【Session03】2015年07月11日(Sat)

文字数 3,277文字

 梅雨の晴れ間の蒸し暑い熱気に包まれた新宿歌舞伎町の繁華街は、今日も行き交うひと達で賑わっていた。この時間になると外も暗くなり、歌舞伎町のネオンが一段と輝きを増すのだ。透は自分が経営する『新宿歌舞伎町ホストクラブ ACE』へと30代前半の女を連れて向かっていたのだった。
 ちょうど時計の針が20時半に差し掛かろうとしている頃で、透はその連れの女と透のお店に入るところであった。これはつまり「同伴」ってやつだ。

【同伴とは】
 基本的に一緒にご飯を食べて、そのままホストクラブに直行することで、つまり「同伴」とは確実に自分のお店にお客さんを連れて来られるので、ホストやキャバ嬢はお客と同伴をしたがる。また何が食べたいかはホストやキャバ嬢に訊く。もちろん、食事の支払いは同伴者になる。

 透の連れてきた同伴者は、新宿歌舞伎町で夜の仕事をしている風俗嬢であった。彼女は透に入れ込み、自分で稼いだ金の殆どを透につぎ込んでいたのだ。そのお金で透の店が潤うといった新宿歌舞伎町界隈での金の大きな巡りは、このような循環で蠢いているのである。

 透とその女がお店に入ろうとした時、何やら黄色いお揃いのジャケットを着た6~8人の集団の男女が「こんばんは」「お疲れ様です」と声を掛けながらティッシュを配る一団を透は見たのだ。
 そしてその一団の先頭のひとが透に、「ご苦労様です」と言ってティッシュを渡して来たので、透は思わず出されたティッシュを受け取ったのだった。透はそのティッシュを観て、「DV」「ストーカー」「金銭トラブル」の無料相談と書かれており、「こんなことして何のお金になるの?」とその時思ったのだ。

 お店に入り少しすると、何やらよそよそしくお店に入って来る女のひとを見つけ、よく観るとそれは彩であった。透は彩との約束をすっかり忘れていたのだ。何故なら透の中では彩は「取りあえず」の存在だったからだ。彩はひとりで店に入って来て、こんなお店に今まで入ったことが無かったのでどういった料金システムかも知らず、ただただ名刺を手にして近くのホストに「すいません。代表取締役の樋尻透さんに会いに来たのですが…」と言ったのだ。
 声を掛けられたその若いホストは彩の服装やメイク、そして表情などを観て「名前は何て言うの?」と尋ねたのだ。彩はしどろもどろに「木下彩です」と自分の名前を告げたのだった。するとその若いホストはお店のバック(バックヤード)に入り、しばらくすると透が現れたのだ。

樋尻透:「ごめん、ごめん。ちょっと待たせちゃったね。飲み物一杯ご馳走するよ何飲む?」
木下彩:「すいません。ここのお店って料金幾らするんですか?」

樋尻透:「そうねぇ。彩は今回が『初回』なんで、二時間3千円かな。でも今回特別に二時間2千円でいいよ。で、飲み物は何にする?」
木下彩:「あのー、わたしアルコール(お酒)はちょと。ソフトドリンクでもいいですか?」

樋尻透:「そう。お酒飲めないんだ。でもアルコール(お酒)が薄いのだったら大丈夫でしょ?」
木下彩:「でも…。わたし、お酒飲めないから」

樋尻透:「よーし、わかった。アルコール(お酒)が殆ど入ってないのを用意するから」
木下彩:「…………」

 彩は透とお店の中央に置かれたテーブルとローソファーのセット一式に座り、ガラス張りのテーブルに豪華なシャンデリアと可憐な室内に瞳を奪われ、落ち着かない様子で座っていた。そして今日の彩の服装が、この今の状況に似ても似つかない場違いな格好で、お店の中でひとり浮いた存在でいることに彩も当然気づいており、他のお客さんから観てもそれは特に際立っていたのだった。
 透はと言うと、高級感ある黒いスーツと紺のシャツでビシッとキメ、それとは対照的な彩は一層みすぼらしく、それがまた透のルックスを更に引き立てていたのである。

