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文字数 2,602文字
地下鉄の駅から映画館までは歩いて十分とかからない。もう出勤には遅い。いつもは人で溢れているこの通りも、まだ静かだ。
僕は前だけを向いて歩く。きみは歌を歌いながら僕の後ろをついてくる。僕はきみの立てる足音だけに集中していた。
「ね、どこに行くの?」
と、きみ。突然に。
「あ、映画でも観ようと思って」
僕はきみを見ずに答えた。
きみの足音が消える。きみが立ち止まった。
「どんな?」
僕も立ち止まった。僕は前を向いたまま答えた。
「わからないよ。上映スケジュール、チェックしてこなかったから。とにかく映画を観ようと思っただけで……なにを観るかなんて考えていなかった」
ふん
きみは小さく鼻を鳴らした。
「だったら、笑えるのがいい」
そうだ。どうせ観るならすてきな映画がいい。
きみの足音が再び鳴り始める。きみは僕の右側をするりと抜けて、真っ正面から僕の目を覗きこんだ。
「どうした? さっきから」
きみの顔は変わらない。あの笑い顔だ。
「別に」
僕の顔は同じではない。昨日の夜から。
「……もっとよく笑うのかと思ってたんだけど」
そう。僕は本来よく笑う。
でも今は顔の筋肉が麻痺しているように動かない。そして言いたい言葉も言うべき言葉も、頭の中だけで空回りし続けている。
僕らはもしかして、長いこと見つめ合ってるんではないだろうか。
僕らよりも年下の、恋人同士らしい二人が、ひやかすようにこちらを見て通り過ぎていった。
「そういえばあんた、ぼくが来てから一度も笑ってないよね」
きみはくるりと振り返って、颯爽と歩き出した。きみの足元から一羽の鳩が飛び立って、夏の空の向こうに溶けて消えた。
高くなりはじめた太陽はビルに反射を振りまきながら、僕を突き刺している。空の青は藍に近い色だった。
「まぁ、いいんだけど」
きみは言った。
僕はきみの後を追いかけるように歩き出した。
僕の耳には入っていなかった蝉の鳴き声が戻ってきた。それと競うように歩く速度を早め、きみを追い越す。もうなんだって、どこだってかまわない。冷房のきいた屋内に飛び込んでしまいたい。この暑さをどうにかしなければ!
「ちょっと! ちょっと待ってってば」
きみが僕を呼び止めた。
ちょうど、そのときだった。
黒いリムジンが、こちらにやってくるのが見えたのは。
僕がきみを振り返ったとき、そのリムジンが急ブレーキをかけ、きみの横で停まった。
僕はリムジンを見た。
きみはリムジンを睨みつけていた。
窓にはスモーク。
後部座席の窓が開き、存在自体が金持ちですと言っているような身なりの中年男が顔を出した。
「沙詠? やはり沙詠じゃないか」
中年男は僕に嫌な一瞥をくれて続けた。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
僕は中年男を見た。いかにもな高価そうな濃いグレーのスーツに、きっちりアイロンのかかった白いシャツ。趣味の悪い柄のネクタイだけが妙に浮いていた。本人はキマっているつもりなのが痛々しかった。
その中年男は、驚いた猿のような赤ら顔できみを見ていた。
「沙詠、この夏休みいっぱい沖縄にいるんじゃなかったのか? 私は沙織さんからそう聞いているぞ」
中年男は顔に乗せた怒りを増しながら、自分でリムジンのドアを開けて外へと出てきた。運転手が慌てて飛び出してくる。ちょうど後ろに迫ってきていた赤いスポーツカーが急ハンドルを切りながらクラクションを鳴らして通り過ぎた。運転手はそちらに必死の形相で頭をさげると、中年男に走り寄った。
僕はきみを見た。
きみは僕が今まで誰の顔にも見たことがないような毒々しい静かな微笑みを浮かべて、中年男を睨みつけていた。僕はそのきみの視線から目をそらしながら、それ以外のきみを見た。
「こちらにいるなら、私に連絡を入れなさい!」
中年男はきみを恫喝した。
ふん。
きみはそれを鼻で笑い飛ばす。
「お前、目はついてるか? ぼくとお前が知り合いだなんて、何を見て言ってるんだ?」
中年男の赤ら顔が沸騰したように見えた。
「沙詠!」
「別人だ。一昨日来やがれ!」
