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文字数 2,074文字

「答えを出して」
 強い口調で死体は言った。
 僕は加納沙詠の手紙を握りしめたまま、死体の喉元を見つめていることしかできなかった。
「どっち?」
 あの笑い顔さえもない。
 真剣な顔で僕を見据える死体。
 加納沙詠ではない。彼女の目ではない。ここに在るのはきみのはずなのに。違う気配が揺れている。僕はそれに怯んでいる。

 風が吹く。波が立つ。荒れ狂う。時化。
 たとえば心が海ならば。
 僕は
 どうしたらいい?
 きみの後ろで揺れるのは、それはヨシ? それともアシ。
 沈んでしまったた異様の残骸。夕焼けでもない蒼の宵から夜が溶け出してくる。小さなコウモリが、僕と死体の間を抜けて飛び去っていく。
 僕はどうしたらいい?
 遠くから豆腐屋のラッパの音。
 ぼくはどうしたらいい?
 僕は
「どうしたいのさ‼︎」
 泣きそうな顔をしたきみが、僕をにらみつけている? きみが? きみは死体。加納沙詠の。そうだ。加納沙詠。
「今ならまだ、加納沙詠を生き返らせることができるよ。今ならまだ……」
 きみは真っ直ぐに僕を見上げた。
「加納沙詠を‼︎」
 真っ直ぐに。
 きみはまだ加納沙詠でもなかった。
 けれど僕の目の前の身体は、間違いいなく加納沙詠。
 いるのはきみ。
 きみならば僕は……
 残ることができるのは加納沙詠。きみでなく。

 もう、どうだっていい。
 加納沙詠なんて。
 加納沙詠はきみじゃない。僕には加納沙詠の傷なんて癒すことはできない。深すぎる。僕は加納沙詠を知らない。

「僕の答えはひとつだよ。でも、それは、答えにはならないのだろうね」

 くちびるが震えている。
 きみの眼の中で静かに揺れる水。とりこぼした僕の答えを待つように。
 きみは加納沙詠の『死体』でしかないんだね。
 葦の波が、僕と死体の間をすり抜けていった。
「ねぇ、何で今笑うのさ。こんなときにさ。言ったろ、ぼくになんか笑いかけちゃいけないって。こんな得体の知れないものに。そんなふうに、そんな無防備に笑いかけちゃダメだよ……」
死体の眼から、静かな水がとめどなく流れ落ちていた。
 できることなら僕ごと、この世界を押し流してくださいその水で。
「ぼくに笑いかけないでよ。ねぇ。ぼくに……加納沙詠じゃなくて、なんでぼくに……
 あんたが加納沙詠を知らないのは知ってた! でも、加納沙詠の記憶の中には、あんたの笑顔しか残ってなかった。綺麗な思い出なんてどこにも見つからなかった‼︎
……何でもない、本当に何でもない笑顔なのに。ありきたりな笑顔なにさぁ。ぼくにどうしろって……」
 きみの両手が震えている。
「死体、僕は」
 きみの表情が、蒼い夏の宵に溶けていった。
 ような、気がした。
「僕の答は」
「結局、この姿に加納沙詠を見ることはなかったこと、気づいてた」
きみの後ろで葦が揺れた。
「僕の、答は」
「それでも同じく死体だった。答は二択。加納沙詠の死か、生か。逃げ場のない二択。どうにもならない」
 目の前に、加納沙詠の死体。
 死体の顔は、笑いの顔に歪んでいた。後ろからせまっていたもの。それは、夜だった。
 死体が闇に包まれていく。潮が引くように。昏く澄んでいった。
 僕の頬はこわばった。
「藤谷くん」
 僕は、乾き切った喉のために、必死にツバを飲みこんだ。
 死体の表情には何もなかった。
「死体、今の状態が不自然なんだろ? だったら自然に戻れよ。本当の死体にでもさ。
 人間ひとりの生とか死とか、人生とか未来とか、神様じゃないんだ。
 僕にそんだ選択権を委ねないでくれよ。……僕は加納沙詠を知らない。知っていたら生きろと言ったかもしれない。でも、今の僕には言えない。言えないんだ。生きろ、とも‼︎」
 僕の頬を、冷たいものが流れていった。
 治ることを知らないような風の音が僕の耳を荒らしていった。
 だからただの空耳だったのかもしれない。
「藤谷くん」
 僕は顔を上げて死体を見た。
 彼女は左手の指輪にそっと口をつけていた。それからゆったりと目を開きながら、指輪を指から抜き取った。それをいとおしそうに両手で包みながら、僕に差し出した。彼女の顔を、遥か西に残る、最後の光が照らした。
 穏やかな笑顔。
 僕は呆然と見ていた。
「これはわたしのじゃない。かえしてあげてね。ちゃんと」
 僕が両手を広げると、彼女はそれに触れないように慎重に、僕のてのひらの上で彼女の両手を開いた。小さな指輪た僕に降ってきた。
「さようなら」
 そう言うと、彼女は颯爽と踵をかえして葦の中へ歩いていった。几帳面に伸ばされた背中が、僕を拒絶していた。彼女の姿が完全に葦の中に消えた瞬間、大きな水音がした。まるで何かが倒れたような。
 僕の胸で心臓は、抉るようにうごめいていた。

 僕の手に残るは指輪。
 そして、手紙と紙袋。
 視界の中には、死体はいない。
 葦の向こうにあるのは何だ?

 夜は空を完全に支配してしまっていた。青白い街路灯の灯りが、ぼんやりと葦を照らしていた。風に騒ぐ葦の音は、あの、押し殺したような笑い声にも似ていた。
 僕は逃げた。
 走って逃げた。
 街の全ての音が、耳の手前で意味を持つことを放棄していた。
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