第6話

文字数 10,446文字

   六

 板倉さんは緊急処置を受けた後、意識も戻り命に別状はなく、少しずつ体調も回復していると木田さんから聞いていた。板倉さんが倒れてから十日ほど経過していたが、まだ入院状態が続いており、退院後も心臓のリハビリが必要になるらしく、職場復帰も未定なのだそうだ。職場の状況はそれほど大した影響はなく、社員の福島さんが所長代理として事務仕事に就くこととなり、本社から武田さんという若い女性の方が派遣され、ゲームセンターに配属されていた。板倉さんが倒れた情報は遊園地内のスタッフに知れ渡り、板倉さんと仲の良かった他社の社員の方達が、北口さんに事情を聞きに来る場面を幾度も目撃した。その際、北口さんは普段と比べて真剣な面持ちで対応していたが、やはりどこか笑っている感じがするので、天性の笑い顔は人生を生き抜く上では損なのかもしれないと思った。
 木田さんはいつも通り僕に接してくれていたが、寂しげに俯く場面を幾度も見ていると、板倉さんとの関係の深さを改めて感じた。木田さんが小学生の頃、お母さんが仕事で夜勤の際はいつも板倉さんの家に泊まりに行っていたそうだ。板倉さんは子供がおらず、木田さんのことを実の娘のように可愛がっていたらしい。僕はそういう事情を知ったので、木田さんの心配する気持ちもよく分かるのだ。以前は板倉さんの車に乗って通勤をしていた木田さんだったが、今は一人でケーブルカーを利用しての通勤になっていた。僕は木田さんに「車で送り迎えするよ?」と提案をしてみたが、「気持ちは嬉しいけど、そこまで甘えられないから」と断られていた。だが、木田さんとLINE交換をしていたおかげで、毎朝おはようのメッセージが来るようになり、僅かではあるがプライベートでの交流が出来るようにはなっていた。僕も木田さんも八月末でアルバイトが終了する為、プライベートでの繋がりがなければそこで関係は終了してしまうところだった。九月以降も交流が出来る可能性があるので、どうにかして関係を保てないかと僕は考えていた。こうした悩みについては千歳に相談するのが一番良いだろうと分かってはいるのだが、僕が木田さんのことを意識していると知られたくない気持ちの方が強く、自己解決という方針をとらざるを得なかった。
 毎日のルーティンの中に、僕と木田さんの一時間に及ぶ喫煙所での会話がある。しかし残すところあと十日でこのルーティンも終わってしまうのかと思うと、やはり寂しさが付き纏う。アルバイト初日に木田さんと出会った記憶が、まるで昨日の出来事のように鮮明に思い出すことが出来る。その思い出に耽りながら喫煙所で煙草を吸っていると、木田さんが「大学の後期は十月から?」と質問をしてきた。大学という言葉を聞いた瞬間に、日常の生活に戻らなければならないという気持ちが強くなった。
「十月からやけど、九月は卒論のテーマを決める為に何度か大学には行くつもりやけどな」
 僕はため息交じりにそう答えた。
「あたしも十月から後期やけど、九月はキャラクターのイラストを描いて、それを動かす為のLive2Dの勉強をしようかなと思ってる」
 確かLive2Dはイラストで描いたキャラクターに動作を付与するソフトだと僕は認識していた。
「Vtuberって、Live2Dのソフトでイラストに動作を付けたりするんやってな。でもさ、イラスト制作者とLive2D制作者は別々になっている事が多くないか?」
 僕は持ち合わせている知識を総動員して木田さんに質問をした。
「そうなんやけどな、あたしは全部一人で完結させてみたくなったんよ。Vtuberのイラストを描くにしても、Live2Dのことを知っていないと、余計な手間が掛かるって聞いてるし」
 木田さんは本格的にVtuberのイラストと、それを動作させるための勉強に励もうとしていることは分かるのだが、そこまでして全てをこなしたいのであればと思い、僕は「イラストレーターの人でさ、自分で描いたキャラクターを利用して、自分で配信してる人がいるねん。えっと……あの人……赤見かるびちゃんを描いたイラストレーターさんが、確かそうやったと思う。木田さんも自分で描いたキャラクターでVtuberデビューするってのはどうよ?」と提案してみた。
