第3話

文字数 18,319文字

   三

 翌日の土曜日、朝七時には気温が三十度を超え、開園時の午前十時には三十二度に達していた。急流すべりの乗り場は丸い大きな天井があるので、太陽の日差しを直接浴びることはないのだが、蒸し暑さで僕の身体からは滝のように汗が噴き出ていた。
『夏は日向を行け、冬は日陰を行け』ということわざを中学生の頃に習ったが、あえて辛い道を行く人達は単にマゾヒストなだけだろうと思うのだ。夏の日陰でも暑さは尋常ではなく、セミの鳴き声は工事現場の騒音に匹敵するぐらいに耳に刺さり、そのうえ口内は怪我の影響からか常に乾いており、水分補給をまめに行う必要もあって、僕は絶賛苦行中の身なのだと声を大にして言いたかった。
 ただ、そんなことを言ったところで戯れ言だと避難されるだろうし、わざわざ従業員の心配をするお客さんなんているはずもない。文句を言っていても仕方がないので、仕事に取り組むことにした。
 今日も昨日のメンバーと同じく北口さんと井上、それに紅一点の木田さんと僕を含めた四人構成だった。
 北口さんと井上は作業に空き時間が出来ると、麻雀のMリーグというプロ雀士達の大会について話し合っているようで、僕は麻雀については一切分からないので、その話の輪には入らなかった。
 土曜日と日曜日はフリーパスの販売がないので、受付業務の木田さんは乗り物券を受け取ったり、乗り物券の枚数を数え百枚単位で輪ゴム止めをしたりする作業をしていた。その木田さんが乗り物券の枚数を数えているとき、かなり目に近づけて枚数を数えているので、ひょっとしたら近視なのかなと思った。木田さんは前髪をふぅーと口からの風で吹く仕草をしたのだが、あまり上手に吹けなかったのか何度も同じ仕草をしていた。よく見ると木田さんの髪はライトブラウンのような色合いで、肩まで流れたストレースヘアがとても綺麗でツヤがあり、側面に数本ある小さくて細かな三つ編みにはゴールドのヘアリングを通していた。両手の爪には淡いパープルのネイルが施され、両方の手首には色とりどりのエスニックな感じの細いヘアゴムを何本か付けており、木田さんは美意識が高そうでどこか個性を大事にしているという印象を受けた。
 僕に関して言えば中学生になるまでアメリカで暮らしていたこともあり、英語が得意というだけで他に目立った特技というものはなかった。平凡という言葉が自分にはぴったりだなと思うし将来の夢もない。
 父親からは「いい加減に将来を見据えて就職活動をしなさい」と厳しく言われており、八月中に僕がきちんと将来を見据えて就職活動をしていないと強制的に父親の働く某航空会社の就職試験を受けさせられるのだ。
 そうしたことを考えてため息をついていると、板倉さんがやってきて「今な、警察から昨日の件で電話があって、加害者側の弁護士さんにこっちの個人情報を伝えてもええかって電話があったわ。森若君のところにも警察から電話があるらしいから、個人情報を教えてもええんやったらそう伝えたらええわ。たぶんな、あの加害者が示談の為に弁護士を雇ったんやろ。わしのところは威力業務妨害での示談交渉になるやろうけど、森若君は傷害での交渉になるやろうな」と言った。僕は「傷害事件でも示談なんてあるんですか?」と板倉さんに尋ねると「示談しても検察が告訴をすることもあるし、示談してた方が印象がええんやろ」と事情を教えてくれた。
「板倉さんは弁護士さんに個人情報を伝えてもいいとOKを出したんですよね?」
「OKだしとるよ、弁護士と話をする方が何かと都合がええからな」
「分かりました。じゃあ僕も警察から電話が掛かってきたらOKを出しときます」
 木田さんはその話を聞いていたようで、僕と板倉さんのところにやってきて「慰謝料で一億円ぐらいふっかけたったらええねん。あたしやったらそうするわ」と真顔で言うのだが、一億円という発想がいかにも子供じみているなと思い、僕は笑いながら「いやいや木田さん甘いで。俺やったら二億円請求するわ」と言った。板倉さんも笑いながら「そんだけ貰えたら一生安泰やな」と言い、それにつられて木田さんもクスクスと笑っていた。昨日の時点ではこの事件について笑うこともなかったので、いまはこうして笑えているのだから、加害者よりも被害者という立場で良かったと思った。

 正午を過ぎ僕と木田さんが先にお昼休憩となった。僕は自販機で缶コーヒーを買い、喫煙所へと向かった。元々お昼にご飯を食べる習慣がなく、缶コーヒーと煙草さえあればそれで良かったのだ。
 喫煙所に到着すると、中で木田さんが電子煙草を吸っていたのでびっくりしたが、どうやらご飯を食べるよりも先に煙草を吸う人なのだと思った。煙吸引器の機械の上にはピンクの水筒があり、その下の方に木田と名前が書かれていた。僕は「おつかれさん」と軽く挨拶をしたが木田さんは「ちょっと聞きたいことがあるねんけど」と何か腑に落ちていないような言い草だった。僕は電子煙草の機械に煙草をセットしつつ「ん? なんやろ?」と尋ねた。
「昨日さ、双子の泣いてない女の子について様子を見て欲しいって言ってたやんか。気になることがあるって言ってたけど、なにが気になってたん?」
「あれか……俺が殴られて倒れる時にな、あの女の子が俺のことを哀れむような感じで見てたんや。それで、どこかあの女の子と会ったことがあるような懐かしい気持ちになってな、自分でもよく分からんねんけど、どうしてもあの女の子の様子を知りたくなってん」
 それを聞いた木田さんは、考え込むように煙吸引器の機械の上に肘を乗せ頬杖をついた。しばらく静寂が続いた後に木田さんが「あれかな、前世のお嫁さんだったとか」と神妙な面持ちで言ってきた。
「前世かぁ……俺には前世の記憶はないけど……言われてみたら確かに十年前に会ったとかの記憶にある懐かしさじゃなくて、前世という懐かしさの方がしっくり来る感じやな」
