第5話

文字数 18,053文字

   五

 夏の雨は解放された心に休息を与える。それはまるで夢のような世界の主人公だった自分が、現実の世界に呼び起こされてしまい、代わり映えのない日常に溶け込むような切なさを心に添えてくるような感じで……。
 八月十一日の山の日、生駒山上遊園地は山の日の祝日に合わせて各種イベントを催す予定だったが、あいにくの雨でほとんどのイベントが中止となった。
 僕の担当する急流すべりも雨には勝てず、開園からずっと運休中だった。僕と井上と北口さんの三人は椅子に座りながら雨がやむのを待っていた。だが、天気予報では一日中雨の予報が出ているので、ナイター営業も中止となって午後五時には閉園するだろうと予測していた。雨の日でも隣にあるゲームセンターは屋内ということもあり、通常営業となっていたので、木田さんは研修も兼ねてそこに出向いていた。
 バイト初日の傷害事件から二週間程経過していたが、無事に示談を迎え示談金も振り込まれていた。ただ、そこに至るまでの手続きが大変で、警察署へ行って被害届の取り下げ申請をしたり、示談書を公正証書に残す為に印鑑証明書等の各種書類を取り寄せたりと、それなりに時間と労力が必要だった。考えてもみれば、バイトの初日で五百万円以上を稼いだようなものなので、残りのバイトで稼げる給与がおまけみたいな感じとなって、なんとも不思議な経験をしているなと思った。あの双子の少女については、以前のような知りたいという気持ちもなくなり、こうもあっけなくあの少女の記憶が薄れていくのだなと、自分でもびっくりしていた。
 そんなことを遠くの雨空を見ながら物思いに耽っていると「森若、お昼休憩いっといで」と北口さんに言われ、もうそんな時間だったのかと我に返り、僕は「お先にお昼休憩に入ります」と言い、お昼休憩に入った。
 傘を差し外を歩いていると全くお客さんの姿はなく、傘に刺さるポツポツという音だけが聞こえていた。急流すべりの隣にあるゲームセンターを道沿いから眺めていると、お客さんがいる様子はなく、遊園地全体が寂しさに包まれているようで、これではただの廃墟遊園地だなと思った。そういえば板倉さんから聞いた話で、昔は奈良県内には三つの遊園地があったそうだ。奈良ドリームランド、あやめ池遊園地、そして生駒山上遊園地の三つがしのぎを削った結果、今はもうこの遊園地しか残っておらず、ここも大阪にあるUSJの台頭で、年々来場者は減り続けているのだそうだ。いつかこの遊園地も廃墟になるのかもしれないが、僕の心の中にはずっと記憶として残り続けるだろう。
 僕は自販機で缶コーヒーを買い、喫煙所へと向かった。喫煙所に到着すると中には誰もおらず、僕は煙吸引器の前で電子煙草を吸い始めた。お昼休憩は木田さんとこの喫煙所で過ごすことが多かったので、一人で過ごすと些か寂しくもあった。
 そういえば木田さんが興味深い話をしていたことを思い出した。イラスト業界ではAIの機能が急成長しており、AIアプリにキャラクターの特徴を指示すると自動で描いてくれるらしい。それもクオリティの高いイラストを描くらしく、ネットの世界では論争が巻き起こっているのだそうだ。イラストレーターの仕事がなくなるのではないかと危惧する声と、逆にAIにまかせることで技術的な進化を促しコスト削減にも繋がるという意見もあるのだという。それに対し木田さんは、『あたしにしか描けない世界があるから、AIがどんなに上手に描けたとしても負ける気がしない』と自信満々だった。僕は木田さんのそういう負けん気にいつも心を揺さぶられており、魅力的で惹かれてしまうので、いつしか意識するようになっていた。今頃、木田さんは何をしているのだろうかと考えていると、喫煙所のドアが開き木田さんが室内に入ってきた。
「お疲れ様。ほんと雨って鬱陶しいな」と言いながら、木田さんは濡れた肩を手で払っていた。
「お疲れさん。ここのところずっと雨が降ってなかったから、たまには雨もいいと思うけどな」
「そう? 晴れ女で売り出し中のあたしからしたら迷惑な話やけどな」
 確かに木田さんは晴れ女というイメージが強かったが、売り出し中については疑問を感じたので「晴れ女で売り出し中って、どこで売り出しているんよ」と僕は少し突っ込んで聞いてみた。
「ここよ、ここ」
 木田さんは地面を人差し指で二回差したが、それではあまりにもローカルすぎるだろと僕は思った。
「もっと全国的に売り出した方がいいと思うけど」
「あたしは地下アイドル的な存在で充分。それよりな、千歳さんに雨宮さんのことを聞いたんよ」
 そういえば木田さんは雨宮さんのことを懲らしめたいと言っていた。僕は千歳にそのことについて相談したが、雨宮さんのことについては千歳が木田さんを説得する、という話になっていたことを思い出した。
「雨宮さんの何を聞いたん?」
「ここだけの話にしといてな。福島さんのお昼休憩の交代で雨宮さんがよくゲーセンに来るらしいねんけど、千歳さんは雨宮さんと二人きりになるから色々と話をしてたみたいでね、雨宮さんって生まれてすぐ親に捨てられて乳児院で育ってたらしいねんよ」
 その話は僕も千歳からは聞いていなかった。
「そうなんや、なんか複雑やな」
「それでな、その後に里親が見つかって里親の元で雨宮さんは暮らすことになったらしいねんけど、しばらくして夜逃げする羽目になったんやって。里親の人が経営していた会社の業績が悪化したみたいで、負債を抱え過ぎて夜逃げするしかなくて隠れて生活していたみたい」
