第9話

文字数 28,664文字

   九

 旅行当日、午前五時に起床した。僕は起きてすぐにスマホを確認したが、由美子からのメッセージは届いていなかった。由美子からの連絡が途絶えて以降、まるで自分の半身を失ってしまったような寂しさを感じていた。ため息ばかりが出て気怠さがあり、とても旅行をする気分ではなかった。それでも僕は着替えを済ませて、千歳の家へと向かった。
 午前六時十分前に千歳のマンション前に到着し、僕は車の中で待つことにした。電子煙草の電源を付け窓を開けると、ひんやりとした空気が車内に入り込み、どこか哀しげな雰囲気を感じた。秋ってこんなにも哀しい気持ちにさせるものだっただろうか。僕は電子煙草を吸い始め、由美子と共に過ごした喫煙所のことを思い出した。あの頃の僕は、由美子と交わされる言葉の中から新鮮さや情熱を感じて刺激を受け、気付けば二人の世界を育み続けていた。天にも昇る思いから、今や地の底を這うような苦しみに堕ち、僕は天と地を知るに至った。それが二人の世界の創生期に必要なエッセンスだとするのなら、僕はその苦しみを甘んじて受けよう。今思えばアルバイト最終日、由美子と喫煙所の窓付近で落雷に遭遇し、僕に倒れかかってきた由美子を受け止めて、そのまま床に倒れたことがあった。あのハプニングに遭遇した結果、由美子の父とも出会えたし、家にお邪魔することにもなり、二人の世界には必要な出来事だったと思う。あの時から僕と由美子の歯車が噛み合って動き出し、運命という名の下で二人の世界を創世するに至ったのだと思う。あの床に倒れた時、僕の上に乗っていた由美子からの甘い桃の匂いが、いまはとても懐かしく感じる。由美子がよくやっていた前髪をふぅーと口からの風で吹く仕草を真似てみたが……。
 千歳と牧田がマンション出入り口から出てきた。千歳は登山用の服装だったが、牧田はジーンズにパーカー姿の普段着だった。僕は車から出て右手を挙げ「おはよう」と言った。
「森若君、いつもと雰囲気が違うよね。登山のガイドさんみたい」
 僕は春秋用のマウンテンパーカーとトレッキングパンツを着用していたが、登山のガイドと言えばもっと歳を取った人達がしているので、そんなに老けて見えるのかなと心配になった。
「登山のガイドさんって、もっと山を知り尽くした年配の人達なんやけどな」
 すると俺と千歳の間に牧田が割り込んできて、「森若さんお久しぶりっす。森若さんの助言のおかげで、千歳さんと付き合うまでいけたんっすよ。めっちゃ感謝してます。森若さんも、木田さんと上手くいってるんっすか?」と聞いてきた。千歳を見てみると小さく顔を左右に振っており、どうやら牧田には僕と由美子の現状を話していないのが分かった。
「まぁ、なんとか上手くやってるよ。牧田も千歳と幸せそうやし、バイト仲間でこうやって旅行に行けるのもええもんやな」
「そうすっよね。めっちゃ楽しみっすよ」
 牧田の雰囲気が以前とどこか変わっているような気がした。妙に落ち着いているというか、大人になったような印象だった。
 僕は経路情報を印刷した紙を牧田に渡し、ルート確認をした。途中、新東名高速道路の岡崎サービスエリアで朝食を取ることになり、何か用事がある場合は、千歳から僕のスマホへ連絡することになった。僕のカーナビはスマホと連携する機能があり、運転しながら安全に電話対応が出来るので、運転中の連絡手段はそれのみとした。それから千歳が「二人とも、安全運転でお願いね。岡崎サービスエリアで、また集合しましょ」と言い、それが出発の合図となった。
 牧田の車が先に出て僕は後に続いた。土曜日の早朝とあって辺りは静けさに包まれ、車の姿もほとんどなかった。森ノ宮入り口へは数分で到着し、阪神高速に入るとスムーズに車は流れていた。日が昇り始め、眩い光が目にチカチカとした刺激を与えていた。今日という日が到来したことを告げるその光は、由美子の元にも届いているのだろうか。もし届いているのなら、僕の想いも一緒に届けて欲しいと願った。
 東大阪ジャンクションから近畿自動車道に入り、前を走っている牧田の車は制限速度の八十キロを守り安全運転だった。あの調子乗りの牧田が安全運転とは……関わる人で人間はこうも変わるものなのだなと思い、これからも人間関係にはより一層気をつけようと思った。
 出発してから二時間ほど経過し、新東名高速道路の岡崎サービスエリアに到着した。僕は車を降り両手を挙げて伸びをすると、新鮮な空気が鼻から入り美味しく感じた。駐車エリアは半分程埋まっており、家族連れの姿が多かった。千歳と牧田が車から降りてくると、牧田はスマホを眺めていた。千歳が「フードコートで朝ご飯食べよ」と言ってきたので、僕達三人はフードコートに向けて歩いて行った。そこで牧田が「名古屋名物のみそかつ専門店があるんっすよ」と言い、僕にスマホの画像を見せてきた。そこには味噌カツ丼が写っており、美味しそうだったので僕は「愛知に来たんやから、名古屋名物ぐらいは食っとかんともったいないよな」と言った。
「そうっすよね。俺、この味噌カツ丼にします」
 千歳が横から牧田のスマホを覗き込み、「朝からこれいけるって凄いね」と言った。牧田はテンションが上がっているのだろうか「ここ見てくださいよ。秘伝のみそダレは、一年半熟成させた豆味噌を使用って書いてるんすっよ。一年半も熟成させてるんっすよ、凄くないですか?」と千歳に向けて言っていた。
「じゃあ聞くけど、半年熟成させた味噌と一年半熟成させた味噌の違いって分かるの?」
「俺にそんなん分かるわけないじゃないっすか。ワインも長く熟成させた方が美味しいって聞くし、味噌もそんな感じかなって思ったんすよ」
 千歳は呆れた顔をしていた。
「味噌にもね、麦味噌、米味噌、豆味噌とかの種類があって熟成期間も全然違うの。豆味噌は、一年から三年の熟成期間が必要だし、その一年半熟成させたというのは、それが一番食べ頃の美味しい味噌を使用してますよっていう話なの。期間が長いから美味しいという話ではないのよ」
 僕はそれを聞いて、そうだったのかと驚いた。牧田と同じく、熟成期間が長い方が何でも美味しいという考え方だった。
「さすが千歳さんっすね。千歳さんと付き合ってたら、俺もそのうち天才になるかもですよ」
「天才になってもいいけど、わたし以下の天才でいてね」
 二人の姿を後ろから眺めていると、お似合いのカップルだなと感じた。牧田の足りないところを千歳は補えているし、千歳が欲しがっていた自分の存在価値というものを、牧田が与えているような気がした。
 フードコートに到着し、牧田と千歳を先に注文へ行かせて、僕は四人用テーブルで座っていた。周りを見渡すと、スターバックスやパン屋にうどんそば屋もあった。しばらくすると千歳が戻ってきた。トレイの上には、サンドウィッチとスターバックスのアイスラテが乗っていた。僕は千歳に「じゃあ、俺も買ってくるわ」と言い、席を立った。僕はうどんそば屋で、天ぷらのざるそばを注文し、出来上がるまで近くの席で座って待った。注文が出来上がったので取りに行くと、天ぷらの受け皿にエビのてんぷらが乗っていた。ここでまさかエビを見てしまうとは……。
 元の席に戻ると、千歳と牧田は既に食べ始めていた。牧田の味噌カツ丼にはキャベツの千切りにお味噌汁とお新香まで付いていた。牧田の食べっぷりは爽快で、本当に噛んでいるのか気になるぐらいに早食いだった。千歳は牧田の食べっぷりを見て微笑んでいたが、こういう牧田の食べる姿が千歳にとって好きな要因のひとつになったのかもしれないと思った。
 僕はとりあえず、つゆに薬味とわざびを入れかき混ぜて、蕎麦をすすって食べた。エビ天以外の天ぷらと蕎麦を食べ終え、僕は箸を置いた。牧田が「めっちゃ美味しかったっすわ。これならもう一杯ぐらいいけますわ」と言ったので、僕は「牧田、まだお腹空いているんやったら、このエビ天食べてもええよ」と言った。
「え? メインディッシュのエビ天を食べないんすか?」
「今の俺は、エビが大嫌いやねん」
 それを聞いていた千歳が笑っていたが、牧田は「二つとも頂きます」と言い、僕が残したエビ天二つを美味しそうに食べた。そこで分かったことがひとつ、牧田はエビの尻尾を残す派だった。
 それから三人ともトイレを済ませ、岡崎サービスエリアを出て青木ヶ原樹海へと向かった。東に進むにつれて、山に広がる森林が錦色に染まり始めており、秋を感じるこの光景を由美子と眺めたかったと思った。夏の終わり頃、由美子が夕焼けに染められ、その美しい茜色に目を奪われた時のような気持ちが甦り、僕の心を窮屈にしていた。何を見ても由美子を思い出してしまうのは、完全に沼ってしまったということなのだろう。恋をすると、こんなにも胸の辺りが苦しくなるものだろうか。この苦しみに耐えた先に、幸せはあるのだろうか。
