第11話

文字数 25,604文字

   十一

 クリスマスイヴの日に恋人と過ごす文化は、日本独自なのだそうだ。僕が子供の頃に住んでいたアメリカでは、たとえ恋人が居たとしてもイヴの日は家族や親戚が集まって、ディナーを楽しむのが一般的だった。とはいえ、僕が子供の頃にクリスマスイヴを家族揃って楽しんだ経験はほとんどなかったのだが……。しかし今日は、その日本独自の文化を僕は初めて経験することとなった。
 僕は由美子を車に乗せて、神戸に来ていた。イヴの日の神戸は予想通り混雑していたが、苦にはならなかった。どの車の中を見てもカップルが多く、僕の心の中では恋愛を謳歌する仲間意識のようなものが芽生え、それだけで気分が高揚していた。目的地の神戸ハーバーランドまで二キロとナビに表示されていたが、牛歩のようなノロノロ運転なので景色をゆっくりと眺める事が出来、仲睦まじいカップル達の歩いている姿が、クリスマスらしい雰囲気を醸し出していた。普段付けることのないFMラジオからは、クリスマスソングが次から次へと流れており、由美子は時折ラジオの歌に合わせて歌うこともあった。
「なぁ、あれ見て」
 由美子が指した先を見ると、カップルが抱き合ってキスをしていた。
「まぁクリスマスやから、そういう光景も目にするやろうな」
「信じられへん。こんなところでキスする?」
「俺達も奈良公園でキスしてたやん」
「そうなんやけど、端から見ると恥ずかしいな。あたしたちも、あんなことしてたんや」
「二人だけの世界に入ると、周りなんて気にもならへんからな」
 キスをしていたカップルはやがて手を繋ぎ歩き出したが、人が沢山歩いている道中で、どういう経緯でキスに至ったのか気になった。さすがに僕達でもそのような場面では躊躇するだろうなと思った。
 しばらくすると、正面に砂時計のような神戸ポートタワーが視界に入ってきたので、僕は由美子に「この神戸ポートタワーなんやけど、上の展望フロアは事前にチケットを購入してないと入場できないねん。でもな、今日はこの日の為にチケットを購入しといたよ」と報告した。
「イヴの日なんかチケット取られへんのんと違うん?」
「発売日に即購入したよ。夜になったら展望フロアで夜景を楽しむ予定やから」
「さすが聡君やな。いい思い出を作る為に考えてくれているやん」
「沢山いい思い出を作ったら、生まれてきた事にも俺達が出会えた事にも感謝できるやん。そういう人生を歩みたいからな」
 すると突然、由美子は僕の頬にキスをしてきた。僕は笑いながら「さっき、キスがどうのこうのって言ってなかった?」と言ってみると、由美子は「車内はギリセーフやん」と返してきた。確かに車内はプライベート空間なので問題はないのだが、由美子の言うギリのラインがどこなのかは分からなかった。
 ハーバーランドの駐車場まであと三百メートルの地点までやってくると、ほとんど車は進まなくなった。午後三時を過ぎていたが、やはり僕達と同じように夜の神戸を満喫しようと考えている人達が多いのかもしれない。僕達がイブの日に神戸でデートをする話は、十月の中旬頃には決まっていた。由美子の会食恐怖症の告白を聞いてからしばらくして、僕達は喫茶店で話をしていた。その時に由美子が、イヴの日はどうしても神戸でデートをしたいと言い出したのだが、その理由が少し奇妙だったのだ。由美子の大学の友達に副業で占い師をやっている人物がいるらしく、僕と由美子の生年月日を用いて占ってみると、二人の相性に問題はないのだが、僕に少し問題があると言うのだ。僕が生まれた日時から算出した星の位置関係が余りにも珍しい星図だったらしく、イヴの日の夜に神戸にいる必要があると言われたのだそうだ。その占い師が由美子に必ず僕を連れて神戸に行きなさいと強く忠告していることもあり、僕はその話を聞いて奇妙さを感じずにはいられなかった。ただ、神戸に行くことを実行することで僕達の将来は安泰が約束されるとまでいい、由美子はそれを信じて僕にその話をしてきたのだ。僕は由美子からその話を聞いた時に『その問題って何? めっちゃ気になるやん』と尋ねてみたが、その占い師は行けば分かるとしか答えてくれなかったのだそうだ。そういう話を聞かされてしまうと気になるのが人間の性なのか、僕も絶対に行かなければならないという使命感が自然と心に湧き今日に至ったのだ。
 僕は改めて「俺の問題って、本当に今日分かるんやろうか」と由美子に聞いてみた。
「占いの話? その占い師の友達とは大学で会った時に話すねんけど、その度に神戸に必ず行きやって念まで押されてるねん。なんかな、その子は陰陽師(おんみょうじ)の家系で親にも聡君の生年月日と名前で占ってもらったら、間違いなく神戸に行く必要があるって言うてるねんて。聡君は希有な存在とまで言うから、あたしも気にはなるんよ」
「まじか、希有な存在と言われてもやな、人生で良いことがあったと言えば由美子と出会ったことぐらいしかないで。それにしても陰陽師の家系って凄いな。それも占い師の親も神戸に行けって言うねんから、いよいよ何かあるんやろうな。でもな、俺はここに来るの初めてやし、思い当たる節すらないわ」
「今日ここに来ることで問題が解決されるって言うねんから、悪いことではないんよ。それにその問題が解決されたら、あたし達の将来は安泰が約束されるらしいねんから、いい出来事が起こるんよ」
 由美子に明るい声でそう言われると、確かにいい出来事に遭遇しそうな気がしてきた。
「そうやな、何があっても俺には由美子という強い味方がいるから心配する必要もないか」
 何はともあれ、イヴの日に神戸に来ているのだから心から楽しもうと思った。
 ようやくハーバーランドのumieモザイク駐車場に到着した。車を降りると海からの潮の香りが鼻に届き、港町であることを実感した。僕達は早速手を繋ぎ駐車場から出ると、そこは岸壁で青い海が目に入った。
「やっぱりあたしって晴れ女やな。いつもデートの時は快晴やし、海も綺麗な色してるから最高やわ」
「ここまで快晴やと、冬の海でも色鮮やかに見えるもんやねんな」
「奈良には海がないから、こうして海を見るの小学生以来やわ。潮の香りがこういう匂いをしてたの、ずっと忘れてた」
 僕はその由美子の言葉を聞いた時、その悲しげな言い方から潮の香り以外にも、何か大事なことを忘れているかのように感じた。
「忘れてた事って、思い出した時に必要な記憶として蘇るんかもしれへんな。なんとなくやけど、そう思うねん」
 すると由美子が僕の顔を真剣に見つめ、「あたしのことは、どんなに歳を取って認知症になっても忘れんといてな」と言ってきた。きっと由美子は忘れられてしまう事に対して不安を抱いているのだろう。僕は由美子に「結婚指輪の話を、小さいときに神父さんから聞いたことがあるねん。お互いが愛して慈しむことを誓った証しとして、指輪をはめるらしいねん。俺はどんなことがあっても由美子の事を忘れないし愛すると誓うよ。お互いにそのことを誓う為に、今からペアリングを買いに行って、それを証しにしようと思ってる。由美子も俺のことを忘れず愛するって誓ってくれるか?」と尋ねてみた。
「あたしが聡君のことを忘れるわけないやんか。夢に何度も出てきて、あたしを楽しませてくれて優しくもしてくれるのに。夢の世界でも現実の世界でも、あたしが愛してるのは聡君やし」
 由美子はいつも心に思った事を素直に話してくれるから、僕の心に伝わりやすくてありがたかった。
「じゃあ、今から指輪を買いに行こう」
