第2話

文字数 17,120文字

   二

 遙か遠方から何かが聞こえる。まだ地球上に生命すら誕生していない時代、そのほとんどは海で陸地が少なかった頃だ。僕はその地球上で一人、誰もいないその地に滞在していた。この地球上にもし生命が誕生したら、僕はその生命の一部になりたいと願っていた。しかし、おかしな話だ。生命が誕生していない時代なのに、どうして人の声のようなものが聞こえるのだろうか。なにか僕に伝えたいことがあるのだろうかと、その声に耳を傾けてみると……「息はしてるけど……がない」と声が聞こえた。
 何のことだろう……息があるのならそれは生命体のはずだ。ここには生命体が存在していないはずなのだが――。
「口の中がだいぶ切れてずっと血が出てきてるし、おっちゃん氷とタオルない?」
 僕はその声をはっきりと認識し、まぶたをそっと開けた。そこには丸みを帯びた二重の目があり、その中から印象的なまん丸とした黒い瞳がずっと僕を見ているようだった。でも不思議だな……前にも同じような瞳をどこかで見たことがあるような感じがした。
「おっちゃん、森若君の目が開いた」
 その声の女性は誰かを呼んだらしいが、どうして僕の名前を知っているのだろうか。
「あたしのこと見えてる? さっき喫煙所であたしと会ったの覚えてる?」
 僕には目覚えのない顔のように感じたが、どうしてこの女性は僕のことを心配そうに見ているのだろうか。ただ、質問には答えないと失礼だと思い僕は「君のころはひらないけろ……」と、その女性に向けて喋ろうとしたものの全く呂律が回っておらず、自分の口に何があったのだろうかと不思議で仕方がなかった。
「えっ?」
 その女性の驚いた声が聞こえた後に、男性の顔が視界に入ってきた。
「大丈夫ですか? 自分の名前を言えますか?」と、その男性は僕に尋ねてきたが服装を見ると警察官のような姿だった。
「もりわかさとしです。どうしてけいしゃつがいるんですか?」
 少しだけ口の感覚が戻っているような気がしたが、まだ少し呂律が回っておらず、一体自分の身に何が起きたのだろうかと不安が強くなった。すると「通報があって駆けつけたんやけどね、生駒警察署の者です。君ね、さっき殴られたみたいで気を失ってたらしいけど、そのことについて覚えてる?」と、その警察官は無線のマイクを手に取ったまま僕に状況を説明してくれたのだが――殴られたのか――誰と喧嘩したのだろうか。僕の頭の中には深い霧に包まれているような違和感があり、吐き気もあった。僕は首を振って知らないとアピールをしたかったのだが、まったく首は動く気配もなく「おぼえてないです」と言葉で伝えた。
 次第に左の頬付近に痛みを感じて、きっと殴られたのは左頬だなと考えている時に、あの少女の顔を思い出した。僕のことを哀れむように見ていた少女――そうだ! 僕は激怒している男性に説得を試みて、それから左の頬に強い衝撃が走ったことを思い出した。僕は倒れていく視界の中で、少女の顔を見たことを思い出した。
「思い出した、あのときお客さんに殴られてたのか」と僕は言い、呂律も回復している事に気がついた。
「記憶戻ってきたん? ちょっと待ってな、口の中が切れてて出血してるから頬に氷をあてるから」
 目の前で心配して話しかけてくれている女性は、木田さんだったことを思い出した。
「木田さん怪我とかない?」
「あたしのことも思い出してくれたんや。あたしは大丈夫やけど、まだあのおっさん警察にも食ってかかってるわ、ほんま腹立つわ」
 その時、左の頬に冷たい刺激がやってきた。氷をあててくれたのだろう。僕は木田さんに「ありがとう」と伝えると、視界の中に板倉さんが入ってきた。
「森若君、意識戻ったか。ほんとうによかった」と板倉さんは心配している様子だった。焦っているかのような表情の木田さんが「おっちゃん、救急車まだなん?」と板倉さんに向けて言ったが、社会常識というものを身につけていないのだろうか? それもここの所長の板倉さんに対して、さすがにおっちゃん呼びは駄目だろうと思った。
「わしも救急車は呼んだけどな、警察の話やと生駒市内の工場で大規模な火災があって奈良側からはこれんみたいや。大阪側から救急車を出動してもらっててこっちに向かってるみたいやけど、あと三十分ぐらいはかかるかもしれんな」
 板倉さんの話ではあと三十分も待たなければならないらしいが、大阪と奈良の県境それも山頂なのだから当然といえば当然の話だ。
 その後、警察から僕が殴られる前の男性とのやりとりを詳細に聞かれ、殴ってきた男性がかなりお酒を飲んでいるという話を聞かされた。僕の記憶が曖昧なところは、木田さんが補足してくれて大変有り難かった。
 しばらくすると井上が僕の様子を見に来て「森若さん、これ傷害事件になるから被害届を出して慰謝料をがっぽり貰った方がいいですよ」と言った。そのときに僕は自分が被害者であるということを、そこではっきりと認識したのだった。井上の話によればこの騒動により急流すべりは営業停止中になっているらしく、一大事になっていることが分かった。
