第10話

文字数 18,640文字

   十

 十一月に入ると寒さも厳しくなり、紅葉シーズン真っ只中となった。文化の日の祝日、僕は由美子の家に向けて車を走らせていた。由美子とはこれまでに二回デートをしており、そのいずれもが喫茶店でお茶をする軽いものだった。時間にして二時間程度だったにも関わらず、実際に会って話をする方が親近感が湧き、かなり込み入った話までする間柄になっていた。
 今日はこれまでとは違い、京都に出向いてイラストの展覧会に作品を観に行く予定なので、長い時間一緒に過ごすことになる。由美子の話によれば、著名なイラストレーターが十名ほど集う展覧会らしく、由美子が推している作家さんも参加しているのだそうだ。ただ、それだけの理由で京都まで出向いて展覧会を観覧するのではなかった。由美子は更なる飛躍を遂げており、以前応募していたイラストのコンテストで銀賞を受賞し、その作品が海外の展覧会で展示されることも決定していた。まさに由美子は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そうしたこともあり、実際に開催されている展覧会に足を運ぶことで、勉強になるし刺激にもなるという理由で、京都に行くことになったのだ。由美子が夢に向かって羽ばたいていく姿を身近で見られることは、僕にとっても嬉しいことだった。
 由美子の家が目に入ると、玄関前に人の姿があった。ひょっとして由美子のお母さんではないだろうかと少し怖くなったが、よく見ると由美子だった。紺色のワンピースに白いニットのカーディガンを着ており、今までのボーイッシュなコーデではなく、大人の女性という感じが際立っていた。僕は家の前で車を停めて降りると、由美子は笑顔で出迎えてくれた。
「いつもとイメージが違うな。めっちゃ可愛いやん」と、由美子に声をかけた。
「女子力があるところを、聡君に見せとかなあかんからな」
 由美子の足下を見ると白い厚底サンダルを履いていたが、低身長の事を気にしているのか、あるいは僕の高身長に合わせてくれてのことだろう。僕が助手席側のドアを開けると由美子は「鞄を後ろの席に置いていい?」と聞いてきた。僕は後ろのドアを開け「京都まで長いし、後ろの席に置いといた方がええな」と言った。由美子はアイボリー色の少し大きなスクウェアバッグと紺色のハンドバッグを持っていた。
「かばん二つ持ってきたんや」
「こっちは、聡君へのプレゼントやねん」
 すると由美子はスクウェアバッグから、額縁に入った絵を取り出した。その絵は生駒山上遊園地の飛行塔と急流すべりが背景にあり、男性と女性が二人手を繋いでいる絵だったが、全てが氷に覆われた世界だった。
「凄い絵やな。氷河期の生駒山上遊園地みたいやん」
「そやねん。あたしと聡君の出会った大切な場所やし、二人が愛し合ったまま永遠に氷結した世界を描いてみてん」
 僕はその絵を受け取り「本物の氷みたいやし、光が氷を通って屈折したり広がったりしてるところなんてリアルで綺麗やな。この女の子は由美子そっくりやし、この男の子が俺なんやとしたら、ちょっとイケメン過ぎるな。色彩も鮮やかで見てて楽しいわ」と、由美子に感想を伝えた。
「この絵を描いてる時な、あまりにも楽しかったから、それが聡君に伝わってくれてよかったわ。これプレゼントやから大切に家に飾っといて」
「ほんまにありがとう。毎朝起きたらすぐに目に入るように、ベッドの横の壁に飾るわ」
「聡君、ほんまに嬉しそうやな」
「そりゃテンションも上がるでしょ。俺の宝物にするよ」
 僕はその絵を由美子のバックに入れ、後部座席に置いた。それから由美子は、もうひとつ持っていたバッグを後部座席に置き「これって何の本?」と言って、以前千歳から貰ったヴォイニッチ手稿の本を手に取った。
「それな、千歳から貰ったんやけど、なんか奇書って言われてる本らしいねん」
「この絵、凄く素朴やな」
「それ全ページ見て感想を聞かせてや。俺も最初に見た時の感想を言うし」
「それええな。あたしと聡君の感性の違いが分かるかもしれへんな」
 それから由美子を助手席に乗せ、僕も車に乗った。カーナビに京都烏丸付近にある駐車場を設定すると、一度大阪に出て国道一号線と第二京阪高速道路を経由して京都市内に入るコースが表示された。車を発進させると由美子が「これ凄いね。実在しない文字は未解読で、イメージの絵についても解明出来てないって書いてるやん」と言った。
「そんなこと書いてた?」
「うん、はじめにというところに書いてるよ」
「まぁ、それが奇書と言われる所以なんやろうな」と僕は返したが、はじめにや目次を読まない事がほとんどなので、そのようなことを書いているとは知らなかった。
 しばらくすると生駒市と大阪交野市を結ぶ国道168号線に入った。山間の道を進み続けていると道路幅が狭くなり、対向車とすれ違う際はかなり減速する必要があった。紅葉シーズンだというのに紅に染められた葉などひとつもなく、ただただ寂しい道だった。ナビに目的地までの所有時間が一時間と表示されていたが、それほど短い時間で京都の中心部に到着するとはとても思えないほどの田舎だった。
 慎重に運転を続け山間部を抜けると、ようやく道幅も広くなった。交通量も増え始め、国道一号線京都方面の道路に差し掛かると渋滞に巻き込まれた。ふと由美子を見ると膝に本を置き、文字の部分を手で追っていた。
「由美子、その文字読めるのか?」
「えっ?」と驚いたように、由美子は返事をした。
「全然読めないけど、凄く丁寧に書いていると思うし字が綺麗なんよ。きっと性格も真面目な人が書いたんやと思う」
「文字を見ただけで、性格まで分かるもんなん?」