 せっかく里親に引き取られても、そういう運命が待っていたとなると、それはそれで可哀想だなと思った。
「まじか。えらい苦労してはるな」
「雨宮さんはそういう環境で育ってるから小学校もきちんと行ってなかったみたいで、人との接し方が分からんみたい。千歳さんが言うにはな、雨宮さんは人との距離感を測れない人やから、どんなに嫌なことを言われても受け流すしかないんやって。怒って対立してしまうと、時間を無駄に消費することになるから関わるだけ損って言われた」
 確かに千歳の言うとおりだなと思った。
「千歳がそういうのなら、そういうことなんやと思うよ」
「千歳さんって凄いよな。あんな嫌なおっさん相手でも、そういう個人情報を引き出すの得意みたいやし、かっこいいなって思うわ」
 千歳のことをかっこいいと思うのは最初だけで、知れば知るほど恐ろしくもなってくる。実際に千歳のことを考えると、人の心を自由自在に操る姿が目に浮かんでしまう。
「確かに千歳は、そういう分野のことについては長けてるからな。千歳とは付き合いが長いから、ひょっとしたら俺もなにか個人情報を抜き取られているのかもしれんな」
 たとえ千歳に僕の個人情報が抜き取られていたとしても、恐れる必要はなかった。千歳が今まで僕に対して不快な思いをさせることすらなかったからだ。
 木田さんはいつも持ってきているピンクの水筒の蓋を開けて、その蓋の中に飲料水を注ぎ、ゴクッと喉を鳴らして爽快に飲み干した。僕はその木田さんの飲みっぷりを見て、勇ましいなと感じ微笑ましくなった。
「ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」
 木田さんが何かを質問する時、ひとつ聞いてもいい? と言う癖があるなと感じた。
「ん? なんでも聞いて」
「森若君って、いつも千歳さんと帰ってるやんか。付き合ってるの?」
 去年も牧田や井上から同じ質問をされたことを思い出し、僕は思わず笑ってしまった。
「付き合ってないよ。お互いに恋愛感情はないし、同じ大阪方面で家が近いから一緒に車で通勤しているだけやで」
 それを聞いた木田さんは不思議そうな表情になって、電子煙草を吸い始めた。
「千歳さんって凄く美人で頭もいいのに、森若君って理想が高いの?」
「理想とかそういうことじゃないよ。千歳は確かに頭もいいし知識も豊富やから凄いとは思うけど、なんていったらええんかな……友達としてのご縁みたいなものを感じるねん。千歳に対して恋愛をするご縁みたいなものを感じることがないんよ。それに恋愛ってお互いに惹かれる要素が必要やんか、そういうのも俺と千歳の間にはないと思うねん」
 それを聞いていた木田さんは少し目を見開き、何かを感じとったようだ。
「なんとなく分かるような気がする。ご縁みたいなものを感じることも必要やし、尊敬する部分とか惹かれる部分とかないと、恋愛まで発展するの難しそうやし」
「結局さ、恋人になりたい人とはもっと親密な関係を築きたいと思って付き合うけど、友達でいたい人とは、ある程度の距離感でいる方が楽という感じがするねんな。どの程度の距離感で関係性を築きたいかの違いやと思うわ」
「距離感かぁ。あたし付き合ったことないから、親密な距離感というのがいまいち掴めない感じやな」
「あっ、そうなんや」
 僕は少し素っ気ない感じで返事をしたが、心の中では木田さんには彼氏がいないという貴重な情報を得たことになり……これは未来が明るいなと思った。
「森若君は今までに付き合った人はいるの?」
 木田さんのその質問は、僕のそういう過去の恋愛に対して興味を持っているということになるのだろうか、それともただの話の流れで質問しているのだろうか。僕にはその判別が出来そうになかったが、とりあえず答えてみることにした。
「うん、過去に一人だけね」
「どんな恋愛してたん? 恋バナを聞かせてよ」
 木田さんも一般的な女子大生と一緒だなと思ったが、僕の恋バナなんてどこにも面白味がない。それでも正直に言える範囲内で、過去の恋愛について話そうと思った。
「大学で登山サークルに入っていて、同じサークルの同い年の子と一回生の時に付き合ってたよ。登山している最中とかさ、その子とよく話しながら山に登ってたから、自然な成り行きで付き合うことになってたよ」
「サークルかぁ。あたしサークルに入ってないんよ。やっぱりそういうところで相手を見つけるんやな。それでその人とはどうなったの?」
「簡単に言えば寝取られた」
「えええええ!」
 木田さんは本気で驚いたようで、目を見開いてかなり大きな声で言った。確かに驚くだろうとは思っていたが――。
「同じサークルの先輩に寝取られてな。その先輩は、俺と元カノが付き合ってるのを知らんかったんよ。元カノも先輩には黙ってたみたいやし」
「なにその話、その元カノが付き合っているのを内緒にして、浮気をしてたってことやろ?」
「そういうことになるねんけど、先輩も面倒見のいい人で、しかもかっこいいし優しい人でもあるから、サークルの女子からは人気もあって仕方なかったんやけどな」
「仕方ないの話じゃないと思うよ。その元カノの浮気って、どうしてバレたん?」
「元カノの様子が余所余所しくなってきたから、なにかあったんかって俺から聞いてみたら、そういう衝撃の告白をされてね。それから話し合って別れることになったよ」
「めっちゃ嫌やな、その元カノ」