 それよりも僕は、あの少女のことが気になっていた。倒れる寸前のあの哀れむような表情と、どこかで会ったことがあるような懐かしさ。いま、あの少女はどこにいるのだろうかとそれを確かめたくなり、上半身を起こそうとして「うんっー」と気張ってはみたものの、腹筋を百回近くやっている時のような痛みがあり僅かしか起こせなかった。すると「いまは動かんほうがええよ」と僕の頬に氷をあてたままの木田さんが優しく諭してくれたのだが、どうしても双子の様子が気になって仕方がなかった。木田さんには申し訳ないと思ったが、僕は「木田さん、双子の女の子ってまだいる?」と様子を見てもらおうとした。すると木田さんは後ろを振り向き「いるけど、どうしたん?」と聞いてきた。
「ごめんやけどな、いまどんな様子か教えてくれへん?」
「ひとりはずっと泣いてはるけど、もうひとりは何にも動じてない感じもする、んー……表情がよく読み取れない」
 この状況でも、あの少女は動じていないというのか。やはりどこか腑に落ちないというか、どうして? という好奇心が凄く湧いてきた。僕はその気持ちのまま木田さんに「その泣いていない女の子の様子、もっと教えてくれへん?」とお願いした。
「んー……でもなんか変な感じやなあの子。ずっと森若君の方を見てるし、なんか寂しそうな感じもするねんけど、やっぱり表情が読み取れへん。どうしてあの子のことが気になるん?」
「ちょっと……ね」
 その時、遊園地には似つかわしくない救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。そういえば祖母が子供だった時代には、救急車を見たりサイレンが聞こえたりしたら親指を隠す風習があったらしい。なんでも親指を隠さないと親が不幸な災いに遭遇するという話を小さい頃に聞いたのだが、僕は祖母に救急車が来たときにわざと親指を見せたらどうなるの? と質問をしたことがあった。それは小さいときに感じた純粋な疑問だったのだが、祖母は怖い顔をして返事をしなかったのだ。僕はその小さい頃に不思議に思っていたことを試したかったのか、ほんの出来心のつもりでサイレンの音を聞きながら親指を立てた。
 大きくなった救急車のサイレンが突然止まり、いよいよだなと思っていると木田さんが「ほんとごめんな、あたしがきちんと対応できなかったから森若君に矛先が向いてしまって、ほんとごめん」と謝ってきた。
「いや、俺が勝手に割り込んだからやし、木田さんのせいじゃないよ。木田さんに被害が及ばなくてよかったと思ってるねん。気にせんといてや」
 木田さんの心優しい部分や責任感が強いことは分かるのだが、先程のおっちゃん呼びに関して、やはり礼儀という社会常識について些か問題があると思った。人間は完全ではないからそうした不完全もあるのだろうけれど、なにかしらのギャップがあるのも木田さんの魅力なのかもしれないと思った。
 その後、救急隊が到着し色々なことを質問されて答えたりしていた。首が動かなかったのも動けるようにはなっていたし、上半身を自力で起こすことも出来るようにはなっていたが、ただ立つことだけは出来なかった。僕の口内を診察していた救急隊の人が、「口の中がかなり切れてるね、奥歯の一部が半分以上欠けているよ」と言っており、相当強い衝撃を受けているとのことだった。そういう強い衝撃を受けて気を失っていたらしく、僕は脳震盪(のうしんとう)を起こしていたそうだ。そして僕は担架に乗せられて救急車へと運ばれている途中に、あの少女が目に入った。
 やはり……あの少女……僕のことを哀れむような表情だ! 僕は咄嗟に「ちょっと止めてください」と言い、救急隊の人がその場で運ぶのを止めた。僕もどうかしていた。ここで止めても何にもならないのに、どうしてもその少女とこの場所で何も語らずに終わっていいものかと悩んだのだ。少女は僕のことをどう認識しているのだろうか、それを知りたい……しかし、どうしてこんなにも懐かしい気持ちが繰り返されるのだろうかと不思議に思いながらも、その懐かしさの根源を思い出そうと記憶を辿っても、結局は何も思い出せなかった。そして僕は「どうもすみません、運んでください」と救急隊の人達に伝えた。
 ここであの少女と別れることに対して強烈な罪悪感が芽生えるのだが、不思議なこの気持ちを自分でも消化できないぐらいに当惑した。ただ、僕は脳震盪を起こしていたのだから脳の機能に多少の異常があるのだと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせるしかなかったのだ。
 それから僕を乗せた担架は救急車の後方に到着し、かなりの人集りに囲まれているのが目に入った。そのほとんどがお客さんだったが、事情をしらない人達がここの急流すべりで、危険な事故があったのかもしれないという印象を与えていないかと心配になった。あくまでも急流すべりは安全な乗り物であって、事の真相は酔っ払いのお客さんに殴られて怪我をしたということを、みんなに知らしめたかった。