 静岡県に入り、新清水ジャンクションを過ぎると、遠くの方に富士山が見え始めた。午前十時を過ぎ、出発から四時間程度でここまでこられたことは順調だなと思った。
 新富士インターで高速道路を降り国道139号線に入ると、右側に大きな富士山があり、まだ雪化粧ではなかったが日本一の山はやはり貫禄がある。富士山を登頂したこともあったが、下から眺めるこの景色も良い物だなと思った。
 国道139号線をひたすら北上すると、一時間程で青木ヶ原樹海近くの富丘風穴(ふがくふうけつ)という場所に到着した。百台ほど停めることの出来る無料駐車場があったので、僕は遊歩道に近い場所に車を停めた。しばらくすると牧田の車も到着し、僕の右隣に停めた。僕はトランクを開けて車から降り、由美子との約束でもある三人での写真を撮るために、トランクから三脚を取り出した。千歳と牧田も車から降りてきたので、僕は「ここは富岳風穴と言って、天然記念物に指定されてる洞窟があるんよ。記念にそこの看板で写真を撮ろうや」と言って看板を指差した。千歳が「わたしのスマホでも撮って欲しい」と言い、牧田も「俺もお願いっす」と言った。
 それから僕は『天然記念物・富岳風穴』と書かれた看板から少し離れたところに三脚を立て、スマホを取り付けた。牧田と千歳がその看板の前に立ち、僕は「十秒後にシャッター切れるようにしてるから」と言ってボタンを押し、看板の前に急いで並んだ。「みんな笑顔でね」と千歳が言い、笑顔になって立っているとシャッター音が鳴った。スマホを確認すると問題なく撮影出来ていたので、残る千歳と牧田の分も写真撮影を行った。しかし由美子との約束通り、三人で写真撮影をしたとはいえ、由美子に送っていいものか悩んだ。
「森の駅もあるんっすね。フードコーナーもあるみたいっすよ」と牧田は嬉しそうに言った。時計を見ると正午近くになっていたので、僕は「じゃあ、フードコーナーで昼飯にするか」と言った。僕は三脚をトランクに戻す為に一度車に戻り、千歳と牧田は森の駅に向かっていった。三脚をトランクに戻したが、さて由美子に写真を送っていいものか迷い、そこで立ち止まった。牧田は事情を知らないので、千歳に相談する訳にもいかないし……約束をしたのだから、やはり実行する方がいいだろうと思い、僕は由美子に先程撮影した写真と『青木ヶ原樹海に到着しました。僕と千歳と牧田の三人です。由美子の事、ずっと心配しています』と書いたメッセージも添えて送った。これで何か反応があればいいのだが。
 森の駅に入ると、比較的小さなフードコーナーがあった。千歳達の居るテーブルに座ると、千歳は既にソフトクリームを食べていた。牧田は富士宮焼きそばを注文し、出来上がるのを待っているようだった。僕はメニューを眺め昼食を食べるつもりはなかったので、アイスコーヒーを頼んだ。それからしばらくするとLINEメッセージの着信音が鳴り、僕は急いでスマホを確認した。由美子から『旅行、いっぱい楽しんでね。聡君が家に帰ったら、あたしに連絡して。話したいことがあるから』とメッセージが届いた。スマホを持っている僕の手は震えており、由美子からのメッセージに胸が熱くなった。牧田が食事を取りに行ったので、僕は千歳に由美子からのメッセージを見せた。
「やっと木田さんからメッセージが届いた」
 千歳はそのメッセージを見て微笑んだ。
「木田さんは必ず前に進む人だと思っていたから、よかったわ。後は森若君が支えてあげることで、明るい未来が待っているから」
「千歳、ありがとうな」
 僕は何度も由美子からのメッセージを確認し、嬉しさを噛みしめていた。
 森の駅を後にし、駐車場に戻りトランクからリュックを取り出した。牧田にリュックを渡し、僕もリュックを背負った。十五㎏のリュックを背負っても重たさをあまり感じなかったのは、きっと由美子からのメッセージのおかげだろうなと思った。千歳は旅行の主催者で女性ということもあり、重たい荷物を背負わす訳にもいかないので、普段バックに入れてあるものとお泊まりセットをリュックに入れて持ってこさせていた。
 僕はスマホとは別に、高精細のGPS付き登山用ナビを持参していたので、それを見ながら青木ヶ原樹海を案内することにした。
「じゃあ、今から出発するから。最初は遊歩道の比較的歩きやすい道やけど、途中から森林の中に入るから足下には気をつけてや」
「森若君、お願いね」
 富士箱根伊豆国立公園(東海自然歩道)と書かれた木の看板前から、青木ヶ原樹海に入った。枯れ葉が沢山落ちている道だったが、それでも木々には沢山の葉が付いていたので、太陽の光は地面には届かず、薄暗い道に感じた。進むにつれて木から折れた枝が沢山散らばっており、手つかずの自然という印象を受けた。きっと中には台風の猛威で折れた木もあるのだろうと思った。
 歩いて十分程した場所で、遊歩道とは別の横幅の狭い小さな道が出てきた。それは地図上にも記載のない道だった。
「ここから遊歩道じゃない道に入るから、足下には気をつけてや」
「アイアイサー」
 後ろを振り向くと牧田は楽しそうにしていたが、千歳はノート片手に何かを書いていた。
「千歳、何を書いてるん?」
「感じたままに書いているの。自殺する為に訪れた人も、こういう道を進んでいた可能性もあるでしょ? 何を見て何を感じているのか、それを知る為にここに来たんだから」
 千歳の好奇心は僕には計り知れないが、自殺者が最後に見る光景が、このような寂しい雰囲気というのも可哀想に思えてならなかった。
 それから歩き続けて三十分したところで、もう道は無くなっていた。どの方角を向いても、同じような風景に見えていたが、五十メートル程先の木の下に何か青い物が見えた。僕はその青い方向を指差して、「あれ、なんかあるな」と言うと、千歳が「見に行きましょ」と言った。恐る恐る近づくと青いボストンバッグがあり、その周りにはお菓子の空き袋が土まみれになって散乱していた。千歳はそのバックの前でしゃがみ、人差し指でチャックを開け、中を覗いていた。
「おい千歳、よくそんなの触れるな」
 千歳はリュックを降ろし、中から軍手を取りだして手にはめ、バッグの中身を確認し始めた。千歳はバッグの中から黒い手帳のようなものを取りだしたので、僕は千歳の背後まで近づいた。千歳が手帳を開くと、達筆な文字で何かが書かれているようだったが、死という文字が見えた瞬間に悪寒が走った。
「千歳、それって遺書か?」
「まだ分からないけど、後で読んでみる」
 それから千歳は再びバッグを開き、中から茶色い折りたたみの財布を取り出した。中には千円札三枚と小銭が入っており、家族写真らしきものが一枚あった。その家族写真から察するに、成人式の記念写真だと分かった。
「きっとこれは娘さんの成人式の写真ね。この右側の男性が、この荷物の持ち主だと思う」
 千歳の推察に違和感はなかった。続けて千歳が「身分を証明するものがひとつもない。牧田君、この周辺に遺体がないか探してくれない?」と突拍子もないことを言い出した。牧田は「アイアイサー」と言ったが、僕は「ちょっとまって。この荷物の持ち主は、既に自殺をしてるってことか?」と千歳に尋ねた。
「たぶんね。この袋を見て」
 千歳は散乱していたお菓子の袋を手に取り、「賞味期限が今年の二月末で切れてるの。もう半年以上も前に賞味期限が過ぎているから、遺体だけ回収されている可能性もあるけど、探して欲しいの」と言った。僕は「牧田じゃなくて、俺が周辺を探してみるわ。俺はナビを持ってるから迷子にはならないし、牧田は千歳のお手伝いでもしといて」と言った。
「ここから見える範囲内でいいから、遺体じゃなくても他に何か落ちていたら教えて欲しい」
「分かった。とりあえず、ここにレジャーシートを広げてから行くわ」
 僕はリュックからレジャーシートを取りだし、そのバックの前に広げると千歳と牧田はそこに座った。
 それから僕は周囲の探索に出た。足場は悪くないが、落ちた枝を踏む時にキシっという音が鳴り、妙に気持ち悪さを感じた。枝ではなく白骨化した遺体を踏んでしまっては、一生呪われるような気がして、慎重に足下を見ながら進むしかなかった。先程のバッグの場所から百メートル程進んだ所に、木々のない少し広めの場所があり、ここならテント二つ設営しても問題なさそうだったので、今日はここをキャンプ地にしようと思った。