 それから僕達はショッピングモールへと向かった。すれ違うカップル達の姿を見て僕の心の中に、ある思いが浮かび上がってきた。カップル達が一堂に会するこの場所は、もはやひとつのテーマパークではないかと思うぐらいに華やかだった。今日この場所という限られた空間の非日常に、誰もが酔いしれているような気がした。過去でも未来でもなく、今という瞬間を生きていると心から実感出来るこの雰囲気こそ、人間が探し求めたユートピアなのだと僕は思うのだ。決して忘れることのない甘い甘い今日の記憶は、僕の中で生き続けることだろう。
 ジュエリーショップに到着すると店内には二組のカップルがいた。イヴの日に指輪を買うのは、どうやら僕達だけではないらしい。店内の照明は非常に明るく、現実と一線を画する近未来的な雰囲気が、新たな夢を見させてくれるように感じた。
「値段は気にしなくていいから、由美子が気に入ったのを選んでな」
「うん、一通り見て決めるわ」
 ガラスのショーケースの中には沢山の指輪が並べられており、そのどれもが光り輝いて見えた。由美子を見ると童心に返ったかのような純真無垢な笑顔を見せており、少女のような愛らしさがあった。ペアリングが展示されているショーケースの前で指輪を見ていると、女性の店員さんが「ペアリングをお探しですか?」と声を掛けてきた。すると由美子が「はい、沢山あって迷いますけど、こういうピンクゴールドでウェーブのリングを探してるんですよ」と笑顔で答えた。店員さんはショーケースの上に四つ程ペアリングを並べ、ひとつずつ説明をした。由美子はその説明を丁寧に聞き、時には質問をして店員さんと楽しそうに指輪を吟味していたが、僕は指輪よりも由美子の笑顔に見惚れていた。しばらくすると由美子が「この二つまで絞れたんやけど、聡君はどっちがいいと思う?」と聞いてきたので、僕はその二つの指輪をじっと見比べてみたが、どちらも魅力的に見えて悩んでいると、「実際にはめてみませんか?」と店員さんが言ってきた。僕達は店員さんに勧められて指のサイズをそれぞれ測ってみると、由美子は七号で僕は十五号だった。サイズごとの指輪をストックしていたようで、すぐにそのサイズの指輪が用意された。実際に指輪をはめてみるとサイズはぴったりで、ホワイトゴールドの白い輝きからラグジュアリーさを感じた。まだ結婚という話ではないが、これで本当に由美子と結ばれるのだなという実感が自然と湧き出てきた。由美子のはめているピンクゴールドの指輪にはダイヤが三つ装飾されており、そこから放たれる虹色のきらめきが幻想的だった。
「そのダイヤ三つの方が虹色にきらめいて美しく見えるからええな。俺のはホワイトゴールドでラグジュアリーな感じやし、このアームの曲線が気に入ったよ」
「じゃあ、このペアリングにしよ」
 それから由美子は何点かある指輪ケースを一つ選び、店員さんが綺麗に包装してくれた。僕はお会計を済ませ、それぞれに指輪の入った手提げ袋を受け取った。店を出て僕は「夜になったらポートタワーで指輪をはめようか」と由美子に提案してみた。
「うん、誓う場所としては最高やな。夜景も見られるやろうし、ほんと夢のようなシチュエーションやと思う」
 由美子にそう評価されたのだから、チケットを買った甲斐があったというものだ。まだ夜まで少し時間があったので、ショッピングモール内の喫茶店で休憩することにした。店内に入るとジャズっぽい音楽が流れていた。意外と席は空いており、僕達は一番奥の席に座った。この店だけはクリスマスとは無縁の雰囲気だったので、それはそれで普段通りに落ち着くことが出来た。二人ともホットコーヒーを頼み、由美子が「あたしの家でコーヒーを飲んだの覚えてる?」と聞いてきた。
「もちろん覚えてるよ。凄く甘みのある美味しいコーヒーやったから衝撃やったよ」
「あの時の聡君の印象がお父さんには相当良かったみたいで、それ以降も聡君とはどういう関係なのか聞かれることが多々あってん。最初の頃は友達やでって言ってたんやけど、付き合うようになってからは堂々と付き合ってるって言うようになって、それからが大変。デートはどこにいくのとか聡君と喧嘩してないかとか、いろんなことを詮索してくるようになったんよ。心配してくれるのは嬉しいねんけど、あたしのことを子供扱いするから、うざく感じたりもするねん」
「それだけお父さんにとっては、由美子は大切な存在なんやという証しやで。話を聞いてて愛されてるなぁって感じるもん」
「わざわざ海外からLINE通話で聡君のこと聞いてくるねんから気にはなってるんやと思うけど、子離れ出来ないタイプなんやろうなって思う」
 子離れ出来ない親の方が、愛されている感じがあっていいものだと思うのだが。
 その後コーヒーが届き、ゆったりとくつろぎながらコーヒーを味わい、飲み終えた頃には午後五時半を過ぎていた。僕達は再び外の岸壁に行くことにした。
 岸壁に到着すると既に日は暮れており、綺麗なイルミネーションが僕達を迎えてくれた。やはり外はアウターを着ていても寒さを感じたので、僕は由美子の肩を抱き寄せて歩き出した。少し前を歩いている男性が自撮り棒にスマホを付けて話しているので、何をしているのだろうかと見ていると、由美子が「前の人、ライブ配信してるやん」と言った。
「なんでライブ配信って分かるん?」
「アイテムありがとうって言ってた」
 視聴者が配信者にアイテムを贈る文化は、ライブ配信ではよくある光景だった。
「こういうところでライブ配信が出来るって、ほんと文明って凄いよな」
「ライバーっていう職業もあるぐらいやから、あたし達って凄い時代に生きてると思うわ」
 スマホひとつあれば何でも出来るのだから、僕達は恵まれているのかもしれない。
「さっきからあの人、V系の話してはる」
 確かにその男性からはV系という言葉が頻繁に聞こえてきた。
「V系って、ビジュアルバンドのこと?」
「うん、お父さんもV系やねんって話をしてたから、そういう家系なんやろうな」
 先祖代々V系というのも、なかなか珍しいのかもしれない。由美子は気になったのか少し歩くスピードを上げたので、きっとライブ配信者の近くまで行って観察をしたいという気持ちの表れなのだろうと察し、僕も同調して歩くスピードを合わせた。そのライブ配信者の顔が見られる位置までやってくると、由美子が「やっぱりV系の顔立ちしてはる。どうせなら後ろにバンギャ二人ぐらい連れて歩いてくれてたら配信としては面白いと思うねんけどな」と言った。
「バンギャって何?」
「V系バンドの熱心な女性ファンの事をバンギャって言うねん」
「そんな用語を知ってるって、由美子もバンギャなん?」
「あたしは全然違うよ。Vtuberで折咲もしゅって子がバンギャをしてるから、そこで用語とか覚えたんよ。赤髪の可愛い子で歌も上手やし、喋り方も独特のイントネーションで聞いてるとクセになる子やねん」
 VはVでも由美子の場合はVtuber系のVだった。しかし、由美子の声が聞こえたのだろうか、そのライブ配信者が僕達の方に顔を向けてきた。着ている服装やアクセサリーに髪型まで、どれを取ってもV系だなと思い、さすが先祖代々V系にもなると雰囲気までそうなるのだなと思った。その男性の前を通り過ぎてから僕は「結構イケメンやったな」と小声で言った。
「マスクしてるから分からへんよ。でも、女性の視聴者が多そうな雰囲気はあったから、人気配信者なんかもしれへんな」
 人気配信者にもなると月百万円以上は稼げると聞いたことがあるので、世の中はまだまだ夢があるなと思った。
「なんやろあれ、綺麗なイルミネーションやな」
 由美子が指す先を見ると、大きなテントに色鮮やかなイルミネーションが飾られており、設置している立て看板には本場ドイツのクリスマスマーケット開催中と書かれていた。そのマーケットまでやってくると、ドイツソーセージやビールの飲食店からアンティークやガラス細工等のドイツ雑貨の店までいくつもあり、人々で賑わっていた。僕達はドイツ雑貨の店に入り、アクセサリーのコーナーで立ち止まった。平べったい涙の形をしたヴォルケーノと呼ばれるガラス細工のネックレスは、幾何学模様のデザインであり美しい色を放っていた。ここまでの完成度になると芸術作品だなと感じるぐらいに美しいものだった。