 僕が担架からストレッチャーへと乗せ替えられた時に、「本当にすみません。私の夫が暴力を振るって取り返しのつかないことをしてしまいました。本当にすみません」と綺麗な女性が涙ながらに謝ってきた。咄嗟に僕は「あの双子のお母さんですか?」と尋ねると、その女性は「はい、そうです。本当に申し訳ありません」と泣き崩れて僕の視界から見えなくなり、泣き声だけが聞こえていた。僕はその女性のことを思うと、ひょっとしたらこの人も被害者なのかもしれないと思った。あれほどの些細なことで暴力を振るうということは、家庭内でも暴力を振るっている可能性があるわけで――そう考えるとその女性はDV被害者なのかもしれない。そういう家庭環境であれば、あの双子も不幸なのかもしれないと考えるのが普通なわけで、なんともやり切れない気持ちになった。
 僕はその女性にはなにも答えないまま泣き声だけが耳に入り、それから救急隊の人達によって救急車の中へと運び込まれ、板倉さんも同乗してきた。
「板倉さん、事務所空けて大丈夫なんですか?」
「心配せんでも大丈夫や。こういうときにはきちんと付き添うのもわしの仕事やからな」
 板倉さんの声には元気がなく、一気に歳を重ねたような猫背になっており、いつもより老けて見えた。よく見ると顔や腕には沢山のシミがあり、首元も緩んだり凹んだりして潤いがなく、板倉さんが自身のことを老いていると言っていたことに対し、あながち間違いではないと思った。
 救急車が発車するとサイレンが鳴り響き、本当に僕は救急車の中にいるのだなと実感した。救急隊の話では奈良県側の生駒市にある、とある病院へ搬送するとのことだった。
 時間が経過するにつれて、少し緊張の糸が途切れたようなほっとする感覚が湧き上がり、改めて事件のことを思い出していた。僕はふと板倉さんに「あれですね、木田さんに被害が及ばなかったことはほんとうに良かったですよね」と言うと、板倉さんは「こんな言い方はあかんのかもしれんけど、不幸中の幸いやったな。実はな木田はワシの姪なんや、妹の娘でな」と言った。
「え? 板倉さんの姪だったんですか……どうりで板倉さんにおっちゃんって言うから、社会常識がない子なんかなと思いましたよ」
「仕事場では板倉さんと呼ばなあかんねんけどな、あのときは緊急事態やったからそこまで気が回らんかったんやろう。ほんと姪の由美子の顔に傷ひとつでもついてしもてたら、わしは一生妹にも由美子にも顔向けができんかったわ。こんなこと森若君に言うのも失礼な話やけどな……わしの本心や。由美子を守ってくれてありがとうな」
 板倉さんの声には覇気がなく、いつもよりもか弱い雰囲気になっていたが、どんなに外見が怖くとも芯の部分からの優しさがある板倉さんに、とても尊敬する念が芽生えた。こういう優しい大人になるのも、悪くないなと思った。

 病院に到着後、僕は救急処置室に運び込まれた。医師の診断では左側の口内上下二カ所に深い切り傷がありそれを縫合し、あと左上奥歯の一本が半分以上欠けているので、それを抜歯するとのことだった。
それから緊急処置として麻酔後に傷口を六針縫い、歯を一本抜いた。想像していたよりも大怪我だったのだが、医師の話でも相当強い衝撃があったと断言していた。あの男性、ボクシングでもしていたのだろうか。そしてあの奥さん――こんなに激しい暴力を日々受けているのかと思うと、DV被害者というのはさぞ地獄だろうなと同情すらしてしまう。それに僕は脳震盪も経験して一時は記憶をなくしていたそうだから、暴力を受けた側がいかに人間の尊厳を破壊させられ絶望を背負い、痛めつけられ虐げられるのかということを知るきっかけにもなった。そう考えてみると僕の育った家庭環境には一切の暴力がなく、あの奥さんや双子の子供達に比べたら幸福だったのかもしれないと思った。
 救急処置が終わり僕は一般の処置室へと運び込まれてベットで仰向けになり、看護師が点滴を持ってくるのを待っていた。天井にはいくつものシミがあって照明も暗い気がした。壁に掛けられている時計を見ると午後四時を過ぎたころだったが、その時計の数字があまりにも古い書体で不気味さがあり、ここに長く居ると呪われるのではないかと少し恐怖心を感じた。僕は気を逸らすために今日の出来事を振り返ったが、考えてもみれば今日は一時間も仕事をしていない。アルバイト初日からこんなにも不運な事件に遭遇したのだから、きっと僕の運気はかなり低下しているのだろうと思った。そんなことを考えていると看護師の方が点滴を持ってやってきた。
「いまから点滴を打ちますね」
「あっ、お願いします」
 その看護師は四十代後半ぐらいだろうか。長く整った睫毛に細いアーモンド型の目をしていて鼻筋は高く、そして口元は上唇と下唇の厚みが薄くて横幅が長くセクシーな唇であり、美人とはこういう人のことを言うのだろうと思った(目尻のシワとほうれい線の深さを除けば)。それから僕の上腕に黒いチューブの駆血帯(くけつたい)が巻かれると、一気に右腕が膨張しているような感覚になった。右腕の注射をしようとする部分が消毒され、点滴の針を看護師が刺すのだが、その刺した部分から強烈な痛みが走った。僕の痛みを察したのか看護師は一度針を抜き、再び右腕に点滴の針を刺した。しかし、看護師の様子からは上手く針が刺せなかったようで、困惑した表情になっていた。僕は「なかなか入らないですか?」と尋ねてみると「血管が見えなくて」と看護師は答えた。看護師はまた針を抜き、上腕を締め付けていたチューブを外し、注射する腕の部分を再度揉みほぐすように消毒し、上腕にチューブを巻いた。
