第1話

文字数 6,700文字

   (どうか縦組みでお読みください)
   急流すべり
               白金幸一郎

    ――生きるために食べよ、食べるために生きるな。
                哲学者ソクラテスの言葉より

   一

 人々の歓喜する声はどれだけ人間に良い影響を与えるのだろうか。世界のどこかでそのことについて真剣に研究をしている人達がいるのであれば、僕はその研究の成果を見てみたいと思った。子供達が楽しくはしゃぐ声や大人達が驚きに絶叫する声、そうした声に包まれるこの地こそ、ユートピアというのかもしれない。
 梅雨が明けた七月下旬、緑生い茂る樹樹の狭間からセミの鳴き声が聞こえた。午後一時を過ぎ雲一つない青空の下で、人々の歓喜する声が僕の心の中を通り過ぎていった。
 喜びは日常を忘れさせ驚きは我をも忘れさせる。それを教えてくれたのがこの場所なのだ。
 大学四回生の僕は、一回生の頃よりこの生駒山上遊園地で夏休みの期間だけアルバイトにやってきていた。先日、昨年もお世話になったアルバイト先に電話を掛けて、今年もアルバイトをさせてくれないかとお願いしたところ、すぐに採用が決まった。
 僕は従業員用の駐車場に車を停めて、アルバイト先の事務所に向かっていた。家族連れの姿を見ていると仲睦まじそうであり、理想の家庭像を投射していると思った。僕も小さい頃は両親と共に理想の家庭像ごっこをしていたのかもしれない。あまり両親と話す機会がなくなった中学生以降、家庭内に自分の居場所がないと感じ、大学生になってからは一人暮らしを始めた。両親に大学の授業料も生活費の面倒もみてもらっているにも関わらず、あまり感謝の気持ちが湧かない。それを親不孝というのだろうけれど、自分でもどうして感謝の気持ちが湧かないのかを知りたいぐらいだった。
 しばらく歩いていると赤と白の電波塔が目に入った。生駒山上は大阪府と奈良県の県境にあり、テレビやラジオの電波塔が山頂付近に沢山ある。その電波塔群は大阪府と奈良県の全域、京都府と兵庫県の一部をカバーしている関西の主要電波施設なのだそうだ。その電波塔を見ていると、ひとつの都市伝説を思い出した。電波塔近くで子供を産むと女性が生まれる確率が高まるという話だ。生駒山の麓辺りの生駒市では、男性よりも女性の人口が圧倒的に多いという話を聞いたことがある。真実の程は分からないが、その電波塔の近くで働く僕にはどういう影響があるのかと少々不安にもなる。
 歩き続けるとようやく見慣れたアルバイト先の事務所が目に入った。遊園地の景観に合わせて西部劇に出てくる木造建築物に似せた事務所だが、その実態はコンクリート造りの古いビルであった。事務所に到着し僕はドアをノックした。中から「はいよ」と威勢の良い声が聞こえたので、深呼吸で息を整えてからドアを開けた。中では所長の板倉さんが事務机で作業をしているのが目に入った。その机の上には紅色のクリアファイルが散見しており、どうやら伝票の整理をしているようだった。僕は「今年もよろしくお願いします」と笑顔を見せて挨拶をした。
「森若君久しぶりやな、元気にしとったか?」
「相変わらず元気なだけで、なんとか生きてます。板倉さんもお元気そうで」
「いや、見た目は元気そうやけどな、わしはもう老いとる。歳をとるとな毎日どこか痛くてな、わしなんか太ってるから膝があかんようになってしもうて、この間も注射を打ってもらって何とか痛みに耐えてるんやわ」
 板倉さんはタオルを手に取り、自身の顔に滴る汗を拭き取った(きっと伝票に汗が落ちないように配慮してのことだろう)。
「かなり膝が悪くなっているんですね。板倉さんって何歳なんですか?」
「わしはもう五十六や。あと四年もしたら還暦になるから老人と変わらん。まあな、生きとったらどこかしら悪くなるもんや。森若君はまだ若いけどな無理したらあかんで、身体には気をつけや」
 板倉さんの見た目は、遊園地には決して似つかわしくない強面でプロレスラーという印象なのだが、僕にかけてくれる言葉の数々はいつも優しさで満ち溢れていた。