「赤見かるびちゃんのイラストレーターは、甘城なつきさんって言うの。なちょ猫さんとも言うけど、あの人のイラストは透明感があって瑞々しいから大好きやし尊敬もしてるよ」
 確かに甘城なつきさんが描いたイラストは、心を癒やすような透明感があって甘いお菓子が似合いそうな女の子をよく描いている。瞳の中にカニをモチーフにしたような模様があり、そういう細かな部分へのこだわりも然る事ながら、唯一無二の個性的なイラストを描くトップクラスのイラストレーターだと、浅い知識ながら僕はそう思っている。思い返してみれば木田さんがイラストのコンテストに提出した作品は、その甘城なつきさんの影響があったのかもしれないと記憶を辿っていると「でもな、あたしがVtuberに向いているかと言われたら、たぶん向いていないよ。失言ばっかりすると思うし、大炎上ばかり引き起こして誹謗中傷のコメントがギネスブックに掲載されるぐらい来ると思うから、とてもじゃないけどあたしは耐えられへんと思うし無理やわ」と木田さんは笑いながら答えていた。確かに木田さんは感情的になった場合に、暴走してしまう恐れもあるので――だからこそ向いていると僕は思うのだが、もし木田さんがVtuberデビューを果たすことになった際は全力で応援するだろうし、きっと人気者にもなれるだろうから、是非とも挑戦して欲しいと思った。僕は木田さんに「大炎上するぐらい世間から認知されたらもはやそれは大成功とも言えるけど、社会常識と照らし合わせてその大炎上が許容の範囲内で許されるか許されないかの線引きって難しそうやな」と言った時、木田さんが僕の後ろの方を気にしだしたので、何かなと振り向いてみると牧田が室内に入ってきていた。牧田が「おつかれさまです」と元気なく挨拶をしたが、僕も木田さんもすぐに返事は出来なかった。今まで僕達以外の人がこの時間帯に、それもこの喫煙所に来ることが無かったので戸惑っていた。何か気になったのか牧田は申し訳なさそうな顔をして、「ひょっとして、お邪魔でしたか?」と牧田らしくないことを言うので、僕は「いや、ここに人が来ることが珍しかったから戸惑っただけやで」と説明をした。牧田はオロナミンCを持っており、その蓋を開けて飲み始めた。まるでやけ酒を飲むかのように一気に飲み干し、牧田はその空き瓶を煙吸引機の上に勢いよく置いた。これは千歳に告白をしてフラれたのだなと思った。
「あれか、千歳に告白してフラれたか」
「森若さん、やめてくださいよ。木田さんもいるのに……そういうのノンデリっていうんですよ」
 牧田に説教されるとは……木田さんもいたので確かに失言だった。
「そりゃ悪かった。あまりにも元気がないから、フラれたんかなと思ってな」
「いや、千歳さんに告白なんてしてないですよ。俺なんて相手にされるわけないですやん。もっと深刻なんっすよ」
「なんや深刻って、何があったん?」
「実は俺が北口さんをパチンコに誘ったせいで、北口さんがパチンコにハマりすぎて借金も抱えてしまったって言ってるんすよ。前の濃い霧の日も、帰りに一緒にパチンコに行って北口さんは六万円も負けたんっすよ。そういうの見てたら北口さんの家族にも悪いことをした気がして……パチンコやめましょって言ってるんですけど、取り返すって言って聞いてくれないんっすよ。どうしたらいいっすかね?」
 脳天気な牧田とは思えないぐらいに真剣な表情を見せているので、僕が思っている以上に北口さんは深刻な状況になっているのだなと感じた。それを聞いた木田さんが「あの人、パチンコなんかしてるの? 家族もいるのに何を考えてるんやろ」と少し感情的になって言っていたが、僕も同じ気持ちだった。
 牧田は元気ハツラツオロナミンCを飲んだにも関わらず、俯きながら落ち着きのないスパスパとした息づかいでタバコを吸っていた。僕はその牧田を見て、こいつも自分のやったことに罪悪感みたいなものが芽生えるのだなと思った。
「牧田が心配したところで、北口さんは今後もパチンコをするやろうから、もう一緒にいくようなことはせんと、距離を取ったほうがええよ」