「手をゆっくりグッパしてください」と看護師が言ったので、僕は幼稚園児の気分になって右手をグッパグッパとしてみた。三度目の挑戦でようやく血管に針が入ったようで、看護師は点滴チューブの部分にテーピングを始めた。看護師の手は細く綺麗で見惚れてしまいそうなのだが、やはりこの処置室の雰囲気が僕には怖いと感じており、なにかこの病院にはそうした怪奇現象があるのかを知りたくなり、そこで看護師に聞いてみることにした。
「ひとつ聞きたいことがあるんですよ。めっちゃしょうもないことを聞くかもしれないんですけど、病院で働いてて何か怪奇現象とかに遭遇したことってありますか?」
「いくらでもありますよ」
 その看護師は平然とそう答え、予想していた返答とは少し違ったのでびっくりした。
「例えば、どんな現象があったんですか?」
「そうね、夜中の巡回の時に誰かがスゥーってトイレに入っていくから、そのトイレに確認しに行っても誰もいなかったとか、そういうの私以外でもありましたよ」
「結構、マジもんの怪奇現象じゃないですか」
「それだけじゃないよ。一番怖かったのは昼間のことだけどね、その時は三階の病棟で働いていて、ナースコールが一斉に鳴ったの。急いで病室に行っても誰も押してないって言うのよ。でもね、もっと不思議なことがあって、利用者のいないベッドとか診察とかで人がいないベッドのナースコールは鳴ってなかったの。ベッドに人がいるところだけ一斉にナースコールが鳴って、みんな押してないって言うのよ。それもね、何年かしてからまたその三階の病棟だけ同じ現象が起きたから、偶然ではない何かの怪奇現象と病院側としては結論付けているけど、それは今でもずっと原因不明のままだから怖いよね」
 僕には怪奇現象の経験がなく、テレビでしかその体験談を聞いたことがなかった。こうして実際に怪奇現象を体験した人の話を聞けたことが、なによりも嬉しかった。
「本当にそういう怪奇現象ってあるんですね。そういう話を聞けて良かったです」
「私も病院に勤めだしてから病院でしか経験してないけど、よくありますよ」
 当然のように怪奇現象があると話をするその看護師さんを見て、人生経験が豊富そうで怖いことには動じないという強さを感じた。点滴のスピードを調整し終えた看護師さんが「今日はありがとうね、娘の由美子をかばってくれたんですってね。さっき兄の板倉から聞きました」と言ったが、状況がよく掴めなかった。僕は頭の中を少し整理してから「えっと、木田さんのお母さんですか?」と尋ねると「そうですよ、木田由美子の母です」とその看護師は答えた。今日会ったばかりの木田さんとは雰囲気があまりにも違い、清楚系のお母さんとおてんば系の娘というギャップがあった。よくよく考えてみると目の前にいる木田さんのお母さんは、板倉さんの妹なので遺伝子というのは不思議だなと思った。僕は「実は木田さんと会うのは今日が初めてだったんです。今日で大学の前期が午前中に終わって、午後からの出勤だったんです。アルバイト開始前に挨拶をしただけで、木田さんとはまともに会話もしてなくて。でも、木田さんに被害が及ばなかったことが僕としても良かったと思います」と言った。
「あの子、言い方がきついことがよくあるから、火に油を注いだのかもしれないでしょ?」
「いや、木田さんは冷静に対応してましたよ。僕が勝手に間に割って入って、あの男性の癇に障ったんだと思います。木田さんは何も悪くなかったですよ」
「そうだといいんですけどね」
「それに、僕の怪我している頬にずっと氷を当ててくれていたんです。僕の方こそ木田さんには感謝しているんですよ。すごく優しい人で責任感の強い人だなって思いました」
「由美子のこと、そう言ってくれてありがとうね。不束な娘だけどよろしくお願いしますね」
「いえいえ、こちらこそ」
「一時間後ぐらいに点滴は終わりますので、また来ますね」
 木田さんのお母さんは僕に丁寧なお辞儀をして、処置室を出て行った。しかし、今日出会ったばかりの木田さんとそのお母さんにも偶然に出会うなんて、どういう確率のご縁なのだろうかと思った。世の中には不思議で神秘的な事象が確かにあるのだろうけれど、きっとそれは科学だけに頼ってはいけないという神様からの啓示なのかもしれないと思った。

 一時間後、木田さんのお母さんではない別の看護師さんに起こされた。どうやら僕はぐっすり寝ていたようでまぶたが重たかった。点滴は既に終わっており問題なく抜針され、針跡に四角い絆創膏が貼られた。殴られてから僕はずっと横たわったままだったが、ようやくベッドから立ち上がることが出来た。僕は両手を挙げて伸びをし処置室を出ると、板倉さんが椅子に座って待っていた。いや、よく見ると板倉さんは目を閉じていて寝ているようだった。このまま寝かせておくべきか迷ったのだが、救急処置室から出た時に板倉さんから病院で診断書をもらった後、警察署に出向いて診断書の提出や事情聴取に応じる手筈になっていると聞いていた。時間も時間だし、板倉さんが寝ていることを気付かないふりをして「板倉さん、お待たせしました」と元気な声で僕は言った。