 頬杖を付いていた木田さんが突然立ち上がり「実はな、あたしにも経験があるんよ」と目を見開いて興奮気味に言ってきた。木田さんの顔がかなり僕の顔に接近してきたので、僕は別の意味で興奮しそうになったが、その経験話を聞いてみることにした。
「それってどんな経験?」
「あたしが保育園の年長さんだった頃の話でな、近所にたけし君って子が引っ越してきてん同い年の子で。初めてたけし君を見たときに、前にもどこかで会ったことがある気持ちになって、ずっと不思議に思ってたんよ。それからずっとたけし君と喋ることがなかってんけど、小学校に上がる前にたけし君があたしに言ってきたことがあって『木田、僕のこと覚えてる? ずっと昔のことやけど』と聞かれたんよ。それであたしは『覚えてないけど、どっかで会ったような気もする』って伝えたらな、たけし君は『覚えてないんか、じゃあいい』って素っ気ない返事をされてん。あたしが昔のことを覚えてないから悪いみたいな雰囲気になって、すごく悩んだことがあるんよ」
「なんか、そのたけし君は昔のことを覚えている感じやな」
「そうなんよ。それで小学六年生の時にな、同じクラスになったのもあって二人きりで喋る機会があったから、そのときにあたしがたけし君に『保育園の時にたけし君が昔のこと覚えてる? って聞いてきたけど、そのことはまだ覚えてる?』って聞いてみたんよ。そしたらたけし君は覚えてるよと答えてくれて『あたしとたけし君はどこで会ったの?』って聞いてん。そしたらな『生まれる前の違う人生で会ってるよ』って、たけし君は言うのよ。そんなん聞かされたらめっちゃ気になるやんか。それであたしはな『生まれる前の違う人生でどういう感じで出会ったのか教えて』ってお願いしてん。そしたらな、たけし君が『木田がもし思い出したら、そのときにゆっくり話そ。いまここで生まれる前の話をしてもお互いに傷つくだけやから』って。傷つくって何よって、めっちゃ気になってんけど……でもな、どんなに思い出そうとしても思い出せないから、たけし君とはそれ以降全然話もできてないのよ」
 この世の中に前世の記憶を持っている人がいるという話は、テレビで見たことがある。実際に木田さんからの話を聞いていると、やはりそうした神秘的なことが世の中にはあるのだなと、かなりの興味と驚きが僕の心に広がっていった。僕があの少女に感じた懐かしい気持ちも、こういう類いの前世的なことなのだろうか。僕は木田さんに「前世の記憶があるという話、凄く不思議な気持ちになるけど、そのたけし君のお互いが傷つくという言葉がなんかすごく気になるよな。あまりいい前世の記憶じゃないんやろうな。でも、なんか知りたいよな」と言った。
「そうなんよ。それにたけし君はあたしに関わろうとしないし避けてる感じもするし、前世は嫌な記憶としか考えられへんのよ。近所だからたまに見かけるときはあるねんけど、いつもやっぱり懐かしい気持ちになるんよね。ずっと不思議なままで心に引っかかってる感じがするから、嫌な気持ちにもなるんよ」
「じゃあさ、今やったらもう大人やし教えてくれる可能性はないの?」
 すると木田さんは少し俯き「そうしてみたいねんけど、あたしな色々あって中学生の頃に登校拒否してるんよ。あたしのイメージ最悪やと思うから、たけし君に話しかけることもできない状態」と言った。
 木田さんの顔色が急に悪くなったように感じ、登校拒否のことについては触れない方がいいと思い、僕は「そうなんや。まぁ、聞けないのは仕方ないか。前世の記憶がある人って、そのことについてどう思ってるんやろな。俺も前世の記憶とかあったらどうなってたんか分からんな」と話の流れを変えようとしてそう言った。木田さんは水筒の蓋を開けて、その蓋の中に飲料水を注いだ。
「あたしも前世の記憶があったらって考えたりもするねんけど、それに関する本を何冊も読んでみてなんにもわからへんかったわ。あの女の子は何か知ってないかな? 昨日感じたことなんやけど、なんか変な雰囲気やったんよあの女の子。あたしからしたら何を考えてるかさっぱり分からない感じがしたし、不思議な魅力があるんよ……たけし君みたいに」
「不思議な魅力?」
「うん、たけし君のときにも感じたことなんやけど妙に大人って感じがする、あまり動じることがないって感じかな。たけし君にもあの女の子にも共通してるの、そういう妙に大人っぽい魅力」
「大人っぽい魅力かぁ……」
 確かに動じていない感じがあの女の子にはあった気がしたが、大人っぽい魅力というものについては全く感じることはなかった。
 僕はもう一本、電子煙草の機械に煙草をセットして電源を付けた。木田さんはピンクのコップに注いでいた飲料水を飲み始め、喉を通る音がまるでノド越しをアピールしている飲料水メーカーのCMのようだなと思った。飲み終わった後の木田さんは爽やかな笑顔になり、本当に飲料系のCMに出ればいいのにと思った。
 それから僕は煙草を吸いながら、前世というものについて考えていた。人は必ず輪廻転生するという確証はないのだが、そもそも輪廻転生や前世という言葉があること自体、不思議なのだ。ただの空想の産物として輪廻転生や前世という言葉が生まれたのなら、ここまで人間が共通認識出来る言葉になっていただろうか。意識ではない無意識の領域で、前世や輪廻転生という言葉の意味を受け入れやすいように最初から人間はそうなっていて、それらのことについて真剣に考える機会を神様が与えてくれているのではと考えることも多々あり――ただそうしたスピリチュアルな話題はデリケートなところがあるので、人と真剣に話し合う機会がまずない。いまこうして木田さんと前世について話が出来ているのも、きっと何かしらの意味があるのではないかと思った。
 僕は缶コーヒーのフタを開けゆっくりと口の中に流した。木田さんは僕が缶コーヒーを飲んでいる姿を見て疑問を感じたのか「ねぇ、お昼食べないの?」と質問をしてきた。
「あっ、お昼は食べないよ。ずっと昔からお昼を食べる習慣がなかったからな」
「え? 給食のときとかどうしてたん?」