 板倉さんは相変わらず伝票の整理をしていたので、邪魔にならないようにその作業をしている机の片隅に、今朝急いで書いた履歴書を置いて「履歴書ここに置いときます」と僕は言った。右手の親指に滑り止めのゴムを付けた板倉さんは、器用に伝票をめくりながら「そっちの机の上にタイムカードとポロシャツを置いてあるから、タイムカードに名前書いて、もう押しといて」と言った。大きな長方形の黒いテーブルの上にタイムカードが置いてあったので、自分の名前『森若聡(もりわかさとし)』を書き込んで、タイムレコーダーを設置している机に向かった。タイムレコーダーの筐体は家庭用の炊飯器と同じぐらいの大きさで、それもグレー色の鉄製。しかもアナログ式の時計でいろいろな所が酷く錆びており、きっと僕が生まれる相当前の昭和時代のタイムレコーダーだと思った。よく言えばアンティークになるのだろうけれど「経費節減」とよく口にする板倉さんの執念そのものだと思った。僕は入室・退室のメモリが入室のところに合わせてあるのを確認しタイムカードを押した。
〝ガッチャン〟
 大きくて重い音が事務所中に響き、いかにも時間を記憶したという自己主張の強い機械だったが、僕はこの音が大好きでなんなら虜になっていると言っても過言ではなかった。去年のアルバイト最終日以降、ずっと聞いていなかったこの重たい音を久しぶりに聞いたので、ノスタルジーを感じて胸がジーンと熱くなった。
 再び黒いテーブルへ向かうと、スタッフ用のポロシャツがサイズごとに置いてあったので、僕はLサイズを二つ手に取った。
「今年も二つお借りしていいんですよね?」
「例年通り二つやな。それより森若君はもう四回生になるんか」と、板倉さんは僕の履歴書を見ながら聞いてきた。
「もう四回生です。あっという間ですね」
「そうかそうか。就職はもう決まったんか?」
「いえ、就職活動そのものをしてないんですよ。特に将来の目標もなくて、どうしようかと悩んでいるんです」
「ええ大学に行ってるんやからええとこ就職せな勿体ないで。焦ってもしゃあないけどな」
 就職するにしても将来の夢を想像することが出来ない僕は、このまま学生でありたいと思っていた。きっとそれは大人になれないピーターパン症候群みたいなもので、大学の登山サークルで過ごした四年間の思い出の中に、沢山の人達との出会いがあって情景があった……。富士山登頂を達成したときにはサークル仲間と抱き合って喜びあい、南アルプスの北岳を登頂した際にはみんなでチームワークの深い絆を感じて泣いたりもした。そうした数々の思い出はラムネのビー玉よりも遙かに瑞々しく、僕の心の中心に存在し続けている。学生時代にしか味わえない思い出を、もっと沢山増やしたいという気持ちがあまりにも強く、僕が大人になれない理由のひとつになったのだろうと思う。いつまでも学生気分に浸りたい気持ちなのだが、時間は容赦なく未来から過去へと流れていく。
 それから僕は事務所の二階にある男性用の更衣室へと向かった。中に入ると冷房で室内が冷えすぎており一瞬で身体は寒さに包まれた。きっと誰かが冷房を切り忘れたのだろうと思い、僕は冷房のスイッチを切った。
 昭和時代からの使い古しであろう所々錆のある鉄製のロッカーには、それぞれに白いネームプレートが掲げられている。僕は『森若』と達筆な文字で書かれたネームプレートを見つけ出し、そのロッカーを開けた。そして上着を脱ぎスタッフ用の白いポロシャツに着替え、カバンと上着をそのロッカーにしまった。
 他のネームプレートを見ていると、去年もアルバイトにやって来ていた井上と牧田の名前を見つけたが、牧田に関して言えば出来るだけ会いたくない奴だなと思った。
 午後二時の就業開始時間まであと三十分もあったので、僕は同じ二階にある従業員用の喫煙所に向かった。木造の軽いドアを開けると部屋の中には知らない女性が電子煙草を吸っていた。その女性はスタッフ用のポロシャツを着ているし、ここは従業員用の喫煙所なので、きっと同じ会社の新人さんなのだろうと思った。そして僕は「どうも」と挨拶をすると、その女性は「こんにちは」とよそよそしく返事をした。