「こういうデザインって、一度は人間の頭の中で想像されて描かれたもんやんか。他の動物は真似も出来ないし、人間だけに許された創作活動なんよ。そう考えたら芸術って上手下手は関係なく作品そのものに人間の尊さがあるように感じる」と、由美子はガラス細工のネックレスを手で触りながらそう言った。
「確かに創作すること自体が人間の尊さなんかもしれんな。それを普通のことのように感じるけど、人間だけに許された特権だと考えると凄いことやな。まぁでも、俺が描く絵は小学生と張り合えるレベルやから、あまり偉そうなことは言えんけどな」
「ピカソって画家の話になるねんけど、晩年になってようやく子どもらしい絵が描けるようになったって喜んでたらしくて、今はその気持ちが凄く分かる。あたしの場合、最初はイラストを描くのが純粋に楽しかったけど、イラストレーターになるって決めてからは上手に描く欲望に囚われすぎて苦しくなっていくんよ。上手に描けてはいるねんけど、純粋に楽しく描けなくなってしまってる。何かを得るためには何かを失う事って、世の中にはあるんよ」
 由美子は遠い目でそう言い、切なさを身にまとった少女のように感じた。イラストレーターになることへの苦悩があることは分かるのだが――僕は「何かを失ったんじゃなくて、何かを手放したってことなんやと思うよ。失うってことは自分の意思に関係なく消えてしまうけど、手放すことは自分の意思でしか出来ないから取り戻せる可能性は充分にあるねん。ピカソだって子供らしい絵を描くことを一度は手放したけど、晩年になってようやく取り戻したってことやと思うで」と自分なりの解釈で、由美子に言葉を贈った。
「聡君の言うとおりやわ。ずっとネガティブ思考で失ったって考えてたけど、手放したって考える方がしっくりくる。前にプレゼントした氷に覆われた生駒山上遊園地の絵を描いた時は、めっちゃ楽しかったんよ。そう考えたらあたしは何も失ってないし、今は一時的に手放してるだけなんやな」
「そやろ? イラストレーターをしながら純粋に絵を描く楽しさを味わえる時が来ると思うから、そう信じて今は頑張る時なんかもしれへんな」
「そうやんな。聡君はいつも優しい言葉を掛けてくれて、あたしを励ましてくれるからほんと感謝してるよ」
 少しでも由美子の支えになれているのであれば、それだけで充分幸せなのだ。
 それから僕達は雑貨屋を出て、ポートタワーへ向かうことにした。岸壁沿いを歩いていると海に反射するイルミネーションの光が幻想的で、その海を見ているカップル達が等間隔に座っており、中にはキスをしているカップルもいた。こういう光景を見ているだけでも安らぎを感じる。人を好きになる気持ちや愛する心を人間に与えてくれた神様には、心から感謝したい。この素晴らしい人類が滅亡しませんようにどうかこのままでと祈りたくなった。
 ポートタワーの前までやってくると、その高さに圧倒された。ライトアップされたタワーは赤色から水色へ、水色から緑色へと色とりどりの光の変化を楽しむ演出がされており、来る者達の目に癒やしを与えているように感じた。
「ライトアップを見ているだけで、酔いしれそうやわ」と由美子はタワーを見上げて言った。その横顔にあるくっきりとした顎のラインが綺麗で、薄いピンク色のチークが僕を誘っているように感じ、そっと由美子の頬にキスをした。由美子はびっくりした顔をして、「聡君は不意を突けるからいいな。あたしの場合はキスをしたくても、身長差で届かへんもん」と言った。
「自分からキスをするより、される方がよくないか?」
「自分からしたい時もあるねんで。聡君は気づいていないかもやけど」
「全く気づいてないわ。今度キスしたくなったら教えてよ」
「二分に一度はキスしたいって聞くことになるけどええの?」
 僕の想定を遙かに超える頻度だったので、「そんなにしたいんやったら、次のデートは一日中キスをする日にしてみようか」と笑いながら答えた。
「うん、そういう日があってもええと思うから必ずそうしてな」
 僕は冗談のつもりで言ったのだが、どうやら由美子は本気でそう言っているようだった。
 ポートタワーの中に入るとカップル達の姿が多く見受けられたが、その多くが帰って行く人達だった。僕達は有料の展望フロアに行く為に二階の入場ゲートへと向かった。入場ゲートで予約購入していたチケットのスマホ認証を済ませ、エレベーターに乗った。エレベーターの中には他にもう一組のカップルがいたが、僕達だけならキスをしていたに違いなかった。五階の展望フロアに到着すると、息を呑む程の喧噪であった。今宵のチケット争奪戦を勝ち抜いた人達による触れ合い広場へようこそと、謳い文句でも垂れたくなるようなその光景に、ある種の勝ち組という意識が僕の心を愉快にしていた。
「由美子、今日は限られた人しかここからの夜景を楽しむことが出来ないから、ゆっくりと見ていこ」
「うん、特別な夜やから心に深く刻んでいく」
 窓際で夜景を見ようとしたが、どこもカップル達に占領されていたので気づいたころにはフロアを一周していた。どこか空くのを待つしかないなと思ったその時、ちょうど目の前のカップルが場所を離れたので、僕達は早速その場所に入った。眼下には先程まで歩いていたハーバーランドが小さく見え、人々の姿は色鮮やかなイルミネーションの中に溶けていた。有名な大観覧車も今宵だけは天国の遊園地にある夢幻のアトラクションのような儚さがあり、女神を連れている僕は神と同化したかのような心の清らかさを感じていた。僕が再び肩を抱き寄せると、それに応じるかのように由美子は頭を傾けてきた。
「こんなに幸せを感じること、今までの人生で一度もなかった。生きていたらきっと良いことがあるって月並みな言葉があるけど、まんざら嘘でもなかったんやなって思う。でもそれって、聡君という存在と出会えたからそう思えるんよ。出会えてなかったら、あたしどうなってたんやろ」
「出会えてなかったらか……。もしそうなっていたら俺が由美子を探すのに手間取っていたってことやろうな。その時は遅れてごめんなって謝るしかないな」
「遅れたのはあたしの方なんよ。実はな、去年の夏に板倉のおっちゃんから夏バイトに誘われていたんやけど、あんまり乗り気じゃなかったから断ってたんよ。今年は液タブを買いたかったから板倉のおっちゃんに頼んでバイトさせてもらったけど、去年誘われていたのを断ってなかったら、もっと早くに聡君と出会えてた。後悔しても仕方のないことなんやけど、そう思うことがよくある」
「まあ、そう考えてしまう気持ちはよく分かるよ。もし去年に出会ってたとしても付き合うまでに至っていたかは分からないから、なんともいえんな。結局、今に至っているこの現実がタイミング的にもいろんなことを含めて整っていたから、今こうして二人でいられるんよ。由美子が今年バイトを始めたという選択こそが、最良の選択だったと俺は思うねん。過去にあったもうひとつの選択は魅力的に見えてしまうかもしれんけど、良い結果とは限らないからな」
 何を思ったのか、由美子は軽く僕のお腹にグーパンをしてきた。
「そんなん言われなくても分かってる。早く出会いたかってんもん」
 どうやら由美子は甘えたかったようで、僕が真剣に返答したのがまずかったようだ。
「俺も早く出会いたかったんやで。もし早くに出会えていたら、初めての彼女が由美子になって浮気されることもなかったやうろなって思うことがあるよ」
「元カノが浮気してたもんな。あたしは浮気することはないけど、もし浮気したらどうする?」
