明けたとして、煩わしいと思われないか不安になっているだろうし、一緒に解決してくれるだろうかと考えたりしてると思うよ。それにね、森若君と付き合っていくにはどうしてもその問題を解決の方向へ進めていかないと、木田さん自身が今まで以上に心の重荷を背負うことになるの。きっとそれは本人も自覚しているはずよ。木田さんは目標に向かって突き進むタイプだし、今はいろんなことを考えて心の準備をする期間だから、森若君は木田さんを信じて待っていてあげてね。木田さんには森若君の支えが必要なの」
 千歳も由美子の事が心配なのだろう、声が力強く僕に訴えているようだった。僕は千歳の言葉を信じて、何年でも待とうと思った。
「分かった、俺も心の準備をして木田さんを待ち続けるよ。俺は完全にフラれたと思っていたし、千歳に話をして勘違いをしていたことも理解したよ。千歳、本当にいつもありがとうな」
 僕は千歳の両手を握って感謝を述べた。
「森若君にとって、わたしは必要な存在?」
「当たり前やんか。でも、来年の四月から千歳はイギリスに行ってしまうんやろ? 会えなくもなるし、なかなか相談も出来なくなるな」
「LINEとかのSNSで繋がりは持てるから、そこまで心配しなくても大丈夫よ。いつでも森若君からの相談は受け付けてるから」
 いつまでも千歳に頼りっきりでは成長出来ないだろうし、由美子を支えていくのだからしっかりしなければならないと思った。
「そう言ってもらえるのはありがたいけど、自分で悩みが解決出来るように努力もしてみるわ、木田さんを支えていく為にもな。千歳と牧田は一緒にイギリスに行くみたいやし、幸せにな」
「最後のお別れみたいなこと言わないでよ。明後日だよ、青木ヶ原樹海に行くの」
 そうだった、由美子の事で気が動転していたのですっかり忘れていた。
「そうやったな、明後日の朝六時に千歳のマンション前に集合やったな。牧田は前日に泊まりに来てるのか?」
「うん。あっ、それとね、牧田君の希望で森若君の車と牧田君の車の二台で行きたいみたい。それに森若君もわたしと牧田君が付き合ってるから、一緒の車だと気を遣うでしょ?」
「それはありがたいね、テントも二つ用意したんよ。牧田の荷物はそのテントを二つ入れているリュックだから、俺のリュックよりは相当軽いし安心してと言っといて」
「本当に、ごめんなさいね。気を遣わせたみたいで」
「いえいえ、本当に今日はありがとうな。もう家に帰って寝るわ。明後日の朝六時に、また来るわ」
「うん、気をつけて帰ってね」
 僕は千歳の家を後にし、自分の家へと帰った。それから僕はお風呂に入り、由美子のことを考えた。僕は目標に向かって突き進む由美子の姿しか見えていなかった。人は誰しも弱い部分があるし、由美子にだって当然あるだろう。由美子が心の問題を僕に打ち明けたとして、僕の心はどのように変化するのだろうか。それに由美子の支え方すら分かっていない。ただ、僕としては由美子と向き合い、その時に感じて考えて行動するしかないのだろう。僕は頭のてっぺんまで湯船に浸かり、「由美子、何があっても俺は一生付き合うからな」と言ったが、口から出た空気の泡によって言葉になっていなかった。
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