「でもな、浮気するより浮気される方が悪いみたいなところもあるんよ。俺も初めての彼女やったから、どういう風に接してどういう付き合い方がええんか、よく分かってなくてな。元カノに対して寂しい思いをさせていたのかもしれないし、付き合ってみたけど面白くなかったのかもしれないし」
「なによそれ、騙すよりも騙される方が悪い的な詐欺師の理論やん。あたしやったらトラウマになってるわ」
 実際はもっと複雑な問題が絡んでいたのだが、そこまで詳細に語るのも気が引けるし、過去の自分に対して情けなくもなるのでおおまかな話しか出来なかった。
 その後しばらくの間、木田さんがもし浮気や不倫をされたらその相手に対してどういう懲らしめ方をするかという、かなりぶっ飛んだ内容の話をしていた。その話が進むにつれて木田さんの目つきは鋭くなり、やや攻撃的な口調にもなってきていて、感情移入していく過程を僕は手に取るように掴んでいた。このまま話を進めていくと、木田さんが感情のままに怒り狂う姿を見てしまう恐れがあったので、僕は木田さんを諭し続けた。その甲斐あって木田さんの口調が少しずつ穏やかになり、目つきも優しくなってきたので、ここで区切りを付けて話題を変えようと思い、昨日からずっと気になっていたことを質問することにした。
「そういえば昨日さ、話の途中で終わってたけど、木田さんがイラストのコンテストに応募した話をしてたやんか。それって結果はいつごろ分かるん?」
「結果は十月頃になるよ。でもな、提出した作品で本当に良かったんか気にもなってるんよね。オリジナルキャラクターのイラストコンテストやから、どこかで見たことがあるようなキャラクターやと落選する可能性が大きいから、結構苦労はしたんよね」
「個性的なキャラクターを意識して描いた感じなん?」
「そういうことになるけど、個性的過ぎるのもよくないからバランスを取るのが難しかったよ」
「木田さんが描いたイラストを見たことがないから、そのキャラクターがどんな感じなのか全く想像が出来ないな」
「ちょっと待ってな、スマホに画像データあるから」
 木田さんはズボンのポケットからスマホを取りだし、画面を何度かタッチとスワイプをした後に「こういうの描いてる」とイラストを見せてくれた。そこに映し出されていたのは女の子のキャラクターで、巫女さんが着るような衣装をまとい、その衣装にはパステルカラーの藤色やメロン色がふんだんに使われており、とても柔らかい印象があった。女の子の顔はリアルタッチで描かれ、愛嬌のある可愛い表情がなんとも印象的で、何かの舞を舞っている全身の姿からは躍動感が感じられて素晴らしいものだった。僕は居ても立っても居られず、「これ、めっちゃ凄いやん。色使いが最高やと思うわ。それに今にも動き出しそうやん」と興奮気味に感想を伝えた。
「え? ほんと? 躍動感はほんまに気をつけて描いてたから、ちょっとほっとしたわ」
「このイラストめっちゃ欲しいもん。売ってたらマジで買うレベルやで」
 それを聞いた木田さんは嬉しかったのだろう、満面の笑みを浮かべながら「そんなに褒めてくれるんやったら、このイラストのデータをあげるわ。LINE持ってる?」と聞いてきた。僕としては木田さんとLINE交換が出来るなんて、夢のような展開がやってきたと嬉しくなり、「LINE持ってるけどいいの?」と返した。木田さんはなんの躊躇もなくLINEのQRコードを表示してくれたので、僕はそれをスキャンして友達登録をした。それから僕はLINEの友達登録が完了した際の一般的に行われる儀式に習い、木田さんにイラストのスタンプを送信した。すると木田さんも僕にスタンプを送り返し、イラストの画像データも送ってくれた。
「ねぇ、このスタンプって水森亜土さんでしょ?」
 僕の送ったスタンプは、確かに水森亜土が描いたイラストだった。
「そうやで。水森亜土を知ってるんやね」
「水森亜土さんもイラストレーターやし。あたしはイラストレーターを目指してるから知ってるけど、なんで森若君は知ってるん?」
「小さい頃から水森亜土の絵本を見て育ってきたからな。なんかさ、お婆ちゃんの代からの絵本でな、お母さんもその絵本を見て育ったって言ってたわ。昭和時代からのお下がりの絵本みたいで、もし俺に子供を授かることがあったら、その絵本を子供にも見せて育てようとは思ってるねん。先祖代々からの絵本って、かなり珍しいと思うし」
「なんかそういうのいいね。水森亜土さんのイラストは、ほんと可愛いしメルヘンチックで素敵なんよね。色彩も鮮やかやし、あたしも見習いたいと思ってるんよ」
 幼少期に見た水森亜土の絵本で、まさかここにきて共感してくれる人がいたことに僕は喜びを隠せなくなっていた。
「同じ年代で、水森亜土を知ってる人と出会ったんは初めてや」
「まさかこの場所で水森亜土さんの話をするとは思ってもいなかったよ……なんか不思議やね、あたしと森若君は不思議なご縁で結ばれているのかもしれへんな」
 木田さんが急に真面目な顔をして意味ありげなことを言うので、僕の胸の辺りが急にざわつき出した。
「確かに、そういうご縁みたいなものを感じるね」
 僕は照れながらそう返したが、先程恋愛の話をしていた時にご縁というものについて語った直後だったので、その木田さんの言う不思議なご縁とは、友達としてのご縁なのか恋人としてのご縁なのか、どちらの意味で言っていたのか分からなかった。どちらでもなく、ただ不思議なご縁という曖昧さの意味合いで話していたのであれば、僕はここまで悩む必要がなかったということになるのだが。僕のそんな気持ちをよそに木田さんは「でもな、ひとつだけ言っておくとな、男の子がメルヘンチックな水森亜土さんのスタンプを送るのはどうかと思うで」と和やかな表情で痛いところを突いてきた。
