第7話

文字数 15,089文字

   七

 アルバイト最終日、その日は朝から曇り空だった。昨日までとは違い半袖のTシャツでは肌寒さを感じ、勢いよく鳴いていたセミの声も今はなく、避暑地の高原のように空気が澄んでいた。見慣れていたはずの飛行塔やメリーゴーランドの馬車、それに愛着のある急流すべりの船……それらを含めた全てのアトラクションが僕には色褪せて見えた。まるで映像フィルムの一コマ一コマを鑑賞しているような現実味のない、或いは異世界を彷徨っている不思議の国のアリスに出会いそうな……そういう錯覚を感じてしまい足が宙に浮くような感覚があった。鼻から入る土と葉の匂いが秋を感じさせ……この感覚…………あのときの映像が鮮明に蘇ってきた。二年前の秋、雲海に浮かぶ備中松山城を見るために岡山県に旅行したことを思い出した。早朝から備中松山城展望台に出向き、雲海に包まれたその城を眼下に見て、天国にある光景だと感じるぐらいに幻想的で強烈に印象に残った思い出がある。そう、この感覚はあの二年前の時に感じた心境と同じもののように思えた。そういえば、その帰りの道中で道に迷い、松茸を販売している店があったのでその店のお姉さんに道順を教えてもらい、折角なので松茸を買おうと見栄を張って二万円分購入し、その店のお姉さんから「これ持って帰り」と有田ミカンを十個ほどオマケしてもらった記憶も蘇った。あの店のお姉さん、今も元気に過ごしているだろうか……。
 アルバイト最終日にもなって、幻想的に感じるのはなぜだろうかと僕は困惑していた。北口さんと井上を見ても、セピア調のフィルム映像に登場する人物のような、過去なのか現在なのかの区別がつかない混沌とした世界に住まう二人のように僕からは見えていた。ただ木田さんだけは、見る者を魅了するような淡いピンク色のオーラを纏っているように見え、『女神』という文字が頭の中を駆け巡っていた。もっと厳密に言えば、その女神に許しを請いたい――罪状は何でもいい、ただ許されたい……。僕は頭を横に振り何かの病気にでもなったのかと思い、正気を保とうと目を見開いた。そして深呼吸をすると次第に現実に戻ってきたかのような感覚と、お客さん達の声が急に耳に入ってきた。あれ? 僕は今まで音の無い世界にいたのだろうか……風の音や急流すべりの水の流れる音、それから船が落下して放たれる水しぶきの騒音と、今はこうして認識出来るのだが……いや、やっぱり何かがおかしい。先程まで音の無い世界にいたとしか思えない。ひょっとしてこれは夢なのかと思い、左頬を抓ってみると痛みが走った。アルバイト初日に殴られた場所をなぜ抓ってしまったのかと後悔したが、本当にここは現実の世界なのだろうか。
「なんで自分の頬を抓ってるの? マゾなの?」
 木田さんは僕の様子を見ていたのか、抓っているところを見られてしまったようだ。
「いや、現実なのか夢なのかを確かめたくなって、抓ってみただけ」
「今日のお昼休憩の時も浮かない顔をしてたけど、それじゃひとつ質問するね。ここの生駒山上には、いつどこからどうやって来た?」
 どうしてそのような質問をするのか真意は分からなかったが、僕は「朝に家を出て車に乗ってやってきたけど」と答えた。
「じゃ、夢じゃないね。インセプションって映画を知ってる?」
「いや、知らんけど」
「人の夢の中に入って、その人の秘密を盗んだり印象を植え付けたりするSF映画があるんよ。夢か現実かを区別する方法のひとつに、ここの場所にいつどこからどうやって来たかと質問してみるんよ。夢の世界では出発点の情報がなくて、途中からの場面を夢で見てるから、どこから来たかの質問をしても答えることが出来ないんやって。そういう方法で判別するみたいやから、わざわざ頬を抓って痛い思いをしなくても大丈夫なんよ」
 確かに夢は、いきなり場面に遭遇して何かの映像を見ているので、その前の一連の行動とかが無いことに気がついた。
「確かにそうやな。夢っていきなり場面が登場してるし、朝起きてからの一連の流れを経験している訳でもないし……そういうことか」
「今は現実の世界にいるってことになるねんけど、どうして夢か現実かを区別できなくなってたん?」
 僕は木田さんに、朝から感じている幻想的な違和感や、北口さんや井上を見ていてもフィルム映画の登場人物に感じ、木田さんを見ていると淡いピンク色のオーラを纏った女神のように感じることを素直に全て話した。木田さんは嬉しそうな顔をして「とうとうバレてしまったようやな。あたし、実は女神やってん。いつ気づくかなぁって思ってたけど、さすが森若君やな。あたしのこと崇拝してもええよ」と言った。僕の違和感を木田さんはノリで返してきたので、僕も「それじゃ女神様、願い事をひとつ叶えてください。女神様は癒やしを与える存在やと思うので、抱きしめて癒やしてくださいよ」と意地悪な内容でお願いをしてみた。