 由美子は意地悪そうな声で僕に尋ねてきた。
「この感じで浮気されたら、もう人間不信で立ち直る事もできないやろうな。元カノの場合は、どこかそういう危うさがあったから受け入れる事が出来たんやけど、由美子が浮気してたってなったら、この世は地獄やってんなって悟りを開いてるかもな」
「聡君がもし浮気したらそれはあたしのせいやって思うけど、あたしを悲しませる事は出来ない人やうろなって信じてるよ」
「お互い信じ合えているってことは、信頼関係で強固に結ばれているってことやから何も心配することはないで」
「うん、そうやんな。でもな、幸せすぎるのも不安になってしまうんよ。この幸せって続くんかなって」
「そういう不安もよく分かるよ。その為にも、今から指輪をお互いにはめようよ。お互いがいくつになっても忘れない為に、そして深い信頼関係で結ばれ愛し合う二人の証しとして指輪をはめよう」
「うん」
 僕達はそれぞれの手提げ袋から指輪を取り出した。僕は由美子の指輪を手に取り、その小さな左手の薬指にゆっくりとはめると、ポートタワーの光で三つのダイヤが綺麗に輝いていた。由美子は左手を大きく掲げ、「いくつになっても聡君の事は忘れないし、永遠の愛をここに誓います」と嬉しそうに宣言した。由美子の声が隣のカップルに聞こえていたようで、僕達の方を一瞬だけ見て見知らぬふりをしてくれたようだった。そんなこと気にする必要はないのだが、やはりどこか恥ずかしさがあった。由美子が僕の指輪を左手薬指にゆっくりとはめてくれたのでそれをを天に掲げ、「森若聡は、木田由美子さんのことを何があっても忘れないことを誓います。永遠の愛を誓いますので、生まれ変わっても由美子との愛を育み続けます」と誠心誠意込めて誓いの言葉を述べた。すると隣にいたカップルの女性が僕達の方を微笑ましい表情で見ており、隣にいた男性も少し笑っている様子だった。僕は少し恥ずかしくなったが、由美子は隣のカップルに向けて会釈をした。そのカップルは三十代ぐらいに見え、女性の方が「素敵な誓いですね。最後にキスをすることでそれが永遠の誓いになるんですよ」と教えてくれた。僕は由美子の両肩を持ちキスをしようとすると由美子は目を閉じたので、僕も目を閉じてキスをした。すると「おめでとう」と隣のカップルから祝福の言葉と拍手が聞こえてきたので、こんな状況で祝福されるキスってもはや結婚式そのものだなと思った。キスを終え僕は「ありがとうございました」とその二人にお礼を言うと、由美子も「教えてくれてありがとうございました。これであたし達は永遠に愛し合えるので嬉しいです」と言った。その女性は「お幸せに」と言葉を残し、男性と共にその場を離れエレベーターの中に消えていった。僕は由美子に「まさかの出来事やったな。恥ずかしかったけど、あのカップルが誓いの言葉とキスの証人になってくれたから良かったと思うわ」と言った。
「優しそうなお姉さんやったし、後押ししてくれたんやからほんと感謝やわ。今思ったんやけど、ここに来る必要があったのはこの事やったんかもしれへんな。誓いのキスまで想定してた?」
「ここで指輪の交換と誓いの言葉は考えていたけど、キスまでは想定してなかったな。ここに来ることで俺達の将来が安泰って言ってた理由も、なんとなくやけど分かる。誓いのキスが必要やったってことなんやろうな」
「キスの儀式が必要やったってことなんかな。ほんと最高の夜を過ごせてるから、ここに来たことは間違いなかったと思う」
「うん、そうやな。友達の占い師にお礼を言うといて」
「うん、言っとくね」
 それから僕達は違う方角の夜景を見ることにし、移動することにした。東側の夜景はホテルオークラが間近くに見えており、こぼれる部屋の光から満室に近いだろうなと感じた。イヴの日に空室があるホテルなんて、日本中どこを探してもないだろうなと思った。そのホテルの横を高速道路の湾岸線が走っており、流動する車のヘッドライトが生き物のように見えた。
「車は動いてるねんけど、時間が止まってるような不思議な感じがする」と由美子が話しかけてきた。
「きっとやけど、現実味がないくらい感情が揺さぶられたときに、時間の感覚がなくなったり止まったりしてるように感じるのかもしれへんな」
「そういうことなんや。現実を忘れていつまでもこうしてたいって気持ちになってる」
 次は北側へと移動し、神戸市街の夜景が金細工のように輝いて見え、生駒山上から見る大阪平野の夜景と引けを取らない美しさだった。僕が生まれる何年も前に、この神戸を巨大地震が襲ったらしく、街中が瓦礫に埋もれた映像を何度も見たことがある。復興してここまで輝かしい街になっているのだから、人は幾らでも立ち直る事が出来るのだと教わっているようにも感じた。
 ポートタワーを充分に満喫したので、僕は由美子に「そろそろ帰ろうか」と尋ねてみた。
「帰るのはいいねんけど、今日は聡君の家に泊まりたい」
 由美子の言葉に驚いたが、それはその……そういうことなのだろうと思った。
「泊まってくれるのは嬉しいねんけど、お母さんに怒られたりせえへんか?」
「お母さんは夜勤やから家にいないし、たとえ夜勤じゃなくても聡君の家に泊まるつもりやったんよ。もう大人なんやし、そういう関係になるのも自然なことやと思うねん」
 由美子の顔を見ると恥ずかしそうにしていたので、そういう関係とはそういうことなのだろうと察した。
「じゃあ、俺の家に泊まりに来てよ。クリスマスを一緒に迎えることが出来るから、俺としても嬉しいことやし」
「うん、ありがとう。あとな、二人っきりやったら食事は出来ると思うから、聡君の家で一緒に晩ご飯を食べたいねんけどいい?」
「そうやな、さすがにお腹も減るからな。あんまり料理は得意じゃないねんけど、家の近くにスーパーがあるからそこで買い物してから家に帰ろうか」
「うん、聡君にまかせる」
 綺麗な夜景を後にし、僕達はエレベータに乗り地上に降りることにした。まるで劇場の垂れ幕が降りるかのように下降する二人っきりのエレベーター内で、僕は第一幕の終演を告げるキスを由美子にした。これから始まる第二幕を予感させるべくほんの少し舌先を入れると、条件反射のように由美子は強く僕を抱きしめた。絡み合う舌先の感触に我を忘れそうになったが、一階到着を告げるチャイムが鳴ったのでゆっくりと離れ、何事もなかったかのように由美子の肩を抱き寄せポートタワーを後にした。

 ハーバーランドの岸壁に戻ってくると、神戸クルーズ船が帰港しようとしていた。イヴの日にクルーズ船に乗ることが出来る人達は、きっと人生の成功者達なのだろう。
「このクルーズ船って、ディナーをしながら神戸港近辺の景色を堪能するらしいで。たしかナイトクルーズは神戸空港近辺まで行って景色を楽しむらしいわ」
「贅沢の極みやな。あたしは聡君と一緒に過ごせるんやったら、どこでもええねんけどな」
 クルーズ船から降りてくる人達の多くはフォーマルな服装をしており、きっと満喫したのだろう、とても幸せそうな笑顔で溢れていた。他人であってもそうした笑顔を見ていると、こちらも影響されて微笑ましくなる。幸せは連鎖する。笑顔を絶やさない生き方をすれば、きっと周りも影響されて幸せになれるはずだ。そんなことを思いながら歩いていると、大観覧車が目に入った。地上から見る大観覧車は、ポートタワーから見た時よりも迫力があった。その綺麗なイルミネーションを見ていると、僕達の前に一人の少女がやってきた。
