11
文字数 3,606文字
科学館を出たから、僕もきみも思いつくことがなくて、ただただ街をぶらぶらしていた。
「映画はいいや」
きみは言って、またあの黒人霊歌を歌い出した。
蝉の声がやけに大きい。空には雲などひとつもなく、直接の太陽が照りつける。木陰を選んで歩いても、何の意味もないように思える。
遠くから響いてくる子供の笑い声。クラクションの音。自転車のブレーキ。全てを飲み込んだ夏は、静寂だけを押しつける。蝉の鳴き声だけが耳に痛い。
僕ときみは、夏から逃げるように地下街へ潜った。
そこは夏のない別世界のようだった。冷房の冷たい空気で満たされたそこは、仮想空間のようでもあった。群衆にも存在感が感じられない。その中で、僕の目にはきみだけが現実のように浮き出て見えた。
ここには夏は、季節はない。きっと時間もないだろう。僕もきみも、何も喋らず歩いていた。人工物で固められた、原色の仮想の中を。
「ペリドット」
きみがこぢんまりとした宝飾店の前で足を止めた。
「ぼく、ペリドットは好きだな。ダイヤモンドやエメラルドとかって、あんまり好きじゃないけど」
「ペリドット?」
生まれてから一度も聞いたことのない単語だった。きみの肩越しのショーウインドウを覗き込んだ僕には、どれがそれなのか見当もつかなかった。僕の母親も、普段身につけるアクセアサリといったら結婚指輪くらいだ。
「どれ?」
「あれ。黄緑色の石」
きみは僕を振り返らずに指をさした。その先に、若草色というには繊細すぎる色をした、小さな石のついた指輪があった。
「ペリドットってさ、早朝の川縁の葦の色に似てるよね」
早朝の川縁の葦……
僕には全くイメージできなかった。葦なんて真剣に見たことがなかったから。
「川縁の葦の色……」
僕は口の中で繰り返してみた。
川縁の葦……小学生のころ、ザリガニや小ブナを釣った川に生えていた、荒れが葦だっただろうか。特に気にとめたこともなかった植物の色。
僕はきみを見た。くちびるだけを小さく動かしながら、笑いも何もない表情で指輪を見ていた。
「……葦の中ではいつも一人でいられた。泣いたって叱られなかった。誰も来なかった。だぁれも来なかった。葦の中には」
それはきみの言葉だったんだろうか。
僕は唾を飲みこんだ。
そのとき、突然きみがふり返ったので、僕はきみとしっかり目が合ってしまった。きみの顔には、もういつものあの笑い顔が戻っていた。僕はもものあたりで握りしめていた手に視線をうつした。にじみ出た汗が滴り落ちていやしないかと思ったのだ。
「行こうか」
きみは言った。
あまりに唐突すぎて、僕は何を言われたのかわからなかった。
「え」
僕は間抜けな顔をしていたに違いない。きみは僕の顔を見て、押し殺した笑い声をもらした。完全に僕に向いているきみの、左手の指だけが、ガラスの向こうの指輪を見つめ続けている気がしていた。
「ね、どうしたのさぁ。行こうよ」
ショーウインドウの向こうでは、一組のカップルが楽しそうに指輪を選んでいた。
「あ、そうだね。行こう」
ふふんと鼻を鳴らすと、きみは早足に歩き出した。一度も僕の方を振り返らないで歩く。押し寄せてくるような人波を軽く潜り抜けながら軽々と歩くきみを、僕は追いかけるので精一杯だった。きみは全く僕を見てくれない。
僕もきみも無言で歩き続けた。無意識のように足を動かし続けて、いったいどれだけの間、歩き続けているのだろうか。白色の人工光に長く浸っていると、時間感覚だけが麻痺していく。
きみは何も見ない。
ショップも、本屋も、呉服屋も。僕はきみの見ないものを見る。ショップのワンピースを、本屋の新刊を、呉服屋の絣を。きみの足音を追いながら。
ふと目をやった雑貨屋にそれはあった。
萌黄色の指輪。
シンプルな、アクリルの細い指輪。
歩き続けるきみを横目に、僕は大急ぎで雑貨屋に飛び込んでそれを買った。税込七百八十円。頼りない重さが胸の中に痛みをもってしなだれかかってくる。
指輪を買うのに二分とかからなかったはず。けれど、きみの姿はどこにも見当たらなかった。
「すみません」
人混みをかき分けながら僕は走った。きみ以外のことなんて、いちいち気にしていられなかった。誰かと肩がぶつかる。嫌な顔をされる。でも、きみがいない。それだけが……
「あ」
きみw呼べない。
僕は走る。
きみは人並みの真ん中で、真っ直ぐにたっていた。その眼が僕をとらえてほころんだ。
そうだ。きみは加納沙詠ではない。僕は加納沙詠を知らない。
「どうしたのさ」
心臓がごうごうと鳴り響くのは、たぶん走ってきたせいだ。僕の頬のあたりが熱くこわばるのも。
僕はさっきの小さな紙袋を開けた。
「これ」
僕はきみに萌黄色の指輪を差し出した。
「葦の色……だよね。ペリドットじゃないけど、安物だだけど」
きみは一瞬困った顔をして、それでも水をすくうように両手をそろえて、それを僕に向かって差し向けてくれた。
僕はきみの右手をそっととると、その薬指にしっかりと指輪をはめこんだ。
きみは指輪を見て、
僕の顔を見て
「……無防備に笑うんだね」
泣きそうな顔をして言った。
僕は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、この指輪をどうしてもきみに届けたかった、その一心だった。
「あんたさ、何やってんの? ぼくのこと気持ち悪くないの? 得体が知れないだろう? 突然現れてさ、ヒトの生き死にを決めろだなんて……」
きみは息を飲みこんだ。必死にあの笑い顔を作ろうとしていた。
僕は笑っている?