「中学生になるまでアメリカで育ったんやけど、アメリカの学校は給食という概念がないねん。食堂で食べる子もいれば、校庭に座って買ってきたパンを食べる子もいるし、俺はいつも飲料水だけ買って飲んでたよ。中学生になって日本に越してきて、そのときに給食を経験したけど飲み物以外は残してたよ。みんな不思議がってたけど、周りの友達が全部食べてくれてたから、有り難がられることが多かったよ」
「そうなんや……そういう方法もあるんやね」
 木田さんは、何かを考え込むような少しうつろな目になっているように感じた。
「木田さんはお昼は食べないの?」
「え? あたしも昼食は食べない主義」
 木田さんはダイエットでもしているのだろうかと思ったが、とくに太っている感じもなく、むしろすらっとしていてスタイルがいい。あまり体重に結びつくようなダイエットに関する話はしない方が良いだろうと考え、話題を変えようと思った。
 僕が「あのさ」と言ったときに、スマホから着信を伝えるバイブの振動が太ももを揺らした。スマホを確認すると知らない電話番号だったが、僕はその着信に出て「もしもし」と応えた。
「森若聡さんの携帯でよろしいでしょうか?」
「はい、そうですけど」
「こちら生駒警察署の森田と言います。昨日の事件のことでお話したいのですが、いまよろしいですか?」
 そういえば板倉さんから昨日の件で、警察から電話があると聞いていたことを思い出した。
「はい、大丈夫です」
「被疑者の弁護士から、被害者の森若聡さんの個人情報を開示して欲しいと連絡がありまして、示談交渉に向けた情報開示の要請です。被疑者本人やそのご家族には森若さんの個人情報が行くことはありませんので、あくまで弁護士さんに留まるようになっています。森若さんが許可するのであれば、森若さんの個人情報を開示しますがどうされますか?」
 予想通りの電話で、板倉さんも弁護士を通した方が都合が良いと言っていたので「はい、開示して頂いて大丈夫です」と伝えた。そして警察との電話は終わり、僕は木田さんに「警察からやった。弁護士さんに個人情報を開示してもええかって確認やったわ」と伝えた。
 木田さんは興味がなかったのか両腕を上げて大きく伸びをし、今にもあくびをしそうで「昨日な、あんな事件があったから、あたしも興奮が冷めなくてなかなか寝れなかったんよ」と眠たそうな声で寝不足を訴えていた。続けて木田さんは「あっ、思い出した。昨日あたしのお母さんと話をしたんやろ?」と聞いてきた。
「うん、綺麗なお母さんやったわ」
「じゃあ、あたしが板倉所長の姪なのも知ってるんやんな」
「板倉さんから聞いて知ったけど、木田さんが板倉さんの姪ということよりな、板倉さんと木田さんのお母さんが兄妹というのが一番びっくりして、DNAって不思議やなと思ったよ。綺麗なお母さんでええな」
「そう? なんか余計なこと言ってなかった? あたしのこと」
「いや、木田さんのことは不束な娘ですけどよろしくお願いしますと挨拶されただけやったよ」
 余計なことを聞いていたとしても、本人を目の前にして言うほど僕は馬鹿ではない。
「そういえば面白い話があってんけど、俺が木田さんのお母さんに病院での怪奇現象を教えてって聞いてみたらびっくりしたで。ほんまもんの怪奇現象の話をしてくれたから、めっちゃ怖かったよ」
「なにそれ、あたしも知らん話やん」
「え? あの話は絶対に聞いといた方がいいと思うで。凄い話やったのに」
「機会があれば聞いてみる。それより森若君って、どこの大学に行ってるの?」
「俺はO大学で外国語学部にいるよ、もう四回生やけどな。木田さんはどこか学校に行ってるの?」
「あたしイラストレーターを目指してて京都の芸術系の大学に通ってるよ。学ぶことが多くて刺激も沢山あってクリエイターになる為の知識と経験を沢山吸収してる。充実してるよ、ほんとに」
 木田さんの瞳は今まで以上に黒い光を放っているようで、どこか水を得た魚のようだなと思った。
「イラストレーターって、いま凄い人気のある職種やん」
「今はな、インターネットがあるから個人でしている人も多いよ。あたしも人気のあるイラストレーターになれたらいいんやけどなぁ」
 今やネットのSNS上では、イラストを見ない日はない。広告や告知といったSNS媒体でも、イラストが大半を占める世界だ。木田さんがその分野に興味を持っていることに、嗅覚が鋭くてさすがだなと思った。僕はどうしても聞きたいことがあり木田さんに「Vtuberって知ってる? Youtubeとかライブ配信サイトでよく見てるねんけど」と質問してみた。(ちなみにVtuberというのは、ネットのライブ配信等で自身のリアルの顔を曝け出すのではなく、イラストのキャラクターが自分の分身となって身体を動かしたり顔の表情を伝えたりする、新しいエンターテイメントの一つとして認知され始めているものだ)。
「もちろん知ってるよ。個人のイラストレーターさんがVtuberのイラストを描いてることも多いから。あたしもそういうイラストを描いてみたいし、もし自分が描いたイラストのVtuberが売れっ子になったら、イラストレーターとしての知名度も知れ渡って、仕事の依頼が増えるみたいやし。そこを狙ってイラストの練習もしてるんよ」
「木田さんは目の付け所が鋭いな。普段からそういうイラストを描いてるの?」
「うん、今もバイトが終わって家に帰ってからイラストを描いたりしてるよ。作品も五百作超えてるし」
「五百って凄いな。目標に向かって努力してる感じやし、すごく羨ましいよ」
「森若君って将来の目標とかないの?」
「全くないねん。絶望的に何も思い浮かばん」
「まだやりたいことに巡り会ってないだけやから、色々と活動して時が来るのを待つしかないんちゃう?」
 やりたいことに巡り会えていないというのは確かにそうだなと思った。
「いつかやりたいことに巡り会えるかなと思って、だらだら過ごしてたらもう四回生になってたよ。就職活動もしてないし」