 引き続き周囲を探索してみたが、何の痕跡もなかった。少し立ち止まってみると、風がなく鳥の鳴き声もなく完全なる静寂の中で耳からキーンとした音だけが聞こえていた。都会から離れ自然のど真ん中にいると、普段はいかに多くの音を聞いているのかを知るに至った。死に場所を求めてこの地に辿り着き、静寂を味わいながら最後を迎える。人々から弾き出されてしまった者達は、このような酷たらしいほどの孤独の中で絶望を背負い、生まれてきた奇跡さえも忘れて、最後の選択として自らの命を絶つのだと思うと、他にやりようはなかったのかと他人事ながら考えてしまう。どんなに重たく苦しい絶望を背負ったとしても、生き長らえた先にこそ幸せがあると信じて生きて欲しい。僕は目の前にある木を触り、この木も立派に生きていると感じた。青木ヶ原樹海は死んではいない、沢山の生命が生きている。
 千歳達の元へ戻ると、牧田は横向きでいびきをかいて寝ていた。
「周辺を探索したけど、何もなかったわ」
「ありがとう」
 千歳はあぐらをかき、手帳を読んでいた。
「それで、そこには何を書いてるん?」
「借金を背負って、首が回らなくなって自殺を決意したみたいなことを書いてる。全て世の中の責任だと訴えているけれど、所々ね、短歌で心境を書いてたりもしてるの」
「短歌で?」
「たとえばね、最後の短歌はこうなの」

 火の車 自棄に至れば 雲隠れ
 世間冷たく その氷壁を知る

 僕はそれを聞いて、分かりやすい短歌だなと感じた。
「短歌を(たしな)む人は、どこか心に余裕がある人やと思ってたけど、最後はここに来てしまったんやな」
「最後に詠む短歌が、これだと可哀想すぎるよね」
 確かに可哀想だと思うのだが、遺書らしきものに短歌を書くことは、花の散り際のような美しさがあり粋だなと感じた。それから千歳は「全部写真に収めたいから、この手帳を広げてくれない?」と僕に言ってきた。
「写真に収めるって、怖くないのか?」
「なにが怖いの?」
「いや、その……なんかその人の怨念みたいなもので呪われたりしないのか気になるんよ」
「わたし呪われた経験がないの。もし、そういう経験をしたら、その時に考えることにする」
 やはり千歳にそういう類いの話をしても、通じる訳がなかった。僕は千歳に言われるがままに、レジャーシートの上で手帳を広げ、それを千歳がスマホで写真撮影をしていった。続けて財布とその中に入っていた写真と金銭、それにお菓子の空き袋を丁寧に賞味期限が印刷されているところを狙って千歳は写真を撮っていった。全て撮影が終わると千歳は「全部元に戻しておくね」と言い、青いボストンバッグに手帳や財布を戻していった。相変わらず牧田は寝ていたが、千歳はノートに何かを書き始めた。
「しばらくここにいるか?」
「どうしよっかな……ここでテントを張ってもいいと思うけど」
「この先にもう少し広い場所があるんよ。テント二つ設営出来るし、そこに移動しないか?」
「そうね、そうしましょ。牧田君起きて」
 千歳は牧田を揺らして起こした。
「いま何時っすか?」
「今は午後の二時半や。この先にテント設営出来る場所があるから、そこに移動するで。テント設営が終わったら、そこで寝てもええからな」
 牧田は起き上がり、大きく伸びをした。それから僕達は百メートルほど離れた広い場所に移動し、レジャーシートを敷き直し、そこに千歳が座り、引き続きノートに何かを書き込んでいった。僕と牧田でテントの設営を始めることにした。僕は牧田にテント設営のノウハウを教え、テントを張った際のペグ打ちも上手にこなせていた。テント設営が終了すると牧田は、「まだ眠いっす。テントで寝てもいいっすか?」とあくびをしながら言った。
「全然かまへんよ。寝るんやったら寝袋に入って寝てや。晩ご飯の準備が出来たら起こすから」
「すんません。ちょっと寝ます」
 明日の為にも牧田を寝かせておいたほうがいいと思った。
 僕も休憩をしようと靴を脱ぎ、レジャーシートの上で仰向けになった。雲一つない青空が目に優しく映っており、たまにはこうして自然に癒やされるのも悪くないなと思った。
 午後四時半を過ぎ、次第に辺りが暗くなり始めた。僕はリュックからランタンを取りだし電源を付け、千歳に「そろそろ晩ご飯にするか?」と聞いてみた。千歳は「適当でいいよ」と答えたが、ボールペンを咥えノートとにらめっこをしていたので、上の空だなと感じた。僕はリュックから折りたたみ式のシステムキッチンを取りだして設営し、ガスバーナーを取り付けた。二合用の飯ごうにお米と水を入れて炊き始めると、ようやくアウトドアらしい雰囲気になったなと思った。ガスバーナーから出る火を眺めていると千歳が近寄ってきて「晩ご飯は何にするの?」と聞いてきた。
「レトルトのカレーやけど、缶詰も沢山持ってきてるよ」
「ねぇ、もちろん福神漬けもあるよね?」
「一応あるよ」
 僕はリュックの中から福神漬けの袋を二つ取り出し千歳に見せた。千歳はそのうちのひとつを手に取り、「これ、わたし用ね。一食で全部食べるから」と言った。
「別にええけど、、塩分の取り過ぎにならへんか?」
「漬物は大好物で、いつも食べてるから大丈夫よ」
 しかし、一袋全部食べるなんて聞いたことがなく、そんな食生活をしていたら高血圧で倒れないかと心配にもなる。
 ご飯が炊き上がったのでレトルトカレーを湯煎していると、千歳が「申し訳ないのだけど、牧田君はそのまま寝かせてあげて」と言ってきた。
「いいのか? ご飯は温かいうちが美味しいのに」
「出発の一時間前まで腰を振ってもらってたの。かなり疲れていると思うから、朝まで寝てると思う」
「それはそれはお盛んなことで。じゃあ、千歳から用意するわ」
 紙のお皿にご飯を入れ、レトルトカレーのルーも入れて千歳に渡した。千歳はお皿に鼻を近づけて「いい匂い」と言い、先程渡した福神漬けの袋を開けて全部お皿の中に入れた。僕はそれを見て、カレーというより福神漬け丼だなと思った。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
 千歳は一口食べて「美味しい」と言ったが、僕は「ちょっと聞くけどな、それってカレーのルーは必要やった? 福神漬け丼でも良かったんかなと思うわ」と言った。
「カレーのルーと福神漬けが合わさった味に美味しさを感じるのよ、分かってないな」
「そんなもん、一生分からんわ」
 薄暗くなった樹海の中で二度と経験することのない貴重な体験をしながら、僕は普段よりも味わってカレーを食べた。食事も終了したので、僕は千歳に「缶コーヒーあるけど飲むか?」と尋ねた。千歳は「ブラックがあるなら欲しい」と言ったので、ブラックの缶コーヒーを渡した。僕は微糖の缶コーヒーを開け、電子煙草を吸い始めた。
「ところで、ノートに色々と書いてたみたいやけど、捗ってるのか?」
「なんとなくイメージは掴めてきたの。ここに来て分かったことも沢山あったし、来て良かった」
「ここに来て良かったと思えるのが凄いよな」
 すると千歳は両足を前に伸ばし、両手を後ろに伸ばして座り直した。
「青木ヶ原樹海がどうして自殺の名所になったのか、その起源をここに来る前に調べたの。今から六十年程前の話になるんだけど、ひとつの小説が原因になってるの」
「小説が?」
「その昔ね、松本清張という小説家が書いた波の塔という小説があって、不倫の恋愛小説になるのかな、夫婦関係の冷め切っている奥さんが主人公の物語なの。簡単に言うと、主人公の奥さんは若い青年と不倫をして、それが夫にバレてしまうの。主人公はその挙げ句に夫からも不倫相手からも身を引いて、この青木ヶ原樹海にやってきて、近くのユースホステルでコーヒーを飲んだ後に、何かの白い薬を大量摂取するの。それからユースホステルを後にして樹海の中に入って物語はそこで終わり。かなり端折っているけど、そういう小説があったの」
「最後はオーバードーズで自殺をしたってことか」
「そうね、何の薬かは詳細に書かれていなかったけど、まさかビタミン剤なんて有り得ないし。それでここからが本題の話になるんだけど、その小説が出版されてから、この樹海で自殺をする若い女性が増えていくの。どうしてだと思う?」
 それは僕にでも何となくではあるが予想は出来た。
「主人公と同じような境遇の人が感情移入して、ここで自殺をしたんやと思うけどな」
「必ず同じような境遇じゃなくてもいいの。好きな人と結ばれなかったという理由だけで、自殺をした人も多かったみたいなの。その小説の主人公は、不倫相手の男性に対して自殺をすることで愛を示したかったのよ。好きな人と結ばれなくても、そういう愛の示し方があるんだなって小説から影響を受けて、主人公と同じようにここで自殺をする人が増えていったの」
「いやいや、それは愛になるのか疑問に感じるけどな。そんな愛の示し方をされた方は、たまったもんじゃないし、心に重たいものをずっと背負わされるようなもんやんか」