「字は書いた人を映し出す鏡なんよ。文字を追ってるとな、その人の性格が手に取るように分かる。この本の作者は、すごく集中力があって落ち着いてる。精神的な余裕も感じるねん。でもな、それって孤独の境地にいるから出来ることなんよ。文字を指で追ってると、その寂しさも伝わってくる」
 そういうところまで感じ取れるということは、由美子は相当な感性の持ち主なのだろうと思った。
「文字を追うだけでそこまで感じ取れるって、それはもはや才能やな」
「あたしな、恥ずかしい話なんやけど、夏のバイトの時に聡君のタイムカードの文字を何度か指でなぞってたんよ。どう感じてたと思う?」
 僕の知らないところで由美子がそのようなことをしていたのかと思うと、嬉しいものがあった。
「俺のことなんやったら、優柔不断と感じ取ったんちゃうかな」
「残念やな。思いやりのある優しい人って感じ取ったんよ。筆跡は違うねんけど、あたしのお父さんと同じ感じやったわ」
「それはありがたいな。思いやりのある優しい人間でありたいとは思うねんけど、実際のところはなかなか自分では分からんから、人からの評価を聞くしかないねん」
「あたしにとって聡君は思いやりがあって優しい人やよ」
「由美子にそう評価してもらえるなら間違いないな」
 由美子の言葉はいつも直球ストレートなので、僕の心に突き刺さった時の嬉しさは半端なかった。そうした素直さを持ち合わせているからこそ、由美子は魅力で満ち溢れているのだと思った。
 第二京阪高速道路に入ると視界が一気に広まり、雲一つ無い綺麗な青空が僕の心を躍らせた。車の流れはスムーズで、僕達二人の世界を邪魔するものは何も無いとさえ感じるほどに爽快だった。快調に車を走らせているとパンと本を閉じる音が聞こえ、「全部見たよ。やっぱりこの本は凄いな」と由美子は楽しそうに言った。
「どういうところが凄いと感じた?」
「あたしが感じたままに言うと、作者は何かの病気を患っていたと思う。植物の絵はどれも生き生きと描かれているし、生命の尊さを表現していると感じたんよ。病気の自分から見た理想の植物を描いてたんやと思う。この植物から抽出されるエキスは、どういう病気に効果があるとか、そういう説明を文字でしているんじゃないかなって感じるし、植物と人間が共存している絵も、何かの病気に対する治療法とかそういうイメージを描いてると思う。天文図のところは死後の世界について表現してると感じたから、きっと作者は自分の死期も近いと悟っていたと感じる。文字の言語も自分が理想とする言語。この本は全て理想で埋め尽くされているって、あたしにはそう感じるねんけどな」
 由美子の考察は、難なく僕にも受け入れられるぐらいに納得のいくものだった。
「なるほどな……理想かぁ。その本な、いつどこで誰が書いたかは分かってないねんけど、使われている紙は西暦千四百年代の紙が使用されていることだけは分かってるらしいねん。今から六百年ぐらい前の時代やから医療も発達してなかったやろうし、そういう植物とかで薬を作っていたのかもしれんな。理想の植物と効能、そして治療方法を表現することで、作者は自分の病気に対する慰めみたいなことをしてたってことになるんかな」
「うん、そう感じるんよ。でも、精神的には落ち着いてるし悲観もしてないと感じた。好き勝手に言ってるけど、作者の意図や思いとは全然違うかもしれへんけどな」
「その本の真実は分からないままの方がロマンがあってええと思うけどな」
「聡君の感想を聞かせてよ」
「俺はな、文字を見た時に違和感しかなかってんけど、読み進めているうちに地球上の言語ではないと感じるようになって、地球以外の知的生命体が存在する別惑星の事を書いた本やと思ってん」
「それもロマンがあってええな。ひょっとしたら、宇宙人が地球に忘れた本なんかもしれへんな。シンデレラみたいな宇宙人が靴じゃなくて本を忘れてしまって、その本の持ち主を探す地球人の物語が未来には完成してるかも」
 シンデレラみたいな宇宙人って、美人なのだろうか。それを探す地球人がイケメンなら、それはもはや童話のシンデレラを意識し過ぎているような気もした。
「アメリカならその物語を映画化してくれそうやな。アメリカはSF映画大国やし、宇宙のシンデレラみたいなタイトルで作ってくれるかもな」
「宇宙のシンデレラって……そのタイトルやったら違う意味で全米が泣くと思うわ。もっとましなタイトルがなかったのかって」
 そう言われてしまうと、僕の心に恥ずかしさが込み上げてきた。
「俺にコピーライターは無理やな。なんかもう恥ずかしくなってきたわ」
 由美子はそこで笑ってくれたが、僕は言葉のセンスを磨く必要があると感じた。
 第二京阪高速道路を降りると、そこは京都の中心街で混雑していた。特に京都駅付近ではバスが多くなり、前方の状況が遮られ大阪ではあまり遭遇することのない混雑の仕方だなと感じた。僕が京都に来るのは二回目だが、中学生ぐらいの時にお婆ちゃんに連れられて、茶道体験をさせられた時以来だった。そういう体験をしているせいか京都は古風なイメージしかなかったのだが、見渡す風景は都会そのものだなと思った。
 それからしばらくして目的地の駐車場に到着した。由美子が「運転ご苦労さん」と言って、僕の左肩を揉んでくれた。僕は「運転では疲れてないねんけど、やっぱ宇宙のシンデレラはなかったなと思って、その後悔の方が凄かったよ」と笑って言った。
「確かにあれはないよな」と由美子も笑って返してくれた。
 車を降りると太陽の眩しさを感じ、程よい暖かさで気持ちが良かった。展覧会が開催されているデパートは信号を渡った通りにあったが、人通りが多く混雑していた。
「聡君、手を繋いでもいい?」