「あっ!」と、僕も由美子も同時に声をあげた。夏バイト初日に出会った双子の少女の一人だった。その少女は僕に向けて手話で何かを伝えようとしていた。その少女の後ろにはあの家族の姿があり、弁護士事務所で出会った奥さんが走ってきた。その奥さんは驚いた表情をして「あの時はお世話になりました。ひより、行くわよ」と、少女の手を取ろうとしたが、それでも必死になって僕に手話で何か伝えようとしていた。すると由美子が「おばちゃん、この女の子の手話を通訳して!」と比較的大きな声で言った。その奥さんは少女の手話を見て「ひより、何を言ってるの?」と困惑した表情で言った。僕は居ても立ってもいられず、「奥さんお願いします。通訳してくれませんか?」と嘆願した。
「ひよりの言ってることが、その……」
「おばちゃん、聡君は夏バイトの時にこの子を見て、ずっと気になってたの。懐かしい気持ちになるってずっと言ってたし、その事に関係してるかもしれないから教えて!」
 その少女の後ろに僕を殴った男性がおり会釈をしてきた。
「あの時は、本当にご迷惑をおかけしました。娘のひよりが言ってることは信じがたい内容なのですが、生まれてくる前、羽田空港から大阪伊丹空港行きの飛行機に一緒に乗っていて墜落したのを覚えていないかと尋ねてます」と、その男性は言った。飛行機が墜落……僕がよく悪夢でうなされる内容がそれだった。僕は膝をつき、その少女の目線に合わせ「夢でそういうのをよく見るけど覚えてないよ」と優しく言った。男性は手話でその少女に僕が言ったことを伝えたようで、あろうことかその少女は僕の右手を掴んできた。その瞬間、僕の前で閃光が走ったかのように景色が真っ白になり……。

『マスクを付けてください。ベルトを締めてください。煙草は消してください。ただいま緊急降下中』
 僕の右手を掴んだ姉さんが「裕太、離れないで。お姉ちゃんが何とかするから」と言った。お姉ちゃん? そうだった……僕には二つ年上の姉がいた。罪を犯した姉を、東京から神戸にいる知人宅に送り届けるのが僕の役目だった。しかし飛行機は大きく左や右に傾き制御不能に至っているのは明らかで、遅かれ早かれ墜落するだろうと思っていた。
「お姉ちゃんが何とかするって、何が出来るんだよ。いい加減に俺を巻き込むのはやめてくれよ。早くその手を離してくれ!」
 姉に掴まれた右手を振り払おうとしたが、決して離そうとしてくれなかった。
「お姉ちゃんの力を信じて。今までだって、上手く切り抜けてこれたんだから」
 姉は人の心を読むことが出来るリーディング能力を有していた。だからといって、今にも墜落しそうな飛行機をどうにか出来るはずがないのだ。悲鳴のようなエンジン音と共鳴するかのような人々の叫び声もまた、不快そのものだった。僕の人生は姉の尻拭いばかりで、姉が罪を犯さなければこんな飛行機に乗ることもなかったのだ。僕は何のために生きていたのだろうか。姉から逃げるチャンスは幾らでもあったはずなのに、僕は姉を助ける選択しか出来なかった。両親は既に他界しており、姉は僕を束縛して離そうとしなかった。もうだめだ、機体が大きく左に傾き地上が目の前にあった。
「あと少しだったのに、どうしてこんな事になってるの?」
 姉が今までやってきた所業を見ていたら、こうなるのも当然だ。他の乗客も姉の天罰に巻き込まれたのだ。ここから逃げなければ、逃げなければ……。
「その手を離してくれ。俺はここから逃げるんや!」
「裕太ごめん、お姉ちゃんでも今回は無理みたい。生まれ変わったら償うから許して!」
「もう二度と俺には関わらないでくれ!」
 機体は前方に大きく傾き加速度的に急降下をすると、機内には大きな軋む音と共に人々の断末魔の叫び声が僕の人生に終末がやってきたことを告げていた。僕は天を仰いで「どうか来世では、愛する人と共に幸せな人生を歩んでいけますように」と祈り、そして目を閉じて次の人生を想った。
 嗚呼、満たされていく――
 天使があの子に合わせてくれるのだから――

「聡君、大丈夫? 聞こえてる?」
 気がつくと僕は四つん這いになり、由美子が僕の顔を覗き込んでいた。
「聡君泣いてるけど、何があったの?」
 確かに僕は泣いているようだった。
「前世の記憶を見たよ」
 僕は顔を上げ少女を見つめながら「俺のお姉ちゃんやってんな」と告げた。男性は僕の顔を唖然とした表情で見ているだけで、手話で少女に伝えようとはしなかった。しかし、その少女は僕が言ったことを通訳されないまま、男性に手話で何かを伝えた。男性は深くため息をついて「ひよりは、あなたの姉だったと言ってます」と通訳をしてくれた。僕の言葉を通訳しなくても、この少女いや姉はどうやら心を読めているのだろうと感じた。僕は確認の為に男性に「まだ能力を引き継いでいるのかと聞いてくれますか?」と通訳を依頼した。しかし少女の姉は男性に対して、抑止するかのように両手の平を見せた。
『もうかったるいから直接心に話しかけるけど能力は引き継いでいるし、こうして相手の心に話しかける事も出来るようになったの。でもね、一週間前まではここまで力は大きくなってなかったの。裕太と生駒山上遊園地で出会ってから少しずつ前世の記憶が蘇ってきて、また合わなきゃってずっと思ってたのよ』
 声は前世時代の姉の声ではなく、この少女の地声なのだろう。僕は由美子の両肩を強く握り姉に向けて「俺には心から愛する人と共に歩む人生がある。君は君で幸せな人生を歩めばいいし、もう二度と俺に関わらないでくれ」と言った。
 姉は凄く寂しそうな表情をし、男性は僕の言葉を手話で通訳していた。きっと、この両親は少女が能力者であることを知らないのだろう。
「聡君、どういうこと?」
「由美子、後で全て話すから」
『もう悪いことはしないから、せめて償いだけでもさせてよ』
 また姉が僕の心に話しかけてきた。
『前世では俺の心だけは読めなかったのに、赤の他人になると読めるようになったという訳か。俺の心が読めるようになったんやったら心の中ではっきり言うけど、二度と俺に関わらないのが償いや』
『今は聡という名前なのね。ひとつだけ忠告しといてあげる。あなたも能力者の魂を持って生まれてきているの。どんな能力かは分からないけど、その能力が開花したら私の助けが必要になってくるし、能力者は一人じゃ生きていけないの。今は離れてあげるし恋愛の邪魔もしないから、時が来たら私と組んで欲しいの。それに前世の記憶を思い出したんでしょ? それってお姉ちゃんのおかげなんだから感謝して欲しいぐらいよ』
『おまえが勝手に余計なことをしたんやろうが。もし俺にその能力とやらが開花して、おまえが俺に近づいてきたら容赦なく殺すよ。二度と邪魔をするな』
『よくそんなこと言えるね、前世では女性と話すことも出来なかったくせに。お姉ちゃんが初体験の相手だったこと忘れたの?』
 僕は咄嗟に姉の胸ぐらを掴み「おまえ、殺すぞ!」と脅し、殴りそうになったが由美子に「なにしてんの聡君、冷静になって!」と大声で言われ我に返り、掴んでいた手を離した。姉は僕に向けてあっかんべーをしていたが、その両親は僕を軽蔑した顔で見ていた。少しずつお互いに離れていく中で、姉ではないもう一人の少女がクスクスと笑いながらこちらを見ていた。あの少女はきっと姉に喰われてしまうだろうなと思い、可哀想だなと同情すらしてしまった。
 それから僕達は空いていたベンチに腰を掛け、僕は大きなため息をついた。思い出したくもない前世の記憶を、姉に呼び覚まされてしまったことに腹立たしく感じていた。
「由美子、変なことに巻き込んでしまってごめん。クリスマスイヴが台無しになってしまったな」
「あたしが神戸に行きたいって言ったんやから、聡君のせいじゃないよ。あたしには何が起きてたんかよく分からへんから、一から説明して」
 確かに由美子からすれば、何がどうなっているのか意味不明だろうなと思った。
「俺があの少女に腕を握られた時、前世の記憶が蘇ったんや。今からその内容を話すけど、聞いてくれるか?」
「うん、聞かせて」
 それから僕は前世で飛行機墜落事故に遭遇した一部始終を全て由美子に話した。