「ほんとうにそうなの。歪みすぎた愛の示し方だと思うよね。それから数年して、その本を枕にした若い女性の白骨化した遺体がこの樹海で発見されて、その自殺をメディアが盛大に取り上げたのよ。それから青木ヶ原樹海で自殺をする人が後を絶たない状態になってしまって、もうそれが何十年も続いているの。この樹海が自殺の名所になった所以は、そういう感じ」
 たかが一冊の小説で、そこまで世間に影響を与えたことに驚いたが、僕はあることを思い出した。
「その話を聞いて思い出したんやけど、バタフライエフェクトの世界やな。ブラジルでたった一匹の蝶の羽ばたきが、大気に微量な影響を与えて、その影響が連鎖して遠く離れたアメリカのテキサス州で竜巻を引き起こすって話ね。きっとその小説家も、そんな大事になるとは思ってもいなかったやろうし」
「確かにそうね。そう考えるとさ、ほんの小さな出来事から、回り回ってこの樹海で自殺をすることになったとも考えられるでしょ? わたしの話になるけど、現時点で自殺をするつもりはないけれど、人との関わり方やその影響で、最後は自殺をしているかもしれないし」
 千歳の声は、どこか哀しげで今にも消えそうな感じがした。
「千歳が自殺ね……俺からしたら月を失うのと一緒やな」
「月?」
「今の俺の世界は、木田さんが太陽で千歳が月、俺が地球って感じやな。月の存在がなければ、地球に知的生命は誕生していなかっただろうし、月が無くなってしまったら、ほとんどの生命体は絶滅してしまう。月の存在はそれだけ重要ってことや」
「そこまでわたしのことを評価してもらえているのなら、自殺なんて出来ないよね」
「もし自殺をしたくなったら、必ず俺に相談しろよ」
「今までに何度か自殺を考えたことはあるの」
 まさか千歳がそんなことを考えるなんて信じられなかった。
「相当辛い経験をしているんやな」
「だってね、物心ついた時から家族でわたしだけが浮いていたの。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんの暴れっぷりに翻弄されてたし、お姉ちゃんを中心に家庭は回ってた。前にも言ったでしょ? わたしは存在感のない子供だったこと。ずっとガラスみたいな存在で、両親はわたしを見てくれなかったの。どんなに優秀な成績を取っても、褒めてくれなかった。お姉ちゃんだけだよ、わたしの存在を認めていたの。それもね、お姉ちゃんの駒としての存在。みんなお姉ちゃんのことばかり……本当に嫌になって何度か本気で自殺を考えた」
「馬鹿な子ほどかわいいの典型的な例やな。千歳からしたら、親の愛情も全てお姉ちゃんに吸い取られたような気持ちになったんかな」
「きっとそうね、このまま生きていても親から愛されないと思ったから自殺を考えたけど、違う目標が出来たの」
「違う目標?」
「わたしがサイコパスの研究をしたい本当の理由はね、本物を探す為なの。本物のサイコパスと契約をして、お姉ちゃんの全てを奪ってもらうの。家族も友達も財産も生きてきた証しも全部奪って、絶望を与えて欲しい。それがわたしの人生の目標、軽蔑したでしょ?」
 僕は一人っ子だが、その気持ちはなんとなく分かるような気がした。僕も親から愛されていたかと問われたら、いいえと答えるだろう。
「千歳にも、そういう感情があったんやな。人間味溢れる目標やし、ええと思うで。でもさ、家族も奪ってもらうとなったら、千歳も消されないか?」
「サイコパスと契約する時点で、わたしの命はサイコパスの手中にある。お姉ちゃんに絶望を与えた後で、わたしにも絶望を与えると思う。決して幸せなんて与えようとしない、人を壊すことで快楽を得るような人達だから」
「サイコパスって、そんなに凄いのか」
 千歳は牧田が寝ているテントを見て、「牧田君、寝てるよね」と言った。テントからは牧田のイビキが聞こえていた。
「わたしが今の大学に来たのは、黒沢教授が居たからなの。犯罪心理学とサイコパス研究の分野で、黒沢教授が日本では一番の実力者だし、世界のサイコパス研究者達と太いパイプも持ってる。わたしね、一回生の頃から黒沢教授に近づいて、条件付きで愛人になったの」
「その話、もっと詳しく聞かせてよ」
「サイコパスに関する全ての研究データを閲覧させてくれるなら、わたしの身体を自由に使っていいよという条件で愛人契約したの。そのおかげで去年のことだけど、黒沢教授とアメリカで開かれたサイコパスの脳科学研究フォーラムに同行させてもらえて、いろんな人と繋がりを持てたの。その中でね、黒沢教授と仲の良かった研究者の職場に同行して、サイコパスの実験映像を見せてもらって、今思い出すだけでも背筋がゾクってする」
「それってどんな実験なん?」
「詳しくは話せないけど、シークレットレベルの高い映像だったから。簡単に言うとね、とあるアメリカの刑務所に、二人のサイコパスを同時に移送させて収監したの。その二人の選抜理由が、高い知能指数と人を操る術を高度に身につけていたからなの。もしその優秀な二人が顔を合わせたら、どういう化学反応があるかの実験だったのね。その二人は面識がなくて、収監された当初は話し合う場面が一度も無かったけれど、それぞれが囚人達に偽の情報を吹き込んで信じ込ませるの。目の動きと言葉だけで、囚人を次から次へと洗脳していくんだから、びっくりだよ。それから二日後には大暴動が発生して、刑務所は火と煙に包まれてしまうの。そこでようやく、その二人は話し合うのだけれど、一人がね『いつになったら、神になれるんだろうな』って話すと、もう一人が『神を手下に置けば、全ての問題は解決されるよ』って答えたの。煙が充満していく中で、その二人は決して逃げようとはしなかったし、嬉しそうに暴動を眺めていたの。最後は二人とも一酸化炭素中毒で死んでしまったから後味の悪い結末だよね。実験の想定を遙かに超える甚大な被害になってしまったから、シークレットレベルも高くなって世に出ることのない実験映像だったよ」
「現実味がないというか、映画の世界みたいな話やな。それにしても、千歳はそんな危険人物を探そうとしてるのか」
「さっきの二人はサイコパスの世界でも、中の上ぐいらの実力者。わたしが求めているのは、上位に君臨している人達」
「ひとつ疑問に感じるねんけど、千歳ぐらいの才能があっても、サイコパスには勝てないのか?」
「勝ち負け以前の問題だよ。資質が違いすぎる。サイコパスの脳機能に関する研究が進んできて分かってきたのだけど、他者に共感する脳の部位がほとんど機能していない。他者が苦しんでいても、共感も同情もしないから非道な事も平気で出来てしまうの。先天的な脳の問題だから、努力でサイコパスになれる話ではないのよ」
「俺が思っている以上に、茨の道になりそうやな。その為にイギリスに留学もするんやしな。牧田の存在というか、今後どうしていくの?」
「時々ね気持ちが揺らぐの、牧田君のことで」
 千歳は俯き加減でそう言った。
「牧田のこと、本気で好きなんか」
「牧田君って不器用だし、頭も悪いし、一人じゃ何も出来ないし、わたしの前でいい格好をしようとしても失敗してるし、何をしても出来が悪いんだけど、そのどれもがわたしの心をキュンってさせるの。わたしの母性を刺激してくるから、愛らしいから……。出来の悪い子ほど愛おしい気持ち、今になって分かったの。お母さんがお姉ちゃんを優遇していた気持ちも、牧田君を通じて気付いちゃったから、凄く心が揺らぐ」
 千歳が牧田を好きになった本当の理由が、それだったのだ。
「復讐を諦めたら、サイコパスの研究に情熱は注げなくなりそうなんか?」
「研究者には成りたいから続けるとは思うけど、復讐を諦めたらわたしには何が残るのか怖くもなるし」
「千歳も牧田も、お互いに必要な存在だったから、出会うべくして出会ったのかもしれんな。今朝感じたことなんやけど、牧田は以前と違って落ち着いていたし妙に大人な雰囲気に変わってた。一皮剥けた感じがしたし、それは千歳と付き合ったからやろうなと思った。恋愛におけるご縁って、お互いが成長する為に必要な存在と出会うことなんやと思う。それに復讐を諦めても、牧田との愛は残るやん」
 それまで俯き加減だった千歳は、空を見上げ「うん……そうね」と、どこか諦めたような声で言った。千歳の目尻からは光の雫が流れ、その美しさに心を奪われそうになった。のみならず、抱きしめてやりたいとさえ思った。
「そろそろ寝るね」
「そうやな、明日の為にもゆっくり寝てや」
 千歳は牧田が寝ているテントに入っていった。千歳がここまで僕に心を開いてくれたことは、一度もなかった。千歳もそうした心の問題を抱えていたことを知り、どうして今になって告白したのだろうかと疑問に感じたが……きっと僕が千歳に相談ばかりして頼り甲斐がのない奴だと思われていたのかもしれない。ふと空を見上げると、沢山の星がキラキラと美しく光っていた。こんなに美しい星空なら由美子と一緒に見たかった。