「だめだよ。得体が知れないものに向かって、何のてらいもなく、そんなふうに笑いかけちゃあ。いけない。いけないよ」
きみはくちびるを噛んでうつむいた。
「……でもそれが、加納沙詠の見た笑顔、なんだね……」
笑うという意識もなく現れる僕のこの表情が。笑顔と呼べるものなのか僕には確認のしようがなかった。きみも、加納沙詠も、これを笑顔というのなら。きみが言うのなら……
「あの、さ」
言いかけた僕をきみは遮った。
「ちょっと待ってて」
どうしてもきみがここに残ることはできないの?
きみは断ち切った僕の言葉を放り投げるように駆け出した。きみは小さなショップに入っていった。
きみは人波の向こうに消えた。
加納沙詠の生き死に。きみは言った。それを僕に決めろと、きみが言った。加納沙詠じゃない。きみが。
僕は加納沙詠を知らない。
昨日の夜が、今日の夢が、もう遠くのことみたいだ。僕は夢の中で見た加納沙詠を思い出してみた。
深夜の火事。
あれが加納沙詠だ。きみじゃない。きみじゃない。きみは、たとえるならば「沈黙の月」だろうか。それにしてはよく喋るけれど。
ショップからきみが出てきた。
生成りのシンプルなワンピース。きみは真っ直ぐな眼で僕を見た。あの笑みはなかった。すっきりと真剣な顔をしていた。手には手提げの紙袋。
「あんたの服のままでいたら、何かあったときにきっと困る」
ほどいたかみに、フィッシュボーンの名残が揺れていた。僕はそれだけを見つめた。
きみの右手が、僕の左手の甲に触れた。いちど、きみはためらうように手を離した。それから頬の上に貼り付けた緊張を少しだけ緩めると、思い切ったように僕の手をきつく握りしめて歩き出した。
熱い手。
指輪がはめられた箇所だけが、僕にはやけに冷たかった。手と手の間にこもる、高く鳴り響くような鼓動の振動は、僕のものだったのだろうか。それともきみのだったのか。
僕はきみにひきづられるままに歩き続けた。きみの後頭部を見つめたまま。きみは僕を振り向かず歩いた。ただの一度も僕を見なかった。
きみの左手では、紙袋が大きな音を立てて揺れていた。服も、帽子も、僕の家できみが身につけたもの全てが放りこまれた紙袋が。
「どこに行くの?」
きみは答えない。早足で歩き続けるだけだった。頭の上の案内板は、バスターミナルを指していた。
「あんたに答えを貰わなくっちゃ」
きみは小さくつぶやいた。
目の前には、バスターミナルへと続くエスカレーターが迫っていた。エスカレーターは静かにのぼりはじめた。
きみがエスカレーターに足をかけた。僕もそれに続いた。二人がゆっくりとした速度でのぼっていく。バスのエンジン音が低く響いてきた。
ターミナルに着くと、きみは迷うことなく、目的地を目指して歩いた。僕の手を離すことなく。
四番乗り場。
バスがいた。
きみはバスの行き先を確認することもせずに乗りこんだ。
バスの中には僕ときみと運転手。
二人がけの席に座った。僕ときみの手は繋がれたままだ。きみは窓の外を睨みつけていた。きみは僕を見ることはなかった。
バスの扉が閉められた。
他に乗客はいなかった。
ダミ声の運転手が、行き先を告げた。
ねえ、このバスは河川敷公園まで行くんだね。
と、きみに話しかけたかった。
「映画はいいや」
きみは言って、またあの黒人霊歌を歌い出した。
蝉の声がやけに大きい。空には雲などひとつもなく、直接の太陽が照りつける。木陰を選んで歩いても、何の意味もないように思える。
遠くから響いてくる子供の笑い声。クラクションの音。自転車のブレーキ。全てを飲み込んだ夏は、静寂だけを押しつける。蝉の鳴き声だけが耳に痛い。
僕ときみは、夏から逃げるように地下街へ潜った。
そこは夏のない別世界のようだった。冷房の冷たい空気で満たされたそこは、仮想空間のようでもあった。群衆にも存在感が感じられない。その中で、僕の目にはきみだけが現実のように浮き出て見えた。
ここには夏は、季節はない。きっと時間もないだろう。僕もきみも、何も喋らず歩いていた。人工物で固められた、原色の仮想の中を。
「ペリドット」
きみがこぢんまりとした宝飾店の前で足を止めた。
「ぼく、ペリドットは好きだな。ダイヤモンドやエメラルドとかって、あんまり好きじゃないけど」
「ペリドット?」
