文字数 2,879文字

 だから僕は、手紙を持ったまま呆然とベッドに腰かけていた。
 真夏にしては涼しすぎる風が、開けっぱなしの窓から静かに吹きこんできた。風は机の上で開いたままになっていた辞書のページをさらっていく。
 そのとき、静かな夏の宵の青い夕霞の向こうから、絞りだすようなため息を聞いた気がした。

 僕の目は釘づけになった。
 誰かが窓枠に腰かけていた。
 誰だ?
 さっきまで誰もいなかったはずの窓。
 しかもここは二階。
 こちらを見て笑っている。
 髪の長い……
 女?
 女だ。

「誰かわかるよね」
 女は喉の奥に笑いをこめながら言った。
 僕は女の顔をあらためて見た。確かにどこか見覚えのある顔。けれどこんな笑いかたをする女を、僕は知らない。
「忘れちゃったの? かわいそう」
 女はにやにやと笑いながら、窓枠から僕の目を覗きこんだ。
 歳は僕と同じくらいだろうか。無造作な長い髪。上目づかいに僕を見つづける夜のように深い色の瞳。いたずらな子供のように他人を小馬鹿にした笑いかた。やわらかな高い声。
 そんなもの、僕は知らない。
「中身が変わると、やっぱ外見まで変わっちゃうのかなぁ」
 女は探るように僕の目を見つめてから言い放つ。
「あぁそうだ。こうすると判るよね」
 女はそう言ってうつむき加減に窓の外を見た。
 静かな音楽のような横顔。
 加納沙詠?
 たぶん。
 触れてしまったら割れそうに張り詰めたガラスの瞳。
 僕の脳は今、はっきりと思い出した。
 それは彼女の、加納沙詠のものだ。
「加納、沙詠?」
 僕がそう聞いたとたん、彼女は女に戻った。
 にやにや笑いといたずらに輝く黒い眼。女の姿は確かに加納沙詠。けれど明らかに加納沙詠ではなかった。
「よかった。忘れているわけじゃぁないんだね。まぁそっか。あんな手紙を出された日には忘れるわけにはいかないよね。例え忘れていても思い出す」
 女はくっくと喉の奥で笑うと、さらりと僕の目の前へ舞い降りた。
「あのね、加納沙詠は死んだよ。あんたに手紙を出したあとすぐ。正確には、死んでいる最中っていうのかな。この体は加納沙詠の死体だけれど、ぼくは彼女じゃない。理解してもらおうだなんて思ってはいないけれど、誤解だけはされたくないんだ。とにかくそういうこと」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「加納さん、冗談はやめてよ。タチが悪すぎる」
「冗談じゃないよ」
「これが冗談じゃないだって⁉ そんなこと信じられるわけがないじゃないか!」
 女はにたにた笑いながら僕を見ている。
「信じられなくてもこれが現実。しかたないじゃん」
「加納さん‼」
「だからぼくは加納沙詠じゃないってばぁ。加納沙詠は確かに死んだんだ」
「いい加減にしてくれよ‼」
 自称加納沙詠の死体は、小首をかしげて僕を見ている。心から楽しんでいるかのように。
「なんでそんなに怒るのさ」
「うるさい」
「あんたにとって加納沙詠は、特別記憶に引っかかることもなかった人間だったはずだろう?」
「うるさい!」
「手紙が届かなけりゃ、とっくに記憶の彼方に消えていた人物でしょ。
 あ、あぁ、そっかぁ。手紙ね。手紙を見たから、あんたそんなに怒るんだ。加納沙詠に思いをめぐらせてみたわけかぁ。柄にもなく。ねぇ」
 加納沙詠の死体はついと僕へと忍びより、僕の顎にその姿を隠すようにして、僕の目をにたりとのぞきこんだ。
 ぞくり
 と
 冷たい拒絶。
 僕の体のどこか遠いところで、これは異質なものだという、つめたいかんしょく。
 けれど
 これは誰だ
 これは何だ
 いったい
 これは