「それってもしかして、御巣鷹山(おすたかやま)に墜落した飛行機かもしれへん。あたし達が生まれてくるかなり昔の飛行機墜落事故なんやけど、五百人以上が乗ってて生存者は四名ぐらいやったと思う。それも羽田から伊丹に行く飛行機やったんよ」
「実際にそんな飛行機墜落事故があったんか。物心ついたときから飛行機が墜落する悪夢をよく見てたんやけど、俺はずっと夢やと思ってたのに前世の記憶やったんやな」
「あたしがもっと気になるのは、途中から二人とも見つめ合ったまま動かなくなったから、凄く異様な空気が流れてたんよ。向こうの両親も不安がってたし、いきなりあの女の子に聡君が襲いかかるから、何がどうなってるのかさっぱり分からんかったんよ」
 そのことについても、由美子に話さなければならない。
「実はな、あの姉は直接俺の心に話しかけてきてたんや。そもそも姉の前世は人の心を読むリーディング能力を有していて、それを悪用して人の財産を盗んだり詐欺に手を染めたりしてたんや。姉は他の能力者を集めてそういう犯罪組織を設立してたんやけど、お金が絡んだ内部抗争で窮地に立たされて、挙げ句の果てに姉の派閥だった他の人達は殺されて……。羽田から伊丹に向かう飛行機に乗ったのも、神戸に姉をかくまってくれるたった一人の能力者がいて、そこへ無事に届けるのが俺の役目になってた。俺はその組織の人間でもなかったし、そんな役目を背負う必要もなかったんやけど姉に弱みを握られていたから逆らえなかった。ここまではOKか?」
「うん、あの女の子って凄い力を持ってるねんな」
「そうやな、恐ろしい存在やと思うよ。それでな、姉はもう悪いことはしないからせめて前世で俺を巻き込んだことに対して償わせてと言ってきたんやけど、俺は二度と関わらないことが償いやって言い返したんや。そんなことを言ったところで聞く耳持たずやったけど、姉が言うには俺は能力者の魂を持って生まれてきてるから、必ず姉のことが必要になるって忠告してきて、今は離れてあげるし恋愛の邪魔もしないと言ってくるんやけど、俺は姉と関わりたくない。もし俺の能力が開花して姉が俺に近づいてきたらおまえを殺すって言ったんや。その後の話がもっと酷い内容で思い出すだけでも胸くそ悪いねんけど」
「もっと酷い話って、それも教えてくれる?」
「その話を聞いたら由美子は俺の事を軽蔑するかもしれん」
「そんなことない。聡君が抱えてる問題は、あたしの問題でもあるねんから教えて欲しい」
 前世の記憶の中で一番思い出したくもない話を、由美子にせざるを得なかった。
「俺が生意気な口を利くから、姉が俺に対して思い出したくもないことを罵ってきたんや。俺の初体験の相手がお姉ちゃんだったこと忘れたの? って言われて。それで腹が立って姉の胸ぐらを掴んで殴りたくなったんや」
「それって近親相姦やん。ほんまにそんなことあったん?」
「姉が言ってたことは間違いないと思う。確かに前世の記憶では俺の初体験の相手は姉やってんけど、小学生の高学年頃から俺と姉を利用して父がポルノビデオを撮るようになったんよ。俺は女装させられて姉は男装をさせられて強制的に性行為をさせられて、それを父にビデオ撮影させられてた。父はそのビデオを大量にダビングして裏ビデオとして販売してた。母も母で、俺と姉に変な踊りを教えたりしてたし最悪な家庭環境やった。俺が中学三年だった頃に、姉が能力者の知り合いに依頼して家に放火をしてもらったんや。俺と姉が出かけていた時間に火事で両親はなくなってた。俺達姉弟はアリバイがあったから疑われることもなかった。おかげで両親からは解放されたけど、その代わりに姉が俺を束縛するようになって、どんなに抵抗しても姉の尻拭いばかりさせられる人生やったよ」
「複雑な家庭環境やってんな。あたしのお母さんがこの世で最悪な人間やと思ってたけど、聡君の前世の両親と比べたら全然ましやもんな」
「俺の話を本気で信じてくれてるのか?」
「あたりまえやんか、聡君の話が作り話の訳がないやん。そもそもの話、あの女の子が前世で飛行機が墜落したのを覚えてないかって聞いてきてるねんで。最後にはあの子、あっかんべーまでしてるねんから、聡君の話の内容と辻褄はあってるやん」
「正直、俺もびっくりはしてるねん。いきなり前世とか超能力の話とか現実味がないことばかりやし。今思い出したんやけど、占い師が言ってた俺に問題があるって話、このことちゃうの?」
「あっ! そうかもしれん。このことについても偶然では説明できひんやん。やっぱりあるんよ、スピリチュアルな現実って」
「今日あったこと全部その占い師に報告しといて。本当にこれで俺と由美子の将来は安泰なんか不安やわ。あの少女に何かされたら、どうしたらいいんかも分からへんし」
「うん、報告して助言もらうようにしとくね」
 なんとも後味の悪い出来事だったが、ここでくすぶっていても仕方がない。
「そろそろ家に帰ろうか」
「うん、帰って行く人達も多いし」
 それから僕達は駐車場に戻って車に乗り帰路についた。
 その後も由美子とは車内で今回の出来事について考察しあっていたが、やがて晩ご飯は何にしようかという話題になった。
「朝食はあたしがサンドウィッチを作るわ。晩ご飯は聡君に作ってもらうとして、何か得意料理とかないん?」
「料理になるかは分からんけど得意なのはあるよ。おばあちゃんに、めっちゃ美味しいたこ焼きの作り方は伝授してもらってるねん」
「たこ焼き?」
「うん、おばあちゃんの実家の近くにたこ焼きのようでそうではない、ちくわ焼きの店があったんや。普通、たこ焼きと言ったらタコが入ってるやん。その店はタコみたいな高級食材を使うなんて贅沢が過ぎると言って、タコの代わりにちくわを素材に使ってたんよ」
「中身がちくわのたこ焼きなんて食べたことないわ」
「その店のおばちゃんと俺のおばあちゃんは幼なじみの同級生で、一緒に生地を開発したらしくてな。俺が夏休みにアメリカから日本へ里帰りした時には、必ずおばあちゃんがそのちくわ焼き屋に連れて行ってくれたんよ。その店のおばちゃんはいつもちくわ焼きを作るときに、オリジナルの店の歌を歌ってはってん。三丁目名物ちくわやきーって、ちょっと馬鹿にしたような口調で歌うねん」
「なにそれ、三丁目では有名な店やったん?」
「おばあちゃんの家も三丁目なんやけど、ほとんど農地しかないところやねん。三丁目で唯一の店で自慢したがりの二人やったから、三丁目名物ちくわやきーってよく歌いながら売ってたわ」
「そんな三丁目に名物が出来たんやから、そりゃ嬉しかったやうろな」
「そうやねんけど、でも馬鹿にしたように歌わなあかんから自虐的な歌やったよ」
「その店はまだあるん?」
「いや、その店主のおばちゃんは病気でなくなってもう店はないねんけど、おばあちゃんも店の味は残したいという思いが強かったから、俺にそのちくわ焼きの作り方を伝授してくれたんよ。おばあちゃんもえらい喜んでくれて、俺に嫁さんをもらうことが出来たら伝授するように言われてるよ」
「ええ話やな。その三丁目名物ちくわ焼きは今日作れる?」
「もちろん作れるよ。じゃあ今日はちくわ焼きにしようか」
「うん、それやったら一緒に焼くことも出来るし楽しみやな」
 バックミラー越しに由美子を見ると、とても楽しそうな表情をしていた。それに会食恐怖症に対する不安は無さそうに感じた。僕と二人っきりなら大丈夫なのかもしれないし、楽しい食事を由美子に味わってもらえるなら、克服への第一歩になるかもしれない。姉と遭遇した件については一旦忘れて、由美子と楽しい食事をすることに専念しようと思った。

 家の近くのスーパーで買い物を済ませ、家に到着すると由美子が「めっちゃ良いところに住んでるねんな。モダンなマンションやし、玄関も広いやん」と言い、一応の合格点はもらえたような気がした。