「普段はそのスタンプを送ることはないけど、木田さんのことはイラストレーターやと思ってるから、イラスト系のスタンプを送ったら喜ばれるかなと思って、それで探していたら水森亜土のイラストスタンプが目に入って、それを送ってん」と僕は経緯について説明をした。
「別にそこまで必死になって説明せんでも、あたしは嬉しかったからええねんで」
 その後も僕と木田さんは色々なことを話した。木田さんと共に過ごせている時間が、夢心地のようで本当に幸せだなと感じた。しかし、そういう幸せな時間はあっという間に終わってしまい、僕の心は寂しさに変わっていた。もっと親密になれたら、もっと長い時間を共有できたらと、そう考えながら職場へと戻った。

 雨はその後も降り続き、気がつけば午後三時を回っていた。今日は午後五時に閉園すると園内アナウンスがあったので、あと二時間も暇つぶしをしなければならなかった。
 僕と井上と北口さんは、それぞれ「暇やな」というだけで動こうともせず、椅子に座ったままだった。ずっと雨の音を聞いていると眠たくなってきたので、僕は井上に「なにか面白い話ない?」と尋ねてみた。井上は困ったような顔になり、何かを思い出そうとしているのか目線を左上に固定したままだったが、急に僕の顔を見て真剣な表情となり「ここだけの話ですけど、牧田から聞いた話があるんですよ」と言った。僕は牧田の話には信憑性がなく面白味もないので聞くに及ばずと思っていたが、暇つぶしがてらにその話を聞こうと思い、「どんな話?」と井上に尋ねてみた。
「板倉さんと木田さんって、いつも一緒に帰ってるみたいで、どうも板倉さんの愛人らしいんですよ」
 僕はその話を聞いた途端に笑いそうになったが、そこはなんとかこらえて「板倉さんも、まだまだ若いんやな」とその話に乗った。すると北口さんが「ええなぁ。俺も愛人が欲しいわ」と歯をむき出し、すけべ心満載の表情で言った。その北口さんを見ながら井上は「北口さんは、綺麗な奥さんがいるじゃないですか。可愛いお子さんも二人いてるし、幸せそうじゃないですか。森若さん、北口さんの奥さんと子供さん見たことあります?」と質問された。
「いや、見たことないよ」
「先月、奥さんとお子さん達がこの遊園地に遊びに来てたんですよ。めっちゃ美人の奥さんでしたよ」
「へぇ、美人の奥さんっていいなぁ。俺も見てみたかったわ」
 僕の言葉を聞いた北口さんがスマホを取りだし「これが、俺の家族や」と言い、奥さんと小学校低学年ぐらいの男の子と女の子が写っている画像を見せてくれた。僕はそれを見て「めっちゃ美人の奥さんじゃないですか。透明感のある癒やし系の奥さんですね。お子さんも北口さんに似て、可愛い笑顔してますし」と感想を述べた。
「でもな、嫁とは喧嘩もよくするから大変やで。たまには外で摘まみ食いもせんと、やってられまへんねん」
 北口さんはいつもの笑顔でそう言ったが、それが冗談なのか本気なのか分からなかった。摘まみ食いのようにお気軽な感じで不倫なんて出来ないだろうし、下手したら修羅場が待っている可能性もあるわけで……。
 井上が北口さんの家族画像を見ながら「好きな人と、どうしたら恋愛まで発展するんですかね」と悩んでいる様子で質問をしてきた。僕はその話を詳しく尋ねてみようと思った。
「誰か好きな人がおるんか?」
「あそこのパターゴルフにいる子なんですよ」
 井上は百メートルほど離れた場所にあるパターゴルフの方向を指で差しながら言った。すると北口さんが「あそこのバイトの子か?」と井上に尋ねた。
「そうなんっすよ。別会社の人やから声を掛けるにしても、どうやって声を掛けたらいいかわからないし、牧田にはやめとけと言われるし」
 生駒山上遊園地にはアトラクションを提供する会社が何社かあって、パターゴルフは別会社だった。そういう状況なので確かに声は掛けにくいだろうなと思った。僕は井上が言っていることについてひとつだけ疑問が湧き、「どうして牧田はやめとけと言ってるん?」と井上に尋ねてみた。
「その子の顔が顔面集中アゴリンやからやめとけって言うんですよ」
「なんやねん、その顔面集中アゴリンって」
「顔のパーツが中心に寄りすぎていて、顎が出っ張り過ぎてるからって言うんですけど、実際そんなことないんっすよ。牧田のやつが大袈裟に言うんですよ」
「牧田の奴も、おもろいこと言いよるな」と北口さんは大笑いをしていた。
「あいつは、大袈裟に言う奴やから無視しとけ」と僕は井上を励ました。
「牧田は牧田で千歳さんとよくお昼休みに食堂で一緒に食べてるみたいで、浮かれてるんすよ。告白しようか迷ってるって言ってましたよ」
 僕はその井上の話を聞いて思わず笑ってしまった。千歳も物好きというか、きっと牧田という人物を観察する為に、そういうことをしているのだろうと思った。
「牧田に言っとけ。千歳はいま彼氏がおらへんから、狙うんやったら今やぞって」
 僕は面白い展開になることを期待してそう言った。
「まじっすか。千歳さんフリーなんですか?」
「そうやで。俺の予想では千歳は牧田みたいなんがタイプやと思うねん。子供みたいな人が好きやって言ってたし、お似合いやと思うで」
「分かりました。今日、帰りに牧田に言っときます」