「あたしはまだ二回生やから、あと二年もあるけど就職活動はしない予定。あたしは個人イラストレーターになりたいって思ってるから、個人事業主になるつもり」
 木田さんは本格的に将来の目標を定めているようで、具体的に個人事業主になると言い切っているところから改めてその意志の強さを感じた。
「個人事業主かぁ。木田さんはほんとうにアーティストになりたいんやな」
「アーティストというより、クリエイターという肩書きになると思うわ。小さい時から絵を描くことが好きやったし、好きを仕事にするって最高やと思わん?」
「好きを仕事にする……そういう発想があるんやな。それめっちゃええな」
「森若君も好きなことを仕事に出来ないかって考えてみたら? 何かヒントが見つかるかもしれへんよ」
 木田さんは思っていたよりも大人でアドバイスも的確だなと思えた。それに比べて自身の不甲斐なさが浮き彫りになったような気がして、恥ずかしい気持ちになったのだが、それを誤魔化すために僕は微笑みながら「確かにそうやな、俺の人生相談に乗ってくれてありがとうな」と言った。木田さんは嬉しそうに「普通に話をしていただけやで。でも、素直に受け取っとくわ」と少々照れたような声だった。
 その後も木田さんと昼休みが終わるまで、イラストに関する話や個人で活動するクリエイターの話をした。そうした将来への夢や展望を語るとき、自然と木田さんの目力は強くなりとても印象的だった。まるで夢は必ず叶うものだと信じ切っているようなその瞳は、僕の目にはとても眩しく映っていた。その瞳に見つめられたら、どれだけ幸せだろうと思いながら木田さんとの話に夢中になっていた。

 お昼休憩が終わり職場に戻った。続いて北口さんと井上がお昼休憩に入ったので、僕と木田さんと去年の夏一緒に働いたことのある牧田と板倉さんの四人で急流すべりを担当していた。
 牧田はゴーカートのアトラクションで仕事をしていることが多いのだが、こうしたお昼休憩時に交代要員でやってくることがよくある。昨年、牧田からは人の噂話や悪口を散々聞かされ嫌になったので関わりたくないのだが、「森若さん、昨日は大変でしたね。殴る蹴るの暴行を受けたんでしょ?」と人をからかうような口調で牧田は言った。僕は蹴られた事実がないのに余計な情報が加味されてしまっている点は、牧田の妄想で誇張された部分だなと思い、「いや、殴られただけで蹴られたりはしてないよ」と指摘した。
「でも、脳震盪をおこしていたんでしょ? やっぱり相手はプロボクサーとか、格闘家じゃないんですかね?」
 牧田のゴシップ好きはどこから来ているのだろうか。将来は文春に就職して文春砲を炸裂させるのが夢なのかもしれないが、その顔を見ているだけでその口の中に泥でも入れて黙らせたい気持ちになった。関わるだけ無意味だと思い、僕は「いや、そういうのは知らん」と冷たくあしらって、牧田との交流に終止符を打とうとした。だが、楽天的な性格なのか或いは霊長類最強の空気が読めない奇人変人なのか、牧田は「俺やったら殴り返してましたよ。いつも拳を鍛えてるんで、ハードパンチャーなんすよ」と言い、右手の拳をちらつかせた(全く筋肉のない平坦な上腕をしているくせして)。牧田は知能の部分で可哀想な存在だと思うのだが同情してはいけない。その世間知らず過ぎる牧田の頭に知識をさずけようと思い(レッドブルの翼をさずける的に)、僕は「殴り返したら、慰謝料は貰えなくなるしバイトも即刻クビになるで。警察からもお咎めをくらうことになるし、なにひとつええことないで」と現実の厳しさを伝えた。が、しかし牧田は「殴られたら慰謝料ってもらえるんっすか? なんぼぐらいもらえるんっすか? めっちゃ得ですやん。じゃあ、森若さんも慰謝料もらえるんっすか?」と哀れ過ぎるアホな子がするような質問をしてきた。
「なんぼもらえるかは、まだわからんよ。弁護士と話し合ってから金額は決まるんちゃうかな」
「いいっすね。慰謝料もらったら半分ぐらいくださいよ」
 本当に牧田は頭の具合が悪すぎるし馴れ馴れしさに腹が立つし、言っていることが幼稚すぎて話もしたくない。僕は怒りの沸点に到着しそうだったが、そこで怒ってしまっては牧田と同レベルになってしまうので感情を抑えながら「慰謝料は誰にもやらんよ」と声のトーンを下げて真顔で言った。牧田は少し空気が読めたのか「そうっすよね」とだけ言い、ようやく僕の元から離れていった。
 猛暑の中で牧田と話をするだけで、かなりの体力を消耗する。本当に関わりたくない奴だ。
 それからしばらくして北口さんと井上がお昼休憩から戻り、忌まわしき牧田は元の職場に戻っていった。明日も牧田がお昼休憩の交代要員でやって来るのかと思うと……。
 僕は気分を変えようと木田さんを見た。木田さんをチラッと見るだけで元気にもなるし、明日もお昼休憩時に一緒になれる可能性もある訳で、そのことを願って仕事に励もうと思った。

 夕方六時を過ぎると急流すべりもライトアップされるのだが、まだ空は明るかった。夜の急流すべりは大阪平野の夜景を一望出来るロマンチックなアトラクションに変貌する。客層も昼間は比較的に家族連れや友達連れが多いのだが、夜からはカップル達の利用客が一気に増えて混雑を極める。その夜の部の幕開けを告げる為に、必ず北口さんは急流すべりに設置しているスピーカーを利用して口上を述べることが、ある種の風物詩となっていた。北口さんはマイクを手に取り、喉の様子を確認するかのようにウンウンと声の調整をした。

 ※ 北口さんの口上
 本日は生駒山上納涼大会にお越し頂き誠にありがとうございます
 こちらは大阪百万ドルの夜景を展望できる急流すべりでございます
 山のマリンスポーツと言われるこちらの急流すべり、標高642メートルに現存する世界唯一の高さを誇り、あのギネスブックに登録したい気持ちでございます
 あなたも急流
 わたしも急流
 どうせこの世は急流すべり
 この世知辛い世の中を、大阪百万ドルの夜景と共に気分よく流れてみませんか?