「おう、もう終わったか。それでどないや? 痛みとかどうや?」
「痛みはまだありますけど、おかげさまで歩けるようにもなりました」
 板倉さんは寝ていたことを気付かれたくなかったのか、目が半分しか開いていないにも関わらず、いつもよりハキハキとした大きな声だった。
 それから僕は院内の薬局で痛み止めをもらい、会計時に診断書をもらって板倉さんと共に病院前のタクシー乗り場から、タクシーに乗って警察署へと向かった。
 警察署に向かう道中、僕は板倉さんに「木田さんのお母さんと話しましたよ、綺麗な方ですよね」と言った。
「加世子と話したか。加世子も君には感謝しとったよ」
「いやいや、こちらこそ木田さんにずっと頬に氷を当ててもらっていたので感謝してるんです。でも、親子なのに雰囲気が全然違うんですね。お母さんは凄い清楚な感じなのに」
 すると板倉さんは笑いながら「あんなもん猫を被ってるだけや。口げんかしてもわしは加世子には勝てんからな」と言った。
「そういう一面もあるんですか。美人で素敵な人ですし、きっと素敵な旦那さんがいるんでしょうね」
「旦那さんは確かに素敵な感じやけどな、ほとんど家にはおらんのや。国境なき医師団で医者しとるんや。世界中で活動しとるから、たまに日本に帰ってくるだけでな」
 世界で活躍する医者って格好よすぎるし、どういう方なのだろうかと興味が湧いた。
「なんか格好いいですね。国境なき医師団に参加してるって、凄い使命感とかある感じの人なんですかね?」
「あの人は、一人でも多くの命を救うことが出来たらそれでええらしいわ。日本で医者してる方が儲けはあるんやろうけど、ほとんど寄付で運営している国境なき医師団に参加してる方が、もっとより多くの人の役に立つと考えて行動しているらしいわ。だから加世子もずっと看護師で働いて家庭を支えている感じやな」
「なんか素敵ですね。心に強い芯がある感じがして……」
 タクシーは左のウインカーを出し、窓の外を見ると生駒警察署の建物が目に入り、病院から比較的に近い場所にあったのだなと思った。
 警察署に到着すると僕と板倉さんは刑事課へと案内され、別々に事情聴取を行うことになった。僕はこぢんまりとした取調室の部屋に案内され、椅子に腰をかけて刑事さんが来るのを待った。祖母と昔に見た刑事ドラマでは机がグレーの鉄製だったが、さすがに現代ではそうした机ではなく、大学の進路相談室によくある白くて綺麗な机と椅子だった。
 しばらくすると、紺色のスーツと赤茶色のネクタイを締めた体格のいい刑事さんが入ってきた。だが、刑事さんというよりは日焼けをしていることもあってか、工事現場のおじさんという印象を受けた。刑事さんは丁寧に椅子を引き「大変やったな」と僕に気遣いの言葉をかけて、その椅子に座った。
「ほんとびっくりしました。あの犯人はこの警察署にいるんですか?」
「いるね。いま事情聴取を受けてるよ」
 僕はあの男性がどういう態度で、どういう暴言を吐いているのだろうかと想像してみた。きっと警察でも手に負えないぐらい暴れているに違いないと思った。僕はふと刑事さんに「昔、祖母とみた刑事のドラマで犯人にカツ丼を食べさせたら罪を白状するのを見たことあるんですけど、実際はどうなんですか?」と尋ねた。
 すると刑事さんは爆笑しながら「そんなんで罪を白状してくれるんやったら、なんぼでもカツ丼出すよ」と言い、僕もつられて笑った。
「そうですよね。そんなに簡単にはいかないですよね。でも、取調室でカツ丼を食べたら美味しそうですけどね」
「昔と違って今は取調室で食事は取れないからね。事件にもよるけど取調室を録画して事情聴取を行うケースもあるから、ドラマみたいに無理矢理白状させることもないよ。そんなことしてしまうと、こっちが不利になるからな」
 やはりドラマと現実は相当違うようで、フィクションだからこそ誇張出来る面白さがドラマにはあるのだろう。それでも現実の取調室で起きる出来事の中には感動的なシーンもあるのではないかと思う。なにせ人間同士の駆け引きがあるだろうし、そこからドラマのような素敵な話も生まれるだろうし、この刑事さんの中にもなにかひとつぐらいは取調室での感動出来る話を持っているだろうと思った。
 その後、刑事さんから今日の事件に関する質問をされ、それを答えていった。あのときのことを思い返すとやはりあの少女のことが頭をよぎり、暴行を受けたことよりも鮮明にあの少女のことが映像として記憶にある。今日だけでいったい何度、あの少女のことを思い返しただろうか。こうした強烈な記憶は死ぬ直前の走馬灯にも登場するのだろうか……。
 刑事さんからの質問に全て答え、被害届や調書などに個人情報を記入し捺印をし、診断書を提出した。後は警察が責任を持って対応をするという話になり、僕は取調室を出た。
 廊下に出ると板倉さんが椅子に座って待っていた。僕は板倉さんに「いま事情聴取が終わりました。板倉さんも終わりました?」と尋ねた。
「わしもさっき終わったところや」
 板倉さんは腕時計を見て「七時十分やな。今日はこのまま帰るか?」と聞いてきたので「駐車場に車を置いてるので職場に戻ります」と僕は言った。
「そうやったな、うっかりしとった。じゃあ、タクシーで戻ろうか」