「残念やけど、あたしは逆に人間にお願い事をする女神やから、癒やしとかを与える女神ではないんよ」
 だとしたら、全く御利益のない女神様が登場したのだなと思い、僕は笑ってしまった。
「女神様がお願い事をするの? 世界のどこを探してもそんな女神様はいないと思うけどな。女神様がどんなお願い事をするのか、そのことに興味が湧いてきたわ」
「じゃあ、森若君にお願いするね。今日は午後三時でアルバイトが終了するやんか。閉園までの二時間、一緒にアトラクション巡りしてくれへん? 一人だと恥ずかしいし」
 昨年もそうだったが、八月三十一日でアルバイトが最終日の人たちに限り午後三時で終了し、閉園までの二時間分の給与を会社からの感謝の気持ちとして支払われる仕組みがある。その二時間で他のアトラクションに乗りに行きたい人たちは、スタッフ用の乗り放題パスが支給され、興味が無い人は帰宅をするという大昔からの名残でそういう制度がある。僕は毎年帰る選択をしており今年も帰ろうと思っていたが、木田さんはどうも他のアトラクションに乗りたいらしいので「そのお願いやったらOKやで。一緒にアトラクション巡りするよ」と僕は答えた。
「ほんまにいいの? ありがとう」
 女神にしてはスケールの小さなお願い事だなと感じたが、僕にも木田さんとの思い出が出来るメリットがあるので、願ったり叶ったりだなと思った。
 木田さんと話をしてから現実感が戻り、いつもの日常に戻ったような気がした。ただ、お昼休憩の時も木田さんと話をしていたが、もうその内容を思い出すことすら出来なかった。
 この生駒山上遊園地でのアルバイトも今日で最後かと思うと、卒業式のような気持ちにもなる。そういえば成績が悪すぎて高校を卒業出来ずに留年した奴がいたなと思い出していると、ふとある考えが巡ってきた。こうしたテーマパークで正社員として働くのはどうだろう。それならテーマパークから卒業することもなくなる……USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)やディズニーランドのような巨大テーマパークに就職するのも悪くはないなと思った。非日常に感じるテーマパークで働くことこそ、僕が求めた好きなことを仕事にするという将来の目的ではないかと……ああ、これだ!
 夏休みの期間だけ、この生駒山上遊園地でのアルバイトを四年も続けてきたのは、この非日常に感じる遊園地の世界観が好きだったからだ。USJのような巨大テーマパークは、もっと日常からかけ離れた非日常の世界を体験することが出来る。だから僕はそうしたテーマパークでお客さんをもてなしたいし、非日常の世界を存分に味わってもらうお手伝いをしたい。ようやく僕は将来の目的を見つけることが出来たような気がした。これだ、僕が求めていたのは!
 
 午後三時になり、生駒山上遊園地でのアルバイトが終了した。僕は北口さんに「長い間、お世話になりました。また遊びに来ますので、その時はタダで乗せてください。本当にありがとうございました」と最後の挨拶をした。すると北口さんは「寂しくなるな。彼女が出来たら、また乗りにおいで」と、いつもの笑顔で返してくれた。続けて井上に「井上も元気でな。パターゴルフの女の子と付き合えるように頑張りや、応援してるわ」と挨拶をしたが、井上は「それが、あの子には彼氏がいるみたいなんっすよ。もう俺の人生は詰んでます。牧田も千歳さんと遊ぶ約束までしたんですよ? 俺だけですよ孤独なのは……」と情けない表情で言うので、僕は「俺も彼女がおらんねんから一緒やないか。井上の場合はプロレーサーになって、レースクィーンと付き合うのが一番の近道かもしれんぞ。まぁ、頑張れよ」と言い、井上に手を差し伸べて握手をした。それから僕は外に出て、急流すべりのアトラクションに向けて「今までありがとうございました」と感謝を言葉にし深く礼をした。遊園地で働く楽しさを教えてくれたのは、まぎれもなくこの急流すべりだ。いつまでも、この気持ちは忘れずにいようと心に誓った。