「遠慮せんと上がってくつろいでな。すぐに暖房を点けて、ちくわ焼きの用意をするわ」
 由美子は玄関先に座りブーツを脱ぎ始め、その姿を見て僕はすぐにでも抱きたい気持ちになったが、はやる気持ちを抑えてきちんと段取りを踏もうと心に言い聞かせた。由美子を居間兼寝室の部屋に案内すると「あたしの絵、ベッド横の壁に飾ってくれてるやん」と嬉しそうに言った後に「でも、朝起きて氷の遊園地を見たら余計に寒くならへん?」と聞いてきた。
「いや、寒いどころか朝目覚めたら由美子の絵が真っ先に目に入るから、至って心地の良い目覚め方が出来るから気に入ってるねんで」
「明日の朝起きたら真っ先にあたしの顔を見ることになるから、聡君はどういう反応をしてくれるんやろ」
「間違いなく朝から抱きしめてるやろうな」
「そういう朝もええな」
 それから僕は床とエアコンの暖房をつけ、「もう少しで暖かくなると思うから、コートはこのハンガーに掛けてくれたらいいよ」と由美子に伝えた。由美子は早速コートをハンガーに掛けると、「今からちくわ焼きの生地作るんやろ? 見ててもいい?」と聞いてきた。
「うん、ええよ。手際悪いけど笑わんといてな」
 由美子を台所に案内すると「めっちゃ綺麗に整頓されてるやん。部屋も綺麗やったし、あたしの部屋なんか足の踏み場もないぐらいやのに」と尊敬のまなざしで、僕に言ってきた。
「整理整頓出来るぐらい暇なんよ。暇つぶしで掃除してる時がよくあるねん」
 僕は生地作りに取りかかる為に手を洗い始めると、後ろから由美子が抱きついてきた。
「めっちゃ不安やってん。あの女の子と聡君が見つめ合ったまま動かへんようになった時、あの子に聡君を取られるんちゃうかなって不安がよぎったんよ。話を聞いて安心したけど、誰にも取られたくないって気持ちが凄く強くなってるねん」
 僕は振り返り由美子に「俺と由美子の間には強いご縁があるねん。実はな話してなかったことがひとつあるねん。前世の記憶を見た時に、飛行機が墜落する寸前に俺は『どうか来世では、愛する人と共に幸せな人生を歩んでいけますように』と祈って目を閉じてたんよ。そしたらさ、恐怖心も去って心が満たされていくねんけど、天使が愛する人を連れてくる映像がはっきり見えてん。その愛する人が現世での由美子やってんよ」と告白した。
「えっ? そんなんが見えてたん?」
「うん、間違いなく見えてた」
「なんで早く言ってくれへんのよ」と由美子は甘えた声で言った。僕は笑いながら「今日中に言うつもりでいたんやで。そういうムードになった時に、きちんと話そうと思ってたんよ」と真意を伝えた。
「そういうムードって、エッチする時?」
 由美子はいつだって直球ストレートな言葉を使う人だったことを思い出した。
「そのワードがいきなり出てくると、こっちはドキッてするねんで。心拍数が上がりまくってるわ」
「回りくどいのは面倒やん。あたしは覚悟して泊まりたいと思って来てるんやから。でも、その前にお風呂だけは入らせて欲しいねん」
 どうやら由美子には変化球という言葉は辞書にはないようだ。
「そうやな。風呂のお湯を先に入れとくわ」
「じゃあ、あたしがお風呂の掃除してお湯を張るから、聡君はちくわ焼きの用意してて」
 それから由美子に風呂の掃除道具の場所やお湯の張り方を伝え、僕はちくわ焼きの生地作りから始めた。十分程してちくわ焼きの準備が完了すると、ちょうど由美子が風呂場から出てきて「掃除終わって、今お湯を張ってるから」と報告してくれた。
「ありがとう、テーブルの椅子に座っといて。ちくわ焼きの材料は出来たから、今から焼いていくで」
 居間のテーブルに電気式たこ焼きプレートを設置し、材料も全て並べ終えた。僕は冷蔵庫から珍しい瓶サイダーを、由美子の前に置いた。
「これな三扇(みつおうぎ)サイダーって言うねん。ちくわ焼きの店でもこれがあったんやけど、俺のおばあちゃんが大好物やったサイダーで年に数回送ってきてくれるねん。まだ残ってたから由美子にも飲んでもらいたいねん」
 由美子は瓶サイダーを手に取り「三ツ矢サイダーやったら知ってるけど、三扇サイダーなんて聞いたことなかったわ。このラベルもアンティークなデザインで時代を感じる」と喜んでくれているようだった。僕は早速コップに三扇サイダーを注ぎ、由美子の前に置いた。由美子はコップを手に取り飲み始めると、喉が鳴る音が聞こえた。半分程飲んだ由美子は「めっちゃあっさりした甘さで優しい感じのサイダーやな」と感想を述べてくれた。
「ちくわ焼きの店に行った時は、必ずこれを飲んでたんよ。じゃあ、早速ちくわ焼きを作るとしますか」
 プレートに油を引き、生地を流し込むとジューという音が鳴り響き、あのちくわ焼きの店で聞いていた音に酷似しており懐かしく感じた。それから紅ショウガにネギ、そしてタコの代わりにちくわをプレートの生地の中に入れていくと、匂いさえもあの時のものだと感じ、ノスタルジーな気分を味わっていた。
「めっちゃいい匂いしてるやん」
「そうやろ? ほんと懐かしい匂いやわ」
 僕は由美子にたこ焼きピックを手に渡し、「一緒にひっくり返そうか」と言い、共同作業をすることにした。僕もたこ焼きピックを手に取り「三丁目名物ちくわ焼きー」と歌いながらひっくり返していった。すると由美子も僕の歌を真似て「三丁目名物ちくわ焼きー」と歌いながらひっくり返してくれた。何度歌ったことだろうか、きっちりと焼き上げるまで僕達は楽しみながらその歌を歌い続けた。祖母がこのことを知ったら、さぞかし喜ぶだろうなと思った。
 ちくわ焼きが出来上がり、たこ焼きソースと削り粉をまぶして頂くことにした。由美子は何も躊躇することなく「いただきます」と食事の挨拶を済ませ、ちくわ焼きを少し熱そうな仕草で食べ始めると、満足しているかのように和やかな表情で目を閉じ咀嚼していた。由美子が一口目を食べ終わると「中がトロトロしてめっちゃ美味しい。これやったら店出来るレベルやん」と、大喜びの様相で言った。
「実際に店でやってた味やからな」
「あっ、そうやった。三丁目名物じゃなくて、もっと広範囲の名物でも良かったのにって思うぐらい美味しい」
「由美子に喜んでもらえてよかったよ」
 由美子の美味しそうに食べている顔を見ていると、僕と二人っきりの食事であれば会食恐怖症の心配は無さそうだなと感じた。楽しく食事をする経験をもっと積んでいけば、必ず由美子は会食恐怖症を克服することが出来るだろうし、今日は一歩前進したような気がした。僕はコップに三扇サイダーを注ぎ一口飲んでみると、あの頃の思い出と共に素朴な甘さに懐かしさを感じた。僕の小さい頃の思い出であっても、こうして由美子と共有することが出来る。いつか由美子の小さい頃の思い出を共有することが出来れば、もっといろいろな事を知ることが出来るだろうと思った。
 ちくわ焼きを完食し後片付けを始めると、由美子が「あたしも手伝うよ」と言ってくれたが、僕は「お風呂に入っといで。髪の毛乾かすのも時間かかるやろうし。新しいTシャツとジャージを洗面台に置いてあるから、大きいとは思うけどそれを使って」と伝えた。
「ありがとう。お言葉に甘えて先にお風呂に入らせてもらうね」
 僕は洗い物をしながら胸の高鳴りを感じた。いよいよ由美子とそうした行為に及ぶのかと思うと、緊張と共に興奮めいた下半身の熱さに、やっぱり俺は男なのだなと認めざるを得なかった。由美子にとっては初体験になるのだから、上手にエスコートしなければならない。そんなことを考えながら洗い物をしていると、いつのまにか洗うものがなくなり、居間の掃除をすることにした。しかしながら何をしたところで落ち着くことが出来ず、結局は居間の掃除は諦めて換気扇を回して電子煙草を吸うことにした。煙草を吸い始めると少しずつ平常心を取り戻してきたが、あまり考えすぎてもぎこちなくなりそうなので、いつも通りベッドの上でくつろぐことにした。