 喫煙所は十二畳以上の広さがあり、部屋の真ん中に煙吸引器の機械があった。その周りには無秩序に置かれた椅子やソファーがあり、その女性は機械の前で立ったまま煙草を吸っていた。僕はその女性と機械を挟んだ対面の位置に立ち、電子煙草を取りだして電源を入れた。接客業で火を使う紙煙草は匂いのエチケットに反すると思い、僕は匂いの少ない電子煙草にしている。目の前の女性も電子煙草を吸っているので、きっと匂いのエチケットには充分注意しているのだろうと思った。
 喫煙開始のバイブ振動が手に伝わり、僕は煙草を吸い始めた。僕は煙草を吸いつつも目の前にいる女性のことが気になった。それは新しく転校生がやってきたときの気持ちとよく似ている。僕は思い切って「いつからここでアルバイトしてるの?」と尋ねた。「今月の二十日からです」とその女性は答えた。
 僕の好奇心は止まらず「どこのアトラクション担当?」と聞いてみると、「急流すべりです」とその女性は僕の方を見て答えた。そのときその女性と目が合い、僕の心に衝撃が走った。その丸みを帯びた二重の中に、印象的なまん丸とした黒い瞳があった。子供のようなあどけなさを感じるその瞳は、純真無垢な魅力があって僕の心の深いところが急に苦しくなってきた。僕は恥ずかしさからかその瞳から少し視線をずらして「一緒やね、俺も毎年急流すべりを担当してるよ。名前は森若です、よろしくね」と言って会釈をした。
「あたしは木田です」と素っ気なくその女性は答えたが、どこか人との交流を避けているような印象だった。そして煙草を吸い終えた木田さんは会釈だけをして部屋を出て行った。
 僕は先程の木田さんと目が合ったことについて考えていた。あの瞳の魅力に吸い込まれそうになり急激にみぞおち付近が熱くなり始め、胸の鼓動が認識出来るぐらいに脈打っていた……ひょっとしてこれが一目惚れというやつなのだろうか――。僕は頭を横に振り、ほんの数秒で人に惚れるなんて絶対にあり得ないと自分に言い聞かせた。僕は一度深呼吸をして気持ちを整えることにした。遊園地という非日常のような世界で働くのだから僕が浮かれていてはいけない。気持ちを新たにして気合いを入れ、僕は部屋を後にした。

 夏の人気アトラクションの一つでもある急流すべりは、水上を丸太の船で流れて行く至ってシンプルな乗り物だ。最大の特徴は最後に高所から低所へと一気に船が流れ落ち、その流れ落ちた瞬間に爽快な水しぶきの洗礼を身に受ける。その水しぶきを浴びることによって涼を味わう、とても粋な乗り物であった。
 急流すべりの乗り場に到着すると、既に十人ほどのお客さんが並んでいた。僕はまず初めに正社員の北口さんに「今年もよろしくお願いします」と挨拶をした。北口さんはいつも笑顔を絶やさない人で、そもそも真面目な顔をみたことがない。誰とも話をしていなくても笑っているような顔つきなので、お葬式の際は不謹慎に見られてしまうのが北口さんの悩みだと聞いたことがあった。そして北口さんは「おう、久しぶりやのう元気にしとったんか?」と返してくれた。
「北口さんの顔をみたらいつも以上に元気になりましたよ」
「それだけお世辞が上手かったらおまえ出世するわ」
 北口さんは笑顔でそう言ったが、出世をしていない北口さんの基準でそう言われても……と思った。そして昨年も一緒に働いていた井上がいたので「久しぶり。今年もここにバイトしにきたよ。井上もバイトしにきたんやな」と挨拶をしてみると「去年の夏以降ずっとここでバイトしてるんですよ。去年いた古田さんは辞めちゃったし黒田さんも定年退職になっちゃって、俺は学校も行ってないしフリーだから、パートみたいな形で平日も雇ってもらってるんですよ」と言った。
「正社員の人が二人も辞めてるんやな、人数的にはどう?」
「正社員の人は一人だけ入社しましたよ。黒田さんからの引き継ぎで雨宮さんという人が入ってきてゴーカートの担当をしてるみたいですけど、春休みとか夏休みはアルバイトもいるんで人数的にはどうにかなってるみたいだし、それ以外も問題なく動かせてるみたいですよ」