 更衣室での着替えを済ませて廊下に出ると木田さんが立っており、「煙草吸ってからいこうよ」と言うので、僕達は喫煙所に向かった。喫煙所の中に入ると、木田さんは両手を広げて「やっと終わったー」と言いながら勢いよく回り出し、そのせいで足下がもつれて体勢を崩したので、僕は倒れそうになった木田さんを両手で受け止めた。そんなことはおかまいなしなのか、木田さんは終始笑い続け「これで液タブが買える」と喜びを露わにして叫んだ。僕は何のことかさっぱり分からなかったので木田さんに尋ねてみた。
「液タブってなに?」
「ほら、イラストを描くときってペンタブレットを使って描くねんけどな、それの上位互換で液晶ディスプレイに直接ペンをタッチして描くことが出来るデバイスがあるんよ」
 その説明を聞いて、そういうデバイスの広告を見たことがあったのですぐに理解が出来た。
「ああ、あれを買うのか。その為にバイトしてたんや」
「うん、これで買えるわ」
 僕に抱きかかえられている木田さんと目が合い、この体勢を誰かに見られたら勘違いされそうだなと思ったが、木田さんは子供のように笑顔満開で液タブのことに夢中な様子だった。木田さんの上唇は綺麗なM字で、唇全体にグロスを塗っており煌びやかな艶のある淡いピンク色をしていた。その小さな唇を見ていると、唇を奪いたい衝動に駆られ……このままでは理性がぶっ飛びそうだったので、僕は木田さんに「そろそろ立ち上がらない? この体勢を誰かに見られたら勘違いされるよ」と言った。ようやく木田さんは立ち上がり「ごめんね。嬉しすぎて気絶しそうやったわ」と言い、まだ興奮が冷めていない声だった。
 僕も木田さんも電子煙草を吸い始めて一服をしていたが、遠くの方から雷鳴の音が聞こえたので室内の窓を開けてみた。外を見ると雨が降り出していた。
「雨が降り出してきたわ。木田さん、これどうする?」
「最悪。せっかくアトラクションに乗って終わりたかったのに」
 僕はスマホを取りだして雨雲レーダーを見てみると、生駒山上周辺に向けて激しい赤色の雨雲が接近しており、既に大阪には大雨洪水警報が発令されていた。僕は「こりゃあかんわ。これから激しい雨が降りそうやし、もう大阪には警報も出てる」と木田さんに伝えた。木田さんも窓までやってきて外の様子を眺め「もう諦めるしかないよね。傘持ってくればよかった」と諦めたような口調で言ったその時、強い光が視界全てを奪い轟然たる雷鳴が鳴り響いた。「ひゃっ」と甲高い声が聞こえ、誰かが僕に抱きついてきたような感覚を味わい、その勢いに押されて僕は仰向けになって倒れた。両耳はキーンという音が支配的で、視界は真っ黒の世界だった。僕の上に誰かが乗っているような重たさを感じ、「ひょっとして、俺の上におるの木田さんか?」と弱々しい声で尋ねたが返事はなく、甘い桃のような匂いが僕の鼻にすーっと入ってきたので、これはいつもの木田さんから放たれる桃の匂いだと分かり、間違いなく木田さんが僕の上にいると確信した。すると「なにか言った?」と木田さんの声が聞こえたので、「大丈夫か? 立てそう?」と尋ねてみると、「腰が痛い。ぎっくり腰になったのかも」と木田さんは情けない声で答えた。
 少しずつ視力が回復し状況が見えてきたので確認してみると案の定、僕は木田さんの下敷きになっていた。僕はまず下敷きになった状態から身体を抜け出して床に座った。木田さんはうつ伏せの状態で動こうとしないので「うつ伏せの状態でしんどくない?」と確認してみた。
「今は腰を動かそうとすると痛いから、しばらくこのままがいい」
「他に怪我はない? 耳とか目の状態はどう?」
「ずっと耳鳴りはしてるけど、目は見えるようになった。森若くんは大丈夫?」
「俺も耳鳴りが酷いし視力は回復してきたけど、太陽を直視した後みたいな黒い残像があるわ」
「それ、あたしも残像がある。雷が落ちたん?」
 僕は立ち上がり窓から外を見てみると、わずか三メートルほど離れた電柱の上からビリビリという音と共に火花が出ているのが見えた。僕は恐怖心からすぐに窓を閉めて木田さんに「目の前の電柱に雷が落ちたんやと思うわ。火花とか出てる」と状況を説明した。僕は木田さんの元へ戻り介護をしようと思ったが、何をどうすればいいのかさっぱり分からなかったので「何かして欲しいことある?」と尋ねてみた。
「ちょっと肩を貸してくれる? そこのソファに座りたい」
 木田さんの左腕を僕の肩に回させて、両手でしっかりと木田さんを抱えて、ゆっくりとソファへ誘導した。そして衝撃がないように木田さんをソファに座らせた後に「腰はどんな感じ?」と再度尋ねてみると、「やっぱりぎっくり腰やわ。最悪やとおもわへん?」と感情を露わにしながら木田さんは言った。
「ほんまに最悪やな。耳鳴りとか続くようやったら、一緒に病院行こうか」
「ちょっと様子見する」