 僕なりにアドバイスをしたが、続けて木田さんが「あんたに一言いっとくけどな、早く大人になりや。あたしと板倉のおっちゃんが、愛人関係やって言いふらしてたらしいな。もう知ってるやろうけどあたしは親戚や、愛人とちゃうで」と言葉を強めて言っていた。牧田はさらに落ち込んだように下を向いて何も言おうとしなかった。牧田もここまで落ち込むと形無しだなと思ったが、ここは木田さんと同調して牧田に説教をしてやるのが一番効果的だろうなと考えた。
「木田さんの言うとおりやで。あんまり調子に乗ってずけずけと人の噂話とかせんと、もっとその人のいいところを見つける努力をしたほうがええで。その人のええところを見つけたら、その人のことが魅力的に見えるようにもなるし、人の噂話なんて気にもならなくなるし。俺はずっと牧田のええところを見つける努力をしてきたけど、ひとつもなかったぞ。それでは千歳と肩を並べて歩くことも出来んやろ」
 僕は校長先生みたいな説教じみた話をしてしまい、少し後悔した。牧田は顔を上げ「そうっすよね。自分でも千歳さんと釣り合わないのは分かってるんすよ。でも、千歳さんは俺のことをすごく褒めてくれるんっすよ」と言った。
「千歳が牧田の何を褒めてるん?」
「俺が人の噂話を純粋に信じ切ってしまっているのが魅力的だって褒めてくれるんっすよ。そういう純粋さは貴重だから大事にして、噂話を流さないことをすればもっと魅力的になれるよって言ってくれるんっすよ」
 それは遠回しに馬鹿と言っているようなものだと僕は感じたのだが、千歳のそういう言葉も純粋に受け止めるところをみていると、まだ救いようがあるのかなと思った。ただ千歳があと数日でアルバイトが終了になることを牧田は知っているのか気になった。
「千歳は四回生やから今年が最後の夏バイトになるし、今月の二十五日までしかここで働いてないよ。知ってたか?」
「いや、知らないっす。あと四日でいなくなるんですか?」
「そうなるで。千歳の何が好きなんか分からんけど、告白するんやったら早くしないと時間ないで」
「まじっすか。告白ってどうしたらいいんか分からないんすよ。ダイヤの指輪とか必要ですかね?」
 僕は牧田のその言葉を聞いて笑ってしまったが、木田さんは「あんたは、ほんまにアホやな。いきなりダイヤの指輪をプレゼントされたら誰でも引くで。そんなの重たすぎるからプレゼントとかじゃなくて、遊びに行く約束をして遊びに行った時に告白するとか、そういう風に段取りせなあかんで。遊びにも行かんと、いきなり告白しても断られるのがオチやで」と牧田にアドバイスをした。それを聞いた牧田は「そうっすよね。さすが木田さんですね、今度から師匠と呼んでいいっすか?」と真面目な顔で木田さんに尋ね、それを受けて木田さんは「あたしも、告白されたり付き合ったりしたことがないからよくは知らんけど、雑誌とかにはそう書いてたで。それにあんたに師匠と呼ばれるなんて絶対に嫌やからな」と牧田を指差して言った。牧田に師匠と呼ばせるのは、幼稚園児に教祖様と呼ばせるぐらい滑稽なことなので、木田さんが嫌がる気持ちも理解はできる。ただ、牧田が本気で千歳と仲良くなりたいのであれば、何か力になれるようなことに対しては協力をしようと思った。北口さんのことについては、ここで話をしていても解決する訳でもないので、あまり気にしないようにと牧田には言っておいた。
 
 八月二十五日、夏のナイター営業期間が終了し閉園時間が午後五時となった。閉園作業をしていると夕焼けの赤い光が幻想的で、それに加えてひぐらしの鳴き声が心に余白を与え、寂しさを感じさせた。そういう秋の気配に浸っていると「久しぶりに、ひぐらしの鳴き声を聞いたわ」と木田さんの声が聞こえた。「大阪の都心やと、ひぐらしの鳴き声なんて聞こえへんからな」と僕は言った。
 遠い空を眺め夕焼けの光を浴びた木田さんの顔を見ていると、可愛すぎて食べたくなるような衝動に駆られ、ギュッと抱きしめたいと心から思った。鼓動の高鳴りと心苦しさを感じていると木田さんと目が合った…………このまま死ねるのなら最高だなと思った。その木田さんが僕に近づいてきたので、何か言われるのかなと身構えた。
「万葉集にな、夕方になるとひぐらしが鳴くさびしい生駒山を超えて、愛する人の居る奈良に帰るっていう歌があってな。奈良時代の人も、ここのひぐらしを聞いて感じることがあったんやなって考えたら、すごく不思議な気持ちにならへん?」