「うん、ええよ」
 僕の左手を由美子が手を繋いできた。柔らかくて温かいその手は、とても小さく感じた。きっと僕は幸せの真っ最中にいると思うのだが、果たしてこのままでいいのだろうかと悩んでいることもあった。それは正式に恋人として付き合うという話に至っていないからだ。以前千歳が僕から告白をしては駄目だと言っていた忠告を、今も律儀に守っている。由美子からの告白を待ち続けているのだが、本当にそうなるのだろうかと不安があった。今までの事を振り返ってみると、結局は千歳の言うとおりに事が進んでいるので、僕は待ち続けるしかなかった。自分から告白した方がどれだけすっきりするだろうかと考えたりもしたが……。
 デパートに到着すると、由美子が「一階で展覧会があるって見たんやけど、どこなんやろ」と開催場所について困惑しているようだった。
「ここの一階って婦人靴しか売ってないように見えるねんけど、どこなんやろうな」
 僕はあまりデパートに来たことがないのだが、一階という条件の良い場所で婦人靴を盛大に売るものだろうかと疑問に感じた。そのまま店内を歩き続けていると、『近代イラスト展特別会場』と書かれた看板が目に入った。
「あそこやな。結構、人が来てるみたいやで」
「ほんまや。和ロリのコスプレで来てる子もおるやん」と由美子は嬉しそうに言った。
 展覧会場の中に入ると、僕達と同じ年代の女性が多く観覧していた。壁には額縁に入れられた作品がいくつも展示されており、大きなサイズの作品には人集りが出来ていた。僕達は入り口から順番に作品を観ていくことにした。
 一つ目の作品で立ち止まると、由美子は「この星空な、全部実際にある星を描いてるんよ。自分の住んでいる場所から眺めることの出来る夜空の星を、リアルに描く事で有名な人なんよ」と教えてくれた。その絵は浴衣を着た男女が星空を見ているもので、夏の大三角の星が僕にも分かるように描かれていた。
「天の川も描かれてるやん。こんなに綺麗な星空を見ることが出来たら、心も洗われるやうろな。青木ヶ原樹海に行った時な、綺麗な星空が見えたんやけど、由美子と一緒に見たかったと思ったよ」
「そうやったんや。この絵みたいにいつか聡君と一緒に浴衣を着て、綺麗な星空を見てみたいな」
 来年の夏には是非ともそういう経験をしてみたいし、実現可能な未来だろうと思った。
 次の作品を観ようと歩き出した時、「ゆみっち来てたんや」と女性が由美子に声をかけてきた。
「しのちゃんもこのイラスト展を押さえていたんやな」
 どうやら由美子の友達のようだった。
「やっぱり気になるし、刺激にもなるかなと思って来てみたんよ。ひょっとして彼氏さん?」
「うん、あたしの彼氏」
 由美子は僕の事を彼氏として認識しているようだ。僕はその友達に向けて、「いつも由美子がお世話になってます」と笑顔で挨拶をした。するとその友達は、「私の方こそ、いつもゆみっちにはお世話になってます」と少々照れた様子で返してくれた。そこで由美子は「大学の友達で、しのちゃん。あたしの良きライバルやねん」と、その友達を紹介してくれた。それから由美子とその友達は話しだし、僕はその様子を見て少し安心した。今まで由美子から友達の話を聞いたことがなかった。過去には登校拒否をしていたぐらいだから、人間関係はどうなのだろうかと気にはなっていた。だが、今はこのように友達と楽しそうに話している姿を見て、大学生活も上手くこなせているのだろうと思った。
「それじゃ、ゆみっちバイバイ」
「また学校でな」
 その友達が去って行き、僕は由美子に「仲のいい友達がいたんやな」と聞いてみた。
「気兼ねなく話せる子やし、あたしと同じようにイラストレーターを目指してるから色々と気が合うんよ。きっとびっくりしてると思う。あたしに彼氏がいるなんて知らんかったやろうから」
 やはり由美子は、僕の事を彼氏として認識していた。
「ちょっと確認なんやけど、俺たちは付き合ってるという認識でええのかな。その……恋人という枠組みでええんか気になって」
「え? あたしと聡君って恋人じゃないの?」
「まだそういう話になってないというか、俺としては恋人になってくれたら嬉しいねんけど」
「ちょっと待って。あたし、聡君に告白してなかった? あたしの彼氏になってって」
「うん、そういう話は聞いてないけどな」
 すると由美子は「ひょっとして、夢の中の出来事を現実にしてしまってたんかな」と少々驚いた表情で言った。
「夢の中?」
「うん、思い返してみたら現実の世界ではまだ言うてなかった。あたしな、聡君に告白する夢を何度も見てたから、それが現実に起こったもんやと錯覚してたわ」と、由美子は笑いながら言った。
「告白する夢を何度も見てたんやったら、そりゃ錯覚もしてしまうな。俺としては嬉しいけどな」
 すると由美子が僕の前に立ち、「こんな展覧会で言うもんじゃないのは分かってるけど、あたしの彼氏になってくれる?」と上目遣いで僕に告白をしてきた。僕はその愛くるしい由美子にキスで応えたかったが「彼氏になるから、由美子は俺の彼女になって」と返した。
「うん、聡君の彼女になるのは運命やと思ってるから、これからも大切にしてな」
「うん、一緒に幸せになろうな」
 このような場所で正式に恋人になるというのは、きっと世界でも数例だろうと思った。それだけ僕は貴重な経験をしているとも言えるし、歳を取っても由美子と笑いながらこの思い出話が出来る。これでようやく由美子とは恋人と言える間柄になれたので、僕の心は晴れやかな気持ちになり、繋いでいる由美子の手から愛を感じ取った。いつか由美子と結婚をして幸せな家庭を築くことが出来たら……そういう最高の人生を歩みたい。