 スマホで雨雲レーダーなどを確認しながら三十分ほど経過した頃には、完全に僕の耳鳴りは治まっていた。木田さんも耳鳴りは治まったらしいが、ぎっくり腰についてはかなり痛がっていた。これでは木田さんは歩いて帰ることも出来ないだろうなと思い、ひとつ提案をしてみることにした。
「今日は家まで送るよ。そのぎっくり腰じゃ動くのも大変やろうし」
「凄く助かる。雨はどんな感じかな」
「豪雨は去って行ったけど、まだ雨は降ってると思う。あっ、そうや。特別に園内に車を乗り入れる許可を取れるか、福島さんに聞いてくるわ。待っててくれる?」
「ごめんね、お願いするね」
 僕は喫煙所を出て事務所に向かった。事務所の中に入ると室内の電気はついておらず、どうやら停電していたようだ。窓から入る光でかろうじて福島さんが見えたので、「すみません。さっきの落雷で木田さんがびっくりして、ぎっくり腰になって動けない状況なんですよ。家まで送り届ける必要があるので、事務所前まで車を乗り入れる許可って取れますかね?」と尋ねてみた。
「そんなことになってたの? 今も停電の影響で全てのアトラクションが運休中だし、お客さんも少ないから許可は取れると思うけど、一度セキュリティ部門に連絡してみるから待ってて」
「はい、お願いします」
 あの落雷の影響で生駒山上遊園地の全てを機能不全に至らしめているのだから、人間は本当に自然には抗えないのだなと改めて実感した。それも山頂にいるのだから不便極まりない。
 しばらくして福島さんが「許可が降りたよ。裏門を開けてくれるらしいから、そこから入ってきて。木田さんは今どこにいるの?」と聞いてきたので、僕は「木田さんは喫煙所にいますよ。それじゃ車を事務所前に持ってきます」と伝え事務所を後にした。
 外は小降りの雨だったが、僕は傘を差さずに駐車場へと走って向かった。途中、目に入るアトラクションにはライトアップの光が一切無く、お客さんの姿もなく何も動いておらず、ここは本当に現実の世界なのかと疑いたくもなった。いや、現実の世界だけれど誰もいない廃墟遊園地にいるような錯覚を感じて恐怖心が芽生えてきた。そのまま走り続け駐車場手前の下り坂でスタッフの姿を見かけたので、そこでようやく安堵した。僕はやはり怖がりなのかもしれない。千歳と青木ヶ原樹海へ旅行をする約束をしたが心配になってきた。
 駐車場に到着し、急いで事務所へと車を走らせた。裏門に続く細い道を走っていると、昔この周辺に白骨化された遺体が発見されたことを思い出した。恐怖心を感じている時って、どうして余計なことまで思い出してしまうのだろうかと不思議に思った。
 裏門を通過し事務所前に到着したので、車を停めて喫煙所に向かった。中には木田さんと福島さんが居たので、僕は「お待たせしました。車を持ってきましたよ」と言った。
「それじゃ、私と森若君で肩を貸すからゆっくりと立ってね」
 僕は木田さんの左側に立ち福島さんは右側に立ち腕を回させて、ゆっくりと木田さんを持ち上げた。
「ほんとうに腰に力がはいらへん」
 木田さんは苦しそうだった。それから木田さんの歩調に合わせながらゆっくりと一階に降り、事務所前にある僕の車に誘導した。僕は助手席の扉を開けて、福島さんと協力して木田さんを助手席に座らせた。
「リクライニング調整するけど、下げるか?」
「うん、少しだけ下げて」
 僕は段階的に少しずつリクライニング調節をしていると「この位置がいい」と木田さんが言ったので、そこで止めて助手席側の扉を閉めた。それから僕は福島さんに「それでは、木田さんを家まで送り届けます。お手数をおかけしました」と伝えた。
「くれぐれも気をつけて安全運転でね」
 福島さんは心配した表情でそう言ってくれた。僕は車に乗り込み木田さんのシートベルトを締め、自分のシートベルトも締めて車に振動が起きないようにゆっくりと発進させた。
 来た道に戻り裏門を通過し大きな道に出て坂道をゆっくりと下っていった。途中、後続車に追いつかれると、左ウィンカーを出して後続車を追い越させる安全運転に務めていた。僕は何度もバックミラー越しに木田さんを確認していたが、かなり辛そうだったので「病院に行こうか?」と尋ねてみた。
「病院はいいよ。それよりあたしの住所を知らないでしょ? 聞かなくていいの?」
「あっ、うっかりしてた。路肩に車を停めてからナビに入れるわ」
 やはり僕は朝から浮き足立っているのか、どこか抜けている。これで交通事故でも起こしたらとんでもない事になるし、面目も丸つぶれになる。僕は自分の心の深い部分に木田さんを無事に届けるのが自分の使命だと言い聞かせた。