 そうしているうちに、お店の若いスタッフが持って来たのはオレンジジュースのように彩には見えたのだ。そしてそのグラスは彩の目の前のテーブルの上に置かれたのだった。彩はそれがソフトドリンクだと思いホットした。 
 一方の透が頼んだのはシャンパンだ。それは彼の中ではシャンパンが最低のステータスだったからである。二人はグラスを持ってそして乾杯したのだ。それは周りから見ると、一瞬あたかも二人は恋人であるかのように見えたのだった。しかし彩と透の生きてきた生き方は小学生以降、全く違う人生を歩んで来たのでとても不思議な光景であった。
 身なりも違い金銭感覚も違うそんな二人であるから、二人の価値観は全く別のところにあるのだった。また小学生の頃に透に恋心を抱いていた彩ではあったが、その頃の透の面影は今の透には全くと言っていい程無かったのだ。

樋尻透:「では彩。乾杯しようか?」
木下彩:「ええぇ」

樋尻透:「ふたりの出逢いにカンパーイ!」
木下彩:「カンパーイ!」

 彩はゴクゥとひと口飲んだ。するとたちまち顔色が悪くなり、彩はトイレへと走り込んで行ったのだった。そして戻って来た彩を心配そうに観た透は、化粧や表情といった顔つきがガラッと変わった彩を観て驚いた。実は彩が飲んだのはオレンジジュースではなく、カンパリ・オレンジだったからである。

樋尻透:「彩、大丈夫か。おい」
綾瀬ひとみ:「お前は誰?」

樋尻透:「透だよ。さっきまで、ここで飲んでたよねぇ」
綾瀬ひとみ:「そうか 、やっと出てこれたんだな…」

樋尻透:「彩、何言ってるんだよぉ」
綾瀬ひとみ:「わたしの名前は彩じゃない。ヒ・ト・ミ」

樋尻透:「えぇー、ひとみ」
綾瀬ひとみ:「そう。綾瀬ひとみよ」

樋尻透:「どう言うことか説明してよ」
綾瀬ひとみ:「彩の中のもうひとりのワ・タ・シ」

 透には何が何だかこの時は理解出来なかったのだ。少しして透は、前に聞いたことがある多重人格『ビリー・ミリガン』の話を思い出した。そして次の質問をぶつけてみたのだ。

樋尻透:「あなたは『多重人格』ですか?」
綾瀬ひとみ:「わたし? わたしは、わたしと木下彩とでふたりでひとつの身体よ」

樋尻透:「と言うことは、『二重人格』ですか?」
綾瀬ひとみ:「そうよ、よくわかったわねぇ」

 ひとみが透にそう答えると、今度はひとみの方が透にこんな事を言った。

綾瀬ひとみ:「お酒の量が足りないわ。それにあなたの名前、まだ訊いてなかったわねぇ?」
樋尻透:「樋尻透です」

綾瀬ひとみ:「ト・オ・ルね。覚えておくわ」
樋尻透:「お酒は何を飲むんですか?」

綾瀬ひとみ:「ド・ン・ペ・リ」
樋尻透:「えぇー、ドンペリ」

綾瀬ひとみ:「当たり前でしょ♡」

 透のお店『新宿歌舞伎町ホストクラブ ACE』はその後、ひとみにより、二時間2千円でとんでもないことになっていたのだった。そして透は思ったのだ。 ひとみなら間違いなく「本命」として、『銀座クラブ マッド』のじゅん子ママに紹介できると…。その為には、何とか彩からひとみに人格が入れ替わって貰う必要がある。今の段階ではそのトリガーはアルコール(お酒)だけど、別の方法を考えないと…。

 そして透はふと思ったのだ。確か催眠術でひとを操るのをテレビで見たことがある。あれを彩にやればひとみに入れ替わるんじゃないだろうか。透の考えは一見馬鹿げていたのだったが、透はそれを信じていたのである。そして本屋で催眠術に関する本を買い漁り色々と調べるのであった。
 透はカウンセリングの勉強こそしていなかったが、長年の接客やお客さんへの対応の仕方、またひとの反応を実践で経験して来たので、その辺の心理カウンセラーより透の方が格段にカウンセリングスキルは高かった。ただ彼は心理療法についてはド素人だったので、催眠術と催眠療法の区別など当然知らなかったのだ。

 ひとみと人格の入れ替わった彩はその晩、家までひとみの状態で帰り、家に着くなり布団の上で死んだように倒れ込んだのであった。そして翌朝起きると人格が木下彩に戻っており、彩は鏡の前で自分の顔を観て「やってしまった…」と言う罪悪感と、お酒による気持ち悪さで目が覚めたのであった。
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