 あなたも急流、わたしも急流を合い言葉に、是非ともご家族お友達をお誘いのうえご来場くださいませ
 いらっしゃいませ
 いらっしゃいませ

 急流すべりの順番待ちをしているお客さんからもどっと笑いが起き、木田さんもクスクスと可愛く笑っていた。僕はこの口上が世界で一番心に染みる口上だと思っており、急流すべりの乗り物を世知辛い世の中の流れに例えるという発想が天才だなと思っていた。この口上がしばらく聞けるのかと思うと、それだけで気分が高揚するのだ。

 午後七時を過ぎた頃には日も沈みライトアップの色鮮やかな光の中で、カップル達の色恋ムードと歓声に包まれて、僕は夜の非日常の世界に住まう案内人のような気持ちになっていた(もしタキシードでも着ていたら、完全にそう成りきっていただろう)。
 お客さんは長蛇の列を成して急流すべりの枠外にまで伸びていたが、隣のゲームセンターの社員さんでもある福島さんが、わざわざその列の整理までしてくれていた。そのおかげで大きな混乱もなく秩序は保たれていた。
 夏は稼ぎ時だと板倉さんはよく言うのだが、一年の総売り上げのうち七割ぐらいは、七月と八月の売り上げで占めているらしい。お盆休み期間にもなると、一日の急流すべりの利用者数は五千人を超えることが多く、来月のお盆休み期間は体力的な疲れのピークになるだろうと予測している。
 ただ純粋な気持ちを述べると、いまこの場所に居るという幸福感が仕事へのやり甲斐を与えてくれているので、そうした体力的な疲れも心地の良い疲れへと認識は変わるのだ。このアルバイトを夏休み期間だけ続けてきたのも、この非日常のような世界をずっと味わいたいという気持ちが強かったからだろう。
 僕はこの非日常の世界で高揚感を味わいながら仕事を楽しんでいたが、「森若さん」と僕の名前を呼ぶ声が聞こえ一気に現実へと戻された。
「森若さん、所長が事務所までくるようにって、私が交代要員で来たので行ってください」
 その声の主は僕の知らない従業員だったが、僕は「はい、分かりました」と答え、木田さんに近づき「あの人は誰?」と尋ねてみると「今年から入った社員の雨宮さんやったと思うけど、あたしも詳しくは知らんけど」と教えてくれた。僕は木田さんに「ありがとう」と伝え事務所へと急いだ。

 事務所に到着すると、板倉さんとネイビーブルーのパンツスーツを着た女性が立っていた。板倉さんが右の手でその女性を指し示し「昨日の今日やけどな、加害者側の担当弁護士さんや」と紹介してくれた。僕は「どうも」と会釈をし、その弁護士さんは鞄を置き胸ポケットから名刺を取りだした。その弁護士は僕の前で名刺を見せると「わたくし、古谷法律事務所、弁護士の加藤早苗と申します。よろしくお願い致します」と自己紹介をしてきた。その弁護士はとてもスタイリッシュで頼り甲斐のありそうな雰囲気があり、ひょっとしたら敏腕弁護士(びんわんべんごし)なのかもしれないと思った。僕はその名刺をビジネスマナーに則って丁寧に両手で受け取り「森若聡です。えっと……よろしくお願いします」と言った(頂戴致しますと言う方が良いのかなと考えたのだが、イメージ的に僕が下手になるような気がしたのでやめた)。そして板倉さんが「とりあえず、こちらの応接室へ」と言い、一階にある応接室に案内してもらうことになった。
 応接室に向かう途中、前を歩いている弁護士の足を見ていると、両足のアキレス腱付近が擦り傷で赤く血も出ているようだった。ベージュのローヒールパンプスのかかと付近にも血が付着しており、きっと新しい靴を新調して靴擦れを起こしたのだろうと思った。女敏腕弁護士でも靴には負けるのだなと思い、ふと『女敏腕弁護士の事件簿――靴擦れが招いた遊園地傷害事件の全貌とパンプスの血』というような二時間ドラマのタイトルを勝手に妄想して作り、僕は笑いそうになった。
 応接室に到着すると中は六畳ぐらいの部屋で、真ん中に長方形のガラス製の机が置いてあり、手前側と奥手側にそれぞれに二人ぐらいが座れる黒いソファが置いてあった。僕と板倉さんは奥手側のソファに座り、その対面に弁護士が座った。
「森若君な、弁護士さんと話はしてんけど、森若君が示談に応じるならこっちの威力業務妨害の示談にも応じるという話になったんや。一応、本社にも確認してOKをもらってるから、弁護士さんとここで話をしてくれるか?」
「あっ、そうなんですね。分かりました」
「じゃあ、わしは席を外すから……あっそうやお茶入れるわ」と板倉さんは席を立ち応接室を出て行った。
 まさか昨日の今日で弁護士さんと直接話し合いになるとは思ってもいなかったので、加害者は手回しが早いなと思った。
「お忙しい中ご足労をおかけします。今日は被疑者の栗山蒼太の代理で来させて頂きました弁護士の加藤です。早速なんですが今日、被疑者の栗山と直接話をしてきました。泥酔していたとはいえ、勤務中の森若さんに暴力を振るったことを大変申し訳ないと反省してまして、謝罪をしたいと申しておりました。被疑者の栗山は警察署の留置場に居るので、直接謝罪することが出来ないことを大変悔やんでおります。森若さんの怪我の内容も栗山は把握しておりまして、傷を付けてしまったことと歯を一本なきものにしてしまったことを、謝罪して償いたいという意思を伝え受けました。ここまででご不明な点があれば、お伺いさせて頂きたいのですが」