 それから路肩に車を停めて、僕は「ごめんね、住所を聞いてしまうことになるけど教えてくれる?」と木田さんに尋ねた。
「別に森若君に住所を教えることは怖くないよ。なんならストーカーをしてくれてもいいよ」
 こんな状況でも木田さんは冗談を言っていたが、表情はとても苦しそうだった。その後木田さんに住所を教えてもらい、それをナビに設定し車を発進させた。
 濡れた地面に反射する対向車のヘッドライトを見て、夕暮れ時の暗さになっていることに気がつきヘッドライトを点灯させた。雨の日の運転は車線が見えづらく目も疲れ、どこか疲労感のようなものを感じていた。
「森若君って安全運転やな。板倉のおっちゃんを運んでくれた時もそう感じたし」
「乱暴な運転をして、もう二度と乗りたくないと思われたら最悪やんか。安全運転をして、また乗りたいと思われる方がええやろうし」
「素敵な考え方やな。板倉のおっちゃんの運転はいつも危なっかしいから、森若君の運転は安心して乗れるし全然違うなって思ってたんよ」
「お褒め頂きありがとうございます。終点の木田さんの家まで無事にお届け致します」
 木田さんに運転を褒められると、やはり嬉しさが心に滲み出てくる。木田さんに「車に乗せて」と可愛くおねだりされる妄想をしていると、もう顔がにやついて熱くなってきた。いや、これは駄目な兆候だ。冷静にならないと事故を起こしてしまう。
 それから気を引き締めて運転を続け、阪奈道路との交差路に差し掛かったので奈良方面車線に入った。比較的車も少なく穏やかな流れだった。
「ねぇ、これからもLINEしていい?」
 突然、木田さんから予想もしていないことを聞かれて僕はびっくりした。
「もちろん。俺もLINEで繋がっていたいと思ってたから、めっちゃ嬉しいよ」
 バックミラー越しに木田さんを見ると、少し笑顔になっていた。木田さんも繋がっていたいと思ってくれていたことが、とても嬉しかった。
「もうひとつ聞いてもいい?」
「なんでも聞いてくれてええよ」
「森若君は、好きな人いるの?」
 その質問をここで? 木田さんの事は好きだし、だからと言って本人を目の前にして木田さんのことが好きだと言ってしまうと、その後のシチュエーションを予測出来ない。それに誰とは特定せずに好きな人がいると言ってしまうと、木田さん以外の人を好きになっていると勘違いされる可能性もあるし、好きな人はいないと答えるとそれは嘘になってしまうし……どういう返答をすればいいのか正直分からなかった。無言のままでいると木田さんが「やっぱり好きな人がいるんやな」と言ってきた。僕はどうしようかと悩んだが、勘違いされるぐらいなら正直に言おうと思った。
「それな、好きな人本人に好きな人はいるのと聞かれたら、どう返したらええんか分からんのよ。これって正解があるんかな?」
「それって、あたしのことが好きってこと?」
「その質問をされたら正直に答えるしかないんやけど、木田さんのことは大好きやで」
 僕は安全運転をしなければならないのに、心臓の鼓動が早くなっているし、顔も熱さを感じているから真っ赤にもなっているだろうし、恥ずかしすぎてこの場から逃げたいと思った。
「じゃあさ、あたしのどういうところが好きなんか教えて」
 木田さんの声が比較的真面目なトーンになっていた。真面目なモードなら、僕もそれに従うしかなかった。
「まずね、アルバイト初日の時に喫煙所で会ったやんか。あの時に木田さんと目が合って、すごく印象的やったんよ。まん丸とした黒い瞳で純粋そうで無垢な魅力が木田さんにはあるなと思って、急に俺の心が苦しくなったところから始まってるねん。今から思えば、あれは一目惚れやったんやろうな」
「えっ? 一目惚れやったん?」
「うん、紛れもなく一目惚れやった。あんなに心が苦しくなったん初めてやったよ。それだけじゃなくてな、俺が殴られた時も木田さんは氷を頬に当てて介抱をしてくれたやんか。お昼休憩の時もずっと二人で話をして楽しかったのもあるし。俺が特に惹かれたのは、木田さんがイラストレーターになる為にその目標に向かって突き進んでるところをずっと話に聞いてて、すごく魅力的に感じたんよ。木田さんはエネルギッシュやし、夢や目標は必ず達成すると信じて意気込んでいるところが羨ましかったりもしたよ。そういうのも全部含めて、木田さんのことが好きになったんよ」
 本人を目の前にして好きなところを話すのは、こんなにも恥ずかしいものだっただろうか。いや、考えてもみれば元カノに対して好きなところを話したことはなかったような気がした。