 僕達は引き続きイラスト作品を観ていくことにした。人集りが出来ていた大きいサイズの作品は圧巻だった。横幅二メートル縦幅一メートル程のキャンバスには、破壊された街を復興している多数の女性キャラクターが細かく描かれていた。ブルドーザーで瓦礫を集めていたり、大きなショベルカーで瓦礫をトラックに積み込んでいたりと、それぞれの重機には可愛いキャラクターが乗り込んで運転をしていた。綺麗な夕焼けの中でそうしたキャラクター達の奮闘している様子が、とても印象に残る作品だった。
「この作者な、東日本大震災の被害に遭って両親を亡くしてるんよ。あたし達と同じ二十代で、災害に関するイラストを数多く手掛けていて海外でも有名なんよ。あまり悲観的にならないように、希望が持てるように色使いも鮮やかにして可愛いキャラクターも描いてる。それでもやっぱり切なさが伝わってくるんよ」
 そうした作者の背景を聞いてみると、作品に対する理解度が増したような気がした。
「作品を観てるとさ、自然と作者の事を知りたくなるよな。この作者はどういう思いでこの作品を描いたんやろうかって」
「聡君が言ってる事はよく分かるよ。特に絵の作品を観てると、作者の事が頭に浮かぶもん。あたしの場合の話になるけど、絵を描いてる時っていろんな思いを込めてるから単純にこうって言えないんよね。複雑になりすぎて言葉に出来ないから、絵を観て感じてとしか言えないんよ。でもな、絵を観て感じる事って、その人の捉え方次第という面もあるんよ。結局な、作者がどういう思いを込めて描いていたのかなんて、作品を観ただけでは知る事は出来ないと思う。絵を描き終わったらもうその作品は作者の手から離れてしまってるから、後は観た人がどう感じてどのような評価をするかに委ねられるもんやとあたしは思ってるねん。さっきのヴォイニッチ手稿もそうやけど、作者の作品に対する思いとあたしの感じた事なんて全然違う事の方が自然やと思う」
「なるほどな。確かに作品を観てる時の状況で感じ方は違ってくるよな。音楽の話になるねんけど、初めて聞いた時はいまいちな曲やなと感じていても、時間が経って改めて聞いたらめっちゃええ曲やんってなってる時もあるねん。逆の場合もあるし」
「確かに音楽でもあるよな。絵の世界でもそうなんやで」
 作者側でもある由美子の話を聞くことで、絵に対する興味がより一層湧いてきた。今まであまり触れる機会の無かった分野だったので、僕はかなり刺激を受け、なんなら絵を描きたいとさえ思ったのだ。どの作品も個性的で魅力があり、由美子もかなり刺激を受けたようで「今すぐにでも絵を描きたい気分やわ」と興奮気味に言っていた。
 全ての作品を観覧し終えた頃には、余韻に浸りたい気持ちでいっぱいになり、それだけ僕の感性が揺さぶられたということなのだろう。僕は由美子に「新しい世界の扉を開いたような気分や。今も余韻でいっぱいやし」と感想を述べると、「聡君、小声でうわーとかすげぇとか言ってたし、めっちゃ感動してるやんと思ってたよ。イラストの世界を好きになった?」と質問してきた。僕は「好きどころか虜になったよ」と笑って答えた。
 展覧会のブースを出ると、隣のブースでキャラクター手帳の即売会が行われており、由美子が「ちょっとこれも見ていこ」と言うので、僕達はその中に入っていった。沢山の平台があり、その上には手帳が重ねて並べられていたが、どれもキャラクターのイラストが表紙を飾っていたので女の子向けだなと感じた。ちいかわやマイメロディのような有名キャラクターから無名なキャラクターもあり、来年度の表記があって実用的な手帳が目白押しだった。そういえば千歳もキャラクター物が好きだったなと思い出し、この光景を見たら喜ぶだろうなと思った。
「ちょっと、これ見て」
 由美子が指した手帳を見ると、僕は思わず笑ってしまった。
「こんなところに、水森亜土の手帳があるんやな」
「これめっちゃかわいいやん」
 水森亜土が描いたイラストの手帳が四種類あり、そのひとつを由美子が手に取り中身を見始めた。僕もひとつ手に取り中を見てみると、カレンダーや日記のようなページがあり、至る所に水森亜土のイラストがあった。小さい頃に見た絵本の世界を思い出し、僕はそこにノスタルジーを感じた。
「この手帳、めっちゃええな」
 どうやら由美子はかなり気に入っている様子だった。僕は由美子に「この四種類の手帳なら、どれがいい?」と尋ねてみた。由美子は手に持っていた手帳を僕の前に差し出し「絶対これやな。この表紙最高やん」と言った。その表紙は可愛い男の子と女の子がキスをしており、沢山のハートが描かれていた。
「それじゃ、今日の記念にこの手帳を二つ買うわ。お互いに一冊ずつ持っておこうよ」
 すると由美子は無邪気な笑顔で「うん、そうする」と喜びを露わにしていた。一通り手帳を見終わった後、水森亜土の手帳を二冊購入し一冊を由美子にプレゼントした。
「今日は正式に付き合うことになった記念日やから、これが思い出の手帳になるからずっと持っとくわ」
「うん、あたしもずっと大切に持ってるね。ちょっと上の階でコーヒー飲んでいかへん?」
「そうやな、ちょっと休憩していこか」
 ブースを出てエレベーター乗り場に行くと、ちょうど上の階へ向かうエレベーターが来ていたので、僕たちはそれに乗り八階へ向かった。八階のレストランフロアに到着すると、一階とさほど変わらず人の姿が多かった。時計を確認すると、午後一時を過ぎた辺りだった。案内板でフロアマップを確認してみると、喫茶店が二店あった。僕は由美子に「どっちの喫茶店に行く?」と尋ねてみると、由美子は「あたし、いつまでも逃げてたらあかんと思うねん。喫茶店じゃなくて、食事に挑戦したいんよ」と言った。由美子の顔は少々強張っていたが、至って真剣であることはよく分かった。
