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文字数 2,339文字
食パンの焼けるにおい。バターのにおい。たまごの焼けるにおい。あたたかな牛乳のにおい。
僕が台所についたころには、朝食の準備はすっかり整っていた。ただし一人分だけ。
「冷めないうちに食べな。ちゃんとしてるかどうか、わかんないけど」
死体は朝食の並んだ席の向かいに座って微笑んでいた。
「死体は?」
「必要ないよ」
何を言っているのという顔だった。
「死体も食べてないだろう?」
「まぁね。でもぼくはいらないんだ。必要ないからね。加納沙詠の身体のことは知らないけど。ぼくは『死体』だからね」
死体、だから。
僕は死体の顔を見た。いとこの小さな男の子よりもずっと子供のような顔をしている気がする。僕はその存在感のない頬に触れてみたい衝動にかられた。
「よくわからないんだ。痛みも。叩かれても何をされても感覚はあるけれど、それが『痛い』なのかどうなのか、ぼくには理解できない。不快感はあるよ。触覚もある。でも、感覚のすべてが鈍いのかな。空腹感だってわからない。食欲が理解できないんだ。まぁでも、ぼくが空腹を感じなくても、この体で活動を続けるかぎり、体の中に蓄積されたエネルギーは浪費される。そのうち餓死なんてことになったら笑えないね。そうなったら死体だよ。今度こそ。ぼくには外傷を治すことはできても、エネルギーを作ることはできないなぁ。ねぇ」
死体は一瞬、その視線を遠くに飛ばしたあと、くすくすと笑った。
きっと僕は情けない顔をしている。
「これ、食べろよ」
僕は無駄だと解っている言葉を、喉の奥から絞り出した。
これしか言えない。
「何でさ」
僕は死体の顔を見られない。
くすくす笑う死体の息づかいだけが、耳に、痛い。
死体が、死ぬ。
とは、
どういうことだろう。
死体が死ぬ。
死体はまだ笑っている。
死体は死ぬのか?
そんなことを考えたとき、突然空気が動いた。死体が僕の皿のトーストを一枚、つまみ上げたのだ。
僕は死体を見た。
死体はトーストを小さく千切ると、すいっと僕に突き出した。
「食べなよ」
死体が笑っている。やわらかに。
僕は言われるままに食べた。
死体の指から。
死体の白い指が僕の唇に触れ……
ニアミス。
僕の心臓がこぼれ落ちる。死体はやわらかに笑いながら、次々とトーストを千切り、僕の口へ運んでいった。僕は食べた。黙々と。僕の頭の中は、死体の笑い声と白い指のこと、それと僕の心臓のことでいっぱいになっていく。トーストだけが機械的に運ばれる。僕の口をめがけて。それを僕は食べるだけ。ただ、食べるだけ。食べるだけ。食べる。食べるだけ。食べる。食べる。食べる。
「あ」
死体が小さな声をあげた。
「歯形」
死体はにやっと笑う。
僕は死体の白い指を見た。人差し指にはっきりと浮かんでいたのは僕の歯形。僕の。
「あ……ごめん。痛かったよね」
「ううん」
死体は笑って
「死体だからね」
自分の人差し指を、僕の歯形を、ぺろりと舐めた。
どくん
息ができない。僕は。
死体が二枚目のトーストもつまみ上げた。先程と同じように淡々と千切ったそれを僕の口に運ぶ。そこには何の違和感もなく、自然な作業だった。
「はい」
死体の人差し指の先には、僕の歯形が刻まれている。僕だけが不自然に口をつぐんでいる。
「どうしたのさ、食べなよ」
僕の胃の、もっと奥のほうから、煮えたぎった血液が上昇してくる。それが心臓のあたりでわだかまる。このまま僕の心臓なんて燃えて灰になってしまえばいい。そのまま飛ばされてしまえばいいのに。
「お腹いっぱい?」
死体は言った。
僕は逃げた。
僕はほうほうの体で自分の部屋に向かった。