生まれてから一度も聞いたことのない単語だった。きみの肩越しのショーウインドウを覗き込んだ僕には、どれがそれなのか見当もつかなかった。僕の母親も、普段身につけるアクセアサリといったら結婚指輪くらいだ。
「どれ?」
「あれ。黄緑色の石」
きみは僕を振り返らずに指をさした。その先に、若草色というには繊細すぎる色をした、小さな石のついた指輪があった。
「ペリドットってさ、早朝の川縁の葦の色に似てるよね」
早朝の川縁の葦……
僕には全くイメージできなかった。葦なんて真剣に見たことがなかったから。
「川縁の葦の色……」
僕は口の中で繰り返してみた。
川縁の葦……小学生のころ、ザリガニや小ブナを釣った川に生えていた、荒れが葦だっただろうか。特に気にとめたこともなかった植物の色。
僕はきみを見た。くちびるだけを小さく動かしながら、笑いも何もない表情で指輪を見ていた。
「……葦の中ではいつも一人でいられた。泣いたって叱られなかった。誰も来なかった。だぁれも来なかった。葦の中には」
それはきみの言葉だったんだろうか。
僕は唾を飲みこんだ。
そのとき、突然きみがふり返ったので、僕はきみとしっかり目が合ってしまった。きみの顔には、もういつものあの笑い顔が戻っていた。僕はもものあたりで握りしめていた手に視線をうつした。にじみ出た汗が滴り落ちていやしないかと思ったのだ。
「行こうか」
きみは言った。
あまりに唐突すぎて、僕は何を言われたのかわからなかった。
「え」
僕は間抜けな顔をしていたに違いない。きみは僕の顔を見て、押し殺した笑い声をもらした。完全に僕に向いているきみの、左手の指だけが、ガラスの向こうの指輪を見つめ続けている気がしていた。
「ね、どうしたのさぁ。行こうよ」
ショーウインドウの向こうでは、一組のカップルが楽しそうに指輪を選んでいた。
「あ、そうだね。行こう」
ふふんと鼻を鳴らすと、きみは早足に歩き出した。一度も僕の方を振り返らないで歩く。押し寄せてくるような人波を軽く潜り抜けながら軽々と歩くきみを、僕は追いかけるので精一杯だった。きみは全く僕を見てくれない。
僕もきみも無言で歩き続けた。無意識のように足を動かし続けて、いったいどれだけの間、歩き続けているのだろうか。白色の人工光に長く浸っていると、時間感覚だけが麻痺していく。
きみは何も見ない。
ショップも、本屋も、呉服屋も。僕はきみの見ないものを見る。ショップのワンピースを、本屋の新刊を、呉服屋の絣を。きみの足音を追いながら。
ふと目をやった雑貨屋にそれはあった。
萌黄色の指輪。
シンプルな、アクリルの細い指輪。
歩き続けるきみを横目に、僕は大急ぎで雑貨屋に飛び込んでそれを買った。税込七百八十円。頼りない重さが胸の中に痛みをもってしなだれかかってくる。
指輪を買うのに二分とかからなかったはず。けれど、きみの姿はどこにも見当たらなかった。
「すみません」
人混みをかき分けながら僕は走った。きみ以外のことなんて、いちいち気にしていられなかった。誰かと肩がぶつかる。嫌な顔をされる。でも、きみがいない。それだけが……
「あ」
きみw呼べない。
僕は走る。
きみは人並みの真ん中で、真っ直ぐにたっていた。その眼が僕をとらえてほころんだ。
そうだ。きみは加納沙詠ではない。僕は加納沙詠を知らない。
「どうしたのさ」
心臓がごうごうと鳴り響くのは、たぶん走ってきたせいだ。僕の頬のあたりが熱くこわばるのも。
僕はさっきの小さな紙袋を開けた。
「これ」
僕はきみに萌黄色の指輪を差し出した。
「葦の色……だよね。ペリドットじゃないけど、安物だだけど」
きみは一瞬困った顔をして、それでも水をすくうように両手をそろえて、それを僕に向かって差し向けてくれた。
僕はきみの右手をそっととると、その薬指にしっかりと指輪をはめこんだ。
きみは指輪を見て、
僕の顔を見て
「……無防備に笑うんだね」
泣きそうな顔をして言った。
僕は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、この指輪をどうしてもきみに届けたかった、その一心だった。
「あんたさ、何やってんの? ぼくのこと気持ち悪くないの? 得体が知れないだろう? 突然現れてさ、ヒトの生き死にを決めろだなんて……」
きみは息を飲みこんだ。必死にあの笑い顔を作ろうとしていた。
僕は笑っている?