「ぎっくり腰じゃない時に聞きたかった言葉やわ。でも……嬉しいしありがとう。あたしも森若君の事は好きだけど、どこが好きという話はまだ内緒にしとく。じゃあさ、友達から始めてみない?」
 えっ? 一瞬、時が止まったような気がした。僕は天にも昇るような心地になり「木田さんが良ければ是非、友達からお願いします」と今の気持ちをそのまま伝えた。やはり僕は夢を見ているのではないかと、本当に今日は現実の世界で生きているのか? という気持ちで一杯だった。木田さんは僕のどこが好きなのだろうかと気にはなったが、友達から始められるだけでも充分に幸せなことだ。これからも関係は続くのだし、それだけでも有り難い。
 その後もナビの指示通りに運転を続け、目的地周辺ですというアナウンスが流れると、木田さんが「あたしの家はここ」と指で差して言った。その指先には二階建てのモノトーン配色でモダンテイストの大きな家があった。
「めっちゃええ家に住んでるな。こういう家に住んでみたいな」
「ローン御殿やけどな、あたしは気に入ってるよ」
 木田さんの家の前に車を停め、僕は車を降りて助手席側の扉を開け、木田さんに肩を貸して少しずつ立ち上がらせた。僕が「ゆっくりでええからな」と言った時、「由美子」という男性の声が聞こえた。木田さんの家の二階窓から男性がこちらを見ており、木田さんが「お父さん帰ってたんや。とりあえず降りてきて」と言った。確かお父さんは国境なき医師団で医者をしていると板倉さんから聞いてはいたが、まさかこんな時に出会ってしまうとは想像すらしていなかった。これで木田さんの家族全員に出会ったのかなと思っていると、木田さんが「あたしのお父さんな、海外でお医者さんしてるんよ。たまにしか帰ってこないからレアやで」と言った。
「板倉さんから木田さんのお父さんが国境なき医師団で働いてるって聞いてたよ」
「そんなことまで聞いてたんや。板倉のおっちゃんもおしゃべりやからな」
 玄関口から木田さんのお父さんが出てきて「由美子、知らん間に老婆になってしもて。変な魔法でも使って失敗でもしたんやろ」と笑顔で冗談を言っていた。
「まだ見習い中の魔法使いやから失敗だらけやで。お父さん肩かして」
 きっと木田さんはお父さんと仲が良いのだろう。お父さんを見る目が、まるで子供のように幼くなったような印象を受けた。
「娘の由美子がお世話になってます」
「こちらこそ、いつもお世話になってます」
 木田さんに肩を貸しているとはいえ、僕と木田さんが密着している姿を見てお父さんとしては複雑な思いをしているのかもしれないし、木田さんを運び終えたらすぐに帰ろうと思った。
 木田さんのお父さんは右側で肩を貸し、僕も含めた三人でゆっくりと木田さんを介助しながら家へ向かった。
「お父さん、ぎっくり腰ってどれぐらいで治るの?」
「由美子はまだ若いから五日以内には治るはずや。それでも治らない場合は病院行きやけど、とりあえず湿布貼って様子見やな」
 玄関扉が開き中に入ると、吹き抜けの高い天井で広々とした印象を受けた。木田さんが一旦玄関の高床部分に座らせて欲しいと言ったので、慎重に腰を下ろし無事に座らせる事が出来た。そして僕は立ち上がり「じゃあ、この辺で失礼します」と軽くお辞儀をして出て行こうとしたが、木田さんが「ちょっと待ってよ。ソファまで送って欲しいし、お茶でも飲んでいってよ」と言った。続けて木田さんのお父さんが「ちょうど友人からパナマの美味しいコーヒー豆を貰って帰ってきたので、飲んでいきませんか?」と誘ってきた。
「そこまでお気遣い頂かなくても大丈夫ですので、木田さんをソファまで送り届けましたら帰ります」
「由美子をここまで送り届けてくれたお礼ですので、ご遠慮なさらずに」
 ここは素直にコーヒーを頂いた方が木田さんのお父さんからの印象はいいのかなと考え、応じることにした。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」
 それからもう一度、木田さんに肩を貸してリビングルームに向かうと、中も広大で天井には木製のシーリングファンライトがあり、そのファンがゆっくりと回っていた。壁には五十インチ以上はある大型テレビが取り付けられており、リビングルームの真ん中には高級感のある茶褐色で丈夫そうな机があり、それを取り囲むようにL字型の大きなソファが配置されていた。木田さんはそのL字型のソファを指で差し、「そこにお願い」と指示したのでゆっくりと指定された場所に木田さんを座らせた。それからすぐ木田さんは「あたしは、少し横になっとく」と言い、うつ伏せ状態になった。