 これで牧田が千歳に告白をしたら、完全にフラれるだろうから、その姿が目に浮かぶ。そしたら牧田も少しは大人しくなるだろうし、告白してフラれることを積み重ねてこそ牧田らしいと思った。それに木田さんが板倉さんの愛人だと噂話を拡散させているのは牧田だし、きっと雨宮さんから聞いた話だろうけれど、お灸を据える意味でもこれでいいだろうと思った。
 そんな話をしていると次第に辺り一面は霧に包まれ始めた。標高640メートルの比較的低い生駒山でも、雲の低下と共に霧に包まれることはよくある。気温もかなり低下してきたのか、身体は寒さで少し震えていた。北口さんが椅子から立ち上がり「おまえらも寒いやろ、今から事務所に行って冬用のスタッフブルゾンを持ってきたるわ」と言い、去って行った。僕は「めっちゃ霧が濃いな」と言うと、井上は「確かにそうですね」と北口さんが去って行った方を向いてそう言った。僕はそれを見て不審に思い「ん? なんかあるんか?」と井上に尋ねた。
「ここだけの話ですけど、北口さんかなりパチンコで負けてるみたいなんっすよ。今日みたいなナイター営業がない日に、必ずパチンコに行くみたいで、先月も給料が全部無くなったって言ってたんすよ」
 まさか北口さんがパチンコをしているとは、全く知らなかった。
「北口さんがパチンコをしてる話なんて聞いたことないねんけどな」
「去年の冬頃なんですけど、牧田が北口さんを誘ってパチンコに行ったんっすよ。それまで北口さんはパチンコなんてしたこともなかったみたいで、そこからハマったみたいなんっすよ」
 井上は不安げな面持ちでそう言った。僕はそこで疑問に感じたことを井上に質問してみることにした。
「なんで牧田と北口さんは、そういう繋がりがあるん? 牧田は夏のバイトだけやろ?」
「牧田も去年の夏以降、俺と一緒にここでバイトしてますよ」
「え? 牧田って専門学校かなんか行ってなかったっけ?」
「あいつほとんど学校に行ってなかったから退学しましたよ」
 僕は牧田の事情を知らなかったので、そこでようやく合点がいった。
「じゃあ、牧田が諸悪の根源やな」
「牧田はよく北口さんをパチンコに誘っているみたいで、北口さんっていつも笑ってるでしょ? パチンコを打ってる時も常に笑いながら打ってるらしくて、牧田がもの凄く気持ち悪いって言ってましたよ。それに大負けしてる時でも、ずっとパチンコ台に向かって笑ってるみたいで、想像するだけでも不気味でしょ?」
 まさか北口さんがパチンコにハマってしまっていたとは……先ほど家族画像を見せてもらったところなので、今後どうするのだろうと心配になった。
「牧田も余計なことしよるな」
「最近、北口さんジュースとか奢ってくれなくなったでしょ? 去年とかよく奢ってくれてたのに、今年の春頃から全然奢ってくれなくなりましたよ。かなり切羽詰まっているのかもしれませんね」
 確かに昨年の北口さんはよく千円札を持って、「全員分のジュース買ってこい」と言って、井上がそれを引き受けて買いに行っていたことを思い出した。今年はそれが全くなかった。とはいえ、北口さんもいい大人なのだし、あまり心配することもないのかなと思い「まぁ、北口さんもちゃんと考えてやってると思うから、心配しても仕方ないしな」と井上に言った。
 そのとき、まるでドライアイスが一気に流れ込むように霧が流れてきて、二メートル先さえもほとんど見えなくなっていた。
「これはやばいな、ホワイトアウト状態やわ。北口さん大丈夫かな?」と僕は心配しながらそう言った。
「森若さん、天井の電球も見えてないですよ」
 上を見ると電球の反射光だけで霧が真っ白に輝いて見えていた。口で息をするとかなり湿度の高い空気だと分かり、これは登山をしていた時にも感じたことのある水蒸気の中にいる感覚だったので、髪の毛を触ってみるとやはり濡れていた。
 しばらくすると、濃い霧の中から北口さんが黒いブルゾンを持ってやってきた。
「酷い霧やな、全く前がみえん。でも、もう雨は降ってないわ」
 北口さんは僕と井上にブルゾンを渡し、僕は「ありがとうございます」と言ってから、包装されていたビニール袋を剥ぎ取ってブルゾンを着た。もうそれだけで身体は寒さから解放された。雨がやんだとはいえ、この濃い霧の中では帰りの車の運転も危険だろうなと感じた。
 それからも濃い霧は晴れることはなく、閉園時間の午後五時を迎えた。僕と井上と北口さんの三人は視界不良の中、事務所に帰る途中でゲームセンターの従業員達と合流し、通常よりもゆっくりと歩き続け無事に事務所に辿り着く事が出来た。出迎えてくれた板倉さんから「みんな、ご苦労さんやったな。暖かい缶のコーンスープあるから、一人一本ずつ取っていってや」と労いの言葉をかけてもらった。僕は早速、その缶を手に取り飲み始めた。やはり寒い時はコーンスープが一番だなと思っていると、木田さんに「手作りのコーンスープより美味しく感じへん?」と聞かれたので僕は、「確かにそうやな。こういう日常にない濃い霧の日やからこそ、美味しく感じるのかもしれへんな」と言った。木田さんはすぐに飲み終え「おいしかったわ」と言ってから事務所を出ていった。僕はコーンの一粒ずつを丁寧に味わい、ゆっくりと飲み続け全てのコーンがなくなったことを確認してから空き缶をゴミ箱に捨てた。
 それから事務所を出て更衣室に行き、着替えを済ませた後に事務所に戻った。すると千歳が板倉さんと話をしているようだった。僕はその二人に近づき話の内容を聞いてみると、千歳は今月の二十五日までの勤務で、二十六日以降は実家に帰る旨を板倉さんに伝えていた。