僕の両手はすべての落ち着きを放りだした。震えているのかもしれない。階段を昇る足がもつれる。
死体の白い指が、僕の歯形の刻まれた白い指が、僕の唇に触れる。触れる。触れるとはどういうことを意味するのだろう。
意味。
意味は、
ないに決まっている。
意味なんてない。
在るはずなんてない。
ない。
ないんだ。
僕は部屋の扉を力任せに閉めた。そしてそのまま扉にもたれてため息をついた。
死体は何を思ったろう。逃げた僕を見て。僕を見て死体は.……
階段を昇ってくるリズミカルな足音。僕の中に刻まれる困惑。冷めない血。近づく足音。扉の前で立ち止まる。死体が来る。
ノック。
「街へ出よう。どっか連れてって。どこでもいいからさぁ、ね」
僕の背中に静かな振動が伝わってくる。
そうだ、映画でも観よう。そうしたら僕もいまよりマシになれるかもしれない。それがいいかもしれない。少なくとも家の中で悶々としているよりはずっといいはずだ。
街へ出よう。
「そうだね」
僕は扉を開けて、死体を部屋へと招き入れた。
「あ、服貸して。ぼくが着られそうなやつ。何でもいいからさぁ。加納沙詠の服着たまんまじゃあ、誰か知り合いに会ったとき面倒そうだ」
そうだ。死体は加納沙詠。外見は。そして加納沙詠は、今沖縄にいる設定だった。
「服、何でもいいんだよね」
僕は平静を装いながら言った。けれど、僕の中はぐしゃぐしゃだ。
僕は死体と顔を合わせないようにしながらクローゼットを引っかき回し、なんとか死体の着られそうな服を探しだした。
カーキのハーフトラックパンツと長袖のボーダーTシャツ。
「何か帽子ない?」
レザーキャップを手渡した。
「ありがと」
僕は自分の着替えを持って部屋の外へ出た。
扉の内側から、死体の着替える気配が漂ってくる。高くやさしく響く鼻歌と一緒に。英語の歌だ。なんだろう、ブルース?
僕は扉にもたれて耳をすました。死体の歌うのをずっと聴いていたかった。その歌は、懐かしい甘さと朝のような気だるい明るさに満ちていて、けれどどこかとても寂しかった。
僕が台所についたころには、朝食の準備はすっかり整っていた。ただし一人分だけ。
「冷めないうちに食べな。ちゃんとしてるかどうか、わかんないけど」
死体は朝食の並んだ席の向かいに座って微笑んでいた。
「死体は?」
「必要ないよ」
何を言っているのという顔だった。
「死体も食べてないだろう?」
「まぁね。でもぼくはいらないんだ。必要ないからね。加納沙詠の身体のことは知らないけど。ぼくは『死体』だからね」
死体、だから。
僕は死体の顔を見た。いとこの小さな男の子よりもずっと子供のような顔をしている気がする。僕はその存在感のない頬に触れてみたい衝動にかられた。
「よくわからないんだ。痛みも。叩かれても何をされても感覚はあるけれど、それが『痛い』なのかどうなのか、ぼくには理解できない。不快感はあるよ。触覚もある。でも、感覚のすべてが鈍いのかな。空腹感だってわからない。食欲が理解できないんだ。まぁでも、ぼくが空腹を感じなくても、この体で活動を続けるかぎり、体の中に蓄積されたエネルギーは浪費される。そのうち餓死なんてことになったら笑えないね。そうなったら死体だよ。今度こそ。ぼくには外傷を治すことはできても、エネルギーを作ることはできないなぁ。ねぇ」
死体は一瞬、その視線を遠くに飛ばしたあと、くすくすと笑った。
きっと僕は情けない顔をしている。
「これ、食べろよ」
僕は無駄だと解っている言葉を、喉の奥から絞り出した。
これしか言えない。
「何でさ」
僕は死体の顔を見られない。
くすくす笑う死体の息づかいだけが、耳に、痛い。
死体が、死ぬ。
とは、
どういうことだろう。
死体が死ぬ。
死体はまだ笑っている。
死体は死ぬのか?