きみは怒りに満ちたにやり顔を張りつかせながら、泥のように重い視線を中年男にくれていた。
「私をからかうな! お前は自分の立場というものを、しっかり把握し直せ‼︎」
僕の両肩には冷たい感触だけしかなかった。
僕は二人から目をそらした。
運転手は中年男に小声で何かを必死に訴えていた。中年男は意に返さず、きみに向けた苛立ちをも隠さなかった。
蝉の鳴き声がひどく耳障りだった。通り過ぎる人たちはこの惨状を避けて、大きく迂回していく。好奇心だけをこちらに向けて。
「家へ戻りなさい!」
「ホントしつこい!」
きみは僕を見た。僕はきみを見ないようにしていた。
「沙詠‼︎」
「オッサン、いい加減にしてよ。その小さな目をこじ開けて、よおっくぼくを見な! ぼくがお前にホイホイ着いてくようなタマに見えるか⁉︎」
「……」
中年男は訳がわからない顔できみを見ていた。
きみは汚物をみるように中年男を見ていた。
僕は早くここから立ち去りたかった。
そのとき
「あのう」
運転手が、本当に申しわけなさそうに中年男に話しかけた。
「お前には関係ない」
中年男は毒づいたが、運転手は引かなかった。
「お取り込み中のところ大変申し訳ございませんが、会議の時間が迫っておりますのでお急ぎください」
「ちっ」
中年男は舌打ちしてリムジンに戻っていった。
が、運転手がドアを閉めようとした瞬間、念を押すように言った。
「貴様は本当に沙詠ではないんだな!」
「ぼくは違う」
ぱたん、とリムジンのドアが閉められた。
運転手は駆け足で運転席に戻ると、僕らに小さく会釈をしてから、急加速でリムジンを発進させた。
「ゲスヤロウ」
ぞっとするような低い声できみはつぶやいた。
そのとき風が吹いて、デパートの前にたむろしていた鳩たちが、何かに驚いたかのように一斉に音を立てて飛び立っていった。
「行こ!」
唐突にきみは、僕の腕に手を絡めて勢いよく歩き出した。
「映画は中止! ねぇ、近くに科学館あったよね。プラネタリウムのあるとこ。科学館行こう! プラネタリウム観よう!」
きみは真っ直ぐ歩き続ける。
「そうだね。きみが観たいものを観よう。でも科学館はそっちじゃない。こっちだ!」
「え」
そう言って振り向いたきみの顔は、加納沙詠の知り合いと会う以前のきみの顔に戻っていた。
ほっと、した。
僕は前だけを向いて歩く。きみは歌を歌いながら僕の後ろをついてくる。僕はきみの立てる足音だけに集中していた。
「ね、どこに行くの?」
と、きみ。突然に。
「あ、映画でも観ようと思って」
僕はきみを見ずに答えた。
きみの足音が消える。きみが立ち止まった。
「どんな?」
僕も立ち止まった。僕は前を向いたまま答えた。
「わからないよ。上映スケジュール、チェックしてこなかったから。とにかく映画を観ようと思っただけで……なにを観るかなんて考えていなかった」
ふん
きみは小さく鼻を鳴らした。
「だったら、笑えるのがいい」
そうだ。どうせ観るならすてきな映画がいい。
きみの足音が再び鳴り始める。きみは僕の右側をするりと抜けて、真っ正面から僕の目を覗きこんだ。
「どうした? さっきから」
きみの顔は変わらない。あの笑い顔だ。
「別に」
僕の顔は同じではない。昨日の夜から。
「……もっとよく笑うのかと思ってたんだけど」
そう。僕は本来よく笑う。
でも今は顔の筋肉が麻痺しているように動かない。そして言いたい言葉も言うべき言葉も、頭の中だけで空回りし続けている。
僕らはもしかして、長いこと見つめ合ってるんではないだろうか。
僕らよりも年下の、恋人同士らしい二人が、ひやかすようにこちらを見て通り過ぎていった。
「そういえばあんた、ぼくが来てから一度も笑ってないよね」
きみはくるりと振り返って、颯爽と歩き出した。きみの足元から一羽の鳩が飛び立って、夏の空の向こうに溶けて消えた。
高くなりはじめた太陽はビルに反射を振りまきながら、僕を突き刺している。空の青は藍に近い色だった。
「まぁ、いいんだけど」
きみは言った。
僕はきみの後を追いかけるように歩き出した。
僕の耳には入っていなかった蝉の鳴き声が戻ってきた。それと競うように歩く速度を早め、きみを追い越す。もうなんだって、どこだってかまわない。冷房のきいた屋内に飛び込んでしまいたい。この暑さをどうにかしなければ!