 僕は自分のテントに入り、ランタンの光を付けたまま寝袋に入った。次第に身体が底なし沼に落ちていくような感覚になり、このまま落ち続けたらどこに辿り着くのだろうかと思った。そこに由美子がいてくれるのなら……。

 何かの爆発音の後、機体が大きく振動した。前方から後方へと空気が一気に流れ、上から酸素マスクが落ちてきた。
『マスクを付けてください。ベルトを締めてください。煙草は消してください。ただいま、緊急降下中』
 警報音が鳴り響き、悲鳴を上げる乗客もいた。それから機体が大きく左右に揺れ始め、大しけの中を運航する船のようだった。窓から外を見ると、この世の終わりのような暗い夕暮れ空で、かと思えば大きく左に傾き真っ黒な地上が見えた。
「墜落する!」
 誰かが大きくそう叫んだが、僕の身体は震えて身動きが取れなかった。そんな中、誰かが僕の右手を握った。
「あと少しだったのに、どうしてこんな事になってるの?」
 震えた女性の声が、僕に訴えているようだった。あと少しって何? と思ったが、機体が前方に大きく傾き、僕は「その手を離してくれ。俺はここから逃げるんや!」と叫んだが、その右手は決して離してくれなかった。乗客達銘々の悲鳴と異常なエンジン音が混ざり、この世の終末の光景だと思った。僕の手を握るその先に、悲壮感漂う女性の顔が見えた。
「おまえは一体誰だ?」

 荒い呼吸の末に、僕は咳き込んだ。おぼろげなテントの天井を見て、僕は夢を見ていたのだと気付いた。今年になって飛行機の悪夢を見るのは二回目だ。以前見たのはいつだったか忘れたが、遠い過去ではない。何かのストレスが原因なのだろうか、幼少期から見るこの悪夢に僕は度々悩まされている。身体から吹き出る汗のせいで気持ち悪さを感じ、僕は寝袋から出た。服を脱ぎタオルで汗を拭くと、身震いするほどの寒さを感じたが、そこは我慢して制汗スプレーを身体に吹きかけた。風呂に入っていなかったこともあり、さっぱりとした爽快感があった。
 テント内から外を見ると、まだ辺りは暗く、遠い空は少しだけ明るかった。きっと日の出近くの時間帯だなと思い、スマホの時計を確認すると午前五時十分を過ぎた頃だった。僕はテントから出て大きく伸びをすると、「森若さん、やっと起きてくれたんですね。俺、もう腹ぺこで死にそうっすよ」と牧田が悲痛な声で言った。
「牧田、起きてたんか。昨日のご飯やったらあるけど、缶詰と食うか?」
「めっちゃ欲しいっす」
 僕はリュックからラップ保存していたご飯と、いくつかの缶詰を牧田の前に置いた。
「見たこと無い缶詰ばかりですやん」
 牧田は早速、かに味噌の缶詰を開けて食べ始めた。
「牧田、今から朝ご飯用の米も炊くけど、どうする?」
「もっと食べたいっすよ」
 牧田は必死になってご飯を口の中へかきこんでいたが、その姿を見て食べ盛りの少年のようだなと思った。
 僕は飯ごうにお米二合と水を入れ、ガスバーナーに火を付けると、その輝きに心を奪われた。縄文時代の人達にも、こうした火の美しさに心を奪われることがあったのだろうか。そんなことを考えていると、辺りが少しずつ明るくなり始め、鳥のさえずりが耳に心地よかった。
「うっうっ」
 どうやら食べ物を喉に詰まらせたらしく、牧田は自分の胸を叩きだした。僕は急いで紙コップに水を入れて渡した。
「もっと落ち着いて食えよ。誰も取らへんねんから」
 牧田は一気に水を飲み終え「違うんっすよ。あれ見てくださいよ」と指しながら言い、僕は牧田の指先の方向に目をやった。
「なんやあれ」
 僕はランタンを持って立ち上がり、もう一度それをよく見てみた。
「あれ、誰か首を吊ってるんか?」
「絶対にそうっすよ。千歳さんを起こさないと」
 あの場所は、青いボストンバッグが置いてあったところだ。テントから千歳が出てきて「ほんとに?」と驚いた声で言った。
「あれ、誰かが首を吊っているように見えるねんけど、昨日のバッグが置いてあったところやと思う。どうする?」
「行ってみましょ」
 千歳は物怖じしない気質なのか、堂々と先頭を歩いた。僕と牧田はその後に続き、次第にその全貌が見えてきた。高さ二メートル程の太い木の枝に、縄を取り付けて首を吊っている人らしき姿があり、白いパーカーにジーンズを着用していた。しかし、靴は履いておらず、周りにも見当たらないので違和感があった。遺体の下には四十㎝程の黒い踏み台があり、その横には昨日見た青いボストンバッグがあった。その奥に何か見えたので近づいてみると、淡いグレーのショルダーバッグがあり、それは女性物のバッグに見えた。首を吊っている人物は女性なのかもしれない。千歳は踏み台の前でしゃがみ、本らしきものを手に取った。僕は千歳に近づき「なんやその本」と尋ねると、千歳は本の表紙を手でさすり「布地の本って珍しいよね。卒業アルバムみたい」と言った。その本は紺色で表紙には金の箔押しで『愛の法則』と書かれていたが、目の前で首を吊っている人は、恋愛関係のいざこざで自殺をしたのだろうかと思った。
「牧田君、レジャーシートをこっちに持ってきてくれない?」
「じゃあ、俺も一緒に行くわ。テントも片付けて、こっちに荷物を移動させるわ」
「レジャーシートとわたしのリュックを、先に持ってきてくれると助かる」
「了解っす」
 僕と牧田はテントの場所に戻り、千歳に頼まれた荷物を牧田に先に持って行かせた。しかし、よくよく考えてみると昨日の時点で、首を吊っている人の姿はなかったのだから、昨日の夕方から今朝までの間に実行したことになる。
「あっ!」
 僕は急いで千歳の元へ戻り「まだ生きてる可能性はないのか?」と千歳に尋ねた。千歳はその人の腕元を手に取り「かなり冷たいし、死んでると思うけど脈を測ってみるね」と言い、手首の親指側に指を添えた。どうして千歳は死んでいるかもしれない人の身体を、何の躊躇もなく平気で触ることが出来るのだろうか。僕は必死になって、その人の顔は見ないように視線を下げているというのに……。
「やっぱり脈拍はないよ」
 そうなるとこれは遺体になるのだから、僕らは第一発見者となる。
「どうするよ、警察に通報した方がええんちゃうの?」
「自分の土地なら警察に通報する義務は生じるけど、そうじゃないから通報はしなくてもいいの。通報なんかしたら、色々と聞かれて面倒だし」
 しかし、このまま遺体を放置してしまうのも可哀想な気がしてならなかったが、確かに面倒なことに巻き込まれるのも嫌なので、ここは千歳に従うのが良さそうだなと思った。
「分かったよ。ちょっと聞くけど、その遺体は女性なのか?」
「顔を見れば分かるでしょ?」
「いや、怖くて顔を見ることが出来ないんや」
「森若さんって、意外とデリケートなんっすね」
 牧田の馬鹿にしたような言い草が妙に腹立たしく感じ、僕は「君たち二人が無神経過ぎるだけの話や。牧田、とりあえずテントを直しに行くぞ」と言い、テントの場所へと向かった。僕は腹いせに牧田に指示だけを出して、両方のテントを片付けさせた。荷物移動も牧田にまかせ、僕は飯ごうだけを持って千歳の元に戻った。千歳は遺体の足を入念に見ているようだった。
「千歳、その足に何か違和感でもあるんか?」
「足の裏なんだけど、全く汚れていなくて綺麗なの。裸足で歩いたとなると、汚れているはずでしょ? 靴もないし靴下もない。バッグも調べたけど、財布しかなかったの」
 僕も最初に遺体を見た時、確かに違和感があった。どうして裸足なのだろうかと。
「首吊りをしてから、靴と靴下が無くなったということか?」
「動物の仕業だとしても、両方の靴が無くなるなんて有り得ないし、誰か他に人が居たのかもしれない。でもね、靴と靴下を持っていく動機が見つからないの」
 どうやら千歳探偵でも分からないことがあるらしい。僕としては、そんなことすら知りたいとは思わなかった。そういうことは千歳にまかせ、僕は再び飯ごうに火をかけ、朝ご飯の準備を始めた。
 しばらくすると千歳は黒い踏み台を手で触り「これって折りたたみ式なのかな」と確認を始め、すると難なく高さ四十㎝程の踏み台は、厚さ五㎝程まで折りたたまれた。
「これならショルダーバッグに入るよね」と千歳は言って、実際にバッグの中に入れてみるとピッタリと収まった。その女性は用意周到に踏み台まで用意していたとなると、その本気度合いがよく見えてくる。続けて千歳は財布の中を調べたが「現金しか入ってない」と残念そうに言った。僕は千歳に「昨日のバッグに入ってた財布も、身分証明がなかったやろ? 自分のことを知られたくない心理でもあるんか?」と尋ねてみた。