 僕の予想とは全く違う話だったが、木田さんにもそうした叙情的な感覚があるのだなと思った。
「万葉集にそんな歌があるんやな。昔の人たちも大阪から奈良に向かうには、この生駒山を越える必要があったんやな。それもまた不思議な話やけど、どんなに時が経っても変わらないものがあるってことやしな。大昔の人たちも今のこの夕焼けを見たら、俺と同じように風情を感じたりするんかな」
 僕は自分の顔が熱くなる感覚を味わい、どうしてロマンチストが語りそうなことをべらべらと言ってしまったのかと、本当に後悔をした。
 木田さんは夕焼けの空を見上げており、まるで空想の世界にいるようなトロンとした目つきで笑みも浮かべていた。その空想の世界に僕は登場しているのだろうかと気にはなったが、ひぐらしの鳴き声を聞いていると、木田さんと同じようにこの風情を味わえているのだから、たとえその空想世界に僕が登場しなくとも充分に幸せだなと思った。
 閉園作業を終えて事務所に戻ると、所長代理の福島さんが従業員達を集めていた。僕もその輪に入ると、千歳が福島さんの横に立っていた。そして福島さんが「はい、みなさんにお知らせがあります。約四年間、夏休みのアルバイトを通じて会社に貢献してくれました千歳さんが、本日を持ってアルバイト終了となりました。千歳さんとはゲームセンターで共に働く機会が多かったので、いなくなるのは本当に寂しいですけど、長い間ご苦労様でした。またいつでも遊びにきてください」と労いの言葉をかけ拍手をした。みんなそれに合わせて拍手をし、僕は「千歳、ご苦労様」と言い拍手をした。福島さんの粋な計らいで行われたこの送迎式で千歳は幸せそうに笑みを浮かべていた。学生最後のアルバイトをこのように締めくくることが出来た千歳は、どのような世界に行っても上手くやっていけるだろうなと思った。
 それから僕は更衣室に行き、着替えを済ませて事務所に戻った。退出のタイムカードを押しガッチャンと鳴り響く音を聞いて、この音もあと数回しか聞けなくなるので、なんならこのタイムカード機を売ってもらう交渉をしようかと真剣に悩んでいると、僕の肩をポンポンとする感覚があった。振り向いてみると、そこには千歳が立っており「おまたせ」と僕に声を掛けてきた。千歳は最後のタイムカードを押し終えてから福島さんに「それでは失礼します」と最後の挨拶をした。僕は千歳に「もう思い残すことはないか?」と尋ねると、「最後の晩餐なら思い残すことだらけだけど、特に今は何もないよ」と答えた。
 事務所を出て駐車場に向かう道中、夕焼けに染まる動かない飛行塔が目に入った。僕は千歳に「板倉さんから聞いた話なんやけどな、この飛行塔、戦前からあったみたいやで。何でも日本最古の大型遊具になるらしいわ」と飛行塔を指さして言った。千歳はその飛行塔を見上げて「この飛行塔を見る事は二度とないかも」と悲しげに言った。
「なんや? なんかあるんか?」
「来年から、もう日本にいないと思う」
「それはどういうこと?」
「来年の四月からイギリスの大学に留学するの」
「え? なんでイギリスなん?」
「イギリスの大学院にね、サイコパス研究の第一人者がいるの。その博士の下でわたしも研究したいから、まず現地の大学に留学してそれから大学院に進学する予定なの」
 千歳は本気で研究者への道に進むらしく、将来を見据えて考えていることに感心した。「俺はまだ、将来どうしようかと答えが出てないんよな。好きなことを仕事にしてみたらと木田さんからアドバイスを貰ったけど、いまいち自分は何が好きなのかって掴めないのもあって、迷路の中にいる感覚やわ」
「目的がないときは、無理に探す必要もないと思うよ。就職に関しても第二新卒の制度もあるんだし、アルバイトをしながら好きなことが見つかるまで様子見をするのもアリだと思うけど」
 千歳の助言は確かに有益なのだが、フリーアルバイターになることを両親が許してくれるかどうかが問題だなと思った。少なくとも頑固おやじが許すわけもないし、世間体とか自分の価値観しか信じない人だから、いっそのこと親子の縁を切るのが最善策のように思えてきた。しかし、父とは縁を切ってもいいが母とは縁切りをしたくはないし……思案のしどころだなと思った。
