【Session06】2015年08月06日(Thu)

文字数 5,785文字

 外は本格的に夏の暑さで朝から蒸し暑い中、それとは対照的に『カウンセリングルーム フィリア』は、エアコンが効いて少し肌寒いぐらいの温度を保っていた。

 学は何時ものように午前中のカウンセリングを終え、一息ついてカウンセリングルームにあるテレビを付け、お昼ご飯を食べるため何時ものようにコンビニ弁当を電子レンジで温めていた。
 ちょうどその時、テレビのニュースで今日が広島市への原子爆弾投下(戦後70年)であるニュースが流れて来たのだ。このニュースを観た学は、自分が今日34歳の誕生日であることを思い出した。

 学は自分の過去の誕生日を振り返ってみたのだ。学は自分の父や母親から自分の誕生日を祝って貰ったことが一度も無く、学は実の親から今まで愛されて来なかったし、これからも一生愛されることは無いだろうと思っていた。
 そして学は無意識の中で、両親から「愛されたい」「認められたい」と言った一心で、自分はここまで頑張って来たのだろうと自己分析しながら物思いにふけっていたのである。テレビのニュースではひっきりなしに、広島市への原爆投下(戦後70年)のニュースが各局で放送されていたのであった。
 学は自分の誕生日が広島市への原爆投下の日と同じであることに対して、一種の運命的な巡り合わせであるかのようにも感じていた。それは学の幼い頃の出来事が、学にとってまさに両親からの被爆そのものであったと言えるからだ。それを宿命と言う一言の言葉で片付けてしまうには、学にとってあまりにも残酷で受け入れがたく認めたくない言葉だった。

 こうして学の誕生日は、広島市への原爆投下のニュースを見るたびに幼い頃の自分の辛い経験を思い起こさせるのである。また自分の誕生日が広島市への原爆投下の日と同じであることに対してある種、彼の中の「こころの闇」を思い起こさせる日でもあった。
 そんな時、学は自分自身の「こころの闇」と向き合い落ち着かせるのに瞑想を行うのである。それは自分自身の魂(霊性)が母なる大いなる大地と、宇宙へと広がる無限の繋がりが自分の身体と共に同調して行くありさまで、自分の先祖や亡くなったひと達の魂(霊性)をあたかも自分の傍で感じ取ることができ、呼吸をする度にその感覚が深くそして近く感じられることが出来るからだ。
 学は自分の中の葛藤や不安、そして悩みを覚えた時、この瞑想をして自分のこころを落ち着かせ昇華させて行くのだった。そうすることにより、自分自身のこころのバランスを整えることが出来たからだ。そして15時からの彩とのカウンセリングに心身ともに整えて行ったのである。

 15時少し前に彩は、学の『カウンセリングルーム フィリア』にやって来た。学は何時ものように彩を自分のカウンセリングルームに入れ、時間のコントラクトを取り、彩のカウンセリングが始まったのだ。

倉田学:「それでは前回お話頂いた、解離性同一性障害(二重人格)のトリガーについて詳しくお尋ねしますが宜しいでしょうか?」
木下彩:「ええぇ」

倉田学:「木下さんのもうひとりの人格についてお聴きします。もうひとりの人格になった後、今の木下さんにはどのようにしたら戻るのでしょうか?」
木下彩:「たぶん、夜寝て朝起きると今の自分に戻っていると思うのですが…」

倉田学:「寝て起きると戻るんですね?」
木下彩:「おそらく、そうだと思います」

倉田学:「では、わたしからの提案があります。催眠療法で今の木下さんの人格から、もうひとりの人格を呼び出すことができるかやってみたいと思うのですが問題ないでしょうか?」
木下彩:「催眠療法って、催眠術みたいにひとを操るやつですか?」

倉田学:「催眠療法と催眠術は全く違います。催眠療法はひとの無意識にアプローチして、そのひとの潜在意識に問い掛けて行きます」
木下彩:「そうですか。よくわからないのですが、それをすることで何か意味があるのですか?」

倉田学:「木下さんの潜在意識にあるもうひとりの人格を呼び出し、どういう人物なのかお話したいと思います」
木下彩:「えぇー、そんなこと本当にできるんですか先生?」

倉田学:「木下さん、前にも言ったけど僕は先生ではないよね。それと、もうひとりの人格が現れるかどうかは、やってみないと僕にもわからないよ。どうします木下さん」
木下彩:「うぅーん。それで解離性同一性障害(二重人格)が良くなるのならお願いします」

倉田学:「わかりました。前にも言ったことがあると思うけど、仮にもうひとりの人格が現れ、今の木下さんの人格ともうひとりの人格を統合することになると、今の木下さんの人格が変わる可能性がありますが、それを受け入れることは出来ますか?」
木下彩:「…お願いします」

