文字数 790文字

 明日のことは思いつかない。
 今日のことも思い出せない。
 それはただ、川辺の葦原の向こう、深夜に揺れる火事の火のように静かに揺れていた。

 夕暮れ。陽が落ちたあとの、夏の永い黄昏。街の音のすべてが、太陽が少しだけ残した、光のない青空に吸い込まれてしまった。そんな静けさ。

 今は七月の終わり。

 いつもの季節ならば、厚い布団のような湿気と暑さの日々。姿を隠しても涼しさはやってこない。息が詰まるような焦燥感に苛まれていたはずだ。
 けれど今年はそんなことはなく、ずいぶんと過ごしやすい。夕暮れの街は涼やかな風で満ちていた。海の香とともに。
 気だるい空気のなかで流れてゆくのは、豆腐屋のラッパの音。おばちゃんたちの喋り声。犬の鳴き声。蝉。それでも、のしかかるような静けさ。それが夕暮れの気だるさだ。

 突然響く羽音。大きい。鳩だ。
 鳩は音だけを残して姿を空へと溶かしてゆく。まるで、仮染めの静けさを嘲笑うかのように。

 そのとき僕は窓の外を見ていた。自室のパイプベッドの縁に腰かけて、ただぼんやりと。 
「ふぅ……」
 と、僕は深いため息をひとつついた。その理由がこれだった。僕の手に、一通の手紙。消印は市内。差出人『加納(かのう)沙詠(さよみ)

 加納沙詠は一昨年、僕たちが高一のときに同じクラスだったのだ。
 目立たないひとだった。

 加納沙詠は印象に残らないのがとても印象的な生徒だった。だから僕は加納沙詠についてほとんど知らない。言葉を交わしたこともない。普通。そんな言葉しか思い浮かばない。特徴を思い出そうとしても何も出てこなかった。強いていうなら眼鏡をかけていたかな。それからとても長い髪。結んでいた記憶はないけれど、そのまま垂らしていたっていう記憶もない。不思議だ。その他には、静かに窓の外を見続けていたのを何度が見たことがあった。

 あとは、よく、わからない。

 それなのになぜ……

 とにかく僕は混乱していた。
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