そんなことを考えたとき、突然空気が動いた。死体が僕の皿のトーストを一枚、つまみ上げたのだ。
僕は死体を見た。
死体はトーストを小さく千切ると、すいっと僕に突き出した。
「食べなよ」
死体が笑っている。やわらかに。
僕は言われるままに食べた。
死体の指から。
死体の白い指が僕の唇に触れ……
ニアミス。
僕の心臓がこぼれ落ちる。死体はやわらかに笑いながら、次々とトーストを千切り、僕の口へ運んでいった。僕は食べた。黙々と。僕の頭の中は、死体の笑い声と白い指のこと、それと僕の心臓のことでいっぱいになっていく。トーストだけが機械的に運ばれる。僕の口をめがけて。それを僕は食べるだけ。ただ、食べるだけ。食べるだけ。食べる。食べるだけ。食べる。食べる。食べる。
「あ」
死体が小さな声をあげた。
「歯形」
死体はにやっと笑う。
僕は死体の白い指を見た。人差し指にはっきりと浮かんでいたのは僕の歯形。僕の。
「あ……ごめん。痛かったよね」
「ううん」
死体は笑って
「死体だからね」
自分の人差し指を、僕の歯形を、ぺろりと舐めた。
どくん
息ができない。僕は。
死体が二枚目のトーストもつまみ上げた。先程と同じように淡々と千切ったそれを僕の口に運ぶ。そこには何の違和感もなく、自然な作業だった。
「はい」
死体の人差し指の先には、僕の歯形が刻まれている。僕だけが不自然に口をつぐんでいる。
「どうしたのさ、食べなよ」
僕の胃の、もっと奥のほうから、煮えたぎった血液が上昇してくる。それが心臓のあたりでわだかまる。このまま僕の心臓なんて燃えて灰になってしまえばいい。そのまま飛ばされてしまえばいいのに。
「お腹いっぱい?」
死体は言った。
僕は逃げた。
僕はほうほうの体で自分の部屋に向かった。
僕の両手はすべての落ち着きを放りだした。震えているのかもしれない。階段を昇る足がもつれる。
死体の白い指が、僕の歯形の刻まれた白い指が、僕の唇に触れる。触れる。触れるとはどういうことを意味するのだろう。
意味。
意味は、
ないに決まっている。
意味なんてない。
在るはずなんてない。
ない。
ないんだ。
僕は部屋の扉を力任せに閉めた。そしてそのまま扉にもたれてため息をついた。
死体は何を思ったろう。逃げた僕を見て。僕を見て死体は.……
階段を昇ってくるリズミカルな足音。僕の中に刻まれる困惑。冷めない血。近づく足音。扉の前で立ち止まる。死体が来る。
ノック。
「街へ出よう。どっか連れてって。どこでもいいからさぁ、ね」
僕の背中に静かな振動が伝わってくる。
そうだ、映画でも観よう。そうしたら僕もいまよりマシになれるかもしれない。それがいいかもしれない。少なくとも家の中で悶々としているよりはずっといいはずだ。
街へ出よう。
「そうだね」
僕は扉を開けて、死体を部屋へと招き入れた。
「あ、服貸して。ぼくが着られそうなやつ。何でもいいからさぁ。加納沙詠の服着たまんまじゃあ、誰か知り合いに会ったとき面倒そうだ」
そうだ。死体は加納沙詠。外見は。そして加納沙詠は、今沖縄にいる設定だった。
「服、何でもいいんだよね」
僕は平静を装いながら言った。けれど、僕の中はぐしゃぐしゃだ。
僕は死体と顔を合わせないようにしながらクローゼットを引っかき回し、なんとか死体の着られそうな服を探しだした。
カーキのハーフトラックパンツと長袖のボーダーTシャツ。
「何か帽子ない?」
レザーキャップを手渡した。
「ありがと」
僕は自分の着替えを持って部屋の外へ出た。
扉の内側から、死体の着替える気配が漂ってくる。高くやさしく響く鼻歌と一緒に。英語の歌だ。なんだろう、ブルース?
僕は扉にもたれて耳をすました。死体の歌うのをずっと聴いていたかった。その歌は、懐かしい甘さと朝のような気だるい明るさに満ちていて、けれどどこかとても寂しかった。