「生きた証しを残したくないんだと思う。どこの誰でもない、名前の無い人間として最後を迎えたかった……それだけ自分の事を愛せなかったというのが、一番腑に落ちる理由だと思うの」
 よく耳にする『自分を愛せないと、人を愛することは出来ない』という言葉を思い出した。僕は自分のことを大切にしている方だと思うのだが、それが果たして自分を愛することになるのかは分からなかった。
「千歳、だからその人は愛に関する本を持っていたのか?」
 千歳はレジャーシートに置いていた紺色の本を手に取り「読んでみないと分からないけど、愛というものを探していたのかもしれないね」と言った。
 ご飯が出来上がったので、僕達は朝食をとることにした。遺体を前にしてご飯を食べるなんて、とんでもない状況なのだが、千歳も牧田も平気な様子だった。僕は何の缶詰を食べようかと迷っていたが、ふと視線を感じたのでその方向に目をやると、垂れ下がっている足が目に入り、それだけでもう食欲が失せてしまった。やはりこんな状況で食事は出来ないと思い、リュックから缶コーヒーを取りだし電子煙草を吸い始めた。気休め程度に吸い始めた煙草も、ここでは美味しさを感じない。
「この牛ハラミの缶詰、めっちゃ美味いっすよ」
 どうやら牧田の舌を唸らせる缶詰があったようで、もの凄く美味しそうに目を閉じて食べていた。すると千歳が「わたしにも、一口ちょうだい」とおねだりをすると、牧田は一切れのハラミを箸で取り、千歳の口の中へ入れた。もうそれは二人だけのピクニックの世界だなと思った。
「これって焼き肉屋さんの味だよね」
「そうっすよね。一生、この缶詰だけでも食べていけますよ」
「それならわたしの手料理は、いらないってこと?」
 牧田はまるで時間が止まったように動けなくなっていた。
「そうじゃないんっすよ。所詮缶詰なんで、明日には飽きてますよ。千歳さんの手料理は毎日食べたいっす」
 苦し紛れの言い訳を牧田はしていたが、それを見ている千歳は本当に幸せそうに微笑んでいた。昨日千歳が話していた牧田のこともそうだが、本当に心から好きなのだなと感じ、その微笑みの中に愛らしい少女の千歳が見えた。
 食事が終わると千歳は先程の本を読み始めた。牧田は周囲に靴や靴下が落ちていないか探索することになり、僕は朝食の後片付けをしていた。急に木漏れ日が差し込み、ふと上を向くと綺麗な青空があった。遺体さえなければロケーションとしては最高なのだが、幻想的な木漏れ日も、これではあの世の光景ではないかと疑いたくもなる。
 それから一時間程経過し、牧田が長い木の枝を左右に振って、地面を確認しながら戻ってきた。
「何にも落ちてないっすよ」
 落胆した表情で牧田は言ったが、何か落ちている方が不気味なのだ。
「牧田君、ありがとうね」
 千歳にそう言われると、牧田は照れくさそうに頭をかいた。僕は紙コップに水を注ぎ、牧田に渡した。
「とりあえず、休憩しいや」
 牧田は一気に水を飲み終え、煙草を吸い始めた。
「森若さん、木田さんって怖くないんですか?」
 いきなり何を聞いてくるのだと、僕はびっくりした。
「別に怖くはないよ。怒られた事もないし、話していて面白いし、気も合うねんな」
「木田さんは可愛いとは思うんっすよ。小顔だしスタイルもいいし。でも、目つきが怖くて井上も俺も、近づきにくいって思ってたんっすよ」
「木田さんはガードが堅いねん。俺も最初、木田さんに話しかけた時は素っ気ない返事しかなかってん。俺がお客さんに殴られて倒れた時があったやろ。あの時、殴られた頬に木田さんはずっと氷を当ててくれてたんや。そういう優しい面もあるねんで」
「そうなんっすね」
「牧田こそ大金星やないか。千歳と付き合うまでいってるねんから」
「それは嬉しいんっすよ。でも、いつか捨てられそうな気もするんっすよ」
 牧田にもそうした不安を感じることがあることに驚いたが、その悩ましい表情から自分に対して自信がないのだろうと感じた。それを聞いていたのか千歳は立ち上がり、僕と牧田の間に割って座った。千歳は牧田の頭を軽く本で叩き「いつからゴミになったの? 捨てるなんてするわけないし、心配しなくてもずっと首輪を付けてあげるから。それよりね、この本凄いの」と言った。
「その本で愛は分かるんか?」
「この本は愛の本じゃないし、普通に読んでも書いてることなんて意味不明なことばかり。この本は何かの謎を解く為に作られた本だと思うの」
 すると千歳は本の最後の方にある奥付のページを開き、僕と牧田に見せた。そこには沢山の付箋が貼り付けられており、細かい字で色々と書いているようだった。
「この本ね、マチルダ出版が発行元と書いているけど、そんな出版社なんてないし、住所も載ってない。この本には沢山の付箋が貼ってあって、謎解きをしてたようなの。ちょっときて」
 千歳は立ち上がり、遺体の元へと向かった。僕は遺体の顔を見ないように下を向いたまま、千歳の後に続いた。千歳はその遺体の腕をまくり、「やっぱりね。このアームカット、不思議でしょ?」と言った。その腕には合計五つの井の字が掘られており、それぞれにマルバツゲームをした痕跡が掘られていた。
「ちょっと怖いな。それってリストカットやろ? そんなマルバツゲームみたいなものを掘るものなんか?」
「正式にはアームカットだよ。ちょっとこれ見て」
 千歳は本のページを開き、「先頭の文字から右斜め下方向に読んでみて」と言った。僕はその文字を目で追いながら「腕に井の字を五つカッターでほれ」と読んだ。僕は一歩下がって、「ちょっと怖すぎる。なんやねん、その本」と恐怖のままに訴えた。千歳は僕に微笑み「これ、奇書だよ。この人、この本の謎が解けなくて自殺したんだよ。本の内容を鵜呑みにしすぎだもん。別にさ腕に傷をつけなくてもノートに書けばいいのに」と言った。
「そんなことで自殺なんかするか?」
 千歳はまた、僕に本の中身を見せてきた。千歳が指した場所の付箋を読むと、『私には謎が解けなかった。228が誰なのか、分からないし探せなかった。誰かこの本を見つけたら私の代わりに探して! 私にはもう時間がないみたい』と書いてあった。僕にはさっぱり意味が分からなかった。
「千歳、俺にはようわからん。この228って何や」
「この本ね、シリアルナンバーがあるの。この本のシリアルナンバーは227。228の本を持っている人を探す必要があるみたい」
 僕の脳内はフリーズしたように動かなくなった。いや正確に言えば、ぼんやりとした感覚で危険な匂いがした。触れてはいけないような、昔から禁止されている遊びのような……。
「牧田君、ちょっとこの腕を持ってて。スマホで撮るから」
 牧田は遺体の腕を持ち、千歳はそれをスマホで写真撮影を始めた。僕はその様子を見て、死者に対する尊厳みたいなものをその二人から感じ取ることが出来ず、遺体ではなく死体として扱っていることがよく分かった。だからといって二人を軽蔑するつもりはなく、僕の気持ちが追いつかないという話だ。写真を撮り終えたのか千歳が「森若君、本当に申し訳ないのだけど、樹海の探索ここで終わりにしたいの」と言ってきた。
「終わりって、もう帰るってことか?」
「うん、前にヴォイニッチ手稿の感想を集めている奇書の友達がいるって話をしたでしょ? この本も奇書だから、その友達と一緒に謎を解こうと思うの。今から牧田君を連れて、その友達の住んでいる東京へ行きたいの」
「その本を持って帰るの?」
「だって、この本を見つけたら私の代わりに探してと書いてたでしょ?」
「千歳、その本から凄く危険な匂いがするねん。関わらん方がええと思うし、なんか心がざわつくというか触れたらあかんような気がするねん」
「そうね、この本に悪意が満ちているのは確かよ。ほら、この写真を見て」
 千歳はまた本を開いた。そのページの上部には白黒写真があった。パーティドレスを着た女性が中央に立ち、その両側には五名ずつのタキシードを着た男性が立ち並んでいた。ワイングラスを高々と上げ、みんな笑顔だったが、何か違和感がある。
「千歳、この写真なんやけど、なんか違和感があるねん。でも、それが何かわからん」
「これ写真じゃなくて絵なの。それもだまし絵」
「え? 写真にしか見えへん」
「その本を逆さまに持ってみて。それから少し本と目の距離を空けて、舐め回すように写真を見てくれる?」
 僕は千歳の指示通りにやってみた。僕はそれを見て、咄嗟に本を投げ出した。
「ちょっと、乱暴に扱わないでよ」
「いやいや、その首吊り自殺と同じ光景の絵が描かれてるやんか。靴も描いてなかったぞ」
「だから悪意のある本だって言ってるじゃん。この本を手にしてから228日以内に何かを見つけないと、自殺をする運命だって脅しているけど、子供だましだよね」
「子供だましというレベルの話とちゃうやろ。これ自殺じゃなくて事件の可能性もあるんとちゃうの?」