 板倉さんと千歳の話が終わると、木田さんが事務所に戻ってきた。木田さんは黒い無地のキャップを深くかぶり、黒いロングTシャツにベージュのチノパン、そして黒のコンバースを履いており、ボーイッシュな着こなしで仕事中とはイメージが全く違うなと感じた。普段着の方が木田さんのイメージとぴったりだなと思いながら眺めていると、木田さんに「ねぇ、ずっとあたしの胸見てない?」と聞かれ、僕はびっくりした。
「いやいや、ボーイッシュな着こなしでかっこいいし、仕事着よりも普段着の方が木田さんらしいなと思って見てただけやで」
 決して胸を見ていなかったので正直に話したのだが、木田さんは納得のいかない様子だった。
「いいや、あたしの胸を見てた」
 木田さんは真顔で僕が胸を見ていたと主張するので、僕はどのように返答して誤解を解けばいいのか考えたが検討もつかず困惑していると、板倉さんが「森若君も、そんなペチャパイには興味ないで」と木田さんに言った。
「ぺチャパイってなに? どういうこと? それ誰のこと?」と木田さんが板倉さんに詰め寄って行くのだが、板倉さんも「あんまり森若君をいじめてあげな」と言い返し、そこに居た人たちが一斉に笑った。木田さんもそこで笑っていたが、僕はひょっとしてからかわれていたのだろうか。
 それから僕はタイムカードを押し「お疲れ様でした」と事務所にいる人たちに向けて挨拶をし、千歳と共に事務所を後にした。
 外に出ると相変わらず濃い霧の影響で視界不良だった。僕は目を見開きながら、慎重に地面の状況を確認していると、千歳が「どうする? 車で帰れそう?」と聞いてきた。
「霧が晴れるまで車の中で待機するよ。もし早く帰る必要があるんやったら、ケーブルカーで降りるしかないけど大丈夫そう?」
「何も用事はないから大丈夫。それより道がよく見えないから腕を掴んでもいい?」
「いいよ。そういえば千歳は視力が悪いんやったな」
 僕は自分の右腕を千歳の方に差し出すと、その右腕を両手で掴んだので歩調を合わせながらゆっくりと歩き始めた。
 途中の交差路で女性二人組の人達と出くわし「すみません。ケーブルカーの駅って、どちらに進めばいいですか?」と尋ねられたので、僕は「こっちの右側をまっすぐ歩いて行ったら駅に到着するけど、危ないからゆっくり進んだほうがいいよ」と伝えた。するとその二人組は「ありがとうございます」とお礼を言い、案内した道へと進んでいった。
 しかし、こうもホワイトアウト状態が続くと平衡感覚を失いそうな感じがして、本当に自分の進んでいる道は駐車場に辿り着くのか不安にもなり緊張感が増してきた。千歳も緊張しているのか、僕の腕を握る力が段々と強くなり痛くなってきた。
「千歳、気持ちは分かるけど少し手の力を弱めてくれるか? かなり痛いで」
「ごめん、こういう濃霧の経験をしたことがないから凄く怖いの」
「千歳も人間やったんやな。怖いという感情があったことに、こっちがびっくりしてるわ」
 それからも慎重に歩き続けていると無事駐車場に辿り着き、車に乗り込む事が出来た。僕はエンジンをかけ、少し寒いので暖房をつけようと思いエアコンの電源をつけた。千歳を見ると肩の力が完全に抜けており表情も疲れ切っているようで、それを見て僕は少し心配になった。
「かなり怖かったんやな。大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「少し休憩したら元に戻ると思うから、座席倒してもいい?」
 千歳はかなり力のない弱々しい声で言うので、思った以上に深刻な状態になっていると感じた。
「遠慮しないで座席倒していいよ。寝てもいいからな」
 千歳は座席を倒してから目を閉じ両手をお腹の上に置いて深いため息をついた。千歳は本当に霧の中で恐怖を味わっていたのだなと知り、もっと心配してあげればよかったと後悔した。
 午後六時を過ぎ、霧も少しずつ晴れてきた。駐車場には様子見状態の車が何台も見受けられていたが、そのうちの何台かは駐車場から出て行った。
「森若君、ごめんね」
 突然、千歳の声が聞こえたので助手席を見ると、千歳は座席を元に戻し伸びをしていた。
「体調はどうや?」
「もう大丈夫。八時間ぐらい寝た気分」
 実際には一時間も寝ていないはずだが、表情も普段通りに戻っている感じがした。
「そかそか、それはよかった。霧もだいぶ晴れてきたから、そろそろ出ようと思うけどいけそうか?」
「うん、心配させてごめんね」
 少し霧が晴れてきたとはいえ、まだ視界は悪いのでフォグランプを点灯させた。ゆっくりと車を発進させ駐車場を出ると、路面には滝のように泥水が流れていた。まだまだ悪条件の道路状況だったが、安全に運転をしていれば大丈夫だろうと思った。先程の千歳と板倉さんが話していた内容について、千歳に聞きたいことがあったので聞いてみることにした。
「板倉さんとの話を聞いたけど、二十五日までの勤務なんやな」
「うん、お姉ちゃんが結婚式を挙げるから、一度実家に戻らなくちゃいけないの。九月五日には大阪に戻ってくるつもり」
「お姉ちゃんが結婚するのか。妹としては、どういう気持ちなん?」
 僕のその質問に千歳は笑い出したが、なにがおかしかったのだろうか。
「お姉ちゃんが完全に主導権を握っているから、夫婦というより主従関係の女王様としもべみたいな感じ。旦那さんになる人はかなりのマゾヒストだと思うから、見ていて楽しいよ。それにお姉ちゃん好みのイケメンだし」
 要するに旦那さんは尻に敷かれるタイプのようだった。