「そうですね、帰ったら閉園時間ぐらいになりそうですね」
 警察署の受付窓口でタクシーを呼んでもらい、僕と板倉さんはタクシーに乗った。既に日は暮れており、街頭の光がいつもより綺麗に光っている感じがした。外を見ていると対向車のヘッドライトが列をなして、帰宅ラッシュの時間帯と被っているのが分かった。ふと横を見ると板倉さんは目を閉じており、眠っているようだった。イレギュラーな対応で心底疲れたのだろう、到着するまでゆっくり寝てもらいたいと心からそう思った。
 生駒山上遊園地の駐車場に到着し、僕は板倉さんを起こした。閉園時間の午後八時を過ぎており、駐車場には園内から帰って来た人達が沢山いた。タクシーを降りるとまだ外は暑さが酷く、きっと今日は猛暑日だったのだろうと感じた。
 僕と板倉さんは事務所に向かって歩いていたが、閉園後の遊園地は灯りがあるとはいえ、少々不気味な感じがした。人がほとんど居なくて廃墟の遊園地という雰囲気があった。きっとこの遊園地も長い歴史を紡いできたのだろうけれど、いつごろからあるのだろうか。僕は板倉さんに「生駒山上遊園地って、いつごろからあるんですか?」と尋ねた。
「戦前からあるみたいやけどな。あの飛行塔みてみ」
 板倉さんが指した飛行塔は、大阪にある通天閣を簡素化したような鉄塔で、四台の飛行機アトラクションに乗れる施設だった。そして板倉さんは「あの飛行塔なんか戦前からあるんや。わしの祖父がな戦時中に海軍の防空隊として空を監視する任務に就いとったときに、あの飛行塔で空を監視しとったんや」と言った。
「そんなに古い歴史があるんですね。それも戦時中の建物がいまだにあるって凄いですよね」
「昭和の初期の時代は、どこの遊園地に行ってもあんな感じの飛行塔があったらしいねんけどな、今はあの飛行塔が一番古いし大型遊具の中でも日本最古のもんになっとるみたいやで」
 普段から見ている飛行塔が、そうした歴史的建造物であることに驚いた。
「そんな歴史的な遊具なんですね。ずっと未来もここに残ってくれるといいんですけど」
「まだ当分は残ってるやろうけど、年々入場者数も減少しとるからな。わしが定年退職するまでこの遊園地が営業してるかどうかも怪しいもんや。まあでもな、いつまでも在るという考えがおこがましいもんや。なんでもそうやけどいつかは消えてしまうもんや。この地球も寿命があって消えてしまう運命や。だからな、あるうちに利用して楽しんで感謝したらそれでええんや」
 板倉さんが言うように、ずっと在り続けるという方が不自然なのかもしれない。人もいつかは死ぬだろうし、人類だって滅びるかもしれない。あの飛行塔もいつかは解体されて人々の記憶からも消えていくのだろう。今はその飛行塔があるのだから、戦前からの建築物が存在しているということに感謝して、アルバイトの最終日に一度乗りにいこうかなと思った。
 事務所に到着すると、従業員の方達は着替えも終えてタイムカードを押す列に並んでいた。僕が「お疲れ様でした」と挨拶をすると、従業員の方達から大丈夫だったかと心配の声を一斉にもらった。そして木田さんが僕の目の前にやってきて「まだ、頬が腫れてる感じやな」と言い、僕の頬を興味深そうに観察していた。僕は「口内は六針縫う羽目になったけど、麻酔のせいか頬に痛さはないね。歯も一本抜いたけど歯茎のところが痛むぐらいで。それ以外は何もないよ。ずっと頬に氷当ててくれてありがとうな」と木田さんに言った。木田さんは「どういたしまして」とだけ言い、もう僕には興味がなくなったのか、板倉さんの方へと歩いて行った。
 僕は着替える為に二階の更衣室へ行こうと思っていたところに、千歳という女性が目に入った。千歳とは同じ大学に在籍中だが学部はそれぞれに違う。三年前の夏休みに偶然にもここのアルバイトで一緒になり、それ以降は大学で会うと必ず話をする間柄だった。それに住んでいる場所も大阪の某所で近所ということもあった。僕は千歳に「去年と同じように俺の車に乗って帰る?」と聞いた。
「今年もいいの? それだと助かる」
「うんいいよ、ちょっと待っててね。着替えてくるわ」
 事務所の二階に上がり更衣室に入ると、室内は汗の匂いが充満しており、やはり夏はシャワーを浴びてから帰りたいなと思った。
 僕は着替えを終え制汗スプレーを上半身にふりかけた。首元や腕からはひんやりとした冷たさを感じ、清涼感溢れるミントの香りが鼻にツーンと刺激を与え、いい香りだった。一日の疲れも一気に吹き飛び、更衣室の戸締まりの確認とエアコンの電源がオフになっている事を確認し、更衣室を後にした。
 一階の事務所に戻ると板倉さんと木田さん、それに千歳が居た。僕は板倉さんに「二階の男子更衣室の戸締まりとエアコンの電源オフの確認終わってます」と伝えた。木田さんはのんびりと椅子に腰をかけていたが、きっと板倉さんの車に乗って帰るのだろうと思った。
 それから退室のタイムカードを押すと、”ガッチャン”と好きな音が耳に入り、ようやく今日のアルバイトは終了したのだなと実感した。僕は板倉さんと木田さんに向けて「今日はありがとうございました。お先に失礼します」と挨拶をすると、板倉さんは「はいご苦労さん、気をつけて帰りや」と返してくれた。座っていた木田さんは愛想のよい笑顔で僕に手を振ってくれていた。今日初めて喫煙所で会った時の木田さんは、よそよそしく愛想の良くないイメージだったが、今の笑顔は素敵で可愛いなと思った。