 ひぐらしの鳴き声も段々と少なくなり、空の色も少しずつ暗くなってきた。駐車場に到着すると既に車の台数は数える程で、ここも物寂しげな雰囲気だなと感じ、僕達は車に乗り駐車場を後にした。そこで千歳のスマホの着信音が鳴り響き、千歳はその電話に出て話し出したが、聞き耳を立てていると仲の良い友達と話をしているようだった。しかし千歳が「九月中旬だったら、牧田君の都合に合わせるよ」という声が聞こえ、あいつもやるなと思った。千歳が牧田との通話を終えたのを見計らって僕は、「牧田と電話番号の交換までしてたんか」と聞いてみた。
「うん、来月に遊ぶ予定だよ」
「牧田もちゃんと忠告通りに行動したんやな」
「え? どういう忠告をしたの?」
「牧田が千歳に告白をしたいと言ってたんや。それも告白するのにダイヤの指輪が必要なのかって俺と木田さんに聞いてきたんよ。それでな木田さんが、いきなりダイヤの指輪を持って告白するのは重たすぎるから、遊びの約束をして遊びに行った時に告白をしたらどうやとアドバイスをしてたんよ」
 それを聞いた千歳は嬉しそうに笑っていた。
「最初からダイヤの指輪を持ってきてくれた方が、わたしは嬉しかったかな。その方が牧田君らしくて可愛いし」
「ひょっとして、牧田と付き合うのはアリの方向に傾いてるのか?」
「来年イギリスに行くから付き合うことは出来ないけど、エッチぐらいならOKするつもり」
 僕はその話を聞いて、牧田と千歳が夜の営みをする想像を勝手にしてしまい心底笑ったが、千歳はなぜそのような考えに至ったのかと気になった。
「牧田とのエッチをOKする理由は何なん?」
「わたしは小さい頃から存在感のない子供だったし、自分の存在を誰かの心に焼き付けたい願望があるの。人間の記憶って何かの出来事と紐付けて記憶されるから、そういうのエピソード記憶って言うのだけど、普通のセックスじゃなくてアブノーマルよりのセックスをすることで、その人の記憶にわたしという存在を強く焼き付けることが出来るの。アブノーマルなセックスであればあるほど、その人の記憶に強烈にわたしという存在を焼き付けることが出来るから……きっとね、自分の存在価値を見いだしたい気持ちが誰よりも強いことが影響していると思う」
 そこまでして人の記憶に自分という存在を刻印したいものだろうかと考えてみたが、僕には到底理解出来そうにはなかった。だが僕は千歳に「俺はあんまり詳しいことは分からんけど、千歳と出会えて良かったと思ってるよ。相談相手だけじゃなくて、俺からしたら知らんことを千歳は沢山知ってるし、知的好奇心も満たしてくれるし有り難い存在だと思ってるんやけどな」と千歳に対する素直な気持ちを述べた。
「わたしのこういう話を聞いても、森若君は否定しないから貴重な存在だよ。だってね、こういう話を友達にすると貞操観念が低いって説教されるんだから。森若君には何でも話せるし、本音を言える唯一の友達なの」
「いやぁ、千歳に対して否定なんかしてみろ、確実に論破されるのがオチやろ。それに俺は人を見てるから、牧田相手なら全否定するけどな」
「牧田君のこと嫌いなの?」
「好きか嫌いかと問われたら確実に嫌いに分類されるよ。あいつは噂話を誇張して拡散する能力が世界一やと思ってるし、そういうの俺は好きじゃないからな。あいつがSNSをしていないことが唯一の救いやと思うで。まぁでもな、あいつにもいいところがあったんよ。あいつ去年末ぐらいに北口さんを誘ってパチンコに行って、それがきっかけで北口さんはパチンコにハマったらしくて、牧田はそのことに対して責任を感じてたから、悪い奴ではないんよ」
「わたしも北口さんのことは相談されたけど、北口さんは牧田君のロボットじゃないし自分の意思でパチンコをしてるんだから、そこまで責任を感じる必要性はないって言っておいたよ」
 確かに千歳の言うとおりだなと思ったが、北口さんが牧田のロボットになっている姿を想像をすると、それはそれで面白いなと思った。
 阪奈道路に差し掛かり、大阪方面の道は渋滞していた。こんな時間帯に大阪方面が渋滞するのは、事故以外に考えられなかったので僕は千歳に「たぶん事故渋滞やな。家に到着するの遅くなりそうやけど、千歳は今晩にでも神奈川に帰るんか?」と質問をした。