 学は彩に催眠療法を行うのに、外からの光を遮るためブラインドを下ろした。そして瞑想の時と同じように静かに集中力を高めながら彩に軽く瞼を閉じさせ、リラックスして呼吸を整えるよう声を掛けたのだ。そして呪文を唱えるかのように学は彩に語り掛けたのだった。

倉田学:「今、外から邪魔されない安全な場所にいます。とても綺麗で、美しい満月のお月様が見えます。そしてそれを見ています。その月灯りに照らされ、こころはとても穏やかで、まるで海の湖面に立っているかのようです。そう今、月灯りに照らされた静かな海の上にいます。そしてその月灯りは夜の海に映し出され、それを感じることが出来ます。遠くで汽笛が鳴る音が聴こえます。自由で安全な場所にいます。そして灯台の灯りも連続的に連なって、照らされるのを観ることが出来ます」

倉田学:「ゆっくりと海の中に入って行きましょう。足先から、くるぶし、ふくらはぎ、ひざ、もも、おしり、腰、お腹、胸、肩。だんだんと身体は海の中に入って行くのを感じます。そして首、あご、顔、おでこ、頭のてっぺんまで海の中に入って行きます。顔が海の中に入っても全く苦しくありません。それは魚と同じようにエラがあるからです。海の中は少しひんやりします。しかしとても自由で、呼吸も何時でも楽に出来ます。深くて静かな海の中へ、さあ潜って行きましょう。少しずつ深くなるにつれ、周りは暗くなり、いろんな魚を観ることが出来ます。十分深いところまで行ったら、そこでもうひとりの人格にバトンを渡し、もうひとりの人格と入れ替わって、海の上まであがって来ましょう――
――さあ、静かな海の上にやって来ました。ゆっくり瞼を開けてみましょう」

 学はゆっくりブラインドを上げ、彩に問い掛けた。

倉田学:「あなたの名前を教えてください」
綾瀬ひとみ:「綾瀬ひとみよ、あなた誰?」

 学は思った。もうひとりの人格が現れたのだと…。

倉田学:「では、もう少し質問させてください。あなたの年齢と今何をしているのかを?」
綾瀬ひとみ:「わたし? その前にあなたが誰なのか説明しなさいよ!」

倉田学:「すいません、初めまして綾瀬ひとみさん。わたしは心理カウンセラーの倉田学と言います」
綾瀬ひとみ:「そう倉田学ね。で、わたしに何かよう?」

倉田学:「僕はあなたのもうひとりの人格である木下彩さんからカウンセリングを頼まれて、こうしてあなたに出てきて貰っているのです。あなたはもうひとりの人格の木下 彩さんとふたつの人格からなっています。つまり解離性同一性障害(二重人格)と言うことです」
綾瀬ひとみ:「なーんだ、知ってるんだ。マ・ナ・ブ」

 学は少し考えた。もうひとりの人格の綾瀬ひとみがどんな人物なのか、そして何を彼女は考えているのかと言うことを…。

倉田学:「では綾瀬さん。あなたはもうひとりの人格の木下さんが、解離性同一性障害(二重人格)からひとつの人格に統合したいと思っていることに対してどう思いますか?」
綾瀬ひとみ:「えぇー、ひとつの人格に統合すると、わたしがわたしじゃなくなっちゃうんでしょ! いやだぁー」

倉田学:「では、今のままでいんですか?」
綾瀬ひとみ:「なんか誘導尋問みたい。心理カウンセラーって、こわーい」

倉田学:「では、最初の質問の年齢と何をしているかを教えてください?」
綾瀬ひとみ:「23よ。何をしてるかって仕事ね、銀座でホステスを始めたわ」

 学は思ったのだ。とりあえず今日はもうひとりの人格の綾瀬ひとみに会うことが出来たので、今日はこれ以上深入りしないでおこうと…。そしてまたブラインドを下げ、彩に催眠療法を行った時と同じようにひとみに催眠療法を行い、ひとみから彩へと人格が入れ替わったのであった。

倉田学:「では瞼を開けてください」
木下彩:「あれ、先生わたしどうなってました?」

倉田学:「いや、もうひとりの人格の綾瀬ひとみさんに会うことが出来ましたよ」
木下彩:「もうひとりの人格のひとみは何か言ってましたか?」

倉田学:「そのことについては今日はまだお話しない方がいいと思うので、折を見てお話しましょう」
木下彩:「そうですか」

 学は彩から先生と呼ばれたことに対して否定しなかった。何故なら学自身も彩のもうひとりの人格のひとみについて答えをはぐらかし、後ろめたい気持ちがあったからだ。こうして彩の3回目のカウンセリングは終えようとしていた。その時、彩から学へ学の34歳の誕生日としてプレゼントが差し出されたのだ。
 学は以前、クライエントから差し入れやプレゼントを貰った時に、そのクライエントが自分のカウンセリングに対してプレゼントに対する見返りみたいな感情を持ち込んで来たことがあるので、それ以降一切の差し入れやプレゼントを受け取ることを拒んで来た。
 そしてそれは彩の場合も例外ではない。また学自身も不用意に前回のカウンセリングで自分の誕生日を教えてしまったことを反省していたのだ。