「由美子が挑戦したいんやったらそれでいいと思うしお供させて頂くよ。食べたい店を選んでええからな」
 由美子はフロアマップを一通り見た後に、僕の手を握ったまま歩き出した。先程までの由美子とは違い歩くスピードも早く、握っている手の力も強かった。イタリアンの店前で立ち止まると、由美子は展示されている料理を眺めだした。パスタやドリアそれにピザもあり、イタリアンとしてはオーソドックスな店だった。
「ここにする」
 僕たちは店内に入り、従業員に案内された窓側の席に座った。由美子を見ると明らかに緊張している表情だったので、僕としてはその緊張をほぐすことが先決だと思った。僕はメニューを由美子の前に置き、「うちの大学にイタリアからの留学生がおるねんけど、日本のイタリア料理はかなりレベルが高くて美味しくて、もう帰国したくないとまで言ってたよ。特に東京でイタリアンを食べた時は、両親を日本に連れてきて食べさせてあげたいとまで思ったらしいねん」と雑談をしてみたが、由美子は「そうなんや」と返すだけで上の空だなと感じた。
 メニューを一通り見終えると、由美子は「たらこパスタにする」と言った。僕は手を挙げて店員を呼び「たらこパスタを二つください」と注文を伝えた。由美子は食事を楽しむというような様子ではなく、周りのお客を見てはため息をついており、かなりのプレッシャーを感じていることは分かるのだが、僕としてはどう接するのが正解なのか分からなかった。
 やがて僕たちのテーブルに二つのたらこパスタが配置された。
「由美子、大丈夫か?」
「うん、あたし頑張るから」
 それから僕たちは「いただきます」と食事の挨拶をしたが、由美子はおしぼりで手を拭くだけで一向に食べる気配がなかった。もし僕が食べ始めてしまうと、余計にプレッシャーを感じるかもしれないと思い、由美子が手をつけるまでは静観することにした。由美子はおしぼりを置きフォークを手に取ると、その右手はかなり震えており、その震えを左手で押さえようとするが効果はなかった。由美子は一旦フォークをテーブルに置き、冷水を飲み始めた。会食恐怖症ってこんなにもプレッシャーを感じるものとは知らず、見ているだけで由美子が可哀想でならなかった。由美子はもう一度、フォークを手に取ろうとしたが震えており上手く掴めず、結局は手を引っ込めて俯いてしまった。僕は居ても立っても居られず「ゆっくりでええからな。久しぶりに外で食事をするやろうから、緊張もしてしまうよな」と由美子に慰めの言葉をかけてみた。由美子は顔を上げ深呼吸を始め、落ち着きを取り戻そうとしていることが僕にも伝わってきた。
「手が言うこと聞いてくれへん」
 悲痛な表情で由美子に言われると僕もすごく辛く感じたが、何か出来る事があるはずだと考えてみた。僕は由美子に微笑みながら「由美子、両手出して」とお願いすると、素直に手を出してくれた。僕は由美子の両手を握り「今は心の中で葛藤してるんやと思う。意識と無意識が対立してるからとても辛いやろうけど、結果に拘らずに自然の流れにまかせたらええと思うで。どんなことがあっても、俺はずっと由美子の傍に居るから」と思ったことをそのまま伝えた。
「うん、ありがとう」
 少し落ち着きを取り戻したのか由美子はフォークを手に取った。ゆっくりとフォークの先がたらこパスタの麺に向かうが、由美子はその時に周りを見渡した。すると一気にフォークを握る右手が震えだし、左手でその震えを抑えようとしたがその左手さえも震えていた。由美子はフォークをテーブルの上に置き俯いてしまった。
「やっぱりあたしには無理」
 由美子はとうとう泣き出してしまい、もう充分に戦ったと思った。僕は席を立ち由美子の手を掴み、「もう店を出よう」と言って会計を済ませ店の外に出た。由美子を休憩させる必要があったので、同じ階の広場に向かうことにした。由美子が「ごめん、あたしのせいで」と泣きながら言うので、僕は「挑戦したことに意味があるねんから、よく頑張ったよ」と言い、肩に手を伸ばして抱き寄せた。
 広場に到着するとそこは屋外でテラスのようだった。木製の椅子が何個もあったので、僕たちは日陰にある椅子に腰をかけた。由美子の泣き声が周りにいる人達を驚かせているのか、目線が僕達の方に一点集中しているようだった。きっと僕が泣かせたと思われているのかもしれない。僕は再び由美子の肩を抱き寄せ頭を撫でた。すると由美子は僕に抱きついてきたので、僕はそれに応えるように背中に手を回して抱きしめた。まるで子供のように泣きじゃくる由美子の事を思うと、僕も自然と涙が出てきた。由美子の会食恐怖症は、僕が想像する範疇を軽く超えている。由美子の心にその事が重たくのし掛かっていることは、これでよく理解することが出来た。僕の脳裏には由美子の手が震えている光景が焼き付いており、楽しい食事に変えるにはどうすればいいのかと悩んでいた。あのような可哀想な姿を見てしまうと、今まで僕が見ていた由美子の姿は幻想ではなかったのかと思うぐらい衝撃的だった。
「あたしと食事をしても、楽しくないやろ?」
 由美子は泣きながら過呼吸気味にそう言った。僕は由美子に「俺が今までに楽しいと感じた食事は、まだ一度しかないねん」と言った。それに対して由美子からの返事はなかったが、僕は続けて話すことにした。