「まだ分からないよ。だから謎を解く必要があるの。危険は承知だけど、この本の作者は知的水準が高いし、こうして死者も出てる。わたしが飛びつく理由も分かるでしょ?」
 知的水準が高くて死者も出ている。千歳が昨日言っていたサイコパスの話を思い出した。
「この本の作者は千歳が探し求めているサイコパスの可能性があるってことか?」
「ビンゴ! それにね、わたしの心の中でどうしても謎を解明したい欲求が強くなってるの。挑戦状を叩きつけられたような気持ちかな」
 千歳の好奇心が旺盛なのはよく分かるのだが、僕は事件性を感じ恐怖心でいっぱいだった。僕は周りを見渡し、ひょっとしてこちらの様子を(うかが)う第三者が居るのではないかと疑った。
「もう好きにしてくれてええから、早くここから出よう」
「急に予定を変えて、本当にごめんね」
 僕は素早く帰る準備をして、リュックを背負った。僕はナビを手に持ち「忘れ物ないか?」と聞いてみた。すると牧田が「この人に、手を合わせてから行きます」と言い、遺体に向けて手を合わせ礼をした。僕も牧田と同じようにそうしたが、心に余裕はなく手向けの言葉すら思いつかなかった。結局、僕はその遺体の顔を見ることはなく、その場を後にした。
 ナビを見ながら遊歩道を目指して歩いていたが、昨日こんな道を通っただろうかと不安になった。どこを見ても同じように木が生い茂り、地面も枯れ葉と枝だらけで人が歩いた痕跡さえも見当たらない。自然は確かにあるのだが、人が生きている形跡はない。歩く度に地面にある木の枝は折れ、その音だけが僕達の存在を証明してくれているような気がした。
 歩き続けて三十分程経過した時、千歳が「ちょっとまって」と言った。振り向くと千歳は地面を見ていた。
「ここが境界線ね。ここまでは道がなかったけど、ここから先は道になるの」
 千歳の言うとおりなのだが、それがどうしたというのだろうか。
「千歳、何を言いたいんや?」
「昨日話をした松本清張の小説にね、主人公が青木ヶ原樹海を見て、どこにも行けない道ってあるのねって心の中でつぶやくの。その人達の人生と同じ、どこにも行けなくなって最後はここに辿り着く。この境界を越える一歩は、自殺を決意させる一歩なの」
 僕はその地面の境界を見ながら「どこにも行けない道か。どこかで間違えたんやろうな。ややこしい道が腐るほどある世の中やから、正しいと思って進んでいても、結局はここに辿り着いてしもたってことなんやろう」と言った。千歳はその地面の境界をスマホで撮影した。僕も気をつけなければならない――そんな間違えた一歩を踏み出さない為に……。
 それから僕達は歩き続け、誰とも会わないまま富岳風穴の駐車場に辿り着いた。車が通る姿を見て、ようやく文明のある世界へ戻ってきたという安心感で胸が一杯になった。もう一泊することになっていたら、僕の精神は相当きつかっただろうと思った。僕は車のトランクを開けリュックを乗せると、牧田も続けてリュックを乗せた。僕は牧田に「千歳のこと、幸せにしてやってくれな。俺の大事な友達やから頼むぞ」と言葉を贈った。
「最後の挨拶みたいじゃないっすか」
「こういうのは、言える時に言っといた方がええんや」
「任せてくださいよ。必ず千歳さんを幸せにしてみせますよ」
「じゃあ、元気でな」
 牧田は自分の車へと向かい、千歳が僕のところにやってきた。
「森若君、本当にありがとう。今から東京に行くね」
「うん、無理せんと気をつけてや」
 千歳は牧田の車に乗り込み、僕を見て手を振っていた。僕も千歳に手を振ったが、心のどこかでしばらく会うことはないだろうと思った。牧田の車は駐車場を後にし、これで青木ヶ原樹海の旅行は終わりを告げた。家に帰ったら由美子に連絡をしなければならない。どんなことを告白するのか、もう既に胸がざわつき始めた。帰る予定が一日早まったことは、僕にとってはいいことだ。後は気をつけて家に帰ろう。今日、由美子の声を聞ければいいのだが。

 自宅に到着すると、午後四時を過ぎていた。六時間以上も運転をしているとさすがに疲れを感じたが、由美子に連絡をしないといけないので寝るわけにはいかない。僕はシャワーを浴び、身を清めてからベッドの上に座った。スマホを手に取り由美子との履歴を確認すると、『聡君が家に帰ったら、あたしに連絡して。話したいことがあるから』の文字があった。千歳が言っていたように、由美子は心にある大きな問題を告白してくれるのだろうか。或いは千歳が深読みをしすぎており、実はエビの尻尾に関することで泣いていたという線も捨て切れてはいない。どういう話であろうと僕は覚悟を決め、由美子にメッセージを送ることにした。
『予定が早まって、さっき帰ってきました。いつでも話は出来ます』
 後は由美子からの返信を待つのみだ。僕は旅行に持っていってたリュックの中身を片付けようとしたその時、着信音が鳴った。もう反応があったのかと確認してみると、由美子からの通話着信だったので僕は応答ボタンを押した。
「聡君、おかえり」
 由美子の声は元気ではなかったが、久しぶりに聞くその声に僕は安堵した。
「ただいま。予定より早く帰ってきたよ」
「旅行どうやった?」
 由美子が悩みを打ち明けるのであれば、首吊り遺体があったことは伏せておくのが良さそうだなと思い、僕は「あまり楽しくはなかったけど、いい経験にはなったと思うよ。初めて行く場所やったし」と言った。
「そうなんや。あたしとしても聡君が早く帰ってきてくれたから助かったんよ」
「それはどうしてなん?」
「今からあたしが話すこと、ずっと悩み続けていることなんよ。聡君と付き合いたいからどうしてもこの話をしないと前へ進めないし、聡君がこのままどっかに行ってしまいそうで不安になって押しつぶされそうやってん」
 由美子の声は少々震えていた。僕は由美子に穏やかな声で「俺の行く先は由美子のところだけやから、一緒に前へ進むためにも由美子の話を聞かせて欲しい」と言った。
「ありがとう。前の通話の時にあたしが泣いたのは、エビの尻尾の話じゃないから先に言っておくね。聡君、勘違いしてると思うから」
 千歳の言うとおりだった。
「それじゃ、食事を残すことに関する話になるんかな?」
「うん。あたしな、子供の頃から食べ物をよく残していて、その度にお母さんに叱られてたんよ。好き嫌いで残してないのに、お腹一杯でどうしても食べられないってお母さんに言っても、もったいないって怒鳴られて癇癪(かんしゃく)まで起こされてたんよ」
「癇癪って、普通子供が起こすようなもんやろ?」
「お母さんは仕事と子育てのストレスで、相当きつかったんやと思う。あたしが残した料理をお皿ごとゴミ箱に捨てて、今まで何枚のお皿が割れたか分からないぐらいなんよ。食べ物を残すってことは、お母さんの料理が不味いって言ってるのと一緒なんやでって怒鳴られて、我が儘な子やから本当にムカつくわって言われ続けてた。そういうのを毎日繰り返してたから、あたしもしんどかった。お父さんが帰ってきた時だけ、いいお母さんを演じてたし」
 由美子の家庭環境は、想像以上に悪いことが分かった。しかし、それでは……。
「そうなったら、ご飯の時間に楽しさなんてないやろうし、地獄そのものやな」
「本当にそうなんよ。家だけじゃなくてな、小学五、六年生の時の担任も酷かった。給食を全部食べ終わるまで、あたしだけそのままにされてた。掃除の時間が始まっても午後の授業が始まっても、あたしだけ給食の時間。みんなから白い目で見られるし、仲良かった友達も離れていった」
「それはもう虐待の世界やな。その先生は酷すぎるし、教師になったらあかん人間やろ。目の前にいたら殴りたくなるな」
 由美子に対する虐待に比べたら、殴られる程度で済まされる話ではない。
「その担任に仕返しするなら、麻酔なしで歯を一本一本全部抜いていきたい。爪も全部剥がして鼓膜も破いてアキレス腱も切ってやりたい」
 由美子はそこで泣き出してしまった。由美子が心に負った傷は、その仕返しの内容以上の痛さがあったのだと僕に訴えているようだった。
「由美子、辛かったやろうな。沢山泣いてええから、心に詰まった膿を全部俺に吐き出してくれ。由美子の全てを知りたい」
 僕は心に思っていることを伝えたが、由美子はそのまま泣き続けていた。今までの食事の時間がそのような状況だったとすると、それはあまりにも悲惨で酷すぎる。人間の三大欲求の一つでもある食欲を満たす時間は、これまで生きてきた人生の中でも膨大になるはずだ。その時間を楽しむのではなく、苦痛に過ごすなんてあってはならないのだ。もはや人間の尊厳を踏みにじられているし、たちの悪い大人達に苦しめられている少女のようで可哀想でならなかった。千歳が言っていた由美子の重大な心の問題が、ここまで酷いものとは想像すら出来ていなかった。なんとしても僕は由美子の力になりたいし、全てを受け止めたい。
