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文字数 1,894文字
僕の家から街の中心までの交通機関は、バスと地下鉄。かかる時間はどちらも十分と少し。自転車でも三十分とかからない。
僕と死体は、やってきたバスを見逃して、地下鉄の駅へ向かった。暑くなりはじめていた夏の太陽を避けるように、地下へと続く長い階段を降りる。光を避けて夜へと逃げ続ける吸血鬼にでもなったみたいだ。僕たちは。
死体は途切れ途切れに、さっきの歌を歌い続けていた。
僕は買った切符を死体に渡した。自動改札を潜ったとき、地下鉄が近づいてくる音が聞こえた。
「走ろう!」
そう言って死体は走り出した。軽快に。僕は慌てて死体のあとを追いかけた。死体はウサギのように階段をホームへと跳ね降りる。そして開きはじめたドアの中に、するりと入りこんだ。
僕は!
閉まりかけたドアに、ギリギリセーフで飛び込んだ。
死体はふふんと鼻を鳴らして僕を見て言った。
「セーフ」
にやにや笑いで僕を見ながら、死体はすぐそばのシートにすとんと腰かけた。
夏の朝。とはいっても、もう通勤の時間帯ではない。学生は夏休みの最中。車内はガラガラに空いていた。
僕も死体の隣へ座る。
死体はどこでせしめてきたのか、長い麻紐をご機嫌で揺らしていた。それを膝の上に置いて、髪を器用に二等分する。あの歌を小さな声で歌いながら、器用な手つきで髪をフィッシュボーンに仕上げていった。僕はうつむいたままそれを見ていた。死体の右の人差し指には、まだ微かに僕の跡が残っている。赤く。
とくん
この指が僕の喉を絞めた。白い指が。
死体は編み終えたフィッシュボーンに麻紐を巻きつけると、ボケットからカードタイプのソーイングセットを取り出し、その小さな糸切り鋏で麻紐を切った。ソーイングセットは僕のではない。加納沙詠のものだったのかもしれない。
死体は麻紐をくるりと結ぶと、もう片方のフィッシュボーンに取りかかった。僕は滑らかに動き続ける白い指を見続ける。死体は微かな声で歌を歌いつづけていた。
「ね」
僕は声をかけた。
「ん?」
死体は気のない返事を返した。
「その歌」
「え?」
「さっきからずっと歌っている、その歌」
「ああ」
「何?」
死体は編み終わった二本目のフィッシュボーンも器用に麻紐でとめた。
「黒人霊歌だよ」
死体は残った麻紐を、左の手首に巻きつけた。
「黒人霊歌?」
「そ」
これは教会みたいなところで歌われる歌なんだろうか。
「ねぇ」
死体は、麻紐を巻きつけた左手首を、すっと僕の前に突き出した。
「結んで」
「あ、うん」
僕は言われるまま、死体の左手首に手を伸ばした。麻紐を結ぼうとしたとき、
僕の指先は加納沙詠の傷痕に触れた。
深く切ったはずの傷。
加納沙詠の命の流れ出した、傷。
僕の指は動かない。加納沙詠の傷に触れたまま。
そうだ。加納沙詠は死んだ。
だとしたら、今ここにいるこれはなんだ。本来なら死体は動かない。死は死だ。
「どうしたのさ」
ニヤリと笑って、死体が僕を見る。
「縛ってくれないの?」
動かない。僕の指は。
「傷、気になる? これは加納沙詠の傷。加納沙詠が自分の意思でつけた傷だよ。解放されるためにね。気になる? 僕はいちいち気になられたら面倒だからこうして隠しているんだけどなぁ。ねぇ、早く結んで」
死体が僕を見ている。その夜のように深い眼で。黒い眼で。僕を見ている。加納沙詠の瞳を使って。けれど、僕が見ているのは死体。
「結んで!」
あ
僕は今まで白昼夢の中にいたような、そんな感覚から無理やり引きずり出された。嫌な感じだ。
僕は死体を見た。死体は僕を睨んでいた。それを見てほっとする僕がいる。
死体には感情がある。
僕の指はのろのろと動き出した。死体の手首の麻紐を、指をもつれさせながらなんとか形良く結びあげる。
死体の表情は、すでにあの笑い顔に戻っている。僕は死体の眼を見つめた。
「できたよ。これでいい?」
「ん。ありがとう」
とくん
今、僕は死体を見ている。そう。僕が見ているのは死体だ。加納沙詠なんかじゃない。僕は加納沙詠を知らない。僕は知らないんだ。それでも死体の体は加納沙詠。加納沙詠だ。
とくん
僕は死体を見ている。死体を見ている?