 丁寧な口調で柔らかな印象のある弁護士だったが、加害者が本当に謝罪しているかどうかも怪しいものだ。僕はそもそも加害者である栗山氏についてはあまり興味がなく、やはりあの少女のことを知りたいと思っていた。しかし、事件と直接関係のない少女のことについて知る方法も思いつかなかった。なにか案が出るまでは様子見でもしようと思った。
 僕は現時点で疑問に思っていたことを質問してみることにした。
「あの、昨日の今日で弁護士さんまで来て示談の話になっているんですが、どうしてこんなに早くことを済ませようとしているんですか?」
「被疑者の栗山ですが、自分の犯した過ちについて償いたいという意志が強いんです。今日も接見したときには、涙を流して償いたいとおっしゃってました。迅速に対応した方が、森若さんの苦しみの心情を少しでも和らげることが出来るのではないかと考えてのことです」
 あの暴力男に、そんな綺麗な心があるとは到底思えなかった。そういうことを聞きたかったのではなかったのだ。茶番のような建前なんてクソ食らえと思ってしまう。僕はこの弁護士に意地悪をしたくなり「俺にそんな建前の話をして、信じると思いましたか?」と強い口調で言った。
「いえいえ、そういう建前ではなくてですね。被疑者の栗山は本当に罪を償いたいと言ってます」
「あの人が反省していようがいまいが、そんなことに興味はないねん。こんなに早く示談交渉をしてきて、あの人に何のメリットがあるのかって事を聞きたいんねん。建前の話はどうでもええよ」
 かなり強い口調で言うと僅かではあるが弁護士は焦りの表情になった。するとそこに板倉さんがお茶を持って入室してきた。僕の目の前に高級感漂う陶器の湯飲みが置かれ、その湯飲みには藤の花が描かれており、受け皿も細かな年輪の入っている渋い木製だった。上品な声で「ありがとうございます」と礼儀を見せた弁護士を見習い、僕も板倉さんに「ありがとうございます」と言った。そして板倉さんが「話し合いが終わったら、また事務所に来てください」と言い、応接室から出て行った。
 僕の湯飲みの中には茶柱が立っており、飲まずに眺めていたら弁護士が「さきほどの話ですが、本当に被疑者の栗山は罪を償いたいという意志を持っています。ただ、その事実を前提としてお話をさせて頂くと、被疑者の栗山にもメリットはございます。今、栗山は留置所に収監されてまして、刑事起訴にはまだなっていない状況です。今後は検察に送検になりまして、勾留請求されると留置場に最低でも十日間留まることになります。そこで迅速に示談を成立させて被害者の森若さんが被害届の取り消しをして頂くと、釈放される可能性も出てきます。それに拘留が終わり刑事起訴になると裁判が始まります。被疑者の栗山は罪を認めてますし、傷害罪で確定すれば前科が付くことにもなります。示談を迅速に進めて被害届の取り消しをして頂くことで、不起訴になる可能性も充分にあります」と丁寧に説明してくれた。
「やっぱり、そういうメリットがあるんですね。簡単に言えば、起訴を逃れる為の示談ということでしょ?」
「取り調べ中にも、きちんと罪を認めて反省した態度で被害者に償いたいという強い意志がないと、不起訴にはならないんです。いくら弁護士を介して被害者と示談をしていたとしても、心証が悪かったり示談が長引いて起訴直前まで時間がかかったりしますと、検察は起訴をするといった判断を下すこともあります。それに迅速に示談を成立させることは被疑者にも被害者にも双方にメリットがございます。示談は裁判なしで慰謝料や治療費を双方の話し合いの元で決めることが出来ますが、示談が成立しなかった場合は被害者の森若さんが民事訴訟を起こさないといけなくなります。森若さんが民事訴訟を起こすことで弁護士に仕事を依頼することにもなり、費用も発生します。早期に示談をすることは、双方にとって一番良い解決方法なんです」
 そういう仕組みがあるからこその示談だということが分かり、これは相当な駆け引きになるだろうなと予感した。
 僕は肯いてから「大体の仕組みは分かりました。それで、具体的に示談の内容は?」と尋ねた。弁護士は鞄の中から何やら書類のようなものを取り出し、ガラス机の上に謝罪文と書かれた二通の便箋を置き「示談内容の前にこちらが被疑者本人の謝罪文で、こちらが被疑者の奥様からの謝罪文です」とそれぞれを指しながら説明した。
 僕から見て左側の便箋が加害者本人の謝罪文だったが興味はなく、右側の奥さんの謝罪文を読んだ。書かれていることは誰でも思いつきそうな文章だったが、どうして奥さんが謝罪文を書いたのかいまいち事情が分からず、僕は弁護士に「どうして奥さんの謝罪文があるんですか?」と尋ねた。