 僕と千歳は事務所を後にし従業員用の駐車場へと向かった。千歳は急流すべりの隣に位置するゲームセンターで働いていたので、今日の騒動は自然と目にしていると思い「今日のことは知ってるやろ?」と聞いた。
「うん、救急車に運び込まれるとき見てたよ」
「バイトの初日からこんな目に合うんやから、もう俺の運気は最悪やな」
「運気? そういうの信じてるの?」
「一応ね。運気が悪いときは何をしても結果は駄目だし、逆に運気のいいときって予想していたことよりも遙かにいい結果になることが多いから、俺は運気というものがあるって思ってるんやけどな」
 ふと千歳を見ると不気味に微笑んでおり、あまりそういう運気というものを信じていないのかなと思った。
「千歳は運気とか信じないの?」
「運気みたいな偶然はないと考えてるの。どんな出来事にも因果関係があって、起こるべくして起こるって考えてるのよ。たとえばね心理学の実験でもさ、被験者四百人中87%の人が同じ行動を取ったって研究があったとしてね、じゃ、残りの13%はどうして他の人と違う行動を取ったのかって突き詰めていくと、育った環境が違うとかそのときは心理的に疲れていたとか、色々と要因は出てくるのよ。同じ実験でも時間と場所が違ったら、同じ行動を取る人が87%から72%に変化することもあるし、YesからNoに変化することもある。運とか偶然に見えることもそこには何かしらの因果関係があるって考える方が、わたしにはしっくりくるの」
「じゃあさ、今日の俺の出来事も何かしらの因果関係があるってこと?」
「因果って、原因と結果があるから因果って言うのは知ってるでしょ? 何の原因もなく森若君が殴られることはないのよ。原因は別に森若君にあった訳じゃないだろうし、事件の詳細を木田さんに聞いたけどさ、男性は酔っていて子供が搭乗拒否されたから、頭に血が上ってクレームを木田さんに入れたところ、森若君が仲裁に入って殴られた。きちんと原因があるしその結果が殴られた、どこにも運の要素はないでしょ?」
 確かに千歳の言うとおりだと思ったが、なにか腑に落ちない。僕は「じゃあさ、俺じゃなくて木田さんが殴られてた可能性もある訳やんか。偶然に俺が殴られた可能性ってないの?」
「その殴った人の心理を突き詰めたら、きっと木田さんじゃなくて森若君を殴る方に合理的な理由があったと考えるのが自然だと思うの。双子のお父さんだったんでしょ? 娘さんの前で若い木田さんをそれも女性を殴ることに対して、心理的な負い目を感じるかもしれないし、森若君が仲裁していた言葉の中に、ひょっとしたら殴った男性の気に入らない言葉があったことも考えられるのよ。森若君には気の毒な出来事なのは確かなのよ。そこに至るまでには沢山のエッセンスがあるの。決して偶然では片付けてはいけない、たくさんの心理が働いているの。そこに運とか偶然の要素で殴られていたら、もっと惨めにならない?」
 心理学部の千歳だからこその意見だと思ったが、僕よりも大人な意見だったことに対してジェラシーすら感じた。どこか僕の心は負けた感じがした。
「千歳って大人やな。考え方が理路整然としている感じやし視野が広いっていうかさ、きっと俺とは全然違う世界を見ているんやろうな」
「みんな違う世界を見ているから、気になった人の世界を見たくもなるのよ。この人の世界を見たいと思っていてもさ、見えないことなんてよくあるし」
「確かにそうかもしれないな」
 千歳の横を歩いていると、レモンのような柑橘系の香りが鼻をくすぐった。僕が先ほどした制汗スプレーの匂いはもはや掻き消され、千歳の香水の香りが妙に鼻にジャストフィットして感じがよかった。千歳は室内のゲームセンターで働いていることもあって、外で働くよりかは発汗量も少ないだろうし、やはり女性はいい香りに越したことはないと思った。
 従業員用の駐車場に到着すると、少し下がった場所にあるお客様用駐車場に、若者達のたむろしている姿が見えた。夏休み期間中の生駒山上は、閉園後にこうした若者達のたむろ場所になったりナンパスポットになったりと、夜の顔が現れるのだ。
 他にもカップル達が無断で深夜の遊園地に侵入し、動かないアトラクションでセックスをすることもよくあり、翌朝の清掃時にはコンドームを見かけたり女性用のパンティを見かけたりすることもあるのだ。それを清掃する僕達の気持ちにもなって欲しいものだ。
 千歳を車に乗せて駐車場を出ると、大阪平野の夜景がフロントガラスの窓越しから一望出来た。山頂から麓へは当然のことながら下り坂の道なのだが、その道中には車五台程が駐車出来るスペースが何カ所もあり、カップル達が大阪平野の夜景を眺めるデートスポットとして有名な道だった。そうした道であっても、もう慣れ親しんだ道なのでそういう特別感のあるデートスポットという感覚は僕にはなかった。
 僕は夜景を見に来ている車を見ながら「ここはいつも夜景を見に来るカップルばかりやな。そんなにロマンチックになりたいんやろか」と言った。