 何
 だ
 これは
 これは⁉
「うるさい‼」
 僕は叫んだ。加納沙詠の死体の襟首をつかみながら、バネのように立ち上がって。できることならば、僕の中にこびりつく暗闇のような疑問符をすべて消し去ってしまいたかった。彼の沙詠の『死体』と一緒に。
 加納沙詠の死体は、口元だけで微笑むと、襟首を締めあげる僕の手に、つつと指を這わせた。指先。手の甲。手首。肘、肩、肩甲骨。そしてそのまま静かに僕の首をぎりりと締めつけた。
「知ってる? 人間って意外と簡単に死ぬよ。ね、このままぼくが力を緩めずにいたら、あんたは死ぬ。どう? 死んでみる?」
 恐怖も息苦しさもなかった。ただこれから僕は死ぬのだろうという恍惚感が喉のあたりからあふれ出していた。
 そのときの僕がどんな顔をしていたのか、僕は知らない。
「なんてね」
 加納沙詠の死体はにたりと笑うと、僕の首から指を離した。
 僕は激しくむせて、その場に倒れこんだ。
 頭に、指先に、つま先に、新しい血液が大急ぎで巡っていくのを実感した。そのときはじめて、もしかしたら本当に死んでいたかもしれないという恐怖心が生まれた。それは、あのつめたい暗闇のような疑問符にも似ていた。
「加納沙詠が死んだって証拠を見せてあげるよ」
 そう言って、加納沙詠の死体は僕の目の前に左手の手首を突き出した。
「ほらこれ。傷跡。彼女アルコールと睡眠薬を飲んで、それから温かい湯船につかった。そこでここを切ったんだよ。とっても深くね。たくさんの、たくさんの血が流れて、加納沙詠は死ぬところだったんだ。ぼくは加納沙詠の体が完全に機能を停止してしまう直前に、その中に放り込まれただけ。好き好んで着たわけじゃない。大変だったんだよ。痛くてさ。もうパニックだったよ。気がついたらここにいて、僕は当然のこととして傷口をふさいで新しい血を巡らせた。加納沙詠のためなんかじゃなくて、ぼくのためにね。見て」
 加納沙詠の死体は、掌の向こうから小さなガラス玉のようなものを取り出して僕に見せた。
「この小さなほうが睡眠薬の成分とアルコール。それと、この一つだけ大きいの。こっちはねぇ、加納沙詠。魂っていうの? とにかくそんなやつ」
 僕は頭がどうにかなりそうだ。
「ぼくはね、壊れた体の中につっこまれた当然の権利として、加納沙詠の脳に蓄積された記憶を見たよ。だからあんたのところに来たんだ。家にはもどれないからね。
ところで、あんたのところの両親は?」
「弟と旅行に行ってる」
「そ」
「加納さん」
「だからぁ、ぼくは加納沙詠じゃないってば」
「じゃあ誰だよ」
「知らない」
「自分のことだろ⁉」
「ぼくはぼく以外の何者でもないってことはわかるよ。でもぼくはぼくがだれだかわからない。あんたがぼくの呼び方のことで困っているのなら、そうだね。死体とか呼べばいいんじゃない? 実際、この体は加納沙詠の死体なんだからさぁ。ま、厳密に言えば死体ってわけじゃないんだろうけど」
「死体……」
「加納沙詠のね。
っていうか、あんた酷い顔色だよ。一度休みなよ。あんたのほうが死にそうだ」
 僕の手足は痺れたように重く、動かす気さえ起こらなくなっていた。胸の中で逆巻く感情は脳に伝わらない。
 死体は手に持った睡眠薬の成分の欠片を僕の口に押し当てた。ガラスのように見えたそれは、僕の喉に吸い込まれるように溶けて消えた。僕は甘い眠気に包まれた。そしてそのまま崩れるように眠りに落ちた。
「世界はつらいことばかりだ」
 僕は、そんなつぶやきを聞いたような気がした。
 空は深い夜の色に染まっていた。
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