「だめだよ。得体が知れないものに向かって、何のてらいもなく、そんなふうに笑いかけちゃあ。いけない。いけないよ」
きみはくちびるを噛んでうつむいた。
「……でもそれが、加納沙詠の見た笑顔、なんだね……」
笑うという意識もなく現れる僕のこの表情が。笑顔と呼べるものなのか僕には確認のしようがなかった。きみも、加納沙詠も、これを笑顔というのなら。きみが言うのなら……
「あの、さ」
言いかけた僕をきみは遮った。
「ちょっと待ってて」
どうしてもきみがここに残ることはできないの?
きみは断ち切った僕の言葉を放り投げるように駆け出した。きみは小さなショップに入っていった。
きみは人波の向こうに消えた。
加納沙詠の生き死に。きみは言った。それを僕に決めろと、きみが言った。加納沙詠じゃない。きみが。
僕は加納沙詠を知らない。
昨日の夜が、今日の夢が、もう遠くのことみたいだ。僕は夢の中で見た加納沙詠を思い出してみた。
深夜の火事。
あれが加納沙詠だ。きみじゃない。きみじゃない。きみは、たとえるならば「沈黙の月」だろうか。それにしてはよく喋るけれど。
ショップからきみが出てきた。
生成りのシンプルなワンピース。きみは真っ直ぐな眼で僕を見た。あの笑みはなかった。すっきりと真剣な顔をしていた。手には手提げの紙袋。
「あんたの服のままでいたら、何かあったときにきっと困る」
ほどいたかみに、フィッシュボーンの名残が揺れていた。僕はそれだけを見つめた。
きみの右手が、僕の左手の甲に触れた。いちど、きみはためらうように手を離した。それから頬の上に貼り付けた緊張を少しだけ緩めると、思い切ったように僕の手をきつく握りしめて歩き出した。
熱い手。
指輪がはめられた箇所だけが、僕にはやけに冷たかった。手と手の間にこもる、高く鳴り響くような鼓動の振動は、僕のものだったのだろうか。それともきみのだったのか。
僕はきみにひきづられるままに歩き続けた。きみの後頭部を見つめたまま。きみは僕を振り向かず歩いた。ただの一度も僕を見なかった。
きみの左手では、紙袋が大きな音を立てて揺れていた。服も、帽子も、僕の家できみが身につけたもの全てが放りこまれた紙袋が。
「どこに行くの?」
きみは答えない。早足で歩き続けるだけだった。頭の上の案内板は、バスターミナルを指していた。
「あんたに答えを貰わなくっちゃ」
きみは小さくつぶやいた。
目の前には、バスターミナルへと続くエスカレーターが迫っていた。エスカレーターは静かにのぼりはじめた。
きみがエスカレーターに足をかけた。僕もそれに続いた。二人がゆっくりとした速度でのぼっていく。バスのエンジン音が低く響いてきた。
ターミナルに着くと、きみは迷うことなく、目的地を目指して歩いた。僕の手を離すことなく。
四番乗り場。
バスがいた。
きみはバスの行き先を確認することもせずに乗りこんだ。
バスの中には僕ときみと運転手。
二人がけの席に座った。僕ときみの手は繋がれたままだ。きみは窓の外を睨みつけていた。きみは僕を見ることはなかった。
バスの扉が閉められた。
他に乗客はいなかった。
ダミ声の運転手が、行き先を告げた。
ねえ、このバスは河川敷公園まで行くんだね。
と、きみに話しかけたかった。