文字数 2,234文字

 頬のあたりに軽いほてりを残したまま、僕は目覚めた。
 時計を見る。まだ六時にもなっていない。
 やわらかい光の中で部屋中が軟体動物のようにうごめいて見える。夢の中の白い霞が現実の中まであふれ出てきたようだ。

 どこからか甘い匂いがしてくる。
 僕は窓のほうを見た。
 朝のきんとした光の中に死体はいた。僕の椅子に座って国語の辞書を読んでいる。真剣に。ページをめくる動作のひとつひとつまでもが、何者かに見せるために計算しつくされたもののようだ。まるで……
 なんだっけ。
 そのとき死体が僕が起きたのに気づいて顔をあげた。
「おはよう」
 思い切りよく辞書を閉じて死体は言った。
「あ、おはよう」
 と僕。
 死体は辞書を机の上に置くと、頬杖をついて僕を見た。ただ、僕を。
 とく
 そこに死体がいる。けれど僕に昨日のような動揺がない。僕が死体といるという現実を許容したのだろうか?
 静かだ。
 ただ。静かだ。
 こんな気持ちは今が朝だからなのかも知れないけれど。
 死体が、いる。
「もしかしてずっとここにいたの?」
「そうだよ。ほかに行くところなんてないし。それに今、この家にはあんたしかいないんでしょ? それがどうした?」
 とく とく
 そういえば僕はベッドで、きちんと布団をかぶって眠っていた。死体に加納沙詠の睡眠薬を押しこまれたとき、僕は床の上に倒れたのではなかったろうか。
「いや、別に」
「そ」
 死体は僕に向かってゆったりとわらいかけている。ただそっと。
 僕は死体から目が離せないでいた。
「でも、あの」
「何」
 とく とく
「だからさ、えっと」
「だから何」
「や、そうじゃなくて、あの……」
 とく とく とく
「何? ハッキリ言いなよ」
「だからほら、死体は女だし、俺は男で、あっと、だから……とか、そういうことが起こるとか、だから、間違い……ってやつ? とか、起こるとか、色々心配するとか、あの、別に僕がそういうことを考えているっていうわけじゃなくて、あの……一般的に考えてみて、常識的じゃないっていうか……」
 とく とくとく とく
 僕の顔は今、これ以上ないくらい火照っている。きっとみじめなくらい赤い顔をしている。
「ばっかじゃない!」
 死体は叫ぶと、火のついたように笑い出した。
「心配するだろう!」
 言い捨てて僕はがぱっと頭から布団をかぶった。僕はなんて間抜けなんだろう。一生に一度、あるかないかのとんでもない醜態をさらしてしまったような気がする。異性の前で。心臓が口から飛び出るなんていうのは、こういうことを言うに違いない。体中の血が顔に集まって、ぐつぐつ煮えている。
「ぼくが女かぁ。そりゃ加納沙詠は女だけどさぁ、でも、中身のぼくまで女だって決めつけるのはどうなのかなぁ。ねぇ、そんな確証を持つことなんて誰にもできっこないんじゃない? ぼく自身がぼくをわ解かんないのに」
 じゃ、男⁉
 僕はかぶっていた布団ごと、上半身だけ跳ね起きた。
 男⁉
 と、叫びたかった。けれど僕の口は言葉を発することはなく、酸欠の魚よろしく、意味のないぱくぱくをくり返すだけだった。いや、僕は酸欠の魚よりみじめだ。
「そう思わない?」
 死体はひらひらと僕のほうへ歩いてきた。僕には普通の人間の歩き方ではないように思えた。それは。
 死体は僕の頬へそうっと手をのばし、僕の両方の耳を軽くつまんだ。「本当にね、ぼくはよくわからないんだ。ぼくのことをさ。本来のぼくが何者だか、どんな姿をしているかなんて知っちゃいないんだから」
 死体の顔が近づいてくる。死体は僕の頬に触れないぎりぎりのところまで顔を寄せると、僕の左耳に、そっ、とささやいた。
「ぼくはぼくさ」
 右耳が嫉妬した。

 どく

 心臓の音。
 今この心臓を死体が引きずり出してくれるのなら、きっと痛みなんてないだろう。
 気持ち悪い。
 得体の知れないものに、僕は何をしているのだろう。けれど止まらない。ブレーキの壊れた坂道の自転車だ。まるで。
「ただ、それだけ」
 死体は僕から顔を離すと、いたずらな子供よろしく、にかりと笑って僕の目をのぞいた。そして突然僕の耳たぶをおもいきり引っ張った。
「なぁに赤くなってんのさぁ!」
 死体はこう言って手を離した。
「うるさい」
 思考力だけが溶けだしてしまった気がする。
 僕はそれ以上、話すことも動くことさえもできなかった。
「ね、朝ごはん食べるっしょ? 何か見繕ってくるよ。台所は下?」
 死体はさらりと振りかえると、真っ直ぐに扉のほうへ歩いていった。死体が歩くと鈴が鳴るような音がする。もちろんこれは僕の耳の中だけの現象。
 遠くの方から、朝を引きはがすような蝉の鳴き声が響いているのを微かに感じた。遠い過去から響いてくるような、そんな気怠さを持っていた。僕はそれにつられて窓を見た。ほこりが光る窓ガラスに、日に焼けた僕の顔が映っていた。少し笑ってみる。けれどひきつった口は、笑いの形にはならなかった。

 加納沙詠はどうして僕の笑顔が好きだったんだろう?

 僕の間の抜けた表情に発破をかけるるように、騒々しい羽音を立てながら、数羽の鳩が空へと上がっていった。
 そうだ、思い出した。
 これは映画だ。映画で見た花魁。テレビで見た歌舞伎の女形。魅せるために計算しつくされた『女』。
 ああ、そうか。
 耳の奥で拍子木が鳴った。
 何もかもを覆い隠すように響く、いつまでも消えない衣擦れの音。
 それをかき消すように僕を呼ぶ声。

 ごはんができたよ

 僕はお腹の空いているのも思い出した。
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