 僕は再びリビングルーム内を見渡し観察をしていると、観葉植物の緑の色が目に優しいなと感じた。きっと造花だろうなと眺めていると木田さんが、「ねぇ、遠慮せんとここに座ったら?」とソファを指さして言った。僕は木田さんの言うとおりソファに腰を掛けると、少しだけ弾力のある座り心地のいいソファだなと感じたが、やはり緊張もするし恐縮もしてしまう。キッチンの方を見ると木田さんのお父さんは作業をしているようで、きっとコーヒーの準備をしてくれているのだろうと察した。木田さんのお父さんをよく見てみると、あごひげを伸ばしてはいるものの、木田さんの顔とよく似ている。特に眉や鼻の形がそっくりで、目の部分は木田さんと瓜二つと感じるほどだった。木田さんのお母さんと出会った時はあまりにも似ていないと感じだが、いまこうしてお父さんを見ていると木田さんはお父さんに似たのだなと思った。
 やがてコーヒー豆を挽く音が聞こえた。本格的にコーヒーを作っているようで、そこまで手間を掛けさせるのも申し訳ない気持ちになったが、木田さんが「お父さんの淹れるコーヒーは世界で一番美味しいと思うで。もうこれで缶コーヒーは飲めなくなると思うわ」と僕の顔を見ながら嬉しそうに言った。それだけ自信満々に言われると、申し訳なさよりも飲んでみたい気持ちの方が強くなった。次第に甘い花の香りが漂い始め、これはコーヒー豆の匂いなのだろうかと不思議に思った。
 しばらくすると木田さんのお父さんが「おまたせしました」とやってきて、受け皿のついたコーヒーカップを僕と木田さんの前に置いてくれた。そのコーヒーカップは漆黒の宇宙のような色で、青く流れる波模様は天の川のように美しく上品な焼き物に見えた。そのコーヒーカップを眺めていると、木田さんのお父さんが「どうぞお召し上がりください」と優しい口調で言ってくれた。僕はコーヒーカップを手に取り匂いを嗅いでみると、先程から感じていた甘い花の香りが鼻に入り、一気に野原にいるような気分になった。
「凄くいい匂いですね。コーヒーとは思えない甘い匂いがします」
「これね、パナマゲイシャ品種のコーヒー豆で、数年ほど前から世界で一番美味しいと評価されているんですよ。匂いももちろんですが味も別格です。入手するのも困難なコーヒー豆ですので、是非飲んでみてください」
 木田さんのお父さんの声さえも甘い声だなと感じた僕は、「頂きます」と言った後に一口飲んでみた。……これはコーヒーの味ではないと感じた。僕は木田さんのお父さんに「このコーヒーは凄いですね。桃のような甘い味がして、味覚が嬉しがっているのがよくわかります」と興奮気味に感想を伝えた。
「鋭いね。確かにこのコーヒー豆の味は、甘さがあって桃に感じたり甘いみかんのシロップに感じたりする珍しいコーヒー豆なんですよ。私もね、このコーヒー豆が世界で一番美味しいと思ってるんですよ」
 木田さんのお父さんはコーヒー豆のソムリエではないかと思った。僕はもう一口飲んでから「本当に貴重なコーヒーを飲ませて頂きありがとうございます」と、木田さんのお父さんに伝えた。木田さんのお父さんは嬉しそうな顔をして「どうぞ、ゆっくり味わってくださいね。私はちょっと席を外しますね」と言って、リビングから出て行った。
 それから僕は、ゆっくりと味わいながらコーヒーを飲んでいた。桃の味にも感じるし確かに甘いみかんのような味もする。二年前に岡山の松茸販売店でもらった有田ミカンも甘くて美味しい味だったことを思い出し、こんなにも甘いコーヒーが世の中にはあるのだなと、視野が広まった気がした。
 少しして木田さんが、「ちょっと起き上がりたいから肩を貸して欲しい」と言ってきた。僕は木田さんに肩を貸してゆっくりと起き上がらせ、なんとか座ることが出来た。木田さんはようやくコーヒーを飲み始め、「初めて森若君と一緒に飲むコーヒーが、世界で一番美味しいコーヒーでよかったわ」と言った。僕は既に飲み終わっていたが、木田さんのコーヒーを飲んでいる姿はいつもとは違い、少しお高くとまっているような印象を受け、どのような木田さんでも可愛いなと思った。木田さんもコーヒーを飲み終えたようなので、僕は「それじゃ、そろそろ失礼するね」と言い立ち上がった。
「気をつけて帰ってな。心配になるから家に着いたら必ずLINE頂戴ね。今日は本当にありがとう」
「うん、わかった。着いたら連絡するわ」 
 玄関に向かうと木田さんのお父さんが荷物の整理をしていたので、僕は「美味しいコーヒーをありがとうございました。僕はそろそろ失礼させて頂きます」と挨拶をした。
「美味しかったですか、それは良かった。娘の由美子のこと、今後もよろしくお願いしますね」