「俺の家族は食事の時間がバラバラやったから、みんな揃うことがまずなかってん。父は国際線のパイロットをしてるから家に帰ってきても寝てるし、母は翻訳の仕事で忙しいから料理は作ってくれるねんけど、食事はいつも一人やってん。でもな、小学生の頃なんやけど、その当時はアメリカに住んでいたから友達にパーティに誘われる機会が結構あったんよ。ある友達の家で開かれるパーティに行くとさ、友達のお父さんが自分で作ったピザ釜を利用して、ピザを焼いてくれたんよ。そのお父さんは笑顔が素敵な人で、ほらバイトの時にいた北口さんみたいな人やったんよ。ピザの生地を目の前で作ってくれて、その姿が凄くかっこよく見えて、その友達がお父さんに『ダディクール』と大はしゃぎで何度も言ってて、今でもそのパーティの記憶が鮮明に残ってる。家族やその友達が揃っての食事ってこんなにも楽しいのかって、幼いながらも感動してた。俺もな、いつか家庭を持って一戸建ての家に住めるようになったら、庭にピザ釜を建てようと思ってるねん。家族にピザを振る舞って、楽しく食事をするのが俺の夢でもあるねん。そこに由美子が居てくれたら俺としては嬉しいねんけどな」
 僕が少年時代から抱いていた夢を由美子に語ってみた。
「その時は、あたしが聡君にダディクールって言ってあげる」
 由美子はそう言って顔を上げ、目をうるうるとさせながら「今はお願い、あたしにキスして」と言ってきた。僕は由美子の目尻に溜まっている涙を手で拭い、そっと目を閉じてキスをした。僕はその柔らかい唇の感触を味わいながら、これで由美子が少しでも元気になってくれるのならそれでいいと思った。しかし、このような場面でキスをするなんて想像すら出来ていなかった。僕はもっと幸せの真っ只中でキスをするものだと想像していたのだが、こういう励ましのキスも記憶に深く刻み込まれるのだろうと思った。やがて唇が離れると、由美子は「あたしのファーストキス、聡君でよかった」と涙混じりにそう言った。僕はもう一度、軽く由美子にキスをしてから「その言葉は笑顔で聞きたかったな」と少し笑いながら言った。由美子は鞄からハンカチを取り出し涙を拭うと「ほんとうにありがとう。今日は失敗やったけど聡君とのピザ釜の夢があるから、少しずつ挑戦していく。今の状況を知ることが出来たから、これで克服に向けての計画も立てやすくなるから」と少し落ち着いたのか、冷静な口調で前向きな言葉だった。
「そやな。今日の出来事も貴重な一歩なんやと思うし、まだまだ時間はたっぷりあるからな」
 屋上から見る京都の風景は、澄んだ空気の影響もあって綺麗だなと感じた。ふと空を見上げると、そこには飛行機の飛ぶ姿があった。僕は由美子に「空を見てみ。あれだけ高いところを気持ち良さそうに飛行機が飛んでるやろ。実はな、俺は飛行機が苦手やねん。小さい頃からアメリカと日本を年に数回往復してたけど、飛行機の中ではずっと怯えていたし、機内食を出されても食べられへんかってん。飛行機に乗ることは俺にとってはトラウマやから、日本に引っ越してからはもう二度と乗らないって決めてた。でもな、さっき由美子がトラウマを克服しようとする姿を見ていたら、俺も克服しようと思えるようになってた。由美子が俺に教えてくれたんよ……逃げてたらあかんよって」と告白した。由美子は僕の顔をまじまじと見つめ「聡君もトラウマを抱えてたんやな。だからあたしの気持ちを怖いぐらいに理解してくれてたんや。その謎が今解けて良かったし感謝してるよ」と言った。やがて飛行機は見えなくなり、少し遠くにある京都タワーからは色鮮やかな白と赤の色がくっきりと見えており、これからそのタワーに行くのも悪くないなと思った。しかし、由美子が「今から奈良公園に連れて行ってくれへん?」と言ってきた。
「鹿に会いたいんか?」
「鹿だけじゃなくて、春日大社に参拝に行きたいんよ」
「春日大社かぁ。前にテレビで特集してたけど、外国の参拝者が増えてるらしくて鹿もえらい人気らしいな。じゃあ、今からいこか」
「うん、神様に聡君と付き合った報告もしておきたいし」
「なるほどな。じゃあ、俺も一緒に報告するわ」
 由美子はきっと信心深いのだろう。そうした事も含めて、僕と由美子のフィーリングは抜群に合うと思った。
 それから僕たちはデパートを出て、駐車場に戻り車に乗った。ナビに奈良公園近くの駐車場を設定すると所要時間が一時間十分と表示されており、午後三時過ぎには到着出来そうだった。相変わらず京都市内は混雑していたが、そんなことはどうでもよかった。僕はこれまでに何度か由美子の唇を奪いたいという衝動に駆られた事があった。今日はその念願が叶いキスをするに至った。それも由美子にとってはファーストキスというのだから、これほど嬉しいことは他にない。未来予想になるが、このまま僕と由美子の関係が続いていくと、もっと濃厚なスキンシップを取ることになるだろう。そうなった際、僕は由美子の大事なものを奪う事になる。その相手として僕の事が心に大きく刻まれることになるのだと考えると、いい記憶として残って欲しい。後悔してしまうような男として、由美子の心に僕が刻み込まれてしまっては最低な人間になってしまう。そうならないように、僕は由美子にとって最高の男になれるように努力をしようと思った。

 奈良公園近くの駐車場はどこも満車状態だったが、運良く春日大社直営の駐車場に停めることが出来た。午後三時半を過ぎていたが、観光客の姿は多かった。車から降りると由美子は両手を上げて伸びをした。
「気持ちよさそうに寝てたな」
「うん、聡君の運転が心地よかったからいつの間にか寝てた」
 僕はその道中、何度も由美子の寝顔を見ては可愛いなと思っていた。春日大社に向けて歩き始めると、由美子が手を繋いできた。僕はその瞬間に安堵したが、きっとそれは昼間にあれだけ泣いていた由美子が、少しは回復してくれたのだろうと感じたからだ。由美子の手から伝わる温もりを、僕は無条件に受け入れ愛していた。