「きっと男から夜景を見に行こうと誘ってるんじゃない? ムードがよくなってあわよくばセックスをしたいって、誰でも考えそうなことじゃない」
「確かに、ムードは大事かもしれんけどな」
「夜景を見ながらのセックスなんて、ロマンチックでなかなか経験出来そうにないから、そういうのもアリだとわたしは思うけど」
「えっ? 車の中でするの? 流石にバレるやろ。妙に車が上下に動いてたら確定やん、恥ずかしすぎるやろ」
「ねぇ、セックスの前にそんなに理性を保ってたら出来るチャンスを逃しちゃうよ? 人間だってセックスの前は動物みたいに衝動的になるんだから」
 きっと千歳は、普通の女の子とは違う感覚の持ち主なのだろう。それに知見の広さに関して言えば、きっと僕より千歳の方が上だろうし、こんなことで言い争いになっても滑稽なので「確かにそうかもな」と当たり障りのない返事をした。だが、しかし千歳は「森若君って、いままでに結構な数のチャンスを逃してきたんじゃないの? 経験人数は?」とまだその話題を引き延ばし、あろうことか僕の経験人数まで探ろうとしていた。僕は「経験人数? まぁ人並みにあるんじゃないの」と言葉を濁して話題に終止符を打とうとした。しかし「私の経験人数も教えるからさ、森若君の経験人数を教えてよ」と千歳は言うのだが、これは興味のあることは絶対に知りたい性格の持ち主だなと思い、素直に答えるしかなさそうだった。
「俺の経験人数は一人」
「たったの一人なの?」
「二十二歳の平均は一人ぐらいじゃないの?」
「うーん、少ないような気もするけど」
 僕は千歳に劣等感を植え付けられているのだろうか……。
「じゃ千歳は何人いるの?」
「えっと、あの人とあの人……それにあの人も」
 千歳はつぶやくようにそう言い、ふと助手席を見ると指を折りながら数えているようで、どんだけセックスを堪能しているのだと思った。
 生駒山の中腹辺りで大阪と奈良を結ぶ阪奈道路との交差路に差し掛かり、僕達は大阪に住んでいるので大阪方面の車線に入った。今まで以上に急勾配の下り坂になるので、ブレーキを多用しながら慎重に運転を心がけていると、千歳が「たぶんね、十六人ぐらいになるけど、でも……あの人とは結局やったのかな」と真剣に経験人数を把握しようとしているようだった。僕は「あっ、もう分かったよ。二桁いってるんやからもうそれで充分や」と言ったのだが、「いや、十八人かもしれない。でも、あの人は……」と千歳は経験人数のことについて無我夢中になっているようだった。僕は思わず「もう、みなまでいうな、分かったから」と言ってはみるものの、やはり僕の声は届いていないようだった。
 それから僕達の車は生駒山を無事に下り、阪神高速の水走(みずはい)入り口に向かった。渋滞もなくスムーズに車は流れていて、外食系の店が目に入るとお腹が空いていることに気がついた。帰ったら何を食べようかと悩むところなのだが、口内の抜糸が終わるまでは刺激物のない柔らかいものしか口に出来ないと病院で説明を受けていたので、十秒チャージで有名なゼリー飲料を飲むしかなさそうだなと思った。
 阪神高速の水走入り口手前で多少の渋滞もあったが、問題なく阪神高速に入りオレンジ色のネオン灯に照らされて順調に走っていた。すると突如「十八人で間違いない」と千歳が言った。
「まだ数えてたの? もういいのに」
「だって教えるって言ったんだから、きちんとした経験人数を言わないと失礼でしょ?」
「いや、そこまで興味はないよ。君の経験人数が二桁超えてる時点で俺はもう敗北者なんやから」
「別に経験人数の勝負をしてた訳じゃないのに」
「確かにそうやけど、ちょっと君の経験人数多くない?」
「でもね、どうしてもセックスが必要なときがあるのよ。さっきも言ったでしょ? 気になった人の世界を見てみたいと思ったら、セックスをすることで見えてくることもあるのよ」
 僕には言っている意味が全く分からなかったが、千歳なりにそう考えて行動しているのだから、別にそれでいいのではと思った。
「そういうこともあるかもしれんな。君は研究熱心だなということにしておこう」
 そこでセックスの話は終了し、ようやく解放された気持ちになった。しかしその後は、千歳先生の人生に役立つ心理学講座を聞かされ続け、阪神高速を降りた後もその話は止むことがなかった。そしてようやく千歳の家の前に到着し、そのうんちく話を強制的に止めるべく「お疲れさん。明日は朝八時頃に迎えに来るわ、おやすみ」と僕は早口で言った。
「えぇー、ここからがいい話なのに。島田紳助でもええ話やんって泣くところやのに」と千歳は言ったが、それまで聞いた話の内容から察しても島田紳助は絶対に泣かないと思った。
「島田紳助が号泣するような話は、また次の機会に聞くから、もう今日は早く寝ようや」
「そうよね。今日はありがとう、おやすみ」
 千歳は車を降り、僕が去って行くのを見届けているようだった。僕はバックミラー越しに千歳の姿を見ていたが、やがて見えなくなると一気に心身の疲れが出てきた。今日は風呂に入れないので、軽くシャワーを浴びて寝ようと思った。
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