「いえいえ、こちらこそ。いつも木田さんには助けられてばかりですので。今日はありがとうございました」
 木田さんの家を出て一気に緊張感から解放されたのか、ゆっくりと伸びをしたが、そこで木田さんのお母さんと出くわした。
「どういうこと? 由美子となにをしてたの?」
 木田さんのお母さんに凄く剣幕に言い寄られて、僕は身動きが取れず「えっと……」としか言い返せなかった。
「年頃の娘なのよ? それも人の家に勝手に上がり込んで。由美子とはどういう関係なの?」
 完全に勘違いをされていたが、その恐ろしさで何も言い返せなかった。まるでライオンに睨まれた鹿のように。
「加世子、失礼な言動を慎め。由美子がぎっくり腰で身動きが取れなくなって、わざわざ家まで運んでくれたんだ。そのお礼に私がコーヒーをご馳走したんだよ」
 木田さんのお父さんが出てきてくれたようで、九死に一生を得たような気持ちになった。
「あなた帰ってくるなら連絡してよ。由美子が一人だって思うでしょ?」
「おまえは、いつも先走って物事をややこしくする。よくそれで看護師なんか務まるな」
「ほんとむかつくんだけど」
 いやいや、何で夫婦喧嘩を始めるのか意味が分からなかった。木田さんの家庭環境は絶望的に悪いのだろうか。こうなったら僕が止めに入るしかないのだろう。僕は木田さんのお母さんに向けて「すみません、どうか喧嘩だけはやめて頂けませんか。木田さんとは普通のお友達ですし、何もやましい関係ではありません。僕がすぐに言い返せなかったことで、より問題を大きくさせてしまっているので本当に申し訳ないです」と深くお辞儀をして謝った。
「ごめんなさいね、私も早とちりしてたみたいで。森若さんには今まで散々お世話になっていたのに、責め立ててしまって本当に申し訳ないです。許してね」
「いえいえ、こちらこそ申し訳なかったです。僕はこれで失礼させて頂きます」
 僕は走って自分の車に乗り込み、すぐに発進させた。もう嫌だ、何もかもが嫌だ!

 冷静さを取り戻した頃、僕は阪奈道路を大阪方面に向けて走っていた。気分転換の為に僕は窓を少し開けて、電子煙草の電源を入れた。木田さんのお母さんが僕に対して睨んでいた顔が……あれは本当に恐ろしかった。プロレスラーの蝶野さんより怖い顔だと思った。僕は煙草を吸い、ゆっくりと吐き出した。煙草を吸うとやはり落ち着くものだな。しかし、木田さんのお父さんが居なかったら、どうなっていたのだろう。人に怒られるのはやはり怖いものだし、それも勘違いで怒られた時は気持ちのやり場をどこに向けていいのかさっぱり分からない。勘違いだったとはいえ木田さんのお母さんからして、僕に対する印象はきっと悪いものになっているだろうなと思った。板倉さんを病院に送り届けた先で、木田さんが僕に抱きついてきた所をお母さんに見られていたのだから。
 しばらくするとLINEメッセージの着信音が続けて鳴った。車の運転中でしかも下り坂を慎重に運転していたので、スマホを見ることが出来なかった。その後も何度か着信音が鳴っていたので、ひょっとしたら木田さんからかなと思ったが、下山するまで路肩のない道だったので返信することが出来なかった。
 生駒山を下山し、最寄りのコンビニ駐車場に車を停めてスマホを確認した。やはり木田さんからのLINEメッセージだった。

『森若君、ほんとうにごめんね。あたしのお母さん、ちょっと頭がおかしい人なんよ』
『怒ってるよね?』
『あたしのことも、嫌いになった?』
『どうして返事くれないの?』
『いまどこ?』

 木田さんはかなり心配しているようだったので、僕は安心させる為にLINEメッセージを送った。
『今、生駒山を降りて近くのコンビニに車を停めたところ。路肩がなくてすぐに返事出来なかった。何も怒ってないし、木田さんのことを嫌いになるはずがないやんか。ただの勘違いだっただけやから安心して。家に着いたらまたLINEするからね』
 僕はそのメッセージに加えて水森亜土のイラストスタンプも送った。それからすぐに木田さんからの返事が来た。
『よかった。もう嫌われたのかなと思って絶望してたよ。帰ったら本当にLINEしてな』
 僕に嫌われたくない木田さんの気持ちが強く伝わってきて、これは相思相愛ではないかと感じて心が躍るような嬉しい気分になった。今日一日、とんでもない経験ばかりをしてきたが、ようやく僕にも春が来たのだろう。僕は温かい気持ちのまま家路についた。
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