「お姉ちゃんって、そういう感じの人なんか」
「お姉ちゃんの命令に従わないと、いじわるされるから大変だったもん。それにね、お姉ちゃんが高校生の時にレディースの総長とタイマンで喧嘩したことがあったの。わたしも荷物持ちとして同行させられてずっと見守っていたけど、お姉ちゃんが喧嘩で勝つとね相手の髪の毛をバリカンで丸坊主にして、タトゥキットで相手の顔に卑猥な四文字を彫ったの。見守っていた人たち、みんな引いてたよ」
 千歳のお姉ちゃんは、かなりぶっ飛んでいる危険人物だということは分かった。
「それは完全にぶっ飛んでるな。仕返しとかされるやろ?」
「お姉ちゃんは小学生の頃から男女問わずしもべがいたから、人を操るのが上手だったと思うの。タトゥを彫られた人も、結局はお姉ちゃんのしもべになってたし」
「人を操るという点では、姉妹同じ血筋やな」
「わたしの場合は、人を操るサイコパスが好きなだけで……特に人を操りたいとは思ってないよ」
「そういえばサイコパスの研究がしたいと言ってたな。お姉ちゃんを見て育ったからサイコパスに興味を持ったんか?」
「多少の影響はあるけど、お姉ちゃんはサイコパスじゃないよ。お姉ちゃんは人の恐怖心を煽って操るタイプだから、ちょっと違うのよね。サイコパスの場合は相手に気づかれないように、あたかも相手の意思でサイコパス本人の利益に繋がるようなことをさせるの。相手は操られているって気づかないから、そこが違うのよ」
 また千歳先生の熱弁が始まるのかと思った時だった。前方の車道中央で誰かが両手を交差させて止まれという意思を伝えているのが見えた。ブレーキを踏みゆっくりと近づくと、そこに木田さんがおり、路肩に板倉さんの車がハザードランプを点滅させて停車していた。
「あっ、ひょっとして事故でもしたんかな」
「とにかく、路肩に停めましょ」
 千歳に促されて僕は路肩に車を停めた。車を降りると木田さんが走ってきて「おっちゃんが急に胸を痛みだして」と血相を変えて訴えてきたので、僕は急いで板倉さんの車に駆けつけた。板倉さんは苦しそうに胸の辺りを手で押さえていた。僕はその状況を見て「板倉さん、胸が苦しいんですか?」と尋ねてみると、板倉さんは「急に胸が痛みだしてな」と答え、苦しみに悶えているようだった。僕は木田さんに「救急車を待ってたら時間が掛かるから、俺が板倉さんの車を運転して木田さんのお母さんが働いている病院に運ぶわ。あの病院なら救急外来もあるし」と伝えた。
「お願い、おっちゃんを助けて」
 木田さんの悲痛な叫びを聞いて僕も心苦しくなった。僕は板倉さんに「助手席に行くことは可能ですか? 僕が運転して病院に運びます」と伝えると、板倉さんは「助手席のシートを下げてくれるか?」と言ったので、僕は助手席側の扉を開け助手席のシートを下げた。そして板倉さんの身体を補助しつつ助手席に移動させた。僕は千歳に「俺の車はここに置いていくから、千歳も板倉さんの車に乗って」と言うと、千歳は「私が森若君の車を運転していくのはどう? ここまで戻るのも大変じゃない? わたしは実家で車の運転をしてるから大丈夫よ」と言った。
「それじゃあ、俺の車に乗って後からついてきて」と僕は千歳にお願いをした。僕は板倉さんの車に乗り、木田さんが後部座席に座ったのを確認してから車を発進させた。
「おっちゃん、しっかりしてな。すぐに病院に着くから」
 木田さんは板倉さんを励ましていたが、板倉さんはずっと唸るだけで言葉を返すことも出来なくなっているようだった。僕は慎重に生駒山を下り続け阪奈道路の奈良方面車線に入った。板倉さんの車にはナビゲーションシステムがなかったので、木田さんに病院までの道を尋ねると、「このまままっすぐ行って一つ目の出口で降りて右に曲がって」とかなり動揺しているような声で、木田さんは伝えてくれた。
 一つ目の出口が見えたので下っていくと、信号は赤だった。タイミングが悪いなと思いつつも右折レーンに入った。こういう急いでいる時に信号に引っかかるのは、何かの悪戯か? とさえ思ってしまう。バックミラーを見ると僕の車と千歳が運転席にいるのが見えた。
「なんでこんな時に赤なん?」
 木田さんは涙声で訴えていた。
「もう変わるから待ってな」と僕は木田さんを励ました。ようやく青信号になったので僕は対向車が途切れた間を狙って右折をした。進行方向の道路上にはあまり車の姿はなくスムーズに進むことが出来、やがて木田さんのお母さんが働いている病院に辿り着き、玄関前に車を停めた。早速木田さんが「病院の人を連れてくる」と言い、車から降りて病院内に走って行った。僕は板倉さんの苦しむ様子を見ながら早く人が来ないかと焦って待っていたが、そこに車の窓をトントンとする音が聞こえ、その音の方へ振り向くと千歳が立っていた。僕は窓を下げて「今、木田さんが病院の人を連れてきてくれるから」と千歳に伝えた。
「じゃあ、助手席側の扉だけでも開けて待っとこうよ」
 千歳はこういう時にも冷静だった。僕は車を降りて助手席側の扉を開けて病院関係者が来るのを待った。するとストレッチャーを運ぶ何人かの男性看護師の姿と木田さんが見えたので、僕は手招きをした。看護師達が到着し板倉さんに話しかけるも返事はなく、ずっと苦しんでいる様子だった。看護師達が板倉さんを持ち上げストレッチャーに乗せると、そのまま病院内へと運ばれて行った。木田さんと千歳もそれに続いた。僕は板倉さんの車を駐車場へ移動させ、ロックをしてから病院内へ向かった。