僕が見ているのは加納沙詠の身体。死体の、死体自身の体ではない。
とくん
それでも僕は死体を見ている。僕は見ている。僕は。死体と加納沙詠。僕が本当に見ているのは……
駅名を告げるアナウンス。日本語。それから英語。
「ね、降りるのここ?」
きみが僕を見た。
とくん
「あ、ああ、そう。ここ」
とくん
僕は、きみを、見ている。
顔が熱い。
地下鉄は駅に着いた。僕と、きみは、一緒に、ホームに、降りた。
僕と死体は、やってきたバスを見逃して、地下鉄の駅へ向かった。暑くなりはじめていた夏の太陽を避けるように、地下へと続く長い階段を降りる。光を避けて夜へと逃げ続ける吸血鬼にでもなったみたいだ。僕たちは。
死体は途切れ途切れに、さっきの歌を歌い続けていた。
僕は買った切符を死体に渡した。自動改札を潜ったとき、地下鉄が近づいてくる音が聞こえた。
「走ろう!」
そう言って死体は走り出した。軽快に。僕は慌てて死体のあとを追いかけた。死体はウサギのように階段をホームへと跳ね降りる。そして開きはじめたドアの中に、するりと入りこんだ。
僕は!
閉まりかけたドアに、ギリギリセーフで飛び込んだ。
死体はふふんと鼻を鳴らして僕を見て言った。
「セーフ」
にやにや笑いで僕を見ながら、死体はすぐそばのシートにすとんと腰かけた。
夏の朝。とはいっても、もう通勤の時間帯ではない。学生は夏休みの最中。車内はガラガラに空いていた。
僕も死体の隣へ座る。
死体はどこでせしめてきたのか、長い麻紐をご機嫌で揺らしていた。それを膝の上に置いて、髪を器用に二等分する。あの歌を小さな声で歌いながら、器用な手つきで髪をフィッシュボーンに仕上げていった。僕はうつむいたままそれを見ていた。死体の右の人差し指には、まだ微かに僕の跡が残っている。赤く。
とくん
この指が僕の喉を絞めた。白い指が。
死体は編み終えたフィッシュボーンに麻紐を巻きつけると、ボケットからカードタイプのソーイングセットを取り出し、その小さな糸切り鋏で麻紐を切った。ソーイングセットは僕のではない。加納沙詠のものだったのかもしれない。
死体は麻紐をくるりと結ぶと、もう片方のフィッシュボーンに取りかかった。僕は滑らかに動き続ける白い指を見続ける。死体は微かな声で歌を歌いつづけていた。
「ね」
僕は声をかけた。
「ん?」
死体は気のない返事を返した。
「その歌」
「え?」
「さっきからずっと歌っている、その歌」
「ああ」
「何?」
死体は編み終わった二本目のフィッシュボーンも器用に麻紐でとめた。
「黒人霊歌だよ」
死体は残った麻紐を、左の手首に巻きつけた。
「黒人霊歌?」
「そ」
これは教会みたいなところで歌われる歌なんだろうか。
「ねぇ」
死体は、麻紐を巻きつけた左手首を、すっと僕の前に突き出した。
「結んで」
「あ、うん」
僕は言われるまま、死体の左手首に手を伸ばした。麻紐を結ぼうとしたとき、
僕の指先は加納沙詠の傷痕に触れた。
深く切ったはずの傷。
加納沙詠の命の流れ出した、傷。
僕の指は動かない。加納沙詠の傷に触れたまま。
そうだ。加納沙詠は死んだ。
だとしたら、今ここにいるこれはなんだ。本来なら死体は動かない。死は死だ。
「どうしたのさ」
ニヤリと笑って、死体が僕を見る。
「縛ってくれないの?」
動かない。僕の指は。
「傷、気になる? これは加納沙詠の傷。加納沙詠が自分の意思でつけた傷だよ。解放されるためにね。気になる? 僕はいちいち気になられたら面倒だからこうして隠しているんだけどなぁ。ねぇ、早く結んで」
死体が僕を見ている。その夜のように深い眼で。黒い眼で。僕を見ている。加納沙詠の瞳を使って。けれど、僕が見ているのは死体。
「結んで!」
あ
僕は今まで白昼夢の中にいたような、そんな感覚から無理やり引きずり出された。嫌な感じだ。
僕は死体を見た。死体は僕を睨んでいた。それを見てほっとする僕がいる。
死体には感情がある。
僕の指はのろのろと動き出した。死体の手首の麻紐を、指をもつれさせながらなんとか形良く結びあげる。
死体の表情は、すでにあの笑い顔に戻っている。僕は死体の眼を見つめた。
「できたよ。これでいい?」
「ん。ありがとう」
とくん
今、僕は死体を見ている。そう。僕が見ているのは死体だ。加納沙詠なんかじゃない。僕は加納沙詠を知らない。僕は知らないんだ。それでも死体の体は加納沙詠。加納沙詠だ。
とくん
僕は死体を見ている。死体を見ている?
僕が見ているのは加納沙詠の身体。死体の、死体自身の体ではない。
とくん
それでも僕は死体を見ている。僕は見ている。僕は。死体と加納沙詠。僕が本当に見ているのは……
駅名を告げるアナウンス。日本語。それから英語。
「ね、降りるのここ?」
きみが僕を見た。
とくん
「あ、ああ、そう。ここ」
とくん
僕は、きみを、見ている。
顔が熱い。
地下鉄は駅に着いた。僕と、きみは、一緒に、ホームに、降りた。