「不自然かもしれませんが、奥様は森若さんに直接会って被疑者本人の分も謝罪したいとおっしゃいまして。通常、被疑者の関係者と被害者が直接会っての示談交渉は、もめる要因になることもありますし、被害者の心情を考えると弁護士を通しての示談交渉の方がスムーズに行えます。奥様には直接会っての謝罪ではなく、謝罪文を書いての謝罪意思を示して頂けませんかと私がお願いした経緯があります」
 僕は謝罪文よりも、あの少女のことを知る方がよほど価値があると考えていた。奥さんが直接会って謝罪したいという気持ちがあるのならばそれを利用して、奥さんと直接会う方法を模索し、あの少女のことを聞き出せるチャンスだと思った。
 僕は目を閉じ、熟考の末に目を開け弁護士に向けて「こうした文章で謝罪されても何も伝わりませんよ。あの加害者が直接会って謝罪が出来ないのは分かりますけど、その奥さんが直接会って謝罪したいのなら、そっちの方がいいですね。文章では真意も伝わりませんし」と強い口調で言った。
「では、被疑者の奥様と直接会って頂いても宜しいですか?」
「別にかまわないですよ。ただ仕事中は勘弁して頂いて、それ以外の時間帯でお願いしたいのですけど」
「かしこまりました。少し奥様に電話をさせて頂いて宜しいですか? 会う日程を決めさせて頂きたいのですけど」
「どうぞ、そうしてください」
 さて、会うにしても夜間帯になるだろうし、こうした場合はどこで会うのが適切なのだろうか。まさか自分の家に呼ぶわけにもいかないし、相手の家に行くのも気が引けるしと考えていると、弁護士はスマホで奥さんと打ち合わせを始めたようだった。それからしばらくして弁護士が「あの、奥様に確認したところ森若さんのご都合に合わせるそうです。ご希望の場所と時間はありますか?」と聞いてきた。全部こちらに丸投げをされても正直困ったのだが、僕は「あまり自分の家とかには呼びたくないので……その奥さんはどの辺に住んでいるんですか?」と尋ねた。
「奈良市内です」
「それでしたら奈良市内のどこかで交渉の出来る場所があれば、そこに向かいますよ。今日か明日の夜でしたら土日なので午後九時まで仕事ですが、仕事が終わってから奈良市内に向かったら一時間ぐらいでいけると思いますので、そうやな……午後十時半ぐらいなら大丈夫です。場所はよく分からないので、そちらで決めてくれますか?」
 すると弁護士が「奈良市内でしたら、わたくしの事務所で示談交渉しませんか? 奈良市内の新大宮駅前にございますので」
 新大宮駅には何度か行ったことがあり、行き方も心得ている。それならと思い僕は「今晩の午後十時半ぐらいに、えっと名前なんでしたっけ……」と法律事務所の名前が出てこず、慌てて名刺を見て「古谷法律事務所で交渉するということでいいですか?」と確認した。
「奥様にも確認してみますね」と弁護士は丁寧な返事をし、奥さんに確認を取ったようで「はい、奥様もその時間帯にお伺いするとのことです」と言った。
 あの少女のお母さんを引きずり出すことには成功したが、あとはあの少女のことをどのようにして聞き出せばよいかと考えていた。ことの発端はあの双子が搭乗拒否をされたことから始まっているので、それに関する話から始めてあの少女のことを聞き出すのが順序としては自然だなと思った。
 電話が終わったのかスマホをポケットに入れた弁護士は、お茶を一口飲んで湯飲みについていた赤い口紅を拭き取っていた。それを見て僕は足の血のことを思い出し「足大丈夫ですか? かなり酷い擦り傷のようでしたけど」と言った。弁護士は意表を突かれた表情になり「本当にお恥ずかしい話ですけど、今朝下ろした靴だったので靴擦れを起こしたみたいで、ご心配して頂きありがとうございます」と言った。
 それから僕と弁護士は応接室を出て板倉さんのいる事務所へ向かった。事務所に到着すると板倉さんが「もう終わりましたか。それで、どういう結果になりました?」と弁護士に尋ねた。弁護士は僕と話した内容を板倉さんに伝え、それを聞いた板倉さんは僕に「ゆっくりと話し合って、示談内容も納得がいったら示談したらええからな。妥協したら後悔することにもなるからな、ええな?」と言った。僕は「はい、ゆっくり交渉してみます」と言った。そして僕は弁護士に「じゃあ夜十時半頃に法律事務所の方に伺います」と伝えると、「先程お渡しした名刺にも書いてますが、森田ビルの三階に事務所があります。ビルの隣に駐車場がございますので、どこに停めて頂いても大丈夫です。それではお待ちしてます」と弁護士は丁寧に言った後にお辞儀をした。僕も軽くお辞儀をして職場へと戻った。

 職場に戻り、交代要員で来てくれていた雨宮さんに「ありがとうございました。もう大丈夫です」と伝えたが、雨宮さんは無言のまま機嫌が悪そうな顔をして去って行き、愛想の良くない人だなと思った。
 相変わらずお客さんは行列で混み合っており、閉園近くまでこの状況が続くだろうなと思っていると、木田さんが僕に手招きをした。
 僕はほんの僅かな作業の合間に木田さんのところへ行くと「さっきの雨宮さんな、あたしに彼氏いるのとか好きな男性のタイプはとか聞いてくるんよ。こんなところでそれも社内ナンパやで? めっちゃむかついたから、板倉所長の愛人なので板倉さんがタイプですって言ってやったら、気持ちわるって言われてん。ほんとむかつくねんけど」と怒りを露わにしていたが、すぐに次の船が到着したので僕は木田さんにちょっと待ってと手で合図し作業場に戻った。