 手水舎(ちょうずや)が見えてきたので、僕達は参拝礼儀に従って手水を取ることにした。ひしゃくを手に取り作法に則って清めると、本当に心が洗われたような気がした。由美子も手水を終えたようなので境内に向けて歩き出すと、中国語や英語の話し声が聞こえてきた。すると由美子は「日本語より海外の言葉ばっかり聞こえてくる。奈良に観光に来てくれるのはめっちゃ嬉しいねんけどな」と言った。
「さっき前に歩いている人達が英語で話しているのが聞こえてきて、この神社には神様が四人いるらしいから、日本人はどの神様を崇拝してるんやろって言ってたわ」
「そうなんや。宗教によっては神様は一柱(ひとはしら)ってこともあるから、疑問に感じるかもしれへんな。あたしの場合は四柱の神様それぞれに、お話しするけどな」
 どうやら由美子は神様の数え方を心得ているようだった。境内に入ると参拝者が沢山おり、まるで正月の初詣みたいな賑わいだなと思った。由美子が「特別参拝したいから、お金かかるけどいい?」と聞いてきたので、「うん、大丈夫やで」と答えた。特別参拝の受付で一人五百円の参拝料を払い本殿の方へと歩いて行くと、紅色の色鮮やかな建物が歴史情緒を感じさせ、異世界に来たかのような錯覚に戸惑いそうだった。前から巫女さんが歩いてきたが袴の色が紺色だった。巫女さんが通り過ぎたので、僕は「なぁ、巫女の袴って紅色やろ? 紺色の袴を着ている巫女って初めて見たわ」と由美子に言った。
「紺色以外にも緑色の袴を着た人もいるけど、紅色以外は事務職の人なんよ。だから正式には巫女ではないねん」
「そうなんや。えらい詳しいな」
「イラストレーターを目指してなかったら、巫女になりたかったもん」
 僕は由美子の巫女姿を想像してみた。
「由美子が巫女っていうのも、それはそれでええな」
「それってエッチな意味で言ってるやろ」
 僕の顔に出ていたのだろうか、見透かされていたようだ。
「まぁ、ちょっと想像してみただけやん」
 由美子が僕の顔を下から覗き込むようにして「いつか着たろか?」と言ってきた。
「えっ? 巫女の服を持ってるの?」
「コスプレ用やけど持ってるよ。聡君がどうしてもって言うんやったら着てあげるよ」
「まぁ、そういう機会があった時はお願いするよ」
「そういう機会ってエッチする時?」
 そういう風に直球で聞かれると、なんて答えればいいのか分からなかったが、僕は「うーん、そういう時になるんかな」と、はぐらかすように答えた。
「めっちゃ顔が赤いで。聡君って本当に分かりやすいな」
「顔に出やすいし、恥ずかしがり屋やからな。まぁあれや、本殿にいこ」
「本殿には入られへんねん。あそこの中門前で礼拝するねんで」と、由美子は高さ十メートルはありそうな大きな赤いお社を指して言った。
 それから僕達は中門前に到着し、賽銭箱の前に立ち会釈をして五百円玉を入れた。深いお辞儀を二回と二拍手をして、手を合わせたまま僕は目を閉じた。鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと口から吐き出し精神統一を終え、心を込めてお祈りをすることにした。
『僕は木田由美子さんとお付き合いすることになりました。二人で幸せな道を歩めるように努力していきますので、どうか見守っていてください』
 お祈りを終えたその時、正面から強い風が吹き付けてきた。目を開けると本殿から中門を通じて強い風が吹いており、僕は深くお辞儀をして一歩下がった。由美子は手を合わせたままお祈りをしている最中だったが、ふと左側を見ると樹齢が何百年とありそうな大きな木が立っており、葉っぱは全く揺れていなかった(あれ……風は?)。気づけば僕達に吹き付けていた強い風も収まっていた。僕はその木を見ながら、今の風は神様が僕達に何かを伝えようとしていたのかなと感じた。
 それからしばらくして「いっぱいお願い事をしたから、めっちゃ時間かかったわ」と由美子は清々しい笑顔で言った。
「ご苦労さん。なんか生き返ったみたいに、いい表情してるな」
「あたしな、七五三参りは春日大社でしてるんよ。ここの神様とあたしはご縁が深いから、ここに来ると気持ちもリセットされるねん」
「だからか。礼拝してる時に本殿から中門を経由して強い風が吹き付けていたから、神様が由美子に何か伝えていたのかもしれんな」
「え? 強い風なんか感じなかったよ」
 あれだけ強い風だったのに、由美子には吹き付けていなかったということなのだろうか。そうすると、あの風は一体……。とりあえず僕は「そっか。俺の勘違いやったんかもな」と何事もなかったことにしようと思い、そう言った。
 僕達は再び手を繋ぎ、境内南門の出入り口に向けて歩き出した。空を見上げれば晴天で、風は全く吹いていなかった。南門から境内を出ると二匹の鹿が僕達の方へと歩み寄ってきたので、僕は「鹿にせんべいを上げたくなってきたな」と言った。
「じゃあ、奈良公園を散歩しよ」
「うん、そうやな。鹿せんべいの露店がまだ営業してたらええねんけどな」
 大きな鳥居をくぐり抜けると、僕達は境内の方へと身体の向きを変え一礼をした。鳥居を抜けたすぐ横には奉納品である日本酒の樽が並べられており、その前に立って記念撮影をしている海外の観光客達の姿が見えた。海外の人達からすれば、酒樽をモニュメントとして記念撮影までしているのだから、文化が違うとこうも人間の行動は変わるのだなと思った。
 鹿の姿が多くなってくると、鹿と写真撮影する観光客の楽しそうな笑顔とはしゃぐ声が沢山聞こえてきた。こういう光景が見られるのも、奈良公園の醍醐味なのかもしれない。鹿せんべいを売っている露店が見えると、由美子が「あたしは、鹿にせんべいを与えるプロなんやで」と自信満々に言ってきた。