 一年も経過していると人間模様が変化するのは当然なのかもしれないが、そうした変化には寂しさがつきまとい、もういなくなってしまった人ともっと話をしておけばよかったとさえ思うのだ。仕方のないことなのだが、人との別れというのはやはり寂しいものだ。それをとやかく言っても仕方ないので、気持ちを入れ替え話題を変えようとした。
「井上はその後、バイクのレースとかどんな感じなん?」
「今年の春にミニバイクのレースで優勝をしたぐらいで、その後は駄目ですね。それまではノーマルクラスだったんですけど、もっとスピードの出るフル改造のクラスに変更したんですよ。お金もかかるしで大変なんです」
 去年、井上は将来的にプロのバイクレーサーになりたいと言っていて、実際にアマチュアのバイクレースにも出ているという話をしていた。
「優勝したのは凄いやん」
「いや、でもアマチュアのミニバイクのレースですし、なかなかプロになるのは厳しいですよ」
「でもなんかええな、そうやって夢に向かって進んでいくの」
「プロになれたらいいんですけど、レース自体は楽しいんですけどね。このままだと趣味の世界で終わってしまう可能性が大きいんです」
 井上は僕より二つ年下だから今は二十歳だと思う。夢に向かって取り組んでいること自体がとても羨ましく、僕には足りない要素だったので井上を見習いたいとさえ思った。
 僕はその後、お客さんを四人乗りの船に誘導し、シートベルトの着用を促し安全確認をする係員の仕事を始めた。ここでの仕事は僕が今行っている誘導係、船が到着したら安全に降りさせる係、船からお客さんが降りた後に忘れ物がないかをチェックし船内の濡れている所をモップで拭き取る係の三つを十五分間隔でシフトしていく。あと入り口でフリーパスの確認や乗り物券を徴収する係がそれを一人で行う。入り口の係員は、さきほど喫煙所で出会った木田さんが対応していた。
 それからお客さんが途切れた時間に井上とバイクレースについて話をしていた。どうやら井上はチームを組んで、富士スピードウェイでのアマチュアレースに参加しようとしているようで、その話を熱心に聞いていた時だった。
「おい、ごらぁ。どうゆうこっちゃ」
 木田さんに向かって早歩きでやってくる四十代ぐらいの男性が怒鳴っていた。何事だと思っていると、その男性はまた木田さんに向かって「フリーパス買ってるのに、なんで乗られへんのや。おまえのせいで子供が泣いとんのや」と大声で怒鳴っていた。その男性の後ろには双子と思わしきお揃いのピンクのワンピースを着た少女達が、その男性の後を追っていたが一人は号泣しており、もう一人は泣いておらず黙っていた。そして男性が木田さんの目の前に到着すると、木田さんは「身長120㎝以下のお子様は、大人の同伴が必要なんですよ」と、その男性の威圧には屈しないかのように堂々と言葉を放った。
「フリーパス買う時に、何でも乗れる言ったから買ったんや。言うてること違うやろうが」と男性の大声が更に酷くなり、これはヤバいなと思って僕は木田さんとその男性の間に身体を入れた。そして僕は「規則で120㎝以下は危ないので、必ず大人の同伴が必要なんです」と申し訳なさそうになだめるように男性に説明をした。しかし男性は「俺が乗るのもお金取るんやろうが汚い商売しやがって。やってることが詐欺と一緒やないか」と怒りが収まらない様子だった。
「そう言われましても安全上の規則ですから、こちらといたしましても安全第一にやらせてもらってますので」と再度説得を試みたが「おまえが安全の何を分かってるんじゃ」とその男性の言葉を聞き終えた時、僕の左頬に強い衝撃が走った。目の前の光景がゆっくりと斜めに落ちていく中で、双子の泣いていない方の少女が僕を哀れむような顔で見ていた。そんなに僕は哀れなのか? しかし、どこかで会ったことがあるような懐かしい気持ちが……。
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