 それから三十分程経過して、由美子がお風呂から上がってきた。由美子の体格にしては大きいサイズのジャージ姿に可愛らしさを感じたが思わず笑ってしまい、僕は「ジャージが大きすぎて、キョンシーみたいになってるやん」と言った。由美子は手を広げ自分の姿を見て、「典型的な喪女(もじょ)になってしまったやん」と恥ずかしそうに言った。
「喪女ってどういう意味?」
「モテない女って意味やで」
「そんなことないけどな。めっちゃ可愛いと思うねんけど」
「たぶんこの格好でそう言ってくれるのは聡君だけやと思うで」
「そんなことないよ。じゃあ俺も風呂入ってくるわ。適当にくつろいでくれたらええから」
「うん、分かった」
 僕は風呂に入る準備をして洗面台に向かった。洗濯かごには由美子が使用したバスタオルが綺麗に畳まれて入っており、こういう所にも気遣いを見せてくれることが嬉しかった。風呂場に入り、いつも以上に頭や身体を入念に洗い、まるで何かの儀式に身を捧げる生贄のように身を清めた。湯船に浸かると再び胸の鼓動が高まり、いよいよこの時がやってきたのだなと感慨深くなった。夏バイト初日の初めて由美子と出会った時、あんなに素っ気なかったのに今日という日を迎えて、由美子を抱くことが出来るまでに進展したのだ。ご縁というものは本当に神秘的な力だなと心から感じた。さぁ、愛を育む時間の始まりだと謎の気合いを入れて湯船から出た。
 風呂を出て着替えやスキンケアを済ませて居間に戻ると、由美子は僕のベッドで横になりながらスマホを見ていた。
「ええ湯やったわ」
 由美子は僕の方を見て「さっぱりした顔をしてるな」と言った。僕がベッドに腰を掛けると由美子は座り直し「聡君とのLINE履歴を見てたんやけど、最初はあたしが絵を送ったところから始まってるねん。朝の挨拶もするようになって、おかあさんが勘違いして聡君に怒った後に、あたしが必死になってフォローしてるのを見るとほんと笑える。色々とあったけど、今日という日を迎えられて本当によかった。あたしの大事なものを聡君に上げるから、いつまでも傍に居させて」と言ってきた。僕は指輪を由美子に見せて「永遠の愛を誓うよ。これからもずっと、俺の傍に居て」と言い、由美子にキスをした。そして僕達は愛し愛される運命の名の下において、ひとつの愛の形を育んだ。現実を忘れ二人だけの世界でひとつになり、魂が融合されていくのを感じながら天使に祝福されているかのような喜びに身体も心もとろけた。ああ神様、このような喜びを与えてくださりありがとうございますと何度も心で感謝した。

 僕達は恋人としての通過儀礼を終え、一緒にシャワーを浴びることにした。お互い裸であることに違和感はなく、生まれた時の姿を確認しあっているようにも感じた(幾分、歳は取っているが)。僕達は抱きしめ合い濃厚なキスをしていると、頭上から落ちるシャワーの音が、あたかも二人を祝福する拍手のように聞こえた。僕は由美子の耳元で「シャワーの音が、祝福しているように聞こえへんか?」と尋ねると「それ、あたしも思ってた」と答えた。由美子は僕の全身を次から次へと愛撫を始め、求められたら反応してしまう自然な生理現象に身を委ね、シャワーの祝福を浴びながら二回戦に突入した。全てが白い純潔な愛の世界で、僕達は一緒に天国の鐘を打ち鳴らすことが出来たのだった。その時、はっきりと分かったのだ。前世の記憶の最後に感じた満たされていく感覚が、由美子と共に打ち鳴らす天国の鐘であったことを。

 シャワーを終え、僕達は裸のままベッドに戻り寝ることにした。僕は由美子の肩を抱き寄せて仰向けになり、由美子が「これであたしも、大人の女性になれたんやな」と言ってきた。
「痛さとか大丈夫やった?」
「最初は痛かったけど、聡君の顔が目の前にあるだけで興奮して段々と気持ちよくなっていった。友達に聞いた話ではな、最初の一回目は痛さしかないって言ってたけど、そうでもなかった。さっき敷タオルを見たけど、血が出てた割にはそこまで痛くはなかったんよ」
「そうやったんか。最初は顔をゆがめていたから痛いんやろうなと思ってゆっくりしてたんやけど、少しずつ声も出るようになってたから大丈夫かなって思ってた」
「自分の身体やのに、びっくりすることだらけやった。勝手に声が出るし、聡君の顔を見てたいと思っても目が勝手に閉じてしまうし。一番びっくりしたのが、気持ちよさのピークの時に勝手に腰が上下に動くんよ。きっとあれがイクって感覚なんやと思うねんけど、そういうもんなんかな?」
「たぶんそうやと思うで。イク時ってエビのように腰が跳ねるみたいな感覚らしいから」
「エビかぁ。エビの尻尾の話があたしのNGワードやったと勘違いしてた聡君が懐かしく感じるわ」
 ここでその話をしてくるとは……と思った。
「だってさ、エビの尻尾の話をした時に急に由美子のテンションが低くなってんから、そう感じてしまったんよ」
「別にええねんで。そういうところも聡君の魅力やし好きやよ」
 僕は由美子の身体の上に乗り、胸の辺りに頭を乗せた。乳首の先に由美子が描いた氷で覆われている生駒山上遊園地の絵が目に入った。
「この生駒山上で俺達は出会ったんやな」
 由美子は絵の方向を向いて、「板倉のおっちゃんも十二月から職場復帰出来たから、ほんと良かったよ。そういえば板倉のおっちゃんから聞いた話なんやけどな、北口さんっておったやんか。十一月の下旬から仕事に来なくなって、おっちゃんが家に行ったらもぬけの殻やってんて。夜逃げしたみたいやねん」と言った。
「まじで? パチンコで借金を背負いすぎたんかな」
「子供も二人いたらしいから、きっと転校になって可哀想なことになってるよ」
「そうなんか。いつも笑顔を絶やさない人やったのに、そんな窮地に立たされたとはな」
「北口さんって、いつも笑ってるような顔をしてたよね。板倉のおっちゃんは生駒山の関根勤ってよく言ってた」
「関根勤って、たしか昔のお笑いの人やったよな。どんな顔してたか忘れたけど今度確認してみよ。それにしても、あの北口さんの口上が聞けなくなるんやな。面白かったのに」
「生駒山上納涼大会って言ってたやつ?」
「そうそう、俺も言えるようになってたんやで」
「じゃあ、ちょっと聞かせてよ」

 ※ 北口さんの口上を真似て
 本日は生駒山上納涼大会にお越し頂き誠にありがとうございます
 こちらは大阪百万ドルの夜景を展望できる急流すべりでございます
 山のマリンスポーツと言われるこちらの急流すべり、標高642メートルに現存する世界唯一の高さを誇り、あのギネスブックに登録したい気持ちでございます
 あなたも急流
 わたしも急流
 どうせこの世は急流すべり
 この世知辛い世の中を、大阪百万ドルの夜景と共に気分よく流れてみませんか?
 あなたも急流、わたしも急流を合い言葉に、是非ともご家族お友達をお誘いのうえご来場くださいませ
 いらっしゃいませ
 いらっしゃいませ

 僕が北口さんの口上を真似て謳うと由美子が「めっちゃうける。よくそんなん覚えてたな」と言った。
「俺は四年間聞き続けたからな。自然と覚えるよ」
 今思えば北口さんも、この世知辛い世の中で急流すべりのように流れ落ちていったのだろう。どうせこの世は急流すべりと言っていた言葉の重みを、今更ながら知ることになるとは思いもしなかった。
 いつの間にか由美子は僕の頭を撫で「あたしの可愛い聡君」と言った。僕は由美子の絵のように永久凍結されるのであれば、今この瞬間がいいなと思った。
 由美子の小さくて柔らかい部分に顔をうずめながら……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み