「そのつもりだけど気にしなくていいよ、明日の朝に帰省しても問題ないし。それよりね森若君にひとつお願い事があるの。言うの忘れてた」
「千歳博士が俺にお願い事をするとは、これはこれは珍しいですなぁ」
「十月にね、わたしと旅行をして欲しいの」
「旅行?」
「山梨県の青木ヶ原樹海に二泊三日の旅行をしたいから引率してくれない?」
 よりによって、なぜ自殺名所でもある青木ヶ原樹海なのだろうか。
「俺は一度も青木ヶ原樹海に行ったことがないから、引率出来るほどの詳しい知識はないよ。一緒に行くのは別にええねんけど、なんであんな気持ち悪そうな場所に行きたいの?」
「卒論でね、自殺願望者と実際に自殺をする人との心理分析とその比較をテーマにするから、自殺名所で有名な青木ヶ原樹海に一度は行っておこうと思うの」
「なあ、それって大学生がするべき卒論のテーマなん? FBIとかCIAの心理分析官とかがしそうな感じやねんけど」
「わたしが受講しているゼミは犯罪心理学をテーマにしてるから普通のことだし、大学生でも自殺心理をテーマにすることは倫理的にも問題はないよ」
 あまりにも内容が高度過ぎるので、僕には一生関わることのない分野だなと思った。それにしても青木ヶ原樹海に旅行と聞くと、幽霊とかに呪われないかと心配にもなる。そういう非科学的なことを千歳に話してしまうと、ややこしいことにもなるだろうし、進んで乗る気にはなれなかったが僕は「とりあえず十月ね。それってキャンプ宿泊で問題ないよね?」と尋ねた。
「うん、キャンプで問題ないよ。詳しい日程はまた大阪に帰ってきてから連絡するね」
 完全に日が暮れて渋滞が解消する気配もなく、のろのろ運転で生駒山を下っていた。その道中、急な右カーブで横転した黒いアルファードが無残な姿を曝け出していた。
「わたしの実家の車ね、この事故車と一緒のアルファードなの。運転しやすい車なのに飛ばしすぎたのかな?」
「たぶんスピードを出しすぎたんやろうな。前も帰るときにさ、警察と走り屋の鬼ごっこを見たやろ? こんな危険な下り坂でスリルを求めて何になるんやろうな」
「生きる上で刺激も必要だから、スリルを味わうことで快楽を得てるのよ。それにスリルで快楽を味わう人はマゾヒズム嗜好が強いから、そういうスリルに依存しやすいのよ」
「え? じゃあ、走り屋をしてる奴らはマゾヒストになるんか?」
「誰でもサディズムやマゾヒズムの嗜好は持ち合わせてるけど、スピードを求めてスリルを味わう人はマゾヒズム嗜好が強いと断言できるよ。絶叫マシンに乗りたがる人も、そういうことなの」
 走り屋をしている人たちが、女王様に鞭打たれて喜ぶマゾヒストと一緒なのだと想像してみると、こりゃまた滑稽だなと思った。「じゃあさ、走り屋と警察の鬼ごっこをそれに当てはめると、走り屋が四つん這いでハイハイして逃げて、警察が女王様みたいに鞭を振って追う光景が目に浮かぶねんけど」
「想像力が豊かすぎると思うけど、あながち間違いとは言えないよ」 
「いやいや、間違いであってくれ。寝られへんようになるわ」
 千歳と話をしていると驚きの連続で、知識を深めることがいかに大切かということを考えさせられる。僕にはもっと人生経験が必要だし、博学とまでは言わなくとも、もう少し知識を豊富に身につける必要があるなと感じ、もっと本を読まなければならないと思った。
 ようやく長い渋滞から解放され、生駒山を下山した頃には午後六時半を過ぎていた。その後は順調に車は進み、午後七時過ぎに千歳の家の前に到着した。僕は千歳に「じゃあ、またな」と挨拶をし、千歳は「また大阪に戻ってきたら連絡するね。お土産も買ってくるから」と言い車を降りた。
 僕は車を発進させてバックミラー越しに千歳を見ていたが、ふと旅行でもないのにどうしてお土産を買ってくると千歳は言ったのだろうかと、そのことが気になったが……千歳の考えている事は宇宙の真理に匹敵するぐらい難しいことだから、お土産のことについては記憶から抹消しようと思った。
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