「ごめんね、また泣いてしまった」
「気にせんでええよ。ありのまま言ってくれてええから」
「うん」
 由美子の涙声を聞いているだけで僕は辛かった。その時代に由美子のそばにいれなかったことが、どれほど悔しいことか。それを嘆いたところで過去が変わるわけでもないし意味も無い。今こうして由美子と出会えている事に必ず意味があるのだと、自分に言い聞かせた。
 少し落ち着いてきたのか、由美子は「それでな、中学生になっても給食はあるんよ。もうあたしの方が給食の時間そのものに耐えられなくなって、気付いたらお皿とか机や椅子を投げて暴れたことがあって、それ以降学校に行けなくなったんよ。だから中学校は五日しか行ってなくて、ずっと引きこもってた」と言った。
 昔、由美子が中学生の頃に登校拒否をしていた話を思い出したが、まさかそのような理由だったとは思わなかった。
「学生生活も犠牲になってしもてんな」
「沢山のものを失ったけど、お父さんだけはあたしの味方でいてくれた。それからな、お父さんが心配してくれてメンタルクリニックに連れて行ってもらったんよ。診察とカウンセリングを続けていたら会食恐怖症(・・・・・)って診断されて、お父さんがお母さんに食事の事は一切何も言うなって強く注意してくれたから、お母さんは何も言わなくなったけど……もう手遅れやったんよ。あたしは何も変わらないまま中学校を卒業して、トラウマだけが残ってた」
 由美子の声は少し冷静になっていたが、僕の方が冷静さを失いそうだった。会食恐怖症……初めて聞く病名だった。しかし、母親と先生が原因で発症したのだとすると、それはもう生まれてきた環境が最悪だったと言うしかないのだか、お父さんという存在がいることで、そう簡単に言い切れるものではないと思った。
「そうやったんやな。お父さんが味方になってくれたのは、唯一の救いやな」
「お父さんが居てくれなかったら、もうあたしはこの世に存在してなかったと思う」
 由美子のお父さんには心から感謝したいし、由美子にも頑張ってよく生きてきたと労ってやりたい。
「お父さんも凄いけど、由美子もよく頑張って生きてきたと思うよ」
「聡君にそう言ってもらえると凄く嬉しいよ。あたしね、もう高校には行けないと思ってたんよ。お父さんと進学の話になった時、通信制の高校なら昼食もないから安心して勉強も出来るよって後押ししてくれて。それで通信制の高校に入学して、お父さんがそのお祝いにパソコンとペンタブレットをプレゼントしてくれたんよ。中学生の時、引きこもってずっとノートかスケッチブックに絵を描いてたんやけど、それをお父さんに見せたらあたしには絵の才能があるって褒めてくれて、それでそういうプレゼントをしてくれたんやと思う。パソコンで絵を描くようになってイラストの世界が好きになって、自分でもびっくりするぐらい沢山の絵を描いて……ほんと無我夢中やってん。高校三年生の時にな、イラストレーターになりたいから大学に行きたいってお父さんに相談したら、好きなことを仕事にするのが一番やからって大喜びしてくれたんよ。今の大学に通えるようになったのも、全部お父さんのおかげ」
 昔、由美子が『好きな事を仕事にするって最高やと思わん?』と言っていたことを思い出した。その言葉がずっと僕の心に残っていて、テーマパークで働きたいという動機を与えてくれたのだ。その言葉の発信主は由美子のお父さんだったようで、僕の心にも届き人生を進められるように導いてくれている。そう考えると感慨深いものがある。
「由美子のお父さんの言葉って、人に勇気や希望を与えてくれるよな」
「きっと国境なき医師団で働いてるから、いろんなことを経験してるんやと思う。戦争や紛争の地で、絶望的になっている人達に希望を与えるのも医者の務めやって言ってたから、自然と人の心に希望を与える言葉を使ってるんやと思う。お父さんのことは凄く尊敬はしてるねんけど、でもな、あたしが世界で一番好きなのは聡君なんよ」
 急に僕の心を揺るがす言葉が耳に入り、びっくりした。
「それは嬉しいねんけど、その理由を聞かせて欲しい」
「ほら、聡君があたしに腹八分目の話をしてくれたやんか。あの話を聞いた時に衝撃を受けたんよ。そういう考えをしている人が世の中にいるんやなって、食べ物を残しても大丈夫なんやってことを聡君が教えてくれた。お医者さんもカウンセラーの人も、そういうことは言わなかったもん」
 腹八分目の話が由美子の心を揺さぶったということなら、それは僕というより両親の教育のおかげだ。
「家庭環境で随分と育て方は違うんやなって思ったよ。俺の両親の教育方針が食事は腹八分目にしときなさいやったから、自然とそういう考え方になってたんよな」
「あの話を聞いてな、心の中に詰まっていたものが全部流れ出たような感覚になって、あたしの事を本当に理解してくれる人にやっと出会えたと思ったら、自分でも感情のコントロールが出来なくなって泣いてしまったんよ。夏のアルバイトの時、いつも一緒にお昼休憩は喫煙所ですごしてたやんか。あたしにとってお昼の時間ってトラウマやってんけど、聡君と毎日楽しい話が出来て凄く希望が持てたんよ。聡君となら一緒に食事をしても楽しく過ごせるかもって。そういう風にあたしの気持ちを変えてくれたから、もう聡君のことしか見えなくなって好きになってた。アルバイトの最終日が近づくの怖かったもん。LINEは繋がってたけど、このまま聡君と疎遠になってしまうんじゃないかって。でも、聡君があたしの事を好きと言ってくれて、きちんと理由も教えてくれて……本当にあたしのことを見てくれているんやなって心からそう感じたんよ。人を好きになるの初めてやったから凄く苦しかったけど、運命の人とやっと出会えた安心感もあってん」
 由美子もアルバイトの最終日が来るのを恐れていたようで、僕はそこにシンパシーを感じた。
「俺も同じ事を考えてたよ。最終日以降、どうやって関係性を持続しようか、そのことばかり気にしてたよ。今こうして話せていることが本当に良かったと思ってるし、由美子が言うように運命なんやろうな」
「あのお昼休憩の時間は、あたしたちの運命の糸を紡いでくれてたんやと思う。毎日が楽しかったし、生きてて良かったって本当に思ったんよ」
「確かに、毎日が楽しかったな。昔さ、恋人になりたい人とはもっと親密な関係を築きたいと思って付き合うけど、友達でいたい人とはある程度の距離感でいる方が楽という話を由美子にしたことがあるねん。その話をしていた頃には既に由美子と親密な関係を結びたいと思ってたよ」
「その話覚えてるわ。あたしが聡君と千歳さんが付き合ってるのか気になって質問した時やな。千歳さんとは友達でいる方が楽な距離感やって話をしてくれたけど、聡君には親密な関係を築きたい人がいるのか、そのことが余計に気になったんよ」
 由美子は普段通りの明るい声に変わっていた。
「二ヶ月ぐらい前の話やのに、もう既に懐かしく感じるよな」と僕は笑いながら言った。
「ほんと懐かしく感じる。聡君の声を毎日聞いて癒やされてたし凄く安心もしてた。今もそうなんやで。あたしな、会食恐怖症は克服するつもりでいるんよ。でも、一人やと不安で押しつぶされそうになるから、聡君に支えて欲しいねん」
 由美子の声が甘く柔らかくなり、僕に対して信頼していることがよく伝わってきた。
「何年かかってもいいからさ、一緒に歩調を合わせて少しずつ前に進んでいこう。最初はさ、デートの時は食事なしのプランを立てるから、まずは一緒に遊ぶ時間を作っていこうよ」
「うん、ありがとう。そう言ってくれると助かる。あとね、飲み物なら支障はないから。スタバでコーヒー飲むぐらいは全然平気やから」
 確かに、アルバイトの時も由美子は水筒を持ってきて飲んでいたことを思い出した。
「バイトの時も飲んでたな。ピンクの水筒、いつも持ってきてたやん」
「あれな、中身はポカリやってん。お父さんが点滴とポカリは同じような成分で出来ているから、熱中症になりにくいって教えてくれてん」
「そうやったんや。これからはポカリじゃなくて、美味しい飲み物の店に行ってみような」
「うん、そうしたいし聡君といっぱい時間を共有したい」
 それから少し話をして、由美子との通話は終わった。由美子は今まで会食恐怖症のことを一人で背負って苦しんできたのだ。これからは僕も一緒にその問題に向き合い、焦らずにゆっくりと改善出来るように協力をしていこう。いつか必ず克服出来る日が来ることを、僕は信じている。
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