「ちょっと! ちょっと待ってってば」
きみが僕を呼び止めた。
ちょうど、そのときだった。
黒いリムジンが、こちらにやってくるのが見えたのは。
僕がきみを振り返ったとき、そのリムジンが急ブレーキをかけ、きみの横で停まった。
僕はリムジンを見た。
きみはリムジンを睨みつけていた。
窓にはスモーク。
後部座席の窓が開き、存在自体が金持ちですと言っているような身なりの中年男が顔を出した。
「沙詠? やはり沙詠じゃないか」
中年男は僕に嫌な一瞥をくれて続けた。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
僕は中年男を見た。いかにもな高価そうな濃いグレーのスーツに、きっちりアイロンのかかった白いシャツ。趣味の悪い柄のネクタイだけが妙に浮いていた。本人はキマっているつもりなのが痛々しかった。
その中年男は、驚いた猿のような赤ら顔できみを見ていた。
「沙詠、この夏休みいっぱい沖縄にいるんじゃなかったのか? 私は沙織さんからそう聞いているぞ」
中年男は顔に乗せた怒りを増しながら、自分でリムジンのドアを開けて外へと出てきた。運転手が慌てて飛び出してくる。ちょうど後ろに迫ってきていた赤いスポーツカーが急ハンドルを切りながらクラクションを鳴らして通り過ぎた。運転手はそちらに必死の形相で頭をさげると、中年男に走り寄った。
僕はきみを見た。
きみは僕が今まで誰の顔にも見たことがないような毒々しい静かな微笑みを浮かべて、中年男を睨みつけていた。僕はそのきみの視線から目をそらしながら、それ以外のきみを見た。
「こちらにいるなら、私に連絡を入れなさい!」
中年男はきみを恫喝した。
ふん。
きみはそれを鼻で笑い飛ばす。
「お前、目はついてるか? ぼくとお前が知り合いだなんて、何を見て言ってるんだ?」
中年男の赤ら顔が沸騰したように見えた。
「沙詠!」
「別人だ。一昨日来やがれ!」
きみは怒りに満ちたにやり顔を張りつかせながら、泥のように重い視線を中年男にくれていた。
「私をからかうな! お前は自分の立場というものを、しっかり把握し直せ‼︎」
僕の両肩には冷たい感触だけしかなかった。
僕は二人から目をそらした。
運転手は中年男に小声で何かを必死に訴えていた。中年男は意に返さず、きみに向けた苛立ちをも隠さなかった。
蝉の鳴き声がひどく耳障りだった。通り過ぎる人たちはこの惨状を避けて、大きく迂回していく。好奇心だけをこちらに向けて。
「家へ戻りなさい!」
「ホントしつこい!」
きみは僕を見た。僕はきみを見ないようにしていた。
「沙詠‼︎」
「オッサン、いい加減にしてよ。その小さな目をこじ開けて、よおっくぼくを見な! ぼくがお前にホイホイ着いてくようなタマに見えるか⁉︎」
「……」
中年男は訳がわからない顔できみを見ていた。
きみは汚物をみるように中年男を見ていた。
僕は早くここから立ち去りたかった。
そのとき
「あのう」
運転手が、本当に申しわけなさそうに中年男に話しかけた。
「お前には関係ない」
中年男は毒づいたが、運転手は引かなかった。
「お取り込み中のところ大変申し訳ございませんが、会議の時間が迫っておりますのでお急ぎください」
「ちっ」
中年男は舌打ちしてリムジンに戻っていった。
が、運転手がドアを閉めようとした瞬間、念を押すように言った。
「貴様は本当に沙詠ではないんだな!」
「ぼくは違う」
ぱたん、とリムジンのドアが閉められた。
運転手は駆け足で運転席に戻ると、僕らに小さく会釈をしてから、急加速でリムジンを発進させた。
「ゲスヤロウ」
ぞっとするような低い声できみはつぶやいた。
そのとき風が吹いて、デパートの前にたむろしていた鳩たちが、何かに驚いたかのように一斉に音を立てて飛び立っていった。
「行こ!」
唐突にきみは、僕の腕に手を絡めて勢いよく歩き出した。
「映画は中止! ねぇ、近くに科学館あったよね。プラネタリウムのあるとこ。科学館行こう! プラネタリウム観よう!」
きみは真っ直ぐ歩き続ける。
「そうだね。きみが観たいものを観よう。でも科学館はそっちじゃない。こっちだ!」
「え」
そう言って振り向いたきみの顔は、加納沙詠の知り合いと会う以前のきみの顔に戻っていた。
ほっと、した。