「プロの技みたいなのがあるんか?」
「もちろんあるで。今日は聡君に、あたしの才能を見せてあげるわ」
 僕達は露店で、それぞれ鹿せんべいを六百円分購入し芝生の中に入った。鹿が何匹も僕に向かってくるので、少し怖くなりつつも鹿せんべいを上げようとすると、さらに鹿達は突進してきた。ほんの十数秒で僕が持っていた鹿せんべいはあっけなく消えていった。
「鹿はな、鹿せんべいが目に入ると近寄ってくるから右手で鹿せんべいを隠しとくんよ。それから左手の平を鹿に見せると、この人は鹿せんべいを持ってないと思うから去って行くねんけど、自分の前に鹿が一匹になったら一枚だけ鹿せんべいを上げる。それを見ていた鹿がまた寄ってくるから、また手の平を見せる。これの繰り返しやねん」
 由美子は上手に鹿を手懐けていた。鹿が由美子の手のひらを見ると、確かに後ずさりして去って行こうとする。その光景を見ていると、由美子と鹿の間には意思疎通が働いているような気がした。見るからに天女と鹿の戯れのような美しさがあり、僕はスマホでその様子を録画することにした。由美子が鹿に向けるその笑顔を見ているだけで、心からこの世に生まれてきて良かったと感じた。由美子に出会えた事も含めて、僕は今、幸せの絶頂を経験している。永遠にこの幸せを感じたまま生きていきたいとさえ思った。鹿せんべいがなくなり、由美子と鹿の戯れが終わったので僕も録画を止めた。
「由美子、世界で一番美しい姿を見せてもらったよ。ありがとう」
 すると由美子は僕に抱きつき「この美しい姿は全部聡君のものやから」と甘い声で言ってきた。僕は「幸せ過ぎると夢なんじゃないかと疑ってしまうな」と言って、由美子を抱きしめた。
「今ここでキスしてみて。夢じゃないって分かるから」
 僕は言われるがままにキスをしてみると、由美子は舌を絡ませてきた。こんな場所で? と思ったが、僕もそれに応えるかのように舌を絡ませ濃厚なキスをした。時間にしてどれぐらいかは分からなかったが、僕としては五分ぐらいしていたような感覚があった。キスが終わると周りの視線が気になったが、誰もこちらの様子を見ている人がいなかった。
「夢じゃないやろ?」と由美子は嬉しそうに言ってきた。
「うん、かなり心臓がドキドキしてた」
「生きてるって実感出来るぐらい聡君の鼓動が伝わってきてたよ」
 そう言われると恥ずかしかったが、由美子の前でならどんなに恥ずかしい事も受け入れられそうな気がした。
 それから僕達は、近くにあった木のベンチに座った。先程のキスでかなり気分が高揚していたが、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。由美子の大胆な行動は僕に刺激を与えてくれるのだが、本当に予測出来ないのでイニシアチブはいつも由美子が握っているように感じた。それが由美子と幸せに過ごす為の良い関係性なのだろう。
 辺りを見渡すと、鹿を中心とした人間模様が僕の心を和やかにしてくれていた。
「鹿って周りの目を気にせず食べることが出来るやんか。あたしもいつか、そうなりたいねんけどな」
 由美子のその気持ちは僕にもよく理解出来た。
「鹿の場合、生きる為に食べてるから周りのことは気にならないのかもしれへんな」
「生きる為に食べるかぁ。あたしの場合は、そうじゃない。食べる為にどうしようって考えているから、真逆になってしまってるわ」
「食べる為に……なんかそこにヒントがありそうな気がするな。俺の家族は生きる為に必要な分だけ食べなさいという考え方やったから、食べ物を残しても問題がなかったんよな。由美子の場合は、食べ物を残したらあかんという考え方で育てられているから、食べ物が主体になってるな」
「そこなんよ……」
 由美子は鹿を見ながら何かを考えているようだった。しばらくすると由美子が「なんか分かったような気がする」と言い、僕の目の前に立った。
「要するに、あたしのお母さんは食べる為に生きなさいって間違えた指導をしてたんやと思う。あたしは食べる為に生きたくないから、これからは生きる為に食べていこうと思う」と由美子は吹っ切れたような笑顔で、そう言った。
「今までは食べ物が主人公という感じやったんやな。これからは自分が主人公になって生きていけばええねん」
「そうやんな、これが正解やわ。聡君、気づかせてくれてありがとう。聡君立って」
 由美子は僕と向き合って両手を繋ぎ、円を描くように回り出した。
「由美子、目が回るって」
 由美子はそれでも容赦なく、回るスピードを上げていった。喜び方としては正解なのかもしれないが、僕はもう三半規管が麻痺しているのか酔いそうだった。
「由美子、吐いたら洒落にならんからこの辺にしとこ」
 ようやく喜びの舞が終わり、由美子がまた僕に抱きついてきた。
「ヨシヨシして」
 僕は笑いながら由美子を抱きしめ、頭を撫でながら「由美子は甘えるのが好きなんか?」と聞いてみた。
「一生、聡君に甘えて生きていきたい」
「そういうからには八十歳になっても俺に抱きついてくれるんやろうね?」
「抱き合いながら一緒に死ぬって、そう決めてるねん」
 一緒に死ねるのなら、それは究極の理想だなと思った。僕は由美子の頭を撫でながら、ふとその髪の匂いを嗅いでみると、いつも由美子から香る桃の匂いだった。僕はその匂いに安らぎを感じながら、愛し愛される関係性を築けた事に心から感謝した。夕陽に照らされる奈良公園で、僕達は鹿に囲まれながら二人だけの世界を感じ合っていた。その先には二人の心が溶け合い、ひとつになる世界が待っていることを予感しながら。
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