 僕は作業をしながら雨宮さんのことを思い返してみたが、もう白髪だらけの頭で身なりも綺麗とは言えず、若い女性に相手をしてもらいたいという厚かましさが、逆に凄い精神力の持ち主だなと思った。次の船が到着するまでかなり時間があることを確認し、僕は再び木田さんのところに行き「木田さんが板倉さんの姪ということを知らん感じやな」と言うと、木田さんは顔をしかめながら「森若君しか知らんと思うで。あのキショいおっさんをなんとかして懲らしめたいねんけど、なんかいいアイデアない?」と聞いてきた。僕は「すぐには思いつかないけど考えてみるわ」と言い、作業場に戻った。
 僕は作業をしながら考えてみたが、木田さんが板倉さんに社内ナンパされた事実を説明し、板倉さんから雨宮さんに厳重注意をしてもらうのが本筋だと思うのだが、わざわざ木田さんが僕にアイデアを求めてる時点で違う気がした。あの図太い感じの雨宮さんを精神的に追い詰めたいということなら、それは壮大なアイデアが必要になるだろうし、規模も大きくなりそうな予感もするので難しそうだなと思った。木田さんがそのうち雨宮さんを懲らしめたいという感情が自然に無くなるのを待つのが平和的な解決策だと思った。
 午後八時二十分を過ぎた頃に、ようやくお客さんの並ぶ姿がなくなり時間的な余裕も出来たので、僕は木田さんと話の続きをすることにした。
「さっきの話やけど、板倉さんに報告するという手は駄目なんか?」
「それな最終兵器としては使えるねんけど、キレたら何をするか分からん人に変貌するってお母さんから聞いてるから、そこまでおおごとにするつもりはないんよ」
 板倉さんがキレたら怖いだろうなという感覚は僕にも常にあった。
「雨宮さんを懲らしめたいのなら、きっと壮大なアイデアが必要になってくるだろうし、ひとつ木田さんに確認したいねんけどいい?」
「え? なに?」
「木田さんが雨宮さんを懲らしめたい気持ちが強いことは、もちろん僕にも理解は出来るよ、面と向かって気持ち悪いと言われたらそりゃ腹も立つし、要は精神的に雨宮さんを追い詰めたいということやろ?」
「うん」
「精神的に追い詰めるエキスパートがおるねん。千歳さんて知ってるやろ?」
「ゲーセンにいる人でしょ?」
「そう、千歳は同じ大学の心理学部に所属してるから、とにかく心理学という分野に関しては詳しすぎる人やから、雨宮さんを追い詰めるのなら強い助っ人になると思うねん。千歳にこの件に関する相談をしてもいいか?」
 それを聞いた木田さんは意外だなという表情を見せていたが、次第に笑みへと変わった。
「千歳さんは心理学部の人やってんな。強い助っ人になってくれるんやったら相談してもいいよ。どうしてもあのおっさんを懲らしめないとあたしの気が済まないから」
 しかし雨宮さんも困ったもので置き土産をして去って行くのだから、相当なトラブルメーカーとみて間違いないだろう。それに木田さんは是が非でも仕返しをしたいという根に持つタイプのようなので、僕は着地点を模索して平和的に解決出来るかを考えなくてはならない。こういうことは千歳に相談をして、なんなら丸投げをして解決してもらうのが得策のような気がした。
 閉園十分前になり園内には蛍の光が流れ始めた。僕は閉園作業をしながら、今夜の示談交渉に向けて脳内でシミュレーションをしていた。しかし、僕もどうしてここまでしてあの少女のことに粘着しているのだろうかと不思議に思ったが、単なる好奇心のみでそうしている感じではなく、使命感のような必ず知る必要があるという意識が前面に出ていて、僕を突き動かしている感覚だった。
 閉園時間になり作業を終了した僕は急いで更衣室で着替えを済ませ、事務所に向かった。 事務所で千歳を待っているとやってきたので僕は「昨日の傷害事件のことで、加害者側の弁護士と今から奈良市内で示談交渉があるから、乗せて帰れないんやけどごめんな」と千歳に謝った。千歳は「もう弁護士さんが動いてるの?」と尋ねてきた。
「うん、加害者側も手回しが早いし担当弁護士もドラマに出てきそうな女敏腕弁護士みたいな感じで、今から奈良市内まで行って交渉やから帰るのは零時を過ぎるわ。だから今日はケーブルカーで山降りて」
 僕はそう伝えて急いでタイムカードを押そうとしたが「ねぇ、その示談交渉に私を同席させてもらえない?」と千歳が言ってきた。
「同席って……同席するのは別にいいけど、めっちゃ帰りが遅くなるで?」
「別に帰りは遅くなってもいいからさ、同席させて欲しいの。興味があるの、弁護士の交渉術に」
 僕はそこで千歳の真意を理解出来たような気がした。心理学的見地から交渉術について勉強をしたいというのが千歳にはあるのだろう。僕は千歳にOKを出しタイムカードを押して、千歳と共に駐車場へと向かった。今日も千歳からはレモンの香りが漂っていた。
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