倉田学:「木下さん。申し訳ないのですが、わたしは差し入れとかプレゼントを受け取らないことにしているのです」
木下彩:「そうですか?」

倉田学:「理由を申し上げますと、差し入れやプレゼントを受け取ることにより、クライエントさんにカウンセリングを縛られる可能性があるからです」
木下彩:「そうですか?」

倉田学:「僕も不用意に自分の誕生日を教えてしまったのが悪かったのですが、やはり中立にカウンセリング出来なくなるので受け取る訳には行きません。すいません」

 学はそう言って彩とのカウンセリングを終えたのだった。そして次回のカウンセリングの予約を彩は8月15日(土)15時から入れたのだ。学は彩をカウンセリングルームの玄関で見送り、自分の誕生日を教えてしまったことに後悔していた。そして彩のもうひとりの人格の綾瀬ひとみに会え、今後のカウンセリングをどう組み立てるかディスクの椅子に座りながら考え込んでいたのだ。

 そして学はこの日のカウンセリングを何時ものように終え、21時頃に『カウンセリングルーム フィリア』を後にした。それからマンション1階ロビーにある郵便ポストを覗いたのだった。そこには見たことのあるような包装紙に包まれた小包があった。学はその小包に何も宛名が書かれていなかったので、ついその包装を開いて中を観てしまった。するとそこには彩からの手紙と扇子が入っていたのであった。学の34歳の誕生日のお祝いのメッセージと告白とも思える文章が綴られていた。

   前略

カウンセリングルーム フィリア 倉田 先生
34歳の誕生日おめでとう御座います。

 わたしは今まで色々な心理カウンセラーに、わたしの病解離性同一性障害(二重人格)を観て頂きました。そして倉田先生のようにクライアントさんに、真摯に向き合うカウンセラーがいることに、わたしは感銘を受けまた尊敬しています。
 わたしはこの先どのような形になろうとも、先生のことを信じて解離性同一性障害(二重人格)に向き合って行きたいと思います。
 先生は今のわたしがもうひとりの人格と統合することにより、わたしで無くなるかもしれないと言いましたよね。
 わたしがもうひとりの人格と統合して、わたしがわたしで無くなってしまうことに、わたしはすごく怖いです。もし今の自分で無くなってしまったら、先生はわたしを受け止めてくれますか。そんなわたしを愛してくれますか。
 わたしは先生を信じています。
                              草々

 学は彩から貰った扇子を眺めながら、彩の言葉の重みをひしひしと感じると共に、この先、彩がどのように変容して行くのか、学自身もこの時は知る由も無かったのであった。そしてひとり電車に乗り自宅へと向かったのだ。
 何時もは家に真っ直ぐ帰るのであるが、今日は自宅近くの最寄駅の川口駅高架下の立ち飲み屋『串たか』に立ち寄り、ビールを注文し喉を潤したのだった。外はこの時間になっても湿度が高く暑さで蒸しばみ、彩から貰った扇子を扇ぎながら手紙の内容を思い起こしていた。

 ちょうどその時、立ち飲み屋の窓の外に眼を向けると、若い女性が高架下の路上で声を張り上げ歌っていたのだ。学はビール二杯とおつまみの枝豆、冷奴、焼き鳥を食べながら彼女の歌っている姿を観ていた。
 しばらく観ていた学は、お勘定を済ませ店の外に出て彼女の歌っている姿を少し離れた所から眺めていたのだ。高架下でその若い女性が中島みゆきの『誰のせいでもない雨が』を歌い始めたのだった。学はその歌を聴きながら、彩の気持ちに想いを馳せ聴き入ったのだ。

 路上で歌っている女性の名前はエリと言う名前で、彼女はまだ見ぬお父さんのために自分の歌っている姿を見せたいという一心で、ストリートシンガーとして活動していたのであった。そして唄を歌い終わったエリは学の元に近寄り、自分のシングル曲の紹介とQRコードで彼女の今後のスケジュールが載っているチラシを学に手渡したのだ。
 学は思わずポケットに手を入れ五百円玉を彼女に手渡すと、エリはにっこり笑顔でお辞儀をした。学がチラシのQRコードを読み取ると、エリは色々な駅前でストリートシンガーとして活動していることがわかり、今の学のこころにエリが歌った中島みゆきのカバー曲『誰のせいでもない雨が』が、学の心境を物語っていたのだ。空はどんよりとして今にも雨が降り出しそうな、そんな広島市への原子爆弾投下(戦後70年)の学の34歳の誕生日であった。
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