 中に入り救急外来と書かれている矢印の方へ進むと、救急処置室の前に木田さんと千歳の姿があった。立ったままで泣いている木田さんに寄り添うように、千歳は肩を抱き寄せて慰めているようだった。僕はその二人に近づき「板倉さんの親族に連絡する方法とかある?」と尋ねてみると、木田さんが「お母さんと板倉のおばちゃんに連絡してくる」と言い、病院のエントランス方向へ走って行った。僕は千歳に「大変なことになったな。何の病気やろ?」と尋ねた。
「心筋梗塞かもしれない」
「まだ五十六歳なのに?」
「心筋梗塞はいつやってくるか分からないし、歳はそんなに関係ないよ」
 千歳も疲れているのだろう、声に力がなく表情も硬かった。
「とりあえず座って待とう、立ちっぱなしも疲れるし」
 僕と千歳は水色の長椅子に腰を掛けた。するとため息が出てきたので、僕も疲れているのだろうと思った。しかし板倉さんが倒れるとは……命に危険がなければいいのだが。すすり泣く声が聞こえてきたので、その方向を見ると木田さんが泣きながら戻ってきた。
「今からお母さんが駆けつけてくれる。板倉のおばちゃんに連絡したけど、繋がらへん」
「まじか。奥さんは普段何をしてるの?」
「手芸教室の先生をしてる。この時間は家にいるはずなんやけど」
「とりあえず木田さんも、椅子に座って待とう」
 すると木田さんも椅子に座り、僕達は板倉さんの無事を祈るぐらいしか出来なかった。
 しばらくすると、木田さんのお母さんが病院に到着した。木田さんのお母さんが病院関係者に確認したところ、どうも急性心筋梗塞の疑いがあり、その為の検査や治療を行っているとのことだった。木田さんのお母さんが僕の目の前にやってきて「ここまで兄を運んでくれたんですね。本当にありがとう」と言ってきた。僕は立ち上がり「いえいえ、ちょうど通りかかったので、ここまで運べて良かったです」と伝えた。木田さんのお母さんはやはり看護師なのか平然としており、頼もしい堂々とした雰囲気があった。木田さんがお母さんのところに詰め寄り「おっちゃん、どうなるの?」と言った。
「あとはお母さんの方で対処するから、由美子は帰りなさい。歩いて帰れる距離でしょ?」
 木田さんのお母さんはかなり冷たく言い放っていた。僕はその様子を見て、木田さんの親子関係はこじれているのだろうかと感じるほどだった。
 木田さんは感情のコントロールが出来ないのだろう、取り乱したように立ったまま泣いており、激しい過呼吸になっていた。千歳が励まそうと木田さんの背中に優しく手を置いてもそれを振り払っていた。今は無理に励ますよりそっとしておくのが正解だろうなと思った。その木田さんが急に僕の前までやってきて「おっちゃんが死んだらどうしよう」と子供のように泣きながら訴えてきた。
「板倉さんは木田さんのことを悲しませたくないだろうから、必ず回復して戻ってくるよ。俺はそう信じてるよ」
 僕は木田さんを諭すようにそう言った。しかしその時、木田さんは僕の胸に抱きついてきた。あまりにも急な出来事で僕は驚き、ふと周りを見ると木田さんのお母さんも千歳も驚いた表情をしていた。木田さんは周りの目を気にすることが出来ないのだろう、悲しみの淵にいるのが充分に伝わり、僕はそっと木田さんの頭を撫でながら、「板倉さんが回復して戻ってくるのを信じよう。俺たちが信じて待っていたら『わしもまだまだ若いもんには負けへんで』と言って戻ってくるから」と木田さんを励ました。それを聞いた木田さんは「うん、そうやんな。信じて待ってみる」と言い、僕から離れて涙を拭った。僕は恥ずかしさから木田さんのお母さんを見る事が出来ず、少し俯き加減になっていた。そういう抱き合うような関係性だと誤解されているのではないかと心配になり、木田さんのお母さんに小言でも言われたらどうしようかと怖くなった。その心配が的中したのか、木田さんのお母さんが近づいてくる気配を感じ、僕の心は一気に緊張感が増した。すると木田さんのお母さんが「まだ治療は続くと思うので、後は私の方で見守ります。今日はお疲れでしょうからお帰りください」と丁寧な言葉で言ってきた。ただ、どこか冷たい印象を受ける事務的な声だったので、先程の木田さんが僕に抱きついてきたことに対して良い印象を持っていないのだろうと思った。それならと思い、木田さんのお母さんには整然と帰る挨拶をしておく必要を感じたので、僕は「そうですね、今日はこの辺りで失礼させて頂きます。板倉さんにはいつもお世話になっていますので、無事に回復してくれることを願っています」と木田さんのお母さんに向けて挨拶をした。続けて僕は木田さんに「僕達はそろそろ家に帰るね。木田さんも身体を休めてな」と言った。
「森若君、本当に感謝してるから。気をつけて帰ってな」
 木田さんは少し冷静さを取り戻したようで泣いてはいなかったが、かすれたような声だった。それから僕は千歳に「そろそろ行こうか」と言い、僕達は病院を後にした。
 こうした緊急事態に遭遇すると精神的にも肉体的にも疲れるものだなと感じた。そして僕達は車に乗り込み家路についた。
 僕は運転をしながら、明日から職場はどうなるのだろうかと考えていた。板倉さんがいない事務所は、ドラえもんのいないのび太君の部屋と一緒だなと思った。帰路の道中、僕と千歳は一切しゃべることはなく、千歳が車を降りた時も挨拶を交わしたのかさえ分からなかった。僕